3-16 bad [a]nd happy [e]nd(5)
3-16 bad [a]nd happy [e]nd(5)
眠りに落ちて、夢に堕ちた理愛のお話をここでしようと思う。
何処かで兄は殺人者と戦っているし、其処では友達が殺人者と戦っているというのに、一番肝心のお姫様はこうして夢の世界を彷徨っている。
「また、ここ……」
苦虫を噛み潰したような顔のまま、方角すらも解らない真白の世界を歩き続ける。悪夢は闇黒を連想させるが現状、理愛の目の前は見渡す限りの白で塗り潰されている。上も下も、どこを見つめても果てはない。まるで永遠。ここからは絶対に抜け出せない。
未知の空間を前にして、不安にならぬ者はいない。しかし、そんな閉鎖的な空間に幾度も閉じ込められた理愛に恐怖という感情はなかった。
今の理愛が抱く感情は憤怒だけだ。自分の心の中に入り込んで、夢の世界にまで攻撃を仕掛けてくるこの悪夢の元凶を、さっさと叩き潰したくて仕方がない。
-ウソツキ-
そして、聴こえるいつもの怨念。
耳を閉じても意味はない。その言葉は心に響く。だが、理愛の心にそんな言葉は聴かない。あれだけ悩んで、苦しんでいた理愛はどこへ言ってしまったのだろう。
「いつまでそれ、続けるんです? そう言えばわたしが悲しむと思いましたか? 苦しむと思いましたか? ごめんなさい、わたしもう辛くないんです。わたしはもう欲しいモノが手に入ってしまっているので。だからどれだけそんな言葉でわたしを困らせようとしても、もう効きません」
執拗に木霊し続けていた幻聴が突然、止まった。
電波の無い場所でラジオの電源を点けたように、理愛の耳の中ではザーザーと雑音が響いている。もう飽きた。今の理愛はそこまで余裕だった。
もう、独りじゃない。何があっても、きっと助けてくれる人がいる。信じられる人もいる。弱い心のままではきっとこの閉鎖空間を前に怯えていたことだろう。でも、手を伸ばせばこの手を握ってくれる人がいるから。
安心できる。
だから、もう迷わない。正体不明の声がどれだけ理愛の心を揺さぶっても、きっと崩れることはない。だからこんなまやかし一つ、さっさと砕いて先へ進みたい。
音がした。
ザッっと、まるで砂場から飛び跳ねたような足音。その音を理愛は聞き逃さなかった。真っ白な世界のどこかで誰かが走り去ったのだ。そしてその音がした方に理愛は視点を置き、続けざまに走り出す。もう、逃がさない。そして逃げられるわけがない。ここは理愛の、世界なのだから。
「逃がさない」
桜色の唇から小さく声が漏れた。そして影を追い掛ける。どれだけ走っても景色は変わらない。しかし理愛は手を伸ばす。ゆっくりとその影は大きくなる。そして、ついにその影を掴まえた。
するとどうだろう、世界は急激に光を失い――闇黒が広がった。瞬きを繰り返し、両目を擦る。視界がグラリと歪み、そのまま何も見えなくなった。
しかし自分の身体が突然、バランスを崩し、闇の床を転がっている。何が起こったのか、理解するより早く、理愛の瞳が暗闇に慣れ、ゆっくりと景色が映り出される。
「え、な、んで?」
腹部に重みを感じる。どれだけ闇に目が慣れても深い影が見えた。その影が理愛の身体の上にいる。
そして、それは……自分と同じ姿をした、不気味な影だった。
裸のまま、理愛の腹上に座り込んで、理愛の顔を覗き込んでいる。
だが、理愛が驚愕したのは一瞬だけだった。理愛の瞳が鋭く光り、そして自分と同じ姿をしたその偽者に手を伸ばした。
「よくも、わたしを困らせたな……」
理愛とそっくりの何者かは笑う。だが理愛は言葉を続ける。
「わたしの心の中を土足で歩き回っていたのは、貴女でしょう?」
影は動かない。影は何も言わない。
「さっさと、正体を見せなさい――月下、虹子――」
無表情だった、影がそこで初めて口を開いた。
「どうして、わかったの?」
理愛の姿をしているが、それが月下虹子であることはわかっている。
それは理愛の前に現れた最初の敵だった。
そして兄を信じ、兄と共に倒した相手でもある。
だが、最後は雲散霧消し、その身は粉々に砕け散ったのはこの目ではっきりと見ている。人のようにその身が朽ちるのではなく、ただ石ころを叩いて砕いたように、風化していったのだ。
人の姿をした結晶――花晶。
月下虹子もまた、それであった。理愛と同じように結晶の身をした生物。
人間ではない。そしてその身に宿すのは異能。
だがその異能も、理愛と雪哉の前では無力だった。そして最期はただ消えて無くなったはずだった。
はず、だった……のだが、理愛は知っているのだ。月下虹子がどうして自分の心の中で平然と生きているのかを。
「どうして? ……陰湿だからよ」
「それじゃ答えにならないよねぇ?」
「わたしの姿をするのはやめて……不愉快」
「どうして? ワタシが理愛の姿に化けてたとでも言うの? 冗談でしょ?」
妖しく微笑む。その姿も髪も目も、何もかもが不快だった。同じ形をした別の者が目の前にいる、それがわかるだけでこんなにも吐き気がする。
「じゃあ、これでいいのかなぁ?」
髪を掻き分け、顔が隠れる。そして次にその顔が見えた時……その顔はもう時任理愛のものではなくなっていた。
栗色の髪、そして虹色に輝く人外の眼。まるで魔眼のようなそのおぞましい瞳は見つめる角度によって七色に変色する。
「服も、来てくれないかしら?」
「ここは夢の中よ? 誰も見ていないのに何を気にしているの理愛ぁ? そ、れ、に……」
そのまま腹の上に座り込んだ、虹子がソっと理愛の頬に触れる。
「アナタだって生まれたばかりの姿じゃない?」
自分の姿を見て、初めて理解した。理愛自身もまた一糸纏わぬ姿だった。そして虹子にそう指摘されたと同時に、理愛は虹子に殴りかかっていた。
だが、その拳は虹子の顔に触れる寸前で止まっていた。
理愛はゆっくりと拳を下ろし、わざとらしく舌打ちをしていた。そんな忌々しく見つめる理愛の視線を前に虹子はただ笑う。
「はっはぁーん、なるほどねぇー。理愛、ワタシが持ってるアレを思い出した? ちゃんと覚えてるなんてエラいね。さすがだよ」
虹子は前のめりになって理愛の銀色の瞳を虹色の眼光で射抜かれる。逸らすことができない。ただジっと理愛もまた見つめることしかできなかった。
だが、虹子の言うとおりだった。
理愛が虹子に触れることができなかったのは理由があるからだ。
――月下虹子には異能がある。
それは何人たりとも穿てぬ幾重の壁。その壁は決して貫けず、超えられない。そしてその壁に触れる者は容赦なく攻撃する。そう、無敵だ。月下虹子は無敵だった――
「でもさぁ、理愛……よく考えてごらんよ。ワタシはどうなった? ワタシはどこにいる?」
虹子の問いに対して考察する。
撃破した。そして今は理愛の心の中にいる。理愛の世界の中で彷徨っている。
そして、虹子がこうして理愛の腹部の上に座り込んでも、頬に触れたとしても何も起こっていない。能力は発動していない。
「ワタシはもう理愛の中でこうして生きてるだけ。いや、生かされてるって言うべきかな?」
「どういう、ことよ?」
「わかってるくせに、ワタシのことも……知ったくせにねぇ?」
「わ、わたしは……」
虹子の言葉に明らかに動揺する理愛の表情を虹子は逃さない。
「ここは夢の世界。理愛の心の風景。何も隠さなくていいじゃない。曝け出したままなんだから、ここで少しお話をしようよ」
「わかり、ました。でも素直にそう言えばいい……わたしを乱すように夢の中で何度も怨霊のように気色の悪い声を上げて、正直ムカついています」
「だって面白かったんだもん。おずおずしちゃってさぁー、これがワタシを喰い殺した結晶のお姫様なんだって思ったら余計にやりたくなるじゃん?」
「相変わらず……下品ね。反吐が出る」
「そんな汚い言葉使いしないでよ、でも、まぁ……本当のことじゃない?」
首を傾げて問い掛ける虹子を前に理愛は不満そうに顔を顰めた。
理愛が何も言えないのも当然だろう。それは本当のことなのだから。
「でも、一つ訂正して。わたしは貴女を喰ってなんていない」
「あれぇ? お姫様ってのはいいの?」
「ええ」
「すごいね」
「兄がわたしの騎士ですし」
そう言い切ると、虹子は口笛を吹いて両手を上げていた。騎士は姫を守る為にいる。自惚れてはいない。理愛自身が姫君であると思ってはいない。だが、そうはやし立てたのは兄だ。兄は命を懸けて何度も理愛を守ってくれる。そんな人の前では自分は姫のように振舞わなければいけない。弱い姿を見せてはいけない。姫である以上、凛とし、悠々と胸を張らなくてはいけないのだから。
「ふぅん……まぁいいや。でも喰ったことは訂正できないよ。本当のことだもんね」
「ふざけないで」
「ふざけてないよ。じゃあどうしてワタシはここにいるの? どこから来たの? ここは理愛の夢の中。理愛の心の中。入り込むことなんて出来ないよ。じゃあ、どうしているの? 簡単だよね。理愛が花晶を喰ったから」
「戯言を……」
「戯れてなんていないよ。ふざけてるわけでもない。事実だよ。本当のことを言っているだけなのに、どうしてそんなに怒っているの?」
虹子は煽ってそんなことを言っているのではない。そもそもふざけているようにしているが目が笑っていない。頬を緩ませても、眼光は鋭いまま。その虹色の瞳の奥底には確かな憎悪が見え隠れしていた。
喰った?
理愛は強く否定する。結晶であっても人の形を模したものだ。それが虹子であった。だが砕けて消えた虹子の結晶はどこへいった?
それは理愛の身体の中に吸い込まれるようにして消えていった。理愛は望んでいない。ただ気が付けばその残滓を受け入れていただけだ。
「理愛はね、花晶を喰ったんだよ。だから全部わかるはず。ワタシのこと、記憶、能力、何もかも。きっとワタシのことはワタシより詳しいんじゃない?」
「そ、んなことは……」
腹上で見下ろす虹子の顔を直視できない。だが、虹子が砕けて消えたとき、理愛は虹子のことを知った気がする。月下虹子という存在を。孤独のまま「Ark」に所属し、偽者の兄を持ち、理愛と戦ったのかを。
「言ったでしょう? ワタシにはとにかく時間がありすぎた。飽きちゃったんだ。もう自分が何者かわからないぐらいに、結晶の中で呆然と時間だけ浪費して、そして気が付けば野に放たれた。そしてワタシを妹だと勝手に決め付けた月下雨弓という他人。でもそれでいいと思った。生まれてから何一つ持ち合わせていないワタシはそうやって他人の振りをして、自分の好きなことをしようと思った。壊せるモノは壊す。それがワタシのしたいこと、もう、それも出来ないんだけどね」
「どうして、そんなことを?」
「ワタシみたいにみんな無くなってしまえばいいと思ってね。壊して更地にすればみんな同じになれるもの」
「自分一人だけが永劫孤独だったっていう当て付けですか? 自分一人だけが辛いと思っている? それで皆、同じになればいい? そんなものは子供の駄々ですよ。大人になってください」
誰も彼もが一生懸命に生きている。結晶という瓶に詰められてただ生きているだけだった虹子の気持ちを理解することは不可能だろう。それでも、その感情一つで世界を憎まれても迷惑なだけだ。だから、虹子そのものを否定はしないが、肯定できるほど優しくもなれない。
そんな理愛の辛辣な言葉に虹子は笑った。まるで、その通りだと言わんばかりに大きな声で笑っている。それはもう、吹っ切れたような清々しい顔だった。
「いやぁ、まぁそうなんだけどね……ははっ、やっぱり長く生きすぎて目的も無いなんてなったら、何でもいいから目標一つ見つけたらそれに縋りたくもなるじゃない?」
「それは、わかります――わたしだって、そうですから……」
理由は無い。目的も、目標も無い。
それでも一つ、理愛も自分の心に言い聞かせていることがある。
ただ大切な人たちと一緒に、最後の最期まで生き続けたい。それだけが今の理愛の果たすべき約束だった。
何かあった時、きっと独りでは進めない。それでも少なくとも今は二人は手を伸ばしてくれる人がいるから。だから、諦めない。それでいいんだ。それだけでもう十分なのだ。
ただ何気ない日常を、大切な人と一緒に歩けるだけでいい。この世界には敵が多すぎるかもしれないけれど、それでも憎むことなく、ただ純粋なままに兄と友の手を取って――
「でも、それでも理愛は怪物じゃないの?」
その冷たい刃のような戦慄を耳にした理愛の身体がビクリと震えた。それは決して変えられぬ事実。覆せないその言葉。そう、時任理愛もまた花晶に違いない。
人の形を真似た結晶体。人の真似事をした異常存在。人よりも超越れた異能力者。
そう、怪物だ。虹子の言葉はまさに理に適っている。どれだけ覚悟しても、決意を表明したとしても、人間らしさが滲み出ても、それはどれだけ足掻いても所詮は人間に近くなれるだけでしかない。それは人間になろうとした怪物。化物が必死に人の物真似をしている。
それはとても滑稽で無様だ。人でなければ人とは共生できない。化物は暗がりを歩くことしか出来ない。
そして、そんな臆病な怪物は一つの結晶を丸呑みにした。そう、月下虹子と呼ばれる花晶を喰っていたのだ。
理愛の心の中にいる虹子は謂わば理愛が許可して現存させているものに近い。そして、虹子の心も記憶も何もかもを自身の心に上書きして知ったことにしている。
あの日、雪哉と共に月下虹子と戦い、勝利し、崩れ逝く虹子の結晶を吸収していたのだ。そしてそのまま自分のモノにしてしまった。
「飢えを凌ぐ為に目に映った肉なら見境無く食い潰す化物と同じだよ。そうして、他者を喰らって全て奪って――ワタシはアナタになった。アナタはワタシになった。違う?」
違う。強く否定すればいい。
だが、それは出来ない。理愛は知ってしまっている。虹子の心を知っている。虹子の言葉を訊くより早く、事実は既知へと変わっていた。
だけど、虹子の言葉を全て受け止めるのも納得できない。理愛は身体を震わせながら口を開いた。
「他人を喰って、自分のモノにするなんて……そんなものは食人鬼と一緒です」
「ひゃっははっはっはっはっはははははっ! 何それ受けるっ! 理愛ぁ、理愛がそうなんだよ。理愛は結晶を喰って、自分のモノに出来るんだってぇー。だからアタシも喰ったじゃないか? だからこうして理愛の心の中にアタシがいるわけ。わかりますぅ? 花晶を喰って、自分の心の中にアタシを詰め込んだ。食人鬼だよ、理愛。理愛はすんごい化物なのぉ!」
おかしすぎて狂ってしまいそうなほどに絶叫したまま虹子は笑った。
理愛の言葉が余りにも的確すぎたのだろう。まさしくその通りだったから。他者を喰らい、全てを奪い去る。そんなものは怪物と同じだ。
虹子は笑いながらそのまま理愛の首に向かって手を伸ばす。瞬きするより早く、理愛の細い首筋に手を回し、そのまま強く握り締める。
「だからそんな怪物に食べられたワタシをどうするの?」
そんなつもりはなかった。ただ受け入れただけだった。だから虹子の問いに答えることは出来ない。
「わ、わかり、ま、せん……」
夢の中だというのに、あまりにも現実味を帯びた痛み。そして苦しみ。呼吸が出来ない。夢で窒息死だなんて笑えない。理愛は虹子の腕を掴んで離そうとしても虹子の手を解けない。
「そのくせ都合の悪いことは「知らない」に「解らない」と来たもんだ。そんなのってダメだよねぇ? ねぇ? そう思わない、理愛――」
強く、強くその手は理愛の首を絞めていく。視界がゆっくりと白く染まり始める。夢の中で窒息死だなんて馬鹿げている。
だが理愛は虹子の言葉に対しては一切反論しようとはしなかった。虹子は理愛の心境をはっきりと理解していた。
逃げていた。
虹子を斃し、殺して、奪ったことも。
そして自分の心の中に住まわせていたことも。
理愛の顔をした別の何かだなんて――事実さえも歪めてしまうえげつなさと来たものだ。
それが夢の中で、自分の目に映るモノは未知として、誤魔化し続けた。
それが虹子だと理解せず、悪夢の根源として置き換えた。
虹子が憤怒するのも無理は無い。身体を失い、心まで奪われ、別の器に入れ込まれ、挙句出た言葉が「お前は誰だ?」と「どうしてここにいる?」なのだから。
「ねぇ、頂戴よ。理愛ぁ? 理愛の身体、ワタシにちょぉうだぁい!?」
理愛の首が悲鳴を上げるように軋んでいる。このまま後もう少し力を加えてしまえばきっとこんな細い首、惨たらしく折れてしまうことだろう。
死にたくない。
このまま夢の中で殺されたくない。
でも、これは理愛の罪だ。
結晶を奪った罪悪は、きっと償うことなど――
「待、って……」
「待たない。ここで殺しても何もならないかもしれない。けどさぁ、それでもこれぐらいはしないとワタシもやってらんないわけ。そりゃあ、こんなことで理愛の身体乗っ取れるとか思えないけどさぁ」
理愛の手によって終わらされた虹子にとってはそのまま死ぬことが出来たのならまだ良かった。しかし理愛に縛られたまま放置されるなど、それはただの地獄だ。
「大丈夫だって。もうすぐ理愛のお友達だって死ぬんだし、一緒に逝ってあげなよ? 見てたからよくわかるよ。大事なんでしょ? 独りにしてあげたら可哀想でしょ」
このまま首を折られていればその言葉を聞かなくてよかったのに。
だけど、その言葉だけは絶対聞き捨てることは出来なかった。
気が付けば理愛の手に力が篭り、虹子の両手を振り解き、そのまま馬乗りになって形勢は逆転していた。
「誰が、死ぬって?」
「相変わらずね、理愛……理愛ってやっぱ変よね。誰か他人の話題が出たらスイッチ入るじゃん。見た目はクール気取ってる割にやけに暑苦しいんだよね。怖い怖いっ」
「答えて――わたしが訊いているのよ?」
今度は理愛が虹子の首を絞める番だった。時間を掛けて苦しませることはしない。一瞬で殺せる一歩手前までその手で虹子の首を締め上げていた。
「が、ガフッ……わ、かるでしょ……」
そう言って、虹子が指を差す。理愛は虹子の指の先を見た。まるで映写機で映されるように表示されたのは、「現実」だった。
「夢じゃ、ない?」
そこに映っていたのは、藍園逢離が陸の上で溺死体になろうとしている光景だった。
そんな驚愕の光景に理愛は強く握り締めていた手を少しだけ緩めてしまう。
「あっちは、夢じゃないよ。現実だ。理愛の目に映ってる世界だよ。見てよ、理愛のお友達が噴水に顔突っ込んで自殺してるけど、いいの?」
そして形勢は再び逆戻り。
「な、なんで、なんで逢離が、逢離が、あんなことになってるの!?」
「知らないよ。でも自分から水に顔を突っ込んで死のうなんて、普通じゃありえない。じゃあ、普通じゃなかったら?」
「誰かが、逢離を……」
一体誰が――なんてそんな愚問をするつもりはない。
もし誰かが逢離を殺そうとしているというのなら、それをきっと許すことは出来ない。
助けに行きたい。今すぐにでもこの夢から解放されなければ。
「行くの?」
「邪魔をしないでくれますか。話し合いはまた今度にしましょう」
「この状況が話し合いに見える?」
腹部に乗りかかられ、首に手を回し、鼻と鼻が触れるほどに接近しているこの状況を話し合いというのは違う気がする。
「お願いします。わたしの友達を助けに行かせてください」
だからそれは懇願だった。
虹子の言い分はわかる。虹子は敵だった。だからこそ斃しただけだ。
だが、殺して尚、緊縛してしまったのは理愛だ。それが無意識だったとしても、理愛は虹子を喰らってしまった。
自分のことが何一つわからないまま、別の花晶を喰ってしまった。そして虹子の全てを奪った。
「お願いです。今だけはわたしを行かせて。貴女はここにいてください」
それでも今だけは、虹子を無視しなければいけない。だって、目の前で大切な者が亡くなってしまいそうだったから。
そんな理愛の願望は、殴打されることで拒否された。
理愛の右頬に虹子の拳が打ち付けられる、だが殴られた理愛は沈黙を続けた。ただ暴力を受け止めることしか出来なかった。
散々奪っておきながら、自分の大切なモノは守りたい。
酷い話である。理愛は失いたくないのだ。だから、奪った相手を前に平気でそんなことを言う。虹子も堪忍袋の緒が切れたのか理愛の首を掴んでそのまま持ち上げるのだ。
「ワタシを殺して、ワタシを奪って、ワタシを放置して、それでワタシよりもお友達を助けたい? それってやっぱ都合良いじゃん? ワタシはどうなるのよ? ええ!? ワタシは敵だったさ。負けたのもワタシのせいだ。だったらなんで普通に殺してくれなかったのさ。ワタシが理愛の前に現れて、お兄さん傷付けたから? だったら憎悪を純粋にぶつけてくれたらよかったんだ。それなのにワタシを喰って、ワタシを理愛の一部にしちゃったなんて、ワタシどうやって死ねばいいんだよ。これじゃあ結晶ん中で眠ってた頃と変わんない。死んでも地獄って、さすがに狂うわボケッ!」
怒鳴り散らかす虹子を前に、理愛はもう何も出来なかった。
だけど、それでも、心の奥底に眠る想いだけは消えない。
「それなら、貴女が、わたしの大切なモノを守ってくれるというの?」
「ああっ? 理愛がワタシに身体をくれるっていうならやってやるよ! 全くもってクソったれなお姫様だ。また外を自由に歩けるってんだったらなんだってしてやろうじゃない!」
「じゃあ、わたしの身体――使ってください」
「はぁ!? 何を言って……んっ!?」
捲くし立てるように言葉を吐き出し、怨恨を垂れ流していた虹子に返って来た意外な台詞。冷や水をぶっ掛けられたように虹子はゆっくりと理愛の腹部の上で大人しくなった。
「どうすればいいか解らないけれど、わたしが望んで、願えば、ここはわたしの心の世界だもの。叶うはず……だから、わたしが変わります。逢離を、助けてくれるんですね?」
「理愛、自分が何を言ってんのかわかってんの?」
怪訝そうに見つめる虹子を前に理愛は首を縦に振る。
「わたしのことを、食人鬼と……そう言いましたね……」
理愛は虹子の身体に手を回し、抱き締めるように虹子の身体を包み込む。
コツンと、理愛はそのまま額を虹子の額に押し付けた。
「わたしが行くことを許してくれないのなら、私の身体を貸し与えます。貴女は自由になりたいと言いました。それならわたしの友達を助けてください。完全な自由を差し上げることは出来ないかもしれません。それでもよければどうぞお使いください」
「さっきまで酷いこと言ってたワタシが言うのもなんだけどさ、理愛……正気?」
「わたしはいつでも大真面目です」
「ワタシ、元は理愛の敵だったんだけど? ワタシはまだこうして自由だから器があれば多分また自律できると思うんだ。勝手に理愛の身体を動かすことになるんだけど、その辺どうなの?」
「何を馬鹿なことを……」
「言ったはずです完全な自由は差し上げられないと。これはやっぱりわたしの身体です。だからわたしの言うとおりにしろ。ついでに言えばわたしが命令しているんですよ? わたしの思うがままに動いて、そして止まれ」
それまで臆病に震えていた理愛はどこへ行ったのか。今はもうそんな理愛はどこにもいない。しっかりと虹子を見据え、上から見下ろすように命令を下す王妃の姿がそこにあった。これで裸で腹上されていなければ絵になっていたのだが仕方がない。
そんな理愛を前に溢れ出した怒りを吐き出していた虹子もまた毒を抜かれたように大声で笑い出した。
何と言うか、敵わない――それが虹子が思ったことだ。
自分の思い通りにしたい。ならないのならば自分の身体を差し出す。そんな狂った答えを出せる存在だ。とんでもないモノを相手にしていたのだ。そしてそれに負けたのだ。
そのまま理愛の心の中を滞在し、理愛の目に映る光景を見せられ続けてきたが、この花晶は余りにも未知数すぎる。
虹子自体もまら結晶の上位に立つ存在であるというのに、この理愛という少女は自分の存在がとてつもなく小さなモノに思わされてしまいそうなほどに、高い高い場所で立っているように見えた。
「ははっ……ホント理愛の兄貴といい、兄妹揃って修復不可能なぐらいにぶっ壊れてるわ。変態め。ワタシの人生は理愛に関わった時点で破綻してたわけね。はいはい、まぁ、外に出られるってだけでもまだマシか。ワタシが理愛に勝ってたらこんなことにはなってなかったんだしね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
理愛はニコリと微笑んだ。
どうすればいいか、そんなことは解らないが……それでも理愛は虹子を抱き締めたまま、虹子が自由になれるようにとひたすら願った。
そして、光が射し込んだ。闇の中で二人を照らすように眩しい光が零れている。
「逢離をお願いしますね」
「なんか、もう無茶苦茶だよ。利用されてる感じ? まさかこんなことになるなんて思ってなかったけど。いや、そりゃ身体くれたら助けてやるーって言ったんだけどさ」
「ここまで来れたのに、夢の中で貴女に殺されるのなんてご免ですし、逢離を死なせるのもご免です。それに、それに――」
理愛は虹子から視線を逸らしながら、
「貴女を取り込んだ時に貴女の心を理解してしまいましたから。一生を孤独のまま結晶の中で生き続るなんて、きっと耐え難い苦痛ですから。それがどれ程の痛みかはわたしでは理解できません。そして外に出られたのに、わたしがまた閉じ込めてしまった。わたしが貴女を壊したようなものですもの。だからこれはわたしからの謝礼です……さっさと出て行って、好きにしてください」
それは雪哉と共に戦ったあの夜のこと。
砕け散った虹子の結晶を吸い込んだ時に、理愛は虹子の過去も記憶も何もかもを知ってしまった。自分の知識の一部として変換してしまった。
その時から虹子が結晶の中で永遠にも似た時間を過ごしていたことも知っていた。虹子を外に出したのが「Ark」だということも。
月下虹子という名を与えられ、人として生きることになったこと――Ark。それは虹子の強大な力さえも思うがままに使うことが出来た組織だ。自律する虹子を大人しくさせることが出来たのは、虹子以上の力を持った異能力者がいるというわけだ。
虹子がそんなArkの人間たちの下で忠実に動いていたのは、きっと虹子の力でも打ち勝つことの出来ない更なる強大な悪がいたからだ。
それが誰かは、知識だけの理愛にはわからない。脳内で映像化することは出来なかったのだ。だからこそ理愛は知っているだけだ。
だが他人の心を平然とそれも無許可で勝手に覗き見ることが出来るのは気分のいいものではなかった。
謝っても許されることではない。
でも敵だった。だから殺し殺されるだけの関係でよかったはずだ。それなのに生かしたのは理愛だ。だからもう理愛は責任を取らなければいけない。生かした敵の処遇を決めなくてはいけない。
光が広がっていく。視界が眩しくてもう何も見えなくなる。夢が終わる。眠りから覚める。そして理愛は置き去りにされる。光に吸い込まれるようにして虹子がゆっくりと消えていく。
そんな消えていく世界の中で、理愛の手からゆっくりと虹子の手が離れる。だけどただ黙って終わりたくはない。理愛にはまだ伝えたいことがあった。
「でも一つだけ忘れないで下さい。わたしもまだ生きていたい。すぐにでも貴女をこっちに戻すと思います。恨むなら好きなだけ恨んでください。わたし、やっぱり兄さんのところに帰りたいですから」
「はいはい、わかりましたわかりました」
虹子は適当に相槌をして、そのまま光に呑みこまれていく。
(全く……なんでワタシが助けに行くことになってんだぁ? まぁ、いいけどさ。外に出られるならなんだってするさ。自由になりたい――なんて、こうも簡単に身体を譲られると逆に拍子抜けだよねぇ……)
別に助けに行くのは理愛でもよかったはずだ。
だが理愛が行くと言った時、拒絶したのは虹子だった。ただ単純に外に出ようとした理愛の言動が許せなくて怒りを言葉にしただけだったが、まさかこんなことになるとは思わなかった。気が付けば虹子が外に放り出されてしまったわけだ。
(畜生……このまま逃げてもいいんだろうけど、変態の妹だもんなぁ……)
虹子はふと自分を二度も殴った最低最悪の男を思い出した。それは理愛の兄であり、嘘吐きな無能力者。自分の頬に触れて、虹子は光の向こう側まで進んで行く。
(ワタシが勢いで言ったんだしなぁ……行くしかないかぁ……)
潔く諦めて虹子は理愛の命令を聞くことにした。仕方がない。理愛をあのまま行かさなかった自分のせいでもあるのだから。
そして光が更に強くなった。意識が覚醒する。
「ん……ここは……?」
目を醒ませばそこは広場だった。いや、ここがどこかは知っている。理愛の目を通して、虹子もまたその風景は見せられていたから。そして、ここで今、何が行われているのかも存じている。
それよりも、だ――
「やったあああああああああああああああぁっ!」
絶叫した。理愛は発狂したように大声で喚いては、腹部を手で押さえたまま身体をくの字にして蠕動している。
「これが私の新しいカラダぁ! いい、いいよぉ! 空気オイシイっ!」
腕が動く。足が動く。全て動く。
夢の世界を歩いているのではない。現実という世界の地に足をついている。手を伸ばして、指の一本一本を動かしていく。思い通りにこの身体は動く。好き勝手に動き回れる。
「自由ぅ! ワタシは自由だぁ!」
「お主はいつからそんな狂ったんじゃ?」
歓喜で震える身体に横槍を入れるように冷たい言葉が投げかけられた。そんな声がする方に視線を移すと、そこには赤い着物を身に纏った赤い眼の少女が立っている。
「やっと目が醒めたか、時任理愛……待っておったよ。お主を殺す前にちょっといろいろあってのぉ。もう終わった、安心して死ね」
誰か解らなかったが、すぐに思い出せた。この女の名は夜那城切歌。
しかしそんなことはどうでもいい。それよりも訂正してもらわなければならなことがある。
「悪いけど、ワタシは理愛じゃないよ」
「何を言うておる、本当に狂ってもうたか? どう見てもお主は時任理愛じゃよ」
違う。
この女は何を言っているんだ。
真顔で名前を間違えている様を見せつけられて堪えることなんて出来なかった。ついつい表情は綻び、馬鹿にしたような顔で笑ってしまった。
「何がおかしいんじゃ?」
突然笑い出した様子を見て、切歌は不快そうな顔をする。
だが笑うことを止めない。そして教えてやるのだ。
腰に手を置き、そのまま見下すように睨みつける。
「ワタシは――月下虹子、よ」
確かにその身体は時任理愛のモノだった。
ただ一つ違うモノ、それは理愛の二つの瞳の色が銀ではなく角度によって七色に変化する虹の瞳だったということだ。