3-15 bad [a]nd happy [e]nd(4)
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夕方のショッピングモール――無人と化した広場。
そんな誰も居なくなってしまった広場に三人の人影が見える。
だが時任理愛は眠りに落ちている。
そして藍園逢離は理愛には見せぬであろう殺気を篭めた視線を夜那城切歌にぶつけていた。
切歌の突然の登場に逢離は下唇を噛んだ。その表情からは嫌悪感が読み取れる。
「おお、おぞましい顔じゃなぁ……怖い、怖い」
そんなことなど思ってもいないくせに切歌は悲観するようにガックリと肩を落とした。
「何を、したんっすか?」
睨み付けたまま逢離は問う。
「何もしておらんが?」
「こんな時間からいきなり人が消えて無くなるわけないっす」
さっきまでいた人々の影が一つ残らず消えてしまった。
歌が聴こえた途端に、まるでこの場所から離れなくてはいけないようにと退いて行ったのだ。こんな広くて大きい施設で、唐突に全ての人間が姿を消すなんてただの異常でしかない。
「そんなこと、気にするな。私はお前たちに用がって来たんじゃからな」
「理愛だけじゃないんっすか?」
「そりゃそうじゃ。お主にも用はあるぞ? 「裏切り者」をちょっと殺しておこうと思っての」
切歌の血のような赤い眼が怪しく光る。
逢離は思った――始まる、と。
だが――
藍園逢離の話を、少しだけしたいと思う。しなければ、いけない。
夜那城家に使えている従者であった藍園家は、夜那城家と同様に数年前の天災によって滅んでしまった。
滅ぶ――といっても大層な意味ではない。所詮は歴史を長く歩んだだけだ。それだけの存在が炎で終わっただけに過ぎない。
藍園逢離は、そう思っていた。
逢離は両親のことが大好きだった。そんな両親が「もっと色んなことを学びなさい」と言った時は、本当に悲しくて、辛くて、泣いてしまった。
けれど、このまま同じ世界の中心に居続ければ、きっと視界には同じモノしか映らない。そう思った両親は逢離の代で、藍園家は夜那城家の従者として生きることを止めたのだった。
思い立ったら吉日と――誰かが言った。
ただ普通の女の子として生きて欲しかったのだろうか? 今となってはその答えを知ることは出来ない。それでも、両親は逢離を手元から離してでももっと色んな経験をして欲しいと、だから逢離を遠い町へ越させたことだけは時間が経てばさすがの逢離でもわかる。
しかし、その次の日、逢離がこの町に着いた頃には……逢離の帰る場所は焼け野原になっていたのである。
その時の心情を今はもう思い出せないでいる。テレビ越しに、新聞越しに、まさかメディアがグルになって逢離を騙していると、愚かな勘違いをしたほどだった。
そう、逢離は信じなかったのだ。自分の家族が死んでしまったことを。幼かった逢離が出来たことは希望を持つことと、両親に言われた通りに色んなことを学ぶことだった。
いつか戻って、自分の本当の居場所に帰って、両親に誉めてもらいたい。そうやって事実を歪めて、真実から目を背けて、ただ前を見ることにしたのだ。
気がつけば、もう帰れなくなってしまった。
両親の友人のお陰でなんとか生活することは出来た。住まう場所も、学校も、何もかも足らないモノは与えてくれた。本当に助かった。生きることが出来た。
しかし両親の死については絶対に口にすることはなく、ましてや逢離は知らない振りをしていたのだった。
成長するに連れて、記憶の片隅に悲しみを追い遣り――忘却することで悲哀から逃れていた。悲しむのではなく、悲しみなどないように、自分は最初から独りだった。そう、孤独のままに生を成した……そんな有り得ない存在に成り下がった。
しかしそうして自分自身の心そのものを嘘で満たすことでようやく藍園逢離は人間味を得ることが出来たのだ。何もかも忘れて、ただ自分が辿り着いたこの場所で生きることにしたのだ。
いつしか忘却することで逢離の悲しみは押し込まれ、そうすることで自分を保った。
そう、高校に上がり――寮生活による一人暮らしが始まり、その数日後に藍園切歌が姿を現すまでは。
閑話休題。
夜那城切歌は顔に手を当てて、指の合間から逢離を見つめていた。逢離も視線を逸らそうとはせずに切歌を射抜かんと睨み続けていた。
最初に口を開いたのは、切歌だった。
「言ったはずじゃぞ? 時任理愛の監視をしろと、そして私のところまで連れて来いと。殺せとは言っておらんじゃろう? そこまでしろとは言っておらん、それなのにお主はどうして私の言うことを聞かん?」
「だって……」
切歌の問いに逢離はチラリと眠ったままの理愛に目を配る。
銀色の髪の眠り姫。
逢離は知ってい「た」のだ。理愛に会う前から理愛の正体を。勿論、それは切歌の言葉で知っただけであってこの目で見たわけではないのだから全てを信じていたわけではなかったのだが。
理愛の正体を教えてくれたのは切歌だった。
入学式前日、寮に到着した逢離の前の現れ、淡々と喋り出す。忘れていた――忘れたままにしておいた逢離の心を抉るように切歌は話していたのを覚えている。
火災で潰えた夜那城家、一緒に炎に呑まれた藍園家。天災によって滅んだだけだと思っていた。しかしそれは違う。
家族を、奪ったのは、天災ではなく――少女だと、言った。
写真を渡されれば、そこには銀色の髪と瞳の小さな人形のような少女だった。
有り得ない。
まず逢離が思ったことはそれだ。
写真に写っているのは本当に人間かとは思った。しかしそれだけだ。こんな虫も殺せなさそうな顔の幼い少女が人間を八つ裂きにして燃やして殺しましたと言われれば逆に笑いもする。
しかし、それよりも目が行くのは銀というその光沢だ。
まるで幻想の世界、お伽の国からやってきたお姫様。気になる。とても気になる。同じ学年で同じクラスだと切歌は言った。入学式の前日でどうしてそこまでわかるのか。同じ学年ならともかく、同じクラスなのは――しかし逢離は黙り、その写真を受け取ったまま切歌の話を聞いていたのだ。
どうすればいいか?
時任理愛の監視だった。
動向を探り、随時通達。そして余裕があれば独りになったところを――切歌が殺すと、そう言ったのだ。
余りにも物騒なことを言う切歌を前に逢離は止めろ、とは言えなかった。赤い血のような瞳は負と言う感情が篭りすぎている。その瞳からまるで卦体な化物が飛び出して来そうな程に、憎悪で溢れ返っている。殺すつもりだ。きっと――殺すのだろう。そして邪魔立てすればきっと逢離も殺すのだろう。
逢離は自分が本当に冷たくて愚かで不気味だと自覚してしまったのだ。
両親は死んだ。燃えて死んだ。でも、それは殺された。銀の少女に殺された。
だから?
それがどうした。それが藍園逢離の心が出した回答だった。あまりにも時間が経過しすぎだ。気がつけば手は離れ、離れてしまったままもう二度と掴めなくなってしまった。気がつかないところで、まるで現象のように忽然と消えた両親。
両親の手元から離れたと同時に孤独になってしまった逢離にとっては、もう両親との思い出も風化してしまった。もう、何も感じなくなってしまったのだ。
悲劇のヒロインのように悲しみに暮れることもない。だって、目の前で死んだわけではないのだから。気がつけば死んでいた。わからない振りをした。見えないものは信じない。幽霊と一緒だ。事実をこの目で見るまでは両親の死すら信じられない。
そのまま信じないままでいたのに、その両親の死を知っている存在の登場にさすがの逢離も焦燥してしまった。
狼狽えながら、両親を殺したとされる銀の少女――時任理愛。
切歌の言われた通りに逢離は理愛の監視を請け負ったのだった。
両親が本当に殺されたのなら……何故、殺したのか少女を知りたくなった。両親の死は信じない。けれどもしそれが本当ならばと――それは事実から逃げた臆病者の無意識な抵抗だった。
「さて、逢離や……命令した通りに監視はしていたが、私に理愛を引き渡すことはしなかったのぉ? 何故じゃ?」
逢離は確かに切歌の言うとおりに理愛を監視し続けた。
そうして監視をすることで逢離は「時任理愛」というニンゲンが何者なのであるのかを知ることになった。
無数に散りばめられた「結晶」はこの世界の一部に組み込まれている。
その結晶は人に力を与えている。手に入れることが出来ない者もいる。それでも人は力を手にする権利だけは平等に与えられた。力を得るか、得られないかはその者が選ばれたかそうでないかだ。
そんな権利は押し付けられるように生きる者全てに与えられた。
逢離の身体にも気がつけばその結晶は埋まっている。だけど、埋まっていただけで異能を得ることはなかった。
しかし、時任理愛は違った。
この世界に存在する結晶の最高位とされた花晶
その結晶そのものが彼女だった。
結晶が人の形をしている。銀の髪も瞳もきっとそう。常識から外れた彩色はやはり周囲に溶け込めそうにない。
時任理愛には兄がいた。だが兄は完全に放置していた。男性は苦手だったから。それに逢離は理愛の監視をすることだけがメインだっただけに余計に兄のことはスルーした。
だが、兄もまた理愛が人ではないということを知っている。しかし彼は本当の妹だと言って、戦う姿ををジっと見ていた。
本当に、本当なのか?
おかしなことを言っている。だが逢離はずっとそう思っていた。切歌に理愛の写真を見せられた時からそう思っていた。しかし、過剰なまでに理愛を守護する雪哉の姿。雪哉を信じて一緒に戦う理愛。
そんな二人を見ている内に逢離は疑い始めた。理愛は人殺しなのか? 本当に両親を刻んで焼き殺したのか? 本当のことを知りたくなった。
近付いた一番の理由はそうなのかもしれない。林間学校が始まる前から執拗に追い掛け回したのも、何度も何度も友達になってくれと懇願したのも、きっと知りたいが為の口実。いや、口実だったのか? 逢離は首を横に振る。
一目惚れだった。
何とも馬鹿げている理由ではないか。一切の不純がそこにはない。真実よりもずっと、ただ理愛のことが気になって仕方がなかった。銀色の髪も瞳も、氷のように冷たい瞳のまま人形のように微笑むその表情も愛おしくなった。
壊れていたのはずっと前からだ。両親の死を受け入れず、事実を知らない振りをして、心を嘘で満たしたせいか、おかしくなってしまったのだろうか。
ただ逢離は理愛と友達になりたくなった。もう何もかもどうでもよくなって――逢離は理愛と一緒にいたくなった。そして、その願いも叶ってしまった。
そこでもう満足してしまったのだ。事実なんていらない。真実なんて知りたくない。もうここで終わってしまっていい。だから、だから――
「お主は、私の命令を背き、腑抜けたまま学校生活を愉しんでいたわけじゃな?」
「わかったことが、一つあるんですよね」
切歌の問いには一切答えず、逢離はクスリと微笑む。
目の前には赤いお化けがこちらを睨んでいるというのに恐れなんて抱かない。
「両親が死んだらしいんです」
「言い方がおかしいんじゃが?」
「いえ、あたしは見てないっすから。だから、そうっすね、だから……」
ニコニコ、そうやって微笑む。
「――おかしくなってしまって」
嗤う。
その表情はとても歪で、とても不気味で、とてもじゃないが理愛には見せられない醜悪な顔だった。
もう壊れていたのだ。
両親の死から、ずっと信じないように信じないようにと生きていく内に逢離の心は完全に崩壊していた。もう何も信じられない。それがこれまでの藍園逢離の心情だ。しかし不便ではない。逆を言えばは自分にとって都合の悪いモノだけを忘却できる便利なモノなのだから。
そんな壊れたまま夜那城切歌をの邂逅を果たし、時任理愛との接触を繰り返す内に、こんなところまで来てしまった。
切歌は理愛を殺すと言っている。
たった一つだけ純粋な嘘ではない本当の想いがある。虚偽という麻酔をかけているのに、それだけはどうしても隠せない気持ちがある。
藍園逢離は、時任理愛が好きだ。大切な友達だ。一緒にいたい。理由は無い。それだけだ。それを奪おうとしている。それを壊そうとしている。それだけ、たった一つ信じられる想いを踏みにじられようとしている。
「あげない、あげない、理愛はあたしのものだ、アナタにはあげない、あげるもんか」
だから奪わせない。壊させない。きっと理愛は雪哉を選ぶだろう。最後はきっと逢離を優先してはくれないのかもしれない。それでもいい、今だけは、理愛はきっと逢離を見てくれていたから。だから、このまま切歌に奪われたくない。
「その身一つでどうにかするつもりかえ?」
「ええ、まぁ……先輩とも約束してるんで」
逢離は無表情のまま切歌に向けて手刀を放つ。文字通りの攻撃手段。その手はまさに刀の如き切れ味の良さを備えている。小さな少女の身体を切り裂くのも容易だろう。
だが切歌はそんな逢離の手刀を躱し、そのまま小さく地を蹴り、宙に浮く。地面を蹴る音は立てず、逢離の真上を飛び越えていく。
「なぁ!?」
しかしただでは飛び越えない。宙返りをしたまま、物理法則を無視するかの如く縦に回転していたはずの切歌の身体の回転は縦から横へ。そのまま足を振り下ろし、逢離の顔面を捉えていた。だが逢離は目の前が暗くなっただけで、何の痛みも感じない。逢離の顔面を蹴り落としたにも関わらず余りの手応えの無さに着地した切歌は首を傾げる。
「どういうことかのぉ……そう言えばお主もつい最近、種晶が開花したとかどうとか言っておったか?」
「どうしてそれを?」
「まずお主から先に動いた。そして反撃を返したのじゃがな、どうも反応が悪い……どう考えてもおかしいと思たんじゃが?」
「ああ……」
それは愚行だったか。
確かに戦う力を手にした逢離だった。これまで何も出来ずに傍観することしか出来なかった少女が、気がつけば手にすることの出来た幸運。それは己を刃に変化える異能。「接触絶刀」である。
花晶には遠く及ばずとも、その能力は敵と戦うには十分すぎる。自らは鋼鉄と化し、その手は刃となる。まさに物理攻撃に関しては完全に無敵であろう。
だがその十分すぎた能力は過信となり、自ら異能を持っていると言わんばかりだ。切歌もそれにはすぐに気がつき、逢離の手には触れずに回避した。そして反撃こそしたがダメージの無さに逢離は有能力者であると判断した。
「まっ、バレても問題ないっすけどね」
しかし能力を持っているということを隠すつもりなどないし、そもそもそんなことをしたところで状況をひっくり返すことなど出来ないとわかっていた逢離には能力の保有を知られたことに関しては何の問題もなかった。切歌も逢離の言葉に「そりゃそうじゃ」と言葉を付け足す。
「お主も、時任理愛もここで死ぬんじゃ。何を知っても、何が解っても、どうせ終わりは同じじゃよ。結末は私の思い通りじゃ」
「神様にでもなったつもりっすか? 勘違いしないでくださいよ。あたしがそんなことさせないっすから」
「五月蝿い蛾じゃなお主は。灯篭に集る糞蛾じゃ。時任理愛という光を見つけたお主は執拗に時任理愛を追いかけたろう? 実の親が死んでも受け入れられない。ただ生きているだけ。生きているだけの光を求めて飛んでいるただの小虫。そんな虫如き糞が偉そうに威張るな――」
その言葉に逢離は不思議と怒りは湧かなかった。的を得ているというか、切歌の言葉が余りにも的確すぎて寧ろ感心してしまう程だった。
ただ生きて、大切な人の死すら認められず、生きる理由も無いまま、かといって自らを終わらせる選択肢は選ばない空っぽの存在。そのまま空のまま殻に閉じこもっていればよかったのだ。
それなのに切歌に見せられた理愛の写真を見た瞬間、瞳孔が開くぐらいに目を見開いて、火でも付いたように走り出したのはどこのどいつだ。
理愛を知る為に動き出したこの身体。友達になって、人生は楽しくなった。だからきっと蛾なのだ。理愛という光を追い掛け続ける光。その光が炎であっても構わない。そのままその身を焼いて、燃え尽きて無くなっていい。そう、蛾だ。蛾ならば、蛾らしく、蛾のように終わりまで生きようと思う。
「あたしは蛾でいいっす。うん、それで理愛が炎なら――あたしはそのまま燃えて消えていい」
「安心しろ、直に焼死する」
逢離は右手を左腰へ、左手は顔の前に構えたままジっと切歌を睨みつける。切歌は構えることはせずにただ立っていただけ。だが油断はせずに逢離は動かずにその場に立ち尽くす。
「焼死……ではないか」
切歌がそっと呟く。
そして、切歌は突然手を伸ばす。逢離の身体が無意識に強張り、警戒する。切歌が有能力者なのか、無能力者なのか、結晶を所持しているのかいないのか、何一つ逢離はわからない。それでも先程の運動能力の高さや、言葉の一つ一つが逢離を不安で呑み込んでしまいそう。
「では速やかに、終わってもらおうかの」
逢離は手を伸ばしたまま、大きく息を吸い込んで、
「謳え、聴け――」
真正面から切歌と目と目が合い、そして切歌は口ずさむ。
歌を、謳う。
それは逢離が先程聞いた声だった。耳を塞ぎたくなるような不快な声。言語化できぬその歌声は逢離の耳に入り込んで来る。その歌声は逢離の心を侵し、苛立たせる。
「ええっ……?」
身体が、動かない。自分の思うように身体を動かすことが出来ない。まるで石にされてしまったようだ。視界に映る切歌は何も言わない。歌を謳いながら、その二つの赤い眼が鋭く光る。まるで歌手のように手を動かしながら謳い続ける。逢離の身体は動けないままだ。身体が動かなくなったのは切歌が歌を謳い始めてからだ。
謳う。近付く。切歌は逢離の眼と鼻の先にいる。その手で切り裂くことができるはずなのに、その手は動かない。切歌はまだ謳う。そして切歌の人差し指が逢離の額に触れた。
「な、なに……を……」
切歌は答えない。ゆっくりと切歌は後ろへ下がる。すると突然、逢離の腕が動き出した。動かしたのではない。勝手に動き始めるのだ。わからない。何がどうなっているのか逢離には理解できない。まるで操られたようにその手は意に反して動き出す。
そして――
「あ、ああ……」
自分の頚動脈に向けて、手刀を放ったのだ。逢離の身体は刃そのもの。その手は刀と同じ切れ味を持つ。そしてそれが自分の首筋に突き立てれば――
歌が、止んだ。
切歌は自分の口元に手を当てたまま逢離を見つめている。逢離の「接触絶刀」によってその身は刃となる。そして操られた逢離はその自らの刃で自害した。
だが、死んでいない。
生きている。逢離の指先は首筋を貫くことは無く、頚動脈を切り裂くことも出来なかった。
「なるほど……どうやらその身体そのものが、人間ではない……ということかの?」
「あたしも自分の異能のことまだよくわかってなかったけど……よかった、そりゃそうっすよね。殴られても蹴られても痛くないんだもん。あたしの身体そのものが刃なら、わたしの身体は鋼なんだろうねって」
その身を刃とする能力ならば、全身そのものは既に硬化しているのだ。だから逢離の手刀で首を串刺しにすることは出来なかった。もっと早く刃を突き立てればこの身を貫くことが出来るのかもしれない。それでも、鋼鉄に対しては無敵なのだ。刃では逢離の身体は壊れない。
「とにかく触れてはいけないとしか私には解らんのじゃがな。しかも自分の能力も堂々とバラして阿呆の子じゃな。しかし、自殺させてやろうと思ったのに、お主は本当にしつこいのぉ」
「あたし……小虫なもんで。弱いくせに生きたいんっすよ。だからそう簡単には死なないっすよ。多分、物理であたしを殺すことはムリっす」
確証はないが、自信はある。
銃弾を喰らっても生きていた。こうして刃と化した手を突き立てても死ねなかった。
だからきっと大丈夫。逢離は戦えるとその身を奮わせる。
「ははっ、元気じゃのぉお主は。私もな、正直それほど戦えるような身体じゃないんでこれは困った」
「嘘ばっか……」
歌を謳うことで何かしたのはわかった。でもそれが何なのかはわからない。
そして何より恐ろしいのはその歌声はまるで怨霊の呻き声のようなおぞましいもので、逢離の声とは思えない穢れた声だ。
まるで呪詛を歌として奏でるように、狂気の旋律は逢離の身体を縛り上げた。
「逢離よ、やはりお主は厄介じゃ。物理では殺せない……んじゃな?」
切歌は何か考え込むように少しだけ下を向いた。逢離は無意識の内に動いていた。隙を見つけた。好機かと思った。だが、それは違った。
「じゃがてんで素人じゃな。戦ったことなんて、これまでも無かったんじゃろう?」
逢離の攻撃は呆気なく回避される。
しかし切歌の非難に対して、逢離は顔色一つ返さず、
「あたしはただの学生っす。そりゃあこんな能力を頂けたのは嬉しいっすけど、戦いだなんてそんなファンタジー今回が初めてっすよ!」
「幻想世界に足を踏み込んだのはお主じゃろう? 時任理愛なんてものはまさにそのファンタジーの塊そのものじゃよ。結晶が服を着て歩いておるんじゃ。そんな常識外れ、さっさと背中を向けて見ない振りをしておればよかったんじゃ。私の言うとおりにしておればよかったんじゃ。そのまま心を殺したまま、嘘付きのまま人生を全うすればよかったんじゃ。そうすれば辛い想いもしなくて済んだろうに。こんなことにも巻き込まれなかったはずじゃよ。そう思わんかえ?」
「でも、それだとあたしは理愛と友達になれなかった! 大事な友達もきっと守れなかった! 何も知らないまま、壊れたままで納得していた! それはいい、何一つ認めず信じず生きてたあたしの責任だ。そんなの何とも思わない。でも、空っぽのあたしが選んだんだ! 最後まで突き進みたいっ!」
目的を持って生きることをしてこなかった逢離が、初めて抱いた責任だ。理愛と友達になりたい。それは叶った。だから最後まで一緒にいたい。それを叶えたい。だからその願いを壊そうとする切歌は敵だ。負けたくない。逢離は視線を逸らすことはせずに決意に満ちた強い視線で切歌を見詰める。
「覚悟、か……いやはや実の両親が死んでも、行動一つ起こさんかったお主がまさか「好意」なんて感情でこんなことをしておるとはな。人間とは面白い、面白いよのぉ?」
「何が、言いたいんっすか?」
「感服しておるんじゃよ。そして敬意を持って、お主を殺すんじゃ。その強い視線、私に向け続けたのだけは失敗じゃよ」
「…………ワケがわからないっす」
「謳え、聴け――」
逢離の言葉を置き去りにして、切歌は謳う。また、歌だ。逢離は耳を塞いだ。両手が使えなくても、戦う方法はいくらでもある。
それなのに、歌は途切れない。耳を塞いでいるはずなのにしっかりと耳に響く。いや、まるで頭の中でその歌を記憶しているように、脳内で垂れ流された。
「ああっ、ああ……」
そしてまた身体は動かない。
完全に沈黙する逢離の身体。
だが自殺させようとしても無駄だ。逢離の手刀で逢離の身体を傷付けることは出来ない。
足が、動く。
一歩、一歩と逢離の身体が前へ進む。誰かに動かされているように、逢離の身体は無理矢理進まされた。
そして、噴水の前。広場の中央にあるその噴水は延々と水を噴き出している。
謳い続けながら、切歌は笑っていた。その笑顔は、本当に憎々しかった。だがどうしようも出来ない。切歌は謳う。歌を謳いながら、手を大きく広げる。
(物理では死なないとお主は言った。ならば内部から壊させてもらおう)
謳いながら切歌は心の中でそう呟いた。
(私も少々特別なんでね。逢離の異能は厄介じゃが、負けることはないんじゃよ……残念じゃったな)
そして逢離は噴水の前で立ったまま動けなくなる。そして何をすると言う前に、逢離の顔はそんな噴水の溜まった水に浸かっていた。
(溺れてしまえ。何も無い空っぽだったお主の心の中にちっぽけな「想い」が少しだけ浸透しているのなら――ただの真水を鱈腹呑み込ませて、満杯にしてやる)
切歌は謳うことを止めない。
その歌声で切歌は確実に逢離を溺死させるつもりだ。
逢離の顔は水の中に沈み、ある筈の無い酸素を求めて口を開く。しかしあるのは水だけだ。そんな水はただ逢離の口や鼻の中に入り込んでは浸水を続けていく。
逢離の身体に許容量を遥かに超えた水が注ぎ込まれていく。このままでは感情全てを「死」の概念で満水にされてしまう。
「がぼっ、ば、ががっ! あがっががっ……!」
陸地で溺死するなんて、そんな馬鹿げた話――しかし今まさに溺死体が一つ出来上がってしまうところまで来ている。
なんとかしないと、なんとかしないと、なんとか……しようがなかった。
どれだけ身体を動かそうとしても、石のように動かなくなったその身体は指先一つ動いてはくれない。
思考も働かなくなってくる。ゆっくりと白目を剥き始めている。死ぬ。このままだと、本当に死んでしまう。理愛を守れない。理愛の兄との約束も破ってしまう。
意識が黒く滲み始める。そしてそのままフェードアウトしていくと同時に目の前が真っ白になっていくような気がする。死ぬ? 死にたくない。死にたくない。息が出来ない。酸素は何処? そんなものは水中には存在しない。
(どうした? 時任理愛……そのまま眠り惚けているつもりかえ? 大事なお友達が溺死するまでに目覚めてくれんとなぁ?)
溺死する手前まで追い詰められている逢離を他所にまだ時任理愛は眠り姫を演じたままだ。だが、理愛は見えているのだ。今の光景が、今の状況も。今すぐにでも目を醒まし、助けに行きたい。
それが出来ないのだ。
そう、現在理愛は――悪夢を彷徨っている最中だったから。
そして、その悪夢の中で理愛はおぞましい何かと遭遇してしまったのだから。
悪夢から醒めることが出来なければ、逢離を助けることは出来ない。
だから早く、早く目を醒まさなければと――理愛は悪夢に終止符を打とうとしている。
だが、逢離の意識は既に途絶えていたことに理愛はまだ気付いていない。