1-5 銀の少女を救うのは
1-5 銀の少女を救うのは
「理愛が、声を、掛けてくれない」
顔面を蒼白させて、額に両手を押し当てたまま雪哉は白目を剥いて、死人のように変わり果てていた。そんなやけに厭世的に落ちぶれる雪哉を見て切刃はクスリと笑っていた。
「笑い事か、今にも俺の右腕の力を暴走させてしまうかもしれない瀬戸際だというのに」
「そうなると、どうなるんだい?」
「世界の終焉、そして創造が開始される」
「なるほど、さながら『再開』かい?」
「ほう、切刃にしては上手いな。だいたいは合っているぞ」
「正解ではないんだね」
そこで一旦会話が中断される。
数秒間、音が完全に死んだ。そして雪哉は再び項垂れる。
「朝、目が覚めればすでに家を出ている。学校が終わればすでに帰っている。家に戻れば、部屋に閉じこもり……そして日が変わる――」
「何があったんだい? 入学式の日は一緒に登校したそうじゃないか」
そんな切刃の言葉が更に自己喪失を加速させる。視界が真っ暗になっていき、生きる気力を失っていく。何もかもが狂い出したのは一週間前、入学式が終わってからの帰り道。
理愛の身体の中に、種晶が確認されたということだ。
「妹さんの身体に種晶が見つかったって、それだけだったんでしょう?」
「それだけ、で十分おかしいさ」
あれから一週間、理愛は孤独を徹底していた。雪哉にさえ声を掛けることをしなかった。同じ屋根の下で暮らしているのだから、確実に顔を合わせるわけなのだが、それでも他人行儀に言葉を交わすだけ。これまでも、これからもそんな風に声を掛け合うことなんてなかったはずなのに。
「能力の発動は確認されたの?」
「いや、それはわからない。聞いていないし、教えてもらってない」
これはよくあることだ。
種晶が身体のどこかに見つかるなんてことはざらにある。問題はその先の能力発現にある。
唐突にお前は種晶を持っている、だから今すぐこの場で能力を発動させて見せろと言われても、そんなこと出来るはずがない。稀に能力自体を公にすることを嫌い、能力使用を拒む者も現れはするが、そんな者は殆どいない。それでも能力を使おうが使えまいが、種晶が確認されればその時点で能力者の仲間入りとなる。そこから有能になるか無能になるかはその者に掛かってくるだけである。
しかし、そんなことは雪哉には関係のないことだ。関係ないことだった。それがもう理愛には関係あることになってしまった。
だから、今の雪哉に出来ることはそんな現実を話を逸らすことで誤魔化すことだけだった。
「昨日は先に帰って理愛の帰りを待ったんだが……帰ってきたのが夕方を過ぎていたな」
「女の子が独りで出歩くのは感心しないね」
その通りだ。この町は都心から少し離れてはいるが、それでも夜になるまで外を出歩いているなんて雪哉としては心配でたまらなかった。帰ってくるまで不安で押し潰されそうになったが、いざ理愛が帰って来た時はそんな不安消し飛んでいた。怒りも沸かなかった。
「……俺は、ダメだな」
焦燥することしか出来ない自分の無力さに歯痒くなる。無能であることを恨んだことはなかった。それでも理愛の為に何もしてやれないことだけは死にたい気持ちすら覚えてしまう。
何もなくてよかった。理愛も雪哉にも種晶は持たず、能力を持たず、ただの人間だった。たった一つこうして変化を伴うだけで、兄妹の関係すらも変わってしまう。変化は恐怖だった。このまま全てが変わってしまいそうな――
そんなのは嫌だ。まだ雪哉は理愛に何も聞いていない。理愛の言葉を耳にしていない。一人愚かに苦悩して何になる。行動しろ。そうでなければ、苦しいままだ。
いつの間にか雪哉は上を向き、天井を見つめた。失意に呑まれていたはずの瞳に色が灯った。いつかそこには意思が宿り、今にも行動しそう。
「ふふっ」
そんな雪哉を見て、切刃は微笑む。
「何を笑っている」
「いやね、いつもの雪哉に戻ったみたいで何よりかと」
「俺はいつも通りだ」
「そうだね」
そして会話は終了された。
ともかく雪哉がすべきことは見つかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「兄さんに、声を、掛けてない」
放課後の帰り、理愛はまた逃げるようにそそくさと学校を出ていた。今日も雪哉に顔を合わせることなく終了してしまった。朝、いつもより早く起き、学校へ行き、自分を殺し、放課後をむかえ、逃亡する。いつまでもこんなことをしてはいられないのだけれど、今はどうしても一人でいたかった。考えても答えは出ない。そもそも何を考えるというのだ。自虐的に笑い、理愛は家と正反対を歩いた。すぐ帰ってしまっては家でどうしても雪哉と顔を合わせることになってしまう。あの兄のことだ、すぐにでも駆けつけて来そうだ。
だからこそ余計に理愛は雪哉に顔を合わせずらいわけで。雪哉は気を掛けて何か言うかもしれない。そんなことをさせてしまうのが一番気に入らないのだ。
君の身体の中に、種晶が見つかったよ。
たった一言で反転した世界。下唇強く噛み締めれば噛み締める程に怨毒が滲み出るようだ。
種晶保有検査はいつものように種晶は確認されないという結果が出るはずだった。それなのに、それなのに――
「死ね」
それは誰に向けて放った鬱憤だったのか。眉間に皺を寄せ、舌打ちをするその仕草だけで十分に自分の魅力を損ねていることに理愛自身気づいていないようだ。
理由は、なかった。
やるべき目的もない。
ただ同じ歩幅でこれまで歩いてこれたはずなのに、今はもう違う。
ギュッと制服のリボンを掴み、終点の無い道を歩き続ける。するとどうだろう、
「や、理愛。こんなところで何してるの?」
会いたくないヤツがいた。理愛の目が更に釣り上がった。爪先が今にも皮膚を突き破りそうなぐらいに強く握り締める。
夕焼けがゆっくりと夜空に掻き消されそうな夕方と夜の境界線の境、丑三つ時にはまだ早い。しかしそれはとても魔的に見える。厭な雰囲気だけ醸し出して、それはいる。
「月下、虹子……」
懐疑の眼差しを向けて、理愛は呼びたくもない名前を口にする。その人の形をした魔性はニコリと笑い、三日月みたいに口を歪めて、目を細めてる虹子がそこにいた。
無言で二人は肩を並べ、歩いていた。とにかく立ち止まるわけにはいかなかった。少しでも動き、声を掛ける暇すら与えない。しかし競歩は得意ではない。虹子より早く、虹子より遠くへ歩くことができれば、このまま逃げることができれば、なんて……そんなこと出来るわけもなくて、
「あれから、どう?」
それは何に対してのことなのか。
しかし、それが何かと聞いてはいけない。会話とは意思表示だ。疑問を傾けてしまえば、それだけで次の言葉が紡がれてしまう。ましてやこの女とはコミュニケーションなんて行為を取りたくはない。理愛は口に栓をしたまま、自分からは声を出さないことを徹底した。
「お兄さん、いたんだっけ? お兄さんは大丈夫だったんだっけ? ああ、なるほどね。それで、家とは正反対を歩いてるわけだ」
心の中では言いたいことだらけだった。兄のことを口にするな。どうして家の場所を知っている。お前にわたしの何がわかる。けれど言葉を口にすることはしない。挑発に乗るわけにはいかない。
「お兄さんから逃げてるんだ、自分が変わってしまったことが怖くて、可哀想に。それなのにお兄さんは何やってんのかね? こうして理愛は苦しんでいるのにね、ダメだね、ダメダメだね」
「五月蝿い、死ね」
まるで化けの皮を剥がしたみたいに、理愛は自分の奥底に隠していた本性を曝け出した。
兄を過小に評価したことが許せなかったから。そして兄が何もできないのは、妹である自分が逃げているだけだから、それをとやかく言われる筋合いはない。
「いつも弱そうにしてるのに、やっぱそっちがホントの顔なのかな? こわいこわい」
殺意を向ける理愛を見て、虹子は何も言わなくなった。
それでも、虹子のことは本当のことだから。だから、その「死ね」はもしかした最初から自分に対して言っていたのかもしれない。
逃げてばかり。この一週間、たった一週間だ。それでも永遠のような気がした。七日間の乖離でここまで理愛は苦悶していたのだ。それでも、まだ逃げることを選んでいた。
まだ、理愛の横にはしつこく虹子の姿があった。そんな虹子を見て、鬱陶しく思い、消え失せろとさえ思っていた。それでも、どれだけ敵意を向けても、消え去らない。
「種晶は見つかったみたいだけど、能力の方はどうなの?」
もちろん無言。返事はしない。
「わかんないんだろうねぇ、いきなりだもん、でもさぁ――」
「な、にっ?」
虹子がいきなり理愛の手を握り、引っ張り出す。
理愛と変わらない小さな身体とは思えぬ程の力で引っ張られているようだ。いつの間にか成すがままに虹子に引き寄せられてしまう。振り解きたいのに、まるで手錠でもかけられたみたいに理愛の手首から腕が完全に拘束された。
「離して」
「ダメ、ついて来て」
そう言って、虹子は路地裏を通り抜け、交差点を越えて、辿り着いた先は公園だった。
大きな噴水の見える公園。だがその噴水からは水を噴出することはなく、水は枯れ果て、ベンチは転がり、遊具は錆付き、無人と成り果てたまさに廃墟だった。
駅から遠く離れたこの公園のように、人の集まらない場所はこうして終焉するしかない。そんな廃れた空間は、まるで世界から切り離されたよう。
虹子の目的地に到着したのか、理愛の手を離し、解放された。光の無い世界がそこにはあった。たった二人、まるで世界に自分と虹子しかいないようだ。
「ほら、見てよ」
いきなり振り向いて、虹子は自分の制服をゆっくりとたくし上げる。綺麗な腹部が露わになった。そんな行為を見て、理愛は自分の顔を手で隠し、視線を遮ろうとした。何をやっているんだこの子は、恥ずかしくないのか、羞恥心をどこへ置き去りにした。逆に羞恥した理愛だったが、そんなものはすぐに消えた。だって、その目には虹子の腹部に結晶が映ったから。
「種、晶……?」
「綺麗でしょ。すごく、すごぉく。これはねヒトを超えることが出来るものなの。そんな素晴らしいものを手にしたんだよ。」
種晶というものを見たことが無かった理愛にとって、それは透き通る透明な石と思っていただけだけに、虹子の腹部に埋まるそれが虹色に煌いているのを見て綺麗だと思ってしまったのは事実だ。
「ねぇ」
そんな輝きに魅せられた理愛を見て、虹子は満足そうにニタリと気色の悪い笑みを浮かべた。その表情を見せられて理愛は一歩後ずさる。怖い。この前にいるのは、何だ。ニンゲン、なのか?
「ねぇ、見せてくれないかな? 理愛の、見せてくれないかな。理愛の、綺麗なヤツを」
胸ポケットから折り畳まれたナイフ。銀色の刀身が鏡のように反射する理愛の戦慄する顔が見えた。そんな刃先がゆっくりと理愛に向けられる。理愛は一歩、また一歩後ずさる。するとまた一歩、虹子が鋭い切先を見せ付けて、理愛に近づいて来る。逃げればいい。今すぐにでも走ればよかったのに、それなのに背中を向けることだけはできなかった。そんなことしてしまえば、本当にあの銀の刃が理愛の背中に突き刺さりそうな気がした。背を見せれば、殺される気がしたから。
「ああっ……」
背中に衝撃。振り向けば大きな一本の樹が理愛の退路を塞いでいた。どうして右に左に移動しない。一方通行じゃないはずなのに。どうして動けない。背中に伝わる樹の堅さ。空いた両手が震え上がり、震える身体と一緒に歯と歯が当たる。さっきの殺意はどこへいった。理愛が見せ付けた殺意は意味を成さなかった。そしてもう目と鼻の先に虹子はいた。兇器が振り上げられる。銀の軌道が理愛の頬を掠めた。白い肌を伝う赤い血が顎先にまで滴っていた。
「殺さない、殺さないって。安心してよ理愛、私はね理愛の力が見たいだけなの。すごいんだろうね、すごく綺麗なんだろうねぇ」
「や、いやぁ……」
「さっきの冷たい目はどこへ行ったの? 睨んだだけで人を殺せそうなあのおぞましい目はどこへ? もしかしてこんな小さなナイフをチラつけただけで怖いの? 萎縮しちゃう? どうしてぇ? 折角、手に入れたんだよ? その能力を使って、状況を変えようよ。そうしないと死んじゃうかもね」
刀身は頬に宛がわられ、虹子の鼻先が理愛の首元に触れる。舌を這わせ、垂れた血を舐め取られた。
「ひゃ……!」
「理愛、可愛い」
扇情的な表情を浮かべ、そして虹子の刃が制服の胸元を切り開いた。布は裂け、理愛の黒の下着が露出した。裂けた衣類に手をかけて、曝け出された柔肌に刃物が向けられた。
「私ね、理愛のが欲しいわけなんだけど、どう?」
「わたし……を、殺す、の?」
理愛の身体には種晶は目には映らない。だって身体の中にあるのだから。
「解剖しないと、ダメだから……そうするしかないのかな? 悪いけどさっき殺さないって言ったのナシで」
麻酔をして、医者がメスを刺せばいいのではないか。なんて言葉は浮かばなかった。そんな問題ではないのかもしれないけれど、とにかく今はただ向けられた畏怖の象徴を前に恐れを成して、かすれた声を出すことしかできない。
「とりあえず、痛いのは一瞬だけど、失敗したらごめんね」
「なんで、なんで、こんなこと……」
「ちょっといろいろワケあってね、諦めてよ」
そんな都合で殺されるわけにはいかない。けれど反撃もできない。
助けて。
その言葉を発することができない。誰に助けを求めるというのだ。こんな人気のない場所に、一体誰が助けに来てくれるのだ。でも、そんな時にふと浮かんだ顔があった。
兄さん。
理愛はそんな絶望の淵で兄の名を呼んだ。
けれど、そんなの卑怯じゃないか。自分が選択し、逃亡を続け、兄の接近を拒絶していた。そんな自分自身の行為は自業自得だ。その罪は死をもって償われるのならば受け止めるしかない。
「どしたの? 泣いてるの?」
「泣いて、なんか」
言われるまで気づかなかった。目蓋にいっぱいの涙を浮かべ、今にも決壊しそうなぐらい溢れていた。慙愧の念に押し潰されそうになって、もう我慢できなくなっていた。
「いいんじゃない、そうやって後悔しても」
理愛はもう何も言わなかった。潔く罰を受ける為、目を閉じ、凶刃にその身を裂かれることから逃げることをやめた。死ぬのは怖い。けれど、それが自分の起こった行為から繋がったことなのなら、もう受け入れるしかない。
ごめんなさい、兄さん。
「待て」
その声に閉じられていた目を見開いてしまう。振り下ろされずはずの凶刃もまた理愛の身体に届くことはなかった。理愛も虹子もその声がした方へと視線を移す、そこには――
「俺の妹に何をしている?」
理愛の兄である雪哉が左手で顔を隠しながら立っていた。そんな構えをしたまま突っ立つ雪哉を見て、虹子は刃先を理愛から雪哉に変えた。
「誰、アンタ?」
「それの兄だ。その物騒なナイフは仕舞ってもらおうか」
どう見ても武装している虹子の方が、素手の雪哉以上に有利である。そんな戦闘力の差を見せ付けているにも関わらず雪哉は臆すことなく立ち向かってくる。
「理愛、どうして劣情を煽るような格好をしている? あまり外でそういう格好をするのは止めた方がいいぞ」
「ち、違います! 私がしたんじゃありません!」
そこで大声を荒げて雪哉に反論した。いつものような軽いノリで。でもそれがよかった。戻ってこれた。こうやって軽口を叩けることに救われるのだ。何を逃げていたのか、兄はいつものようにそこにいたから。まるで自分がこれまで兄から逃げていたことが馬鹿らしく思えた。
「まぁ、いい。ともかく、お前は理愛に危害を加えたということでいいのか?」
「う~ん、そういうことになるのかな。とりあえず面倒臭いし、アンタにも死んでもらおうかな」
ナイフの切っ先が雪哉に向けられたままゆっくりと雪哉に近付いて来た。雪哉は動かない。それどころか変なポーズをしている。
「兄さん、早く逃げて!」
「理愛、どこへ逃げろと言うんだ。俺はお前を探しにここまできた。お前を家に連れて帰って初めて、俺の願いは叶う。それ以外はできないな」
「なんだお前。気色悪いヤツだなぁ。これわかんない? ナイフ、刺さると痛いよぉ」
雪哉のヘンテコなポーズとその口調がおかしくてたまらないのだろう。虹子は笑いながらナイフを振り回した。それでも雪哉は恐れることなく左手で顔を隠し、左肘に右手を添えて立ち尽くした。
「知っている。しかしそんな玩具でこの俺に一撃を加えられるとは到底思えない。その刃で障壁は貫けるのか? 防壁は崩せるのか? 防護壁は侵せるのか? 出来るわけがない。人間の作ったモノではどうにもならんぞ? 少なくとも聖異物は携帯すべきだったな」
「何いってんだ、こいつ?」
どんな場所であっても、どんな状況であっても、雪哉は変わらない。そんな雪哉の言動を前に虹子は明らかな動揺を見せていた。不可解な言葉、不審な行動、その異様さにこの男が本当に能力を持たないただの人間なのかとさえ思わせる。
「ともかく、俺の妹に何をしていた?」
「わたしは種晶を手に入れて、新しい人類に進化して、素晴らしい能力を手に入れたかもしれない理愛に話をしてただけ。アンタ、理愛のお兄さんなんだっけ? 悪いんだけど今、大事なところなの。何の才能も持たないただの無能力者は帰ってくれない?」
そうやってナイフをチラつかせながら睨み、脅威を与えてくる。そんな敵視を向けられて尚、雪哉は構えを解くこと無く、怪しく微笑む。
「種晶か、人間が決めた才能がいつしか一つだけに括られた、だなんて悲しいな。それだけが能力だと、異能だと? 笑わせるなよ……小娘」
「もう理愛とアンタにはどれだけもがいても届かないところまで来ちゃってるんだよ。とっくに違いが生じていることに、どうして気がつかないの?」
頑なにポーズを解かなかった雪哉が、その言葉で初めて解除した。そして地面を踏み抜くほどに強く踏み締めた。土埃が舞い、そして左手を水平に薙いだ。
「何が、違いだ。それはお前が決めることじゃ、ない!」
それは明らかな怒りだった。雪哉にはどうでもいいことだったのだ。理愛の身体に種晶が見つかろうが、常識を超越する能力に芽生えようが、どんなことがあっても変わらない。変化なんてものは無縁なままでいい。この世界がどれだけ変わってしまっても、時任兄妹はずっと変わらないのだ。それを何も知らない部外者が、さもわかったような口振りで間違ったことを、憶測だけで言い放つこの女が許せなかった。
「だから、なんなんだよ。わたし、アンタのこと嫌いだわ。理愛のお兄さんじゃなかったら今すぐ殺してる」
「気が合うな、俺もお前が嫌いだ。この左腕の封印を解けば瞬く間に殺害している」
そう言って、左腕に巻いた包帯を見せた。
「この包帯を外させるなよ、死にたくなければな」
「なに、それ?」
そんな雪哉の台詞に虹子は少なくとも警戒していた。能力は無いようだが、何を仕出かすかわからない言動に虹子はナイフを構え、殺意に満ちた眼差しを向ける。
「全てを制止させる、腕だ」
「お前の命を停止させてやりたい」
「そうか、だけど残念だったな。お前も、俺も」
「何を言って――」
遠くから聞こえる警報音。赤く灯された光が少しずつ大きくなってくる。その光を見て、虹子はこれまでにない酷く歪んだ表情になった。憤怒に塗れ、少女とは思えないおぞましい貌をしている。
それでもその音と光は次第に大きさを増す。雪哉は携帯電話を開いた。
「俺の力を使うまでもない、お前は社会的に抹殺されろ」
雪哉は既にこの場所に到着して、理愛が虹子に襲われていたのを見ていたのだ。そしてすぐにこの国の行政機関に連絡していた。何の準備も無く、無計画のまま突進する気はない。ただ時間を稼いだだけだ。雪哉はそれしかしていない。
「なるほど、ブラフってわけかぁ。やるね……にしても理愛とよく似て冷酷な目をしているね……キミ、こわいこわい」
ナイフを折り畳み、そのまま雪哉に背中を向けた。
「……名前、教えてよ?」
「時任、雪哉だ」
教える必要なんてないのに、雪哉は名前を教えた。妹を襲った敵に名を明かすのはどうかと思うが、それでももう虹子の人生はお終いだ。
「お前は?」
「月下虹子、じゃあねユキヤくん」
そのまま虹子は蜘蛛を散らすように逃亡した。追いかける気はなかった。凶器を所持している危険者を追跡したところで何も得られない。それにもう顔は見たし、そもそも同じ学校の制服を来ている人間なのだ。どこへ逃げても無駄だ。そんなことよりも、だ。
「理愛、帰るぞ」
上着を脱ぎ、それを理愛にかけてやった。服を破られて、下着が見えている。さすがの兄でも目のやり場に困る。そんな理愛は雪哉のブレザーを着込み、下を見たまま動かなかった。
「なんで、ここに……」
「俺は、理愛をいつも見てる」
「変態です、兄さん」
「常態だが」
「……………………死ね」
か細い声でそう言った。雪哉の耳には届かなかった。それにしても運がよかった。雪哉はこうなるとわかっていてこの場所に到着できたわけではなかった。これを理愛に伝えるかどうか迷ったが、やはりここは言わないでおくことにした。
雪哉は、ストーキングしていたのだ。
誰よりも早く校門へ行き、理愛を待ち、正反対へ進む背中を見つけ、それを追いかけ、虹子と一緒に歩く姿も見て、いきなり走り出したのを確認したら、続いて走行。そしてここに辿り着いた。
「わたし、兄さんから逃げてました」
「そうだろうな」
「わたし、種晶が見つかったって言われて、なんだか変わっちゃった気がして、それが怖くて」
「そうだろうな」
「でも、そんなことなかった、兄さんは助けに来てくれた」
そして理愛は手を取った。小さな手は震えたまま、冷たくなったその手が雪哉の包帯で巻かれた左手に添えられる。だから雪哉はその手を掴む。
「逃げるな、とは言わない。でも、逃げたくても、俺からは逃げるな」
自分を信用してくれなかったことは辛かった。理愛を見る目が変わるなんてことありえないのに。ありえないことが、ありえない。誰かの言葉、それだけは当てはまらない。それが雪哉の信念だ。
「でも、だって、もし、もし、もしも、わたし、おかしな力が、あったら、兄さんが、にい、さんがぁ……」
またそうやって泣きそうな顔をする。見たくない顔をする。だから雪哉は、
「阿呆」
理愛を叱咤する。理愛はそんな顔をして悲しそうな顔をする。でも、そんな顔を見て雪哉は首を横に振った。
「兄妹、だろうが」
卑怯な手を使ったものの、ともかくそれ以外の言葉を用いることはなかった。それ以上の言葉なんて雪哉には必要なかった。そしてたったそれだけで、理愛には伝わる。闇夜を伝う星空が駆け抜けた。そんな夜空の下で雪哉の顔を凝視して、理愛は涙を浮かべたまま、笑顔を見せる。
「はい」
だから、今はそれだけでいい。
常識からどれだけ離れても、問題ない。
そんなもので、切り離されては困る。家族だから。
頭と目に銀の光沢を放つ少女。雪哉の妹。たった一人だけの家族。だから、理愛を守るのは雪哉だけだ。こうして、雪哉は一層理愛を守護すると誓うこととなった。何があっても、何をしてでも守り通すということを。
だからいつだって銀の少女を救うのは、いつも、一人だ――