3-11 crystal encounter
3-11 crystal encounter
授業が終了したのと同時に、藍園逢離の携帯電話が震え出した。すぐに逢離は携帯電話を取り出し、ディスプレイを確認するがそこでピタリと指が止まった。
藍園逢離は困惑していた。何せ電話の相手は時任理愛ではなく、その兄の時任雪哉だったのだから。逢離自身は彼に電話番号を教えるつもりはなかった。だが理愛が教えてもいいかと聞かれれば断ることなど出来るはずもなく。
仕方なく逢離は了承したわけなのだが、まさかこうして本人から掛かってくるとなると構えてしまうわけで。
きっとこのディスプレイに表示された名前が理愛ならば躊躇い無く受話器のボタンをプッシュ出来る。しかし兄となればそうはいかない。逢離は息を吸い、呼吸を整え、何故か覚悟して、そうやって気持ちを整理して、時間をかけて、やっとこさボタンに指が掛かるのだ。
『藍園逢離だな』
「そ、そうっすけど……」
相変わらず雪哉の声は高圧的で、無意識の内に逢離の身体は硬直してしまう。別に気にする必要も無いのに、話をしている相手は理愛の兄だ。確かに逢離は「男性」が苦手だ。だが理愛の兄という位置付けのお陰か逢離は雪哉ならばなんとか会話を成立させることが出来る。
『理愛を頼む』
「……へっ?」
いきなりそんなことを頼まれても困る。逢離からしてみればそんなことを言われる前から理愛と一緒にいることを望んでいる。返答に困った逢離はつい言葉が詰まってしまう。
『俺が理愛の手元から離れる間はお前しか信頼する人間がいないのでな』
「そ、それってぇ――」
逢離は気の抜けた声で返事をした。だが雪哉はそれ以上何も言ってはくれなかった。だから逢離は携帯電話を握り締める手が強くなる。
「あ、あたしのことを信頼してくれているんっすか?」
『理愛の認めた相手を俺が認めなくてどうする……まぁ、何かあった時はお前に任せる』
雪哉は逢離の持つ種晶の能力を知っている。逢離はつい最近、無能力者だったが漫画みたく覚醒して勝手に有能力者になっていた。藍園逢離には能力が有る。それは己を刃に変える力だ。謂わば彼女自身が刀のようなモノだ。しかしそれだけしか雪哉は知らない。だが、そんな力があるから雪哉は逢離を信頼しているわけでもない。ただ、理愛が選んだ人間だから、それだけでしかない。だが逢離は雪哉の心を汲んでいるかどうかは怪しいモノである。それでもその言葉は逢離の心を響かせるには十分過ぎた。
「ふ、不肖、藍園逢離! 時任理愛を命懸けで守ることを誓うのでありますっ!」
『わけわからんことを言うな、切るぞ』
決意を高らかに叫んだだけだというのに、雪哉は呆れたようにそのまま電話を切ってしまった。しかしこの会話からして、どうやら雪哉は理愛と一緒に帰らないということはわかる。
ただ、ここ最近は理愛と雪哉というより理愛と逢離が一緒に帰ることの方が多い。わざわざ雪哉が電話を掛けてくるという意図がつかめない。しかし、逢離は雪哉に言いたいことがあった。そんなことを言われなくても、理愛は守るし、渡さない。喩え彼が理愛の兄だとしても、それだけは譲れない。それが叶わないとわかっていても。
「何を、惚けているんですか?」
「へ?」
振り返るとそこには理愛がいた。先程まで一緒に屋上に続く階段の下で一緒にいたのだが雪哉の乱入により、離れ離れになっていた。とはいうものの、これは逢離がしたことだ。雪哉の調子が悪そうに思えたし、理愛は理愛で何か言いたげだった。だから逢離は一歩退いたのだ。
「理愛ぁー遅かったね。もういいの?」
「ええ、愚兄との話し合いは終わりました。」
「愚兄って……理愛は容赦ないね」
理愛はいつだってこんな感じだ。冷たい言葉を平気で呟く。刃物を持たせれば平常なまま人を傷付けることだって出来そうなぐらい、恐怖が風を切って歩いているようなものだ。だから誰もが彼女には近付かない。銀の髪と瞳はこの世界の常識を歪めている。だから誰もが彼女を恐れている。
だけど逢離は違う。逢離は全てが真逆だった。可愛いと思った。綺麗だと思った。可憐だと思った。何もかもが他とは違う――その容姿に畏敬すら覚えた。
そう、「自分」とは明らかに違う、気高く美しいその姿には決してなれない。だから近くにいたくなった。こんなにも美しい者が、この腐った世界にはまだ存在していたということに感動すら覚えている。
「どうしたの逢離、ボーっとして……大丈夫?」
どうやら逢離は理愛を間の抜けた表情のまま凝視していたようだ。
「しかもなんか頬が赤いのだけれど……風邪?」
そういってぴたりと理愛の小さな手が逢離の額に触れる。冷たくて気持ちがいい。しかし本当に氷のように冷たい手。人としての温もりは感じられない。それは理愛が人ではないから? 関係無い。逢離にとっては何も関係の無い話だった。
「ねぇ、逢離……貴女、本当に大丈夫? わたしが触れてから余計に熱が出ているような気がするのだけど?」
「そ、そうかな? うーん……」
さっきまで平温だったはずだ。倦怠感も間接や喉の痛みも無い。風邪でもない。別に活動する上で何ら問題はない。至って正常だ。それなのに頬は紅潮し、体温はますます上がっていくのはわかる。
「きっと理愛の手が冷たくて気持ちがいいからだよ、うん」
そう言うと逢離の額に手をかざしていた理愛の瞳が見開いていた。恐ろしい形相のまま逢離を刺殺するような視線をぶつけてくる。さっきまで上がっていたはずの体温がとてつもない速度で低下した。
「ごめんなさい」
「死ね」
「ごめんなさいです」
「お願い逢離……わたしはくだらない理由で貴女を殺したくないわ」
「ごめんなさいでした」
逢離は何度も謝罪した。どうしても理愛に対して何かしたくなってしまう逢離がいる。自分より遥かに小さな身体。男性の平均身長より背の高い逢離からすれば理愛の矮躯には惹かれるものがある。
後ろからギュっと抱きついたことがある。とても柔らかく、羽根のように軽く、まるで天使を抱擁したようだ。だがその天使はすぐに悪魔へと変貌し、逢離はその後に待ち受ける地獄を見ることとなった。それ以来、理愛に了承を得なければ出来ないようになってしまった。逢離からすればとても残念なことなのだが、理愛からすればいい迷惑だ。いきなり後ろから覆い被さって抱きかかえられれば怒りもするだろう。
理愛を愛でて止まない逢離。その異常性には誰もが触れられぬのだろう。そして理愛にとっても逢離には驚かされている。理愛がヒトとしての記憶の中では逢離と関わったことなど皆無であり、この場所で生まれて初めての邂逅だった。何かを求めているのなら、何かを欲しているのなら、きっと理愛は逢離には与えることが出来ない。しかし逢離は何も要らない。理愛に対しての要求はたった一つ。「友情」だった。
これは未だに理愛が理解できぬ謎だろう。どうして逢離は理愛を選んだ。理愛はわからぬまま逢離を選んだ。
互いに選んだ。そして今に至る。そのまま進んでいる。しかし答えは要らない。理愛は答えを知ろうとは思わない。
「ねぇ、逢離……」
「な、なんですか?」
「敬語はいい……あと顔も上げていいから」
「ハッ!」
「その変な敬礼もやめて……次したら死なすから……」
「……………………はい」
これ以上ふざけてしまえばきっと逢離は理愛に断罪されることだろう。逢離は大人しくなり、そのまま理愛が口を開くまでは静かにするのだった。
「逢離……今日、空いてますか?」
「……え? あ、空いてますけど」
「だからなんで敬語……まぁ、いいです……その、「これ」のお礼、まだしていなかったでしょう? その、わたしからも、何か、えーっと、そのね、そのぉ……」
段々と理愛の声が小さくなっていく。そして理愛は言葉を紡ぐことを躊躇っていた。理愛の言う「これ」とは逢離が理愛へ「友達」の証として贈った四葉の髪飾りだった。理愛は逢離からそれを受け取って以来、常にそれを付けている。だが理愛としては貰ったからには返さなければいけないという想いがあった。
だが渋っている理由としては、ただ単純に理愛が逢離を誘うのはいいが何と言えばいいのかわからないからである。ただ一緒に買い物に付き合えと言えばいいだけなのに、それが言えない。それはきっと理愛が誰かを誘うということをしたことがないから。
だから、
「ニヤニヤ」
そんな理愛が可愛すぎて逢離はにやけてしまったのだ。
「な、何がおかしいのっ? あ、逢離の顔の方がよっぽどおかしいですよ……」
しかし、理愛は自分の不甲斐無さをそんな言葉で誤魔化した。
「ひ、酷い! それはいくらなんでも酷すぎるんじゃないかなぁ!」
「あ……そ、そうですね、ご、ごめんなさい……」
逢離が冗談交じりで怒ってみると、珍しく理愛が謝ったのだ。これにはさすがの逢離も驚きを隠せない。別に本気で怒ったわけじゃないのに、そんな泣きそうな顔になられてはどうしていいのか迷ってしまう。
「逢離……」
「冗談だってば……そんな顔しないでよ、あたしが悪者みたいじゃんか……」
そのまま逢離も謝って、二人して何も言わなくなった。
そして、最後の授業のチャイムが鳴った。
残念ながらいつも理愛と一緒の逢離ではあるが、授業だけは席順のせいで理愛と逢離との距離が大きく離れている。理愛が窓際、逢離は廊下側に座っている。唯一、運が良かったのは横の列は一緒だったということだ。横を向けば、理愛の愛らしい表情を盗み見することが出来る。理愛はノートに黒板に書かれてた文字を書き写しては時折、シャープペンシルの頭を唇に当てて何か考えているように見える。それを横目でチラリと逢離が見ているということを理愛自身は気付いていない。
(理愛……あたしに何かプレゼントでも買ってくれる、とか?)
理愛と態度や口調からして大体は読めるが、それでも本当にそうなのかどうか証明できるものは何もない。だからこの授業が終わるまでジっと堪えることしかできない。理愛の髪に飾られた四葉のクローバー。ただ逢離は理愛に友達としての証を形として渡しただけだ。それ以上のモノは求めていない。ただ受け取ってくれるだけでよかった。そしてそんな証を理愛はを身に付けてくれている。
(ホント、いい子だよねぇ……なんでみんなわかんないかなぁ……)
入学して三ヶ月目に突入したが、未だに理愛に近付こうとする者はいない。理愛を独占しているという優越感には浸れるが、それでも理愛に干渉しないクラスメイトの動向は気に入らない。別に理愛も何かされているわけでもなさそうなので逢離としては安心しているが、このまま何も変わることなく卒業というのもまたそれはそれで悲しいじゃないか。逢離はどうにかして理愛の存在を周囲に認めさせてやりたいと思っていた。
しかし理愛がそれを強く望んでいない限りは逢離の勝手な価値観を押し付けるわけにもいかず、ただただ動けずにいた。理愛の過去は言葉で聞いても、理愛の心情まではさすがの逢離でも理解することは不可能だろう。
(ゆっくりで、いいよね。理愛も……あたしも……)
今はこのままでいい。これ以上を求めてはいけない。だから、だから、逢離は理愛に何も言わない。自分自身のことも、それ以上は知らないままでいい。今、理愛が知る藍園逢離だけでいい。そのままでいい。
「藍園」
「はいっ?」
「さっきからずっと外ばかり見て何をしてるか。真面目に授業を受けてもらわないと困るんだけどな」
ずっと理愛を見つめていたせいで、黒板にも教師も視界から完全に外れていた。理愛と目が合う。理愛は顔を真っ赤にしてぷいっと黒板の方を向いた。
とにかく授業中に余所見はいけない。明らかな逢離の過失である。逢離は教師に頭を下げ、ノートと教科書を取り出す。理愛が視界から消えてしまう。ふと、理愛の何か言いたげなあの表情を思い出す。その度に顔がニヤけてしまう。いけないと、顔を左右に振り、授業に耳を傾けるのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「まったく、どうしてわたしをジっと見てるんですか!」
放課後、学校から出て開口一番に理愛に叱られる逢離。
「なんで理愛はあたしが見てるって、そう言えるの?」
珍しく逢離は反撃してみた。
すると理愛はすぐに言葉を返すことなく、少し考えてから口を開いた。
「あ、逢離はいつでもそうでしょう……わたしにちょっかい出すし、わたしにいろいろしてくるじゃないですか……だから、逢離と目が合ったとき、ずっとわたしを見てるんだって……でも、そうですね、わたしの勘違いですね。わたしの自意識過剰ですね。わたしの自惚れが引き起こした誤解ですね……すみませんもう言いませんごめんなさい」
やけに早口だった割に、徐々に理愛の声はか細いものへと変わっていく。やがて理愛は下を向いて、歩くのを止めた。
「理愛、どうしたの? 今日の理愛は何か変だよ?」
なんというか情緒不安定な気もする。いきなり声を荒げたと思えば、いきなり暗い表情で、まるで母親に叱られて今にも泣きそうな子供のよう。だから、本当はそんな顔を見せられれば強く抱き締めたくもなるのだが今だけはそれが出来なかった。
「え、ええ……わたしなんだか変なんですよね、逢離がわたしのこと嫌な女だって思われたらって思っちゃうと、死にたくなるんですよね」
「いや、それはないよ。あたしが理愛にそんな感情抱くはずないし。そう思われる方があたしは辛いな。きっと死んじゃう」
それだけははっきりと言える。
「最近はちゃんと寝れてる?」
「え、ええ……ここ最近は昼休みに屋上で逢離の膝枕のお陰もあってかよく眠れていますよ」
そのせいで昼の授業をサボってしまったわけだが。
だが逢離もそれは知っている。ここのところ理愛は昼休み中は逢離の膝を借りて仮眠をするのだが、寝息を立てるほどに熟睡していた。どうにも夜になるとしっかり眠れないままのようだ。
「夜になると決まって現れるんですけどね」
「えーっと、夢ストーカーさんだっけ?」
「なんですかそのおもしろワード……わたしの夢の中にそんな愉快なヒト出て来ませんよ」
逢離の声に理愛はクスクスと笑う。そして逢離は再度認識する。その顔が一番いいと、さっきまでの暗いものは必要ない。ただ悪夢に魘されている件に関しては逢離に出来ることが何もないので悔しいわけだが。
「まぁ、ちょっとでも理愛の不眠を解消してあげれば幸いだよ。さて、このまま帰る? どこか寄る?」
逢離の問い掛けに理愛の両肩がビクリと震えた。
だが、すーはーっと深呼吸をしては逢離の裾をギュっと握り、コクリと頷き、
「あ、あのですね逢離……わたし、逢離にお返しがしたいのだけれど、いい、ですか?」
「あたしに? 別にいいのに」
「いえ、髪飾りのこともですが……いろいろとお世話になっていますし、お願いです。わたし、逢離に何か返さないと、その、死ぬと思います」
「じゃあどこへ行くかは理愛に任せるよ。死なれたら大変だよ、あたしも死んじゃうって。とにかくあたしにお礼をしてくれるだけで理愛が助かるなら、是非とも受け取らなくちゃね」
いつもならここで逢離はふざけて理愛を茶化すのだろうが、そんな無粋な真似が出来るはずがなかった。理愛は誰かに何かをするということを今まで雪哉以外にしたことがなかった。きっと第三者からしてみれば失笑するのかもしれないが、理愛は友達を喜ばせる方法がわからなかったのだ。だから逢離に何かしてあげたくても、路頭に迷ったように逢離に何の言葉を掛ければいいのかわからなくなってしまった。
理愛は雪哉を見て、更に逢離を大事にしようと思ったのだ。
屋上に突然現れ、この世が終わったように絶望するあの顔、久々に見た。それは消失だ。理愛も薄々は気付いている。何かあったと。寧ろここ最近の雪哉の調子はとても悪いことはわかっていた。しかしそれを雪哉は隠しているから、あえて気付かない振りをしていただけに過ぎない。
そして、雪哉の口から出たのは夜那城切刃という「友人」の名だった。彼がきっと関係しているのだろう。それはわかる。けれど雪哉が理愛以外の人間で大きく悩んでいるという姿があまりにも驚愕だったのだ。
そんなにも「友達」という存在は大きいものなのか。しかし理愛もそれを手に入れてしまった。だから、自分も雪哉のように誰かの為に悩めるニンゲンになれるのか、未知の領域を前に理愛は臆してしまった。そして、気が付けば唐突に理愛は逢離にお礼がしたいなどと、そんな想いが芽生えていたのだ。
まずは形から。それは逢離の言葉だった。しかしその形は逢離が象ったものだ。それを理愛は受け取っただけに過ぎない。ならば返さなければならない。「友達」という象徴を理愛も創造らなければいけない。だから、理愛は逢離に提案したのだった――
「それで、どこへ行くの?」
逢離はニコリと笑みを浮かべ、理愛の手を握った。その手は理愛より大きく、理愛の小さな手はすっぽりと包まれてしまう。
「あ、そ、その……わたし、本当に無知で、その、逢離って何か好きなものはあります?」
友達ならば、好きなものの一つや二つ知らないでどうするか。
しかし、理愛はそれすらも知らなかった。そんな理愛の質問に逢離は人差し指を口元に当てて考え込む。
「理愛があたしに何かをくれるなら、あたしはそれがきっと好き」
「無茶苦茶な……」
確かに理愛は逢離に何かお礼をしたいわけだが、逢離は何でもいいという。これは難しい。選択肢が多すぎればそれだけ迷いが生じる。理愛は考察する。それでも答えは出ない。時間はまだある。理愛は覚悟を決め、あの場所へと向かった。
到着した場所はショッピングモールだった。
先日、雪哉と一緒に行ったのだがまさかまた来ることになるとはと理愛は肩を落として顔を手で隠した。入店して数十秒で迷子になってしまった過去のことは逢離には教えていない。そんなこと言えるわけもないが。
逢離はというと「ほー」とか「へー」とか興味津々なままにあっちこっちを見渡してはどこか楽しそうだった。
「あたしまだここ来たことなかったんだよねー」
そもそもこの建物はまだ出来て数週間ほどしか経っていない。やはり夕方になっても人だかりで賑わっていた。この雰囲気は理愛からすれば吐気を覚えるほど不快なものなのだが、逢離の為だと理愛は我慢する。しかし、大きく広すぎるこの場所で理愛は自分が望むモノを見つけることが出来るかどうか不安になった。
「ねぇ、ねぇ、理愛ぁ、こんな大きなお店あたし来たの初めてだよ!」
「そ、そうですか、でもそんなはしゃがなくても……」
「だって、理愛が行こうって誘ってくれたんだよ? 理愛のお誘い、これってデートかなにかかな?」
「ばっ! バカなこと言ってないで――……」
「とりあえず適当に見て周ろうよ」
理愛の苦悩を放置して、逢離は理愛の手を引っ張った。主導権はいつも逢離にあった。そして、その手を強く握りしめているだけで、離れることはきっと無い。人ごみを潜り抜けて、先へ先へと進んで行く。気が付けば理愛は逢離に導かれるように歩いていた。
誰の視界も気にすることなく、ただ逢離と一緒に過ごす時間は楽しかった。そう、楽しかったのだ。これまで誰も信用出来ず、信頼することを止めていた理愛が、雪哉以外の存在とこうして笑って何かをするなんてことは、絶対に有り得ないと、そう思っていたから。
二人して手を握って、他愛の無い話をして、馬鹿みたく笑って、そんな日常を過ごせるだけでいい。理愛はそれ以上を求めていない。本当に欲しかったものは、きっとそんな些細なもの。
「理愛、楽しそう」
「逢離こそ」
気が付けば理愛は逢離に渡すプレゼントを買う為に来たはずだったのに、目的は変わっていた。でも、それでいいのだ。何も難しく考える必要はない。何か形で残さなければ、友情が成立しないというのならば、それはもう、違うモノだ。だからそんなものはいらない。理愛はそれに気付くことが出来ないでいた。そう、つい先程までは。
「理愛、あたしはね……こうして一緒にいるだけで楽しいんだ。だから一緒にいてくれるだけで、それで十分」
「逢離、わたしもね……こうやって一緒にいるだけで楽しいって気持ちになれることが嬉しいの。だから、わたしもそれ以上は要らない」
何も要らない。友達が欲しかった。理愛の願いは叶ってしまっている。だから叶った願い以上に何かを望むのは、それはきっと罰当たりな気がして。逢離もそれ以上を求めていないのなら、理愛は逢離に何かを与える必要はない。だから、これでいい。これで終わり。こうして共生できるだけで事足りた。怖いものなんて、もう何もない。
「ちょっと疲れました……」
しかし流石に歩き回っていたせいか疲れが溜まった。理愛も仮初めではあるがヒトの形をしている。花晶としての力を発動しない限りは子供と何ら変わりはない。しかし、何か気持ちが悪い。胸の奥がモヤモヤする。それどころか吐気もする。そして、視界が霞んだ。目の中で霧が立ち込めたように、真っ白に染まっている。
「だ、大丈夫、理愛? さすがに歩きすぎたかな……?」
足元がおぼつかない様子を見た逢離はすかさず理愛の手を取った。バランスを崩しそうになった理愛だったが逢離の差し出してくれた手のお陰で倒れずにすんだ。
「ごめんなさい……その、ちょっと、顔を洗いに行って、いいですか?」
酷く眠い。このままだと本当にこんな人気の多い場所で眠ってしまいそうだった。冷たい水で顔でも洗えばと――理愛は手洗い場に行くことにした。
「一緒に行こう、あたしもついて行くよ」
「いえ、でも、わたしは――」
「いいからいいから、よいしょっと」
そのまま逢離は理愛を背中に抱えるようにして走り出す。あれだけ動き回ったのに、逢離の状態は正常なままだった。疲れを知らないその身体は理愛の矮躯を受け止めるには十分過ぎる。駆け出しながら逢離は微笑む。
「理愛ってホント軽いよね。小さくて可愛くてホント、最高だわ」
「し、死ね……変なこと言わないで……」
理愛は顔を赤くして、そのまま逢離の背中に顔を埋めた。そして逢離は何も言わず走り続ける。大きな背中だった。理愛の身体を受け止めるには丁度いい広さ。心地よい。あれだけ騒がしかった音が小さくなった。今はこうして、理愛は瞳を閉じる。トクンと、逢離の心臓の音が聞こえた気がした。その音にただ耳を澄ませて、澄ませて――
「理愛、理愛ー。りーあー? あ、あれ? 理愛ぁー?」
手洗い場に到着はしたもののどれだけ逢離が理愛の名前を呼んでも、理愛が返事をしてくれることはなかった。ふと振り向くと、理愛は両目を閉じて寝息を立てていた。
「や、やば……なにこの可愛い生き物……やばいって……これは、ちょっと、どうしよう。どうしてくれやがりましょう……」
自分の背中によもやこんな愛らしい小動物を背負っているということに逢離は感動を覚えつつ、正直に言えばこの可愛いく寝息を立てて眠る理愛の表情を真正面から見つめていたいわけなのだが、こんなにも気持ちよさそうに眠られてしまうとそんな野暮なことは出来ない。
「まぁ、このままでいっか……」
理愛の体温を感じたまま、逢離は広場の真ん中まで歩いていた。しかし、このままずっと背負ったままというのもさすがの逢離もどうすればいいのか困ってしまうわけで。とりあえずベンチまで進んで、理愛をそこに下ろした。夕暮れ時だが、人だかりは減っているような気がした。これほど大きな施設ならば、人ごみが明らかに減るほど人がいなくなるとは思えないのだが、それでもベンチが空いていたことに安堵した逢離はそんなこと気になるはずもなく。理愛をそこに座らせて、逢離も一緒になって座った。
「起きないねー」
理愛は一向に起きる気配がない。別に構わない。起きるまでこうして一緒にいようと思う。
「嫌な感じ……」
理愛が寝ていてよかった。逢離の今の顔はとてもじゃないが見せられない。目を細め、辺りを見渡す。広場の中心を廻るように歩いていたはずの人たちが少しずつ、また少しずつ広場から消えていく。まるで規則的に順番に退場していく人々の群れ。それをただ横目で追う逢離。
「……気持ち悪っ」
まるで出て行く全員が逢離を陥れているようにさえ見える。しかし人々は逢離に目もくれず、ただこの場所から消えて行くだけだ。逢離がどれだけ冷めた目でそれを見ても、逢離の冷たい視線に気付くことはない。
そしていつの間にか理愛と逢離だけがこの広場で置き去りにされた。誰もここにはいない。二人しかしない。しかしそんな二人だけしかいない広場で、
「――歌?」
そう、歌だ。歌が、聴こえた。言語化出来ないこの世の言葉以外の何か。そんな聞いたことの無い言葉で紡がれた祝詞が広場を木霊する。
「なに、この歌……気味が悪い……」
その歌に対しての逢離の評価は最悪だった。
カセットテープから流れるように、最低の音質で流される不気味な歌。悪魔の囁きのように、心を不安定にされてしまう。
「心外じゃな……私の歌を愚弄するつもりかえ?」
不協和音の中から聞こえたのは歌ではなく、声だった。
そして声のする方へ視線を向けた先に――
「久しぶりじゃな、藍園逢離」
赤い着物。赤い瞳。赤い少女。
それは夜那城切歌の姿だった。
「裏切った割にはやけに堂々じゃの、お前さんは――」
逢離はそのまま切歌を見ようとはぜず、ただジッと床を眺めていた。