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それが全能結晶の無能力者  作者: 詠見 きらい
episode-1. -Four Leaf Clover-
36/82

2-15 ツルギ

2-15 ツルギ


『どうして、逢離……』

 動けなくなる雪哉と同じくして、雪哉に付加接続(エンチャント)している理愛もまた動けなかった。雪哉と一心同体となっている理愛もまた今の雪哉のように無力だった。蟲の闇に喰われ、縛られ、動けない。

 だが声を出すことは出来る。そしてその声は雪哉以外にも伝えることが出来る。そもそも雪哉の後ろから寄り添うようにしているその姿は第三者も視認することが出来る。だから、逢離もまた理愛の姿を見ることが出来る。

「理愛、本当に人間じゃななかったんだね。びっくり。でもそれだけだよ。あたしの想いは変わらない。だから、来ちゃった」

『なんで、これは、これだけは逢離は関係ないのに、こんなとこに来ちゃいけないのに……』

 逢離は首を横に振り、理愛の言葉を遮った。

「友達だもん、見ないフリなんて……出来ないもんね」

 背筋を伸ばし、胸を張り、異形を前にしても逢離は目を背けなかった。

 動けない雪哉を放置して、蜜世は逢離を見る。「毒虫達の坩堝(パンディモ・ニアス)」は雪哉の動きを封じている為、蜜世は無防備だったが手に持つ鎌は十分に人の命を奪うことが出来る。

「キミは時任妹さんのクラスメイトの藍園逢離さんじゃないですか。どうしてここに?」

「と、友達を助けに来ただけ……」

「キミが? どうやって? 確か種晶は持ってるみたいだけど能力は手に入れてない無能力者だったような気がしますけど」

「それが無けりゃ友達を助けに来ちゃいけないなんて誰が決めたの?」

 逢離もまた一切の能力を持たない、無能力者だった。種晶を持っているようだがその能力は解放されぬままだった。そんな少女が身を呈し、理愛(ともだち)を助けようとしている。愚行と呼ばれる行為。何の能力を持たぬ者が、能力を持つ者を前に出来ることは皆無と言っていいだろう。だが雪哉はそんな逢離の行為に敬意を称していた。雪哉もまた逢離と同じだったのだから。

「じゃあどうします?」

 蜜世は呆れたように冷めた視線で逢離を見つめる。力の差は歴然。一振りで終わる対峙。逢離は震えていた。しかし逃げようとはしなかった。

「なんです、それ?」

 逢離は走り、動けなくなる雪哉の前に立つ。手を大きく広げ、雪哉を隠す。理愛よりずっと大きな身体。揺れるポニーテール、そして意を決した表情。

「藍園逢離……お前の理愛を想う気持ちは素晴らしい。だがやめろ、嬉しかった。その気持ちだけは嘘じゃない、だから逃げろ。お前は十分やった」

「それでお兄さん死んだら、どうするんですか」

「俺は死なないし、理愛は守るさ」

 口から出任せもいいところだ。完全に封殺されたこの身体。指先一本すら動かすことすら出来ない。どうしようもないこの状況を打破することは出来なかった。それでも逢離に嘘を吐く。このままでは、逢離が殺される。

「どきなさいな、藍園さん。ワタシ、関係の無い人殺しなんてしたくないです。黙ってくれれば、大人しくしてくれれば、別に危害とか加えませんから。まぁ、脅迫ですかね。邪魔するならその逆になってしまいますけれども」

 蜜世は笑ってはいるものの、その心の中は氷塊の如く冷たくおぞましい。あの鎌が今すぐにでも振り下ろされそうだった。

「どいてください、これが最後の通告ですよ」

「ど、どかない! あたしの友達にヒドイことしないで!」

「そうですね、ワタシ酷い事していますね」

 蜜世は鎌を下ろした。

「でも、藍園さん。知らないんですか? その子は人間じゃないんですよね。化け物……って言うのかな? 結晶が人の形をして、藍園さんの世界に溶け込んでるんですよ? そんなものと仲良くなりたいんですか? 無理ですよ。なれませんよ」

「なれるなれないは、あたしが決める! アナタなんかにあたしの純粋を否定すんな!」

『……逢離』

 動けないままの雪哉の後ろで、理愛は小さく逢離の名を呼んだ。驚きながら、喜びながら、様々な感情を混ぜながら、理愛は下唇を噛む。動けない。蟲が雪哉の動きを封じている。そしてその結界に閉じ込められたまま何も出来ない理愛は自分を恨んだ。

「そうですか、いいですね友情。惚れ惚れします」

 蜜世は肩で息をした。

「ではその友情をここで終わってもらえます? とりあえず死んでもらいましょうかね」

 蜜世は、笑顔だった。

「え?」

 鎌は下ろされていた。だけど鎌が逢離を切り裂いていた。蜜世は動いていない。動いていたのは背後の黒き影。蟲の群れが巨大な闇黒を作りながら、その闇の塊は再び蟷螂の形となって一本の鎌腕で蜜世の身体を肩口から脇腹に掛けて深々と刃を刻んだのだ。

「ね、これでお終いです。ちょっと脅かす程度でよかったかなと思ったんですが時任くんと殺し合いをしてたせいか加減できませんでしたよ。ごめんなさいね。恨むのなら、人間ではなく結晶などと友情を育もうとした己の行動を恨んでくださいな」

 口では謝っているが、誠意など篭っているわけもなく。そして鮮血を迸らせ、地面を赤で汚していく。逢離は右の肩口から脇腹にかけて袈裟斬りを受け、服は破れ、肉を裂かれ、血を噴き出している。

『……逢離ぃっ!』

 慟哭。

 理愛が雪哉の後ろで大きく声を上げた。夢なら醒めて欲しい。今、目の前で生まれて初めて信じられることが出来た友達が斬殺されたのだから。

 草の上に倒れる逢離の身体。理愛と逢離の目が重なる。嘆く理愛の顔を見る逢離は自分が血を流しているにも関わらず首を横に振って、ニコリと――笑ったのだ。涙を浮かべる理愛を慰めるように、ただ安心させようとした。その行為に意味などないのかもしれない。それでも逢離は微笑む。自分のしたことは間違っていなかったと。確かに愚かなことをしたのかもしれない。勝ち目なんてない。どうにか出来るわけもなく。ただ一方的に蹂躙されるだけだったのかもしれない。それでも、逢離は理愛の前から逃げることが出来なかったから、だからこの結末を逢離は受け入れている。そして、逢離はゆっくりとその瞳を閉じた。

『逢離、逢離、逢離、どうして、どうして、こんな、こんなこと……!』

 何度も逢離の名を呼ぶ理愛を前に雪哉は何も言えなかった。どうして、などと――雪哉には逢離のした行為の意味がはっきりとわかったから。誰かをも守りたい。その人の為ならば、自分がどれだけ矮小で惰弱であっても関係なんてないのだから。気持ちや想いだけでは何も守れないのかもしれない。それでも、「それ」がなければ何も出来やしない。だからこそ逢離のした行為を雪哉は愚行などとは思えなかった。しかし、そんな勇気ある行動を起こした逢離はもう事切れている。容赦無く、情けさえそこには無く、一刃によって逢離の信念は切り払われた。

「ああ、肉塊になっちゃったね。死んだらただの肉だもの、こんなものこのままに出来ないのにね。処理するこっちの身にもなって欲しいものです」

 蜜世は倒れたまま沈黙した逢離の身体を蹴り、顔に手を当てては落胆していた。蜜世にとってどれだけ信念を掲げた逢離であったとしても所詮はただの無能力者。その程度の存在でしかないのだ。何ら関係の無い人間を殺しただけでしかない。

 

 けれども――


「さて、時任くんは要らないわけだから「これ」と同じように肉の塊に加工しようかな」

「理愛は、渡さないと言ってるだろう」

「いいよ渡さなくて。キミを殺して強奪するだけだから」

 ゆっくりと蜜世は鎌を回しながら動けない雪哉にその鎌刃を近づけて来る。どれだけ怒りをその身に宿しても、それが力に変わることは無く、緊縛が解けることはない。

「どれだけ祈っても、叫んでも、死ねば肉の塊になる。喚け、嘆け、絶望しなさい。そして肉塊になって、全部失いなさいな」

 そしてその距離が零になり、蜜世は鎌を闇黒の空に向けて掲げる。蜘蛛の糸に絡まれた蝶のように、獲物を捕え、捕食するかの如く、雪哉は無常にもその刃を受けるしかない。逃げ道なんてない。避けることさえ叶わない。


 だが絶望が墜落するその手前、声が――聞こえた――


『……た』

 小さな声が雪哉の後ろから聞こえた。雪哉はその声を拾うことが出来なかった。だが、もう一度その声がした。

『なんて、言った……貴女は、なんて、今、なんて言った――』

 それは理愛だった。いつもとは明らかに違う声量。怒りに肩を震わす姿が見える。そしてゆっくりと首を上げて、蜜世を睨む。その双眸には計り知れぬ憎悪に満ちていた。しかしそんな憎悪を前にして蜜世は悪びれることも無く、ただ笑って鎌を肩へ。

「肉塊、ですか? そこで倒れているのはもう肉の塊だと、そう言ったのですよ。人は死ねば肉になる、ただそれだけじゃないですか。当たり前のことを言っただけですが?」

 そんなこともわからないのかと蜜世は理愛を見て、馬鹿にしたように鼻で笑っていた。そして鎌の刃を理愛に向ける。

「美しい友情でしたよ。身を呈して守ろうとするその姿。でも、何も出来ない無能力者が調子に乗ってはいけませんでしたね。結局、こうなるのは目に見えていたのですから。だからこうして人から肉になってしまった。それを教えてあげただけです」

 何の能力も無い者は能力を持つ者の前では無力だと、そんなことは誰でも知っている。雪哉も知っていた。だが雪哉はそんな現実を前にしても逃げなかった。だからこそ雪哉もまら憤怒をその心の内に隠していた。蜜世の言葉が雪哉と理愛の怒りを増大させる。

(ゆる)さない……わたしは、貴女を赦せない。わたしの「友達」を奪ったな……奪ったな、奪ったな奪ったな奪ったあぁッァ!』

「どれだけ大声で喚いても、現実は変わりませんよ。だから、受け入れなさい。ここで全てを失うという現実を――」


 だがそこで蜜世は笑うことを止めた、何故ならば――


 ――既に雪哉の腕は「動いて」いたのだから。


 おぞましいことだ。雪哉の身体は闇に喰われていた。しかし雪哉は動いているのだ。鎌を振り下ろせばよかった。さっさと殺してしまえばよかった。蜜世にはそれが出来なかった。未知が蜜世の動きを遅らせた。何故、動ける。何故、立っている。わからない、わからないのだ。雪哉は蟲どもに身体を喰われていた筈だった。しかし今は違う。その蟲らは消失した。蟲は左腕から距離を置いている。左腕を伸ばせば四方へ逃げる。

 雪哉を縛っていた蟲は消え、雪哉の背後には銀の光で溢れていた。

 そして、その後ろにはその銀を煌かせる理愛の姿が見せる。銀の光が天使の翼のように輝かせ、怨嗟の言葉を吐き続ける。そして最後に出た言葉は、


『わたしの大切なモノを、貴女は「肉」と呼んだ。だからわたしは貴女を殺したい。わたしが貴女を「肉」にしてやる』

「ワタシを、キミが? どうやってだい? 動けぬ筈の身体を動かした手品のネタは気になるが、それでもキミはワタシには届かないさ。だから、ワタシをそこに落ちてるモノと一緒にすることなんで出来ないよ」

『一緒、だと?』

 ピクリ、と……理愛の眉が揺れた。

『一緒にするな。屑のような塵と一緒にするな。わたしの「モノ」と一緒にするな。壊れてしまったわたしの「モノ」と、一緒にするな。塵。塵だ。塵なの。塵なんだ。塵なんですよ。そんな塵は、塵芥になってしまえ。そうだ、それが相応しい。だから、わたしは貴女を殺すことで、わたしを保とう――』

 理愛の瞳の光が失われていた。雪哉は自分の背後で感じる畏怖が、自分の妹であるということを忘れてしまいそうだった。けれども、

『兄さん、わたしは赦せそうにない。だから、殺したい……いいですね?』

「逢離は一生懸命だった。よくわかる、あれは「俺」だった。だからこそそんな「(逢離)」を殺したアイツを赦す必要はない。だから殺し返すしかない」

 理愛の言葉に雪哉は一切否定することなく、肯定する。

 命を奪うことが、いけないとわかっていても理屈は所詮理屈だ。大事なモノを壊されたことを理愛は耐えられないから、その想いだけは雪哉も理解できる。そして、逢離の言動もまた雪哉と同じだった。だからこそ逢離が雪哉のように見えて、真っ直ぐ自分の信念を曲げぬその姿勢に、雪哉は感心していたのだ。しかし、それはもう動かない。動かなくなってしまった。

 そして雪哉は思った。理愛はそれを口にした。

『兄さん、敵に終わりを上げましょう』

「ああ、壮絶な終末を」

『そう、凄惨な終焉を』

「敵に、与える」

『敵に、与えます』

「だから、俺は――」

『そして、わたしは――』

「お前を使う」

「わたしを使って」

 雪哉だけでは、理愛だけでは、一人だけでは、どうにもならない。

 だからこそ二人で進む。二人で往く。二人で全てを薙ぎ払い、ただ前へ。前へ。前へ。

 大切なモノが虐げられた。大事なモノが壊れてしまった。

 だからこそ、雪哉は理愛に望む。理愛は雪哉に望む。

 力を、与え、敵を、倒す為に。

 そして、理愛は言葉を紡ぐ。敵を倒す為に、ただ謳う。小さく、けれど強く。その言葉は、武器となる。

禁忌解除システムアップグレード界層昇華(コマンドオーダー)顕現起動(セットアップ)――』

 理愛の胸元から飛び出すは一本の剣。それと同じくして雪哉の左腕がまるで自我を持ったように突然動き出す。まるでその剣から磁力でも放出しているかのように、雪哉の左腕を剣へと引き寄せる。雪哉には何が起こったのかわからなかった。余りにも唐突すぎる出来事を前にただ成すがままにされてしまう。

「――終焉完了(一つになりましょう)

 その言葉を最後に、理愛は消えた。声も、存在も。

 そこにあるのは長い、長い銀の剣。

 そしてその刃は雪哉の腕に。

 けれど肝心の理愛がいない、そこに理愛がいない。溶けて消えて無くなった。そしてその残滓が剣に吸い込まれる。この剣が、理愛ならば――この理愛(ツルギ)で、屠るだけなのだ。

「あれは、なんだ? なんだ、あれは? 界層を一段階上げた、だと?」

 そんな異景を前に、蜜世は目を見開き、驚き、一歩退く。無意識の内に、雪哉が掴むその銀剣に畏怖を抱いた。溶けた銀が一本の剣と成し、その剣は長く、雪哉の背丈の倍はあるであろう巨大。そんな巨剣の刃先が蜜世に向けられる。剣としてのその意味はたった一つしかない。だからこそ蜜世は身を強張るのだ。そして一歩退いたとて、雪哉が一歩踏めばその距離は変わらない。変わるはずがない。変わるのはただその距離が縮んでいくということだけ。

 完全に緊縛した筈の蟲の網を掻い潜り、そして今は未知を両手に佇む雪哉。蜜世は即座に「毒虫達の坩堝(パンディモ・ニアス)」を盾として自分の前に立たせる。

「憤怒は解放した。終わりだ、海浪蜜世」

「ワタシが? 何をしたか知らないけれども、勝ち誇るのはやめてくれませんか?」

「誇ってなどいない、もう勝っている」


 振り上げられる。


 蜜世が笑う。大きく、絶叫するかの如く、笑声を上げる。

「無駄、無駄、無駄ぁ! 知っているでしょう? この蟲の壁を越えられるモノですか! 超えられるわけがぁ――」

「俺はそんな陳家より、ずっと強固な壁を知っている」

 ふと、雪哉はあの少女の顔を思い浮かべてしまう。あの敵であった虹色の瞳の少女を。自分自身が倒し、そして消した、あの少女を。

 触れれば壊れるあの壁と比べれば、こんな蟲で固めただけの薄壁。こんな薄壁一枚破れぬようでは、一体どうやって全てを守るというのだ。


 振り下ろされる。


 蜜世の目の前で形成された黒き闇壁(けっかい)

 雪哉の目の前で振り下ろされた銀の心剣(つるぎ)


 何も、起こらない。

 一切の技術もそこにはなく、ただ素直なまま、愚直なままに、剣を上から下へと下ろしただけに過ぎない。そして、蜜世を守った蟲の壁は何ら変わらない。

 蜜世は笑った。蜜世は安堵した。あれだけ派手な演出を施しておきながら、振り下ろしただけの剣。内心驚いていた。何が起きるのかわからぬという未知が、不安を生んでいたのも確かだった。

 しかしどうだろう、その巨大な銀の塊は何一つ発動することなく終わったのだ。

 銀が、終わる。

 硝子を叩き落したように、ただ粉々に砕け散っていく。

 雪哉の腕から滑り落ちる剣は、銀色の粒子となって消えていく。一振りするだけで使い物にならぬ剣など、そんなガラクタに恐怖を抱いてしまった自分が愚かしいと蜜世は憤慨していた。

「切り札は、役に立たなかったようね」

 蜜世の言葉に雪哉は返さない。

 雪哉は蜜世に背を向けたまま動かない。そんな雪哉を見て蜜世は口元を歪め、

「咀嚼されなさいな、畏怖も悔恨も丸呑みにしてあげる」

 しかしそんな蜜世の言葉に、今度は雪哉が口元を歪めるのだった。

 剣を失い、信じていた力は意味を成さず、成す術も無い。それなのに余裕染みたその表情に蜜世は苛立ちを覚えた。

「もうすぐ死ぬのにどうして笑っていられる?」

「死なないからな……そして……」

 雪哉が振り向く。そしてその腕には理愛がいた。

 一糸纏わぬ理愛が姿を見せる。そんな理愛が雪哉の腕の中で眠っている。

「もう、終わった」

「何を馬鹿なことを……さっさとその花晶を――」

 そこで初めて蜜世は気付いた。

 背後にいた筈の毒虫達の坩堝(パンディモ・ニアス)の様子がおかしかった。真冬の寒空の下で震えるように両肩に手を置いて、身を強張らせる。

 そして、そんな狂気の蟲を操っていた小さな少女の身から赤き奔流が噴き出した。

 毒虫達の坩堝(パンディモ・ニアス)は悲鳴を上げた。

 そして、目や鼻、口や耳といったところから真っ赤な液体を垂れ流し、倒れた。

 「勝っていると、言っただろう?」

 雪哉の言葉は蜜世には届かなかった。蜜世はわからなかった。自分の背後を守るように存在する 毒虫達の坩堝(パンディモ・ニアス)が切り伏せられている。何が起こったのか、どうして自分が追い詰められているのか、何もかもが理解出来ない。

「何を、した……」

「何を? ああ、お前は花晶に頼りすぎた。そしてこの剣のことを知らなかった」

 それは雪哉もだった。

 唐突にその腕に握られた銀の剣。その正体は雪哉さえ知らなかった。しかし雪哉はその剣を握った瞬間に全てを理解した。全てを知らされた。左腕の能力のように、雪哉は理愛に教わる。理愛が雪哉に教える。

 雪哉は理愛によって戦う術を教わるのである。

 そして、その銀の剣は――

「この剣は花晶自体を切断するだけだ。お前の自動防御(オートガード)とやらは芸がなさすぎる。ただ守るだけならば怖くは無い。寧ろ俺はそんな甘い防御よりも遥かにおぞましき「盾」を知っている。知っていると、言っただろう?」

 ふと、雪哉はその言葉を口にした時、初めて「戦闘」したあの日を思い出した。それはとても近くて、まだ新しい記憶な筈なのに、遠く、古い過去のように思えた。たかが数日、日常は反転し、終わりを迎えた。だが、終わるのはそれだけでいい。

 何もかも奪わせるつもりなどない。それは最初の戦いで決意した。だからこそ、この程度の敵で怯むつもりもない。そして、それが例え卑怯な方法であっても、自分自身で手にした力で無くても、全ての方法を用いて守護してみせる。

「それでも、それでも、どうしてワタシの花晶が壊れているっ!」

「この剣で花晶の能力を切断すれば、その時点で本体を壊せるんだよ。簡単だろう? お前の花晶はもう破砕した。もう使えない」

 その銀の剣は一振りというたった一度しか使用できないという。

 その銀の剣は一振りの為だけに人から剣へと形を変えるという。

 その銀の剣は一振りを終えると同時に形を失ってしまうという。

 その銀の剣は一振りの後、こうして人へと戻ってしまうという。

 けれど、その剣で斬られたのならば、終わりである。それはそういう能力(おぞましさ)が込められている。

「一切の能力は無効された。裁かれろ、海浪蜜世……」

 剣は無い。理愛も動けない。雪哉には腕しかない。その一本の腕で、ただ殴ることしか出来ない。だけど、それだけでいい。それだけで全て終わらせられる。

「ワタシが、ワタシが、負ける、わけがぁ!」

「悪役らしい台詞だ、耳が心地良い……だが、お前の行いは心地良くないな、だからこそ――」

 力強い一歩は地に足が沈む程に踏み締められる。強く握り締められる拳は悪を討ち滅ぼす為に――

「――俺のような凡人でさえお前を裁ける」

 雪哉に一撃が蜜世を殴打する。

 結晶の左腕で撃ち抜かれる蜜世。片腕で、けれど渾身。

 理愛を片腕で抱き止めながら。誰にも奪わせない、誰からも守ってみせる。そう、ただそれだけの誓い。そしてその誓いによる一撃。蜜世はそんな人間の一撃の前に撃沈する。雪哉の拳を顔面に受け、吹き飛びそのまま止まることなく転がっていく。そしてやっと大木に背中を強く打ちつけられてようやく止まる。そして意識も同時に止まっていく。これで終わりだ。

「呆気無い……本当にお前は花晶に頼りすぎていたようだな」

 動かなくなる蜜世に雪哉はそう呟いて、背を向ける。


 そしてゆっくりと倒れる逢離の元へ。理愛を木にもたれさせる様に下ろし、上着を掛ける。まだ夏ではない季節にシャツ一枚は少し寒く感じたがそこは我慢した。

 逢離は動かない。もうこれは逢離の形をした肉と代わりは無い。蜜世の言葉のように、これはもう死んで、もう動かないのだ。そうしてしまったのはきっと理愛を守りきれなかった自分の弱さだったのではと、そう思うだけで雪哉もまた悔しさを覚えるのだ。

「……ん? なんだ、これは?」

 そんな後悔を抱く雪哉だったが、逢離の身体を見て違和感を覚えた。

 確かに血に染まっている。血を噴き出して倒れたはずだ。しかし血は止まっている。おかしい。逢離はあの巨大な鉄鎌で切り裂かれたのだ。致命傷であるはずの傷は、どこだ?

 雪哉は眉を顰めた。

 肝心の傷がない。服は破れ、血に染まっているはずなのに、傷跡が無いのである。消えてしまった傷。

「……すまない」

 雪哉はそう一言詫び、逢離の服を上へと脱がせた。赤く染まる柔肌だったが、やはり傷跡はどこにも見えない。

 傷のことは置いておき、雪哉はそっと逢離の胸元に耳を当てた。心臓もしっかり動いている。これは逢離の形をした肉ではない。逢離は生きている。

「どういうことだ?」

 誰かが答えてくれるわけでもないのに雪哉はそんなことを口にしてしまう。何もわからないが、ともかく逢離が生きているという事実が目の前にあるのだから深く考えるのはやめておく。それに雪哉自身も逢離が生きていたことに安堵している。何せ理愛の最初の友達なのだ。失うわけにはいかない。理愛が守りたい者だろう。それならばそれは雪哉も同じなのだから。

「まったく……」

 脅威を振り払い、逢離が生きていることも分かり疲れが一気やって来る。逢離と理愛が二人して眠るその間に座り込む。

 そのままジっと何も考えずにずっと座っていた。二人が目を覚ますまでこのままでもいいと雪哉は思った。そうやって時間が経過する。

 雪哉はふと蜜世と戦っていた場所を見た。蜜世を倒すことはできた。しかし蜜世を倒したところで、きっと終わりではない。別の誰かが理愛を狙って何か手を打って来るのであろう。そして蜜世自体もまた逆襲して来ることもある。それならば殺せばいい。敵は少しでも少ない方がいい。だからこそ今の内に始末しておけばいいのだろう。

 けれどそれは出来ない。どれだけ覚悟しても、命を奪うことが出来ない。躊躇いが殺意を鈍らせるのだ。殺人に対しての覚悟は、未だに出来ていなかった。世界中の全てを敵に回すことには迷いは無い。だからこうして雪哉は理愛を守り切ると決意が出来ている。けれども、まだ「そこまで」しか到達できていないのも確かなのだ。守るのならば戦い続けなければいけない。命のやり取りをしなければいけない。けれど、奪われることを阻止できても奪うことは出来ないのだ。

「とんだ甘ちゃんだな、俺は……」

「そうだ、ね」

 その声に雪哉は顔を見上げる。

 そこには、顔を抑える蜜世の姿があった。

「敵ならば殺さなければいけない、だからこうやってまた危険に晒される」

 蜜世の手には小さな銃が。その銃には人の命を容易に奪う鉛弾が装填されている。

「こんなもの役に立たないと思ってたんだけれどね、持っていてよかったよ。ボロボロになってる今のキミなら案外簡単に殺せそうだし」

「……そうだな」

 蜜世の言うとおりだった。花晶の力があれば五感を強化できる。銃弾さえもスローモーションのように網膜に映るであろう。しかし今は何も出来ない。雪哉の花晶は理愛と連動している。理愛の意識が途切れている今では無線LANの電源をオフにされているのと同じだ。こちら側がどれだけ電波を受信しようとしても元から電波を発信してくれなければ何も出来ない。今の雪哉の右腕はただの頑丈な結晶の塊でしかない。

 しかしそれだけでよかった。花晶の能力を完全に封じ、蜜世の戦闘能力を皆無に出来れば常人でも十分に戦えた。ましてや蜜世自身の能力は戦闘に特化していないのだ。種晶があったとしても攻撃手段に使えないのならば恐れることはない。しかし今、蜜世の手にあるその黒い銃身は、人を選ばない。異能を与える結晶のように選ばれた者だけしか使えないわけではないのだ。銃器の安全装置(セーフティー)を外し、弾丸を込めて、引鉄さえ引けば自ずとその弾丸を受けた者は死ぬだけだ。今の雪哉ではその平等たる殺害手段に対して有効な反撃が取れない。ましてや理愛も逢離も眠ったまま動けないのだ。どちらかを狙われても雪哉は自分自身を盾にすることぐらいしか出来ない。完全に万事休すだ。

「銃の扱いは悪いんだけど、この距離で外すヘマはさすがにしないかな」

 距離も近すぎる。どれだけ素人であっても身体の部位に銃弾を当てることは簡単であろう。逃げることは出来る。しかしそれでは逢離も理愛も放置することとなる。逃亡の選択肢は最初から存在していない。

「死ね」

 雪哉は蜜世の向ける銃口から逃げることができなかった。

 そして銃声が響いた。

 だが、何も、起こらない。痛みは無い。不発? いや確かに銃声はした。だが誰もその凶弾を受けていない。

「なん、だ……なにが……」

 それどころか銃口を引いた蜜世が地に膝を突いているのだ。腹部から血を噴き、苦悶に満ちている。雪哉も何が起こったのか理解できなかった。まるで銃弾が跳ね返り蜜世を傷つけたようだった。

『この中は居心地悪いわ、ホント耳鳴り半端ないわ』

 眠りに落ちていた理愛が手を突き出し、そう言った。目を見開いたまま、口元が裂けんばかりに歪む。だがその表情を見た雪哉は信じられなかった。目の前で笑う少女が自分の妹であるということを。

「理愛、なのか?」

 雪哉の問いかけに理愛は答えない。妖しく微笑む妹がそこにいる。

 理愛は笑う。そしてその瞳が銀ではなく、七色に光る虹色であった。その瞳の色は、いつか倒した、あの少女に、似ていた。

 だが、理愛はそのまま倒れる。雪哉はすぐさま理愛の元へ駆けつけるが、やはり先程と変わらずに眠っていた。一瞬の出来事に呆気に取られてしまう。

「本当に、本当に、未知すぎるね、キミたちは……」

 腹部を押さえながら蜜世は息も絶え絶えに言葉を吐いた。そして震えながらも銃口をこちらに向ける。しかし腕は完全に震えている。それでは上手く照準をつけられないだろう。それでも危険であるということに変わりは無い。

「本当に、特にキミが一番未知だ。キミのような未知は要らない。だから、死ね」

 それはあまりにも執拗すぎた。

 この敵はあまりにもしぶとい。だからこそ術を失えば何も出来ない。雪哉には反撃の手段が残されていない。だけど、


「死ねって、そう簡単に終わらせんなっ!」


 突然、大声を荒げ、雪哉の前に飛び出すのは先程まで意識を失っていた逢離だった。だがその猪突すぎる行動は愚行にも等しい。

「なっ! 死に底無いが……!」

「アンタみたいなヒトがどうして他人の生き死にを決めれるのさ! ふざけんなっ!」

 傷が無いのも、どうして動けるのかも、そして何故それほどに怒りを露わにしているのか、藍園逢離のことを雪哉は何一つ知らない。だが、怒り狂う逢離は雪哉を置き去りにしたまま疾走する。命を略奪する凶弾を前に臆すること無く血眼のままただ走る。

 しかし、銃声が再び響く。

 そして銃弾は逢離に向かって射出された。

 逢離は避けない。いや、見えていないのだろう。人間の動体視力で見えるレヴェルのものではない。だからこそ銃弾に真正面から立ち向かっているのだろう。しかしそれではただ貫かれるだけだ。肉を穿ち、その身に風穴を開けることとなる。


 そうなる、はずだった。


 銃弾が逢離に衝突する。しかし貫通することなく、火花を散らし、銃弾が破砕される。雪哉は自分の目を疑った。逢離に銃弾が触れると同時に火花が散ったのだ。まるで鋼と鋼がぶつかるように。そして逢離は蜜世との距離を一気に縮める。蜜世は驚愕する。弱者と罵り、無能であると評価した少女が生存し、疾走し、そして自分の脅威となって立ちはだかるのだ。

 そして、そんな逢離の腕は突き出され、蜜世の左肩を貫いたのだ。細い、細い腕で肉を貫いている。

「……もう理愛の前から、消えろよ」

「……ガフッ! なんだ、なにを、した?」

 その身を貫かれ、吐血し、蜜世の身体は地の上に倒れる。蜜世の疑問に逢離は答えなかった。まるで逢離そのものが刀身へ変化したようだった。弾丸すらも弾き返す硬度。それはもはや人間とは思えぬ頑丈。そして肉を削ぐ鋭利すぎる刃のような腕。まるで理愛が銀の剣へと形を変えたように、逢離は形こそ人のままだが、刃そのものであった。

無能力者(ヌーブ)が突然、能力を、覚醒すること、など……」

「知るか、アンタのことムカついただけだ」

 怒りによる進化。逢離はたったそれだけで自分自身の内に秘めた種晶の力を手に入れることが出来たのだ。

「殺す、の? ワタシを殺すの、ね?」

「……アンタが悪い人だってのはよくわかったよ、だから、そうする――」

 逢離が腕を空へと掲げる。まるで逢離の細いその腕が一本の名刀に見える。その身を刃に変えているのだろうか。だが今の逢離ならば蜜世の首を撥ねることは間違いない。雪哉はギュっと下唇を噛み締める。こんな少女が自分以外の者の為に命を賭けている。情けない。こうなったのは自分の弱さだ。蜜世の息の根を止めておけばこうにはならなかった。逢離に業を背負わせることなどなかった。

「!」

 だが、強襲するかの如くそれは突然現れた。

 能力を切り裂いたと同時に自身も同時に切り裂かれ再起不能になっていた毒虫達の坩堝(パンディモ・ニアス)が姿を現す。血まみれになりながら、目や鼻から血を流し、常人ならば事切れてもおかしくない状態だった。だが毒虫達の坩堝(パンディモ・ニアス)は蜜世の身体に触れ、そのまま地面を叩き、霧のように蟲を散布させたのだ。

「え、えっ?」

「なにっ!?」

 さすがに雪哉も反応できなかった。逢離は何が起こったのかもわからなかった。

 満身創痍だったはずの毒虫達の坩堝(パンディモ・ニアス)が最後の力を振り絞って力を使ったのだろう。理愛の銀の剣は能力を封印するのではなく、能力そのものである花晶を破壊する能力である。花晶の活動を殺す能力。だからこそ生きているのならば足掻けば力を使うことは出来るであろう。だからこそ毒虫達の坩堝(パンディモ・ニアス)は力を使い、蜜世と共に逃亡できたのだ。やはり詰めが甘かったようだ。そして雪哉はその銀の剣の一撃を過信しすぎていたというのもある。一撃を与えれば確実に倒せると、そう思っていたのだ。

 そして、蜜世は逃亡を成功させた。

 そこに取り残される雪哉と逢離。二人は顔を見合わせ、そして蜜世のいた場所をジっと見つめている。

「逃げられちゃいましたね」

「ああ」

「な、なんかあたしの種晶使えるようになったみたいで、「接触絶刀(アーマゲイン)」ってらしいんですげど、なんだろ、とりあえずあたし自身が刃みたいな? もうなんかよくわかんないっすけど、とりあえず危ないっすよねぇ……」

 逢離は聞いてもいないのにそうやって自分が手に入れた能力とその名を説明し始める。それはまるで何かを誤魔化すようだった。しかし雪哉はわかっている。

「物騒だな……あまりお前には触れないようにしよう」

 そう言いつつ、ついさっき逢離に傷があるのかどうかを確認して思いっきり触っていたことを思い出す。もしその能力が発動していたら自分の両手の五指が輪切りにされていたと思うと背筋が凍った。

「あれなんっすね、種晶の力とかいきなり目覚めちゃうもんなんっすかね? 覚醒ってやつ? うはっ! あたしなんか漫画の主人公みたい」

 逢離は笑う。

 そうやって笑う逢離の姿は見ていて痛々しかった。

 己を刃に変質させる能力を手に、そしてその能力で蜜世を倒した。怒りに身を任せ、命を奪おうとした。だから、

「ムリを、するな」

 雪哉は逢離の頭を撫でた。そして自分の胸に顔を埋めた。この子の覚悟は本物すぎる。雪哉はしつこいが逢離にまた感心してしまったのだ。所詮は他人だ。雪哉と理愛には過去という歴史がある。その中で築き上げた信頼もある。しかし逢離と理愛は全くの他人だ。しかし友達という関係だけでこんなにも逢離は強い。

「お前が理愛の友達でよかった、理愛を、頼む」

「え、え、えっ?」

 逢離は雪哉に何をされているのかわからないように、ただおどけて拍子抜けた声を上げる。だがようやく自分が雪哉の胸に顔を埋めていることに気付いたのかバっと雪哉の身体を押して距離を置いた。

「すまん、男は苦手だったな」

「い、いえ、だ、大丈夫っすよ? うん、大丈夫デスヨ?」

「片言のような気がするが?」

 そしてやはり語尾も変だ。男とは本当にあまり喋ったことがないようだ。

 顔がさっきよりも赤い。逢離は自分の胸に手を置き、呼吸を整える。そしてようやくして逢離は口を開く。

「嬉しかったんっすよ、理愛があたしだけに自分の言えない秘密とか全部教えてくれて、みんなの知らないことをあたしが知ってるなんて思ったら、凄く嬉しくて、それでもうずっとこの子とは友達でいたいってそう思えて、でもこんなとんでもないことに巻き込まれてるなんて思ったらすごく腹立って、悪い人たちは理愛のこと「人」として見てないのわかるんです。自分らのしたいことの為だけに理愛を見てる。なんかすごく腹立つっす。だから、その、なんていうか頭ん中真っ白なって、気付いたらこんなことになってるし。あたし何か凄いパワー手に入れてるし」

「気にするな、寧ろよくやってくれた。お前は俺よりずっと強いよ。お前がしたことは、本来俺がしなければいけなかった。お前のお陰でもっと強くならねばとそう考えさせられたよ。ありがとう藍園逢離」

 今回の戦闘は本当に考えさせられるものであった。

 雪哉自身の弱さが露呈したものであった。

 迷いや甘さがより危険を増す。

 雪哉は眠りに落ちる理愛を見る。もう二度とそんなことのないようにと、次は躊躇わないと心に誓う。そう、今度こそは――

「ん、んんっ……」

 そこで理愛の身体がピクリと動く。雪哉より早く逢離が駆けつける。

 そしてゆっくりと目蓋が開く。意識がはっきりとしていないのか焦点が定まっていないようだった。

「大丈夫、理愛?」

「え、ええっ……え? あ、逢離?」

 死んだと思っていたはずの逢離が生きているという事実が理愛の意識を一瞬で覚醒させた。そして理愛はまるで幻でも見ているのではないかと、自分の目を何度も擦る。しかしそれは幻ではなく、本物である。それでも夢を見ているのではと、理愛はその事実を認めようとしない。今度は逢離の両頬を抓る。

「いひゃい、いひゃい、いひゃいぃー」

「う、うそ……ほんもの?」

「本物だよぉー」

 強く抓ったのだろうか、逢離の両目には涙が浮かんでいた。だが理愛は謝ろうとしない。そして――

「逢離っ!」

「うわっ!?」

 飛びつくように理愛は逢離に抱きついたのだ。小さな身体で逢離の身体を抱き締める。そして逢離もまたそんな華奢な理愛を抱き締める。

「どうして生きてるのよ」

「いやいや、酷すぎるでしょそれは」

「わたしは死んだと思っててたんです。だから諦めて、全部終わらせるつもりだったのに、こんなんじゃわたし、また元に戻ってしまう」

「それでいいんじゃないかな? あたしは理愛が壊れたままなんてイヤだよ」

 憤怒に身を任せ、怨嗟を胸に、淘汰を繰り返したところで何も戻りはしないだろう。それでも雪哉には理愛の感情がわかる。大切だと思うモノを失えばヒトはきっと狂うだろう。雪哉が理愛を喪えばきっと壊れてしまうだろう。理愛は逢離を喪った瞬間、とてつもない力を見せ付けたのだから。

「わかりました、とりあえず元通りです」

「そうそう、それでいいんだよ、でもとりあえず……」

 逢離は何故か紅潮していた。

「服着ない? その格好、正直あたしには刺激強すぎて、ブフッ!」

 逢離が突然に鼻血を噴き出す。しかし逢離の言葉に偽りはない。何せ今の理愛は雪哉に裸のまま上着を着せられた状態である。こんな状態で外にいる場合ではない。そして鼻血を出す逢離を見たと同時に理愛もまた自分の今の状態をやっと理解する。そして理解した瞬間に露わになる肌色を隠すのである。

 しかし小さな手では全てを隠しきれるわけもなく、理愛の顔もますます熟した林檎のように真っ赤に染まっていく。

「兄さん、これは、どういう、ことですか?」

「何故に矛先を俺に向ける。お前が望んでなった格好じゃないのか?」

「では兄さん、わたしが露出狂の変態だというわけですか? わたしの希望がこんな変質者になることだとでも?」

「違うのか?」

「死ね」

「……何故だ?」

 全く持って理解出来ない。

 別に裸にしたのは雪哉ではない。

 能力を使い、身体を変え、衣服を失っただけではないのかと、それでどうして雪哉が被害を被るのだと、雪哉は不満だらけだった。

 しかし理不尽が雪哉に襲い掛かる。理愛は手を上げ、逢離は鼻血を流したまま横たわっている。オチとしてはやはり馬鹿げた残念なモノ。しかしそれでもいい。そうしてまた日常に帰還できたというわけなのだから。

 それでも、やはり殴る蹴るの暴力を一人で全て受け切るというものは些か辛いものではあるが、と雪哉は心の中で泣いた。

前回からかなり時間が空いてしまい申し訳ありません。

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