2-11 逢い、離れるのなら
2-11 逢い、離れるのなら
理愛の無表情さは相変わらずだった。
ちなみに雪哉が外へ飛び出す前、メールを送ったが理愛は雪哉のメールを確認する事が出来なかった。
何故か?
携帯電話の画面を見る余裕すら、今の理愛にはなかったからだ。
今、理愛は浴場にいる。雪哉と同様に時間を置いて入浴する筈だったのに、それが出来なかった。
『時任さん、一緒にお風呂入ろうよ』
ふと脳裏に逢離の言葉が過ぎる。お断りだった。
しかしいつもならば理愛のすぐ近くに現存している筈の逢離がどこにもいない。理愛としては好都合だった。厄介者の不在というのはそれだけで理愛の心に余裕を与える。そんな逢離がいないだけで理愛は安心して浴場へ行く事が出来る。それでも見つかれば面倒だった。だから理愛は浴場へ行く際は左右を確認しつつ、ついでに前後にまで気を配りながら廊下を歩いた。浴場に行く途中で逢離と出くわす事はなかった。きっと他のクラスメイトの部屋にでも行っているのだろうと理愛は勝手に決め付けては浴場へと足を運ぶ。
衣類を脱ぎ、ロッカーへ。そのまま裸身を晒したまま。
もし中に誰かいたとしても他の連中ならばきっと理愛が浴場に入ってもスルーしてくれるだろう。それどころか理愛が浴場に入るのを見るなり蜘蛛の子を散らすように消えてしまう。「昨日」もそうだった。
時間をずらしてわざわざ人が減るのを待っていたのだ。理愛の思惑通りに浴場の人気は殆ど無く、疎らだった。そして残り少ない子達もまた楽しそうに話していたが理愛の顔を見るなりにそそくさと集団で出て行く。浴場を後にする直前、負の感情を込めて見つめられる。けれど理愛は自分がそんな視線を浴びている事すら気づいていないようにただ無感情なままに無表情なままに白い煙の立ち込める世界で独りになる。
大きな湯船にたった一人。それでいい。それがいいのだから。気楽で気兼ねなく自分の好きに出来る。身体を洗い、長い、長い銀の髪を洗う。
鏡に自分の素顔が映る。銀の髪が肩口を伝い、胸元へと流れている。この世界の住人とは違う、別界のモノ。この髪色は人のモノではない。「ヒト」になってしまった結晶のモノだ。理愛は目を細め、泡が付いたままの髪を両手で挟み優しくなぞる。理愛自身が別の世界のモノだとしても、それでも今の理愛はそれを思い悩む事はしない。どれだけ辛くても悲しくても逃げる事が出来るのだから。それを許してくれる「人」がいるのだから。
髪も身体も洗い終えて、理愛はゆっくりと湯船に浸かる。湯の温度は熱く、一日の疲れが取れていくようなそんな気がした。どうしても無意識なままに精神を磨り減らす理愛にとってこの林間学校というものは最悪の行事だった。
集団行動というそのルール一つがこんなにも理愛を苦しめている。浴びる視線。それは奇異や関心、怪訝そうに見る者も当然いるだろう。だが仕方が無い。「銀色」という常識から逸脱したその特色。周囲の理愛の見る目が他の人を見る目とは違う事にとっくに理愛自身も諦めている。
湯船に浸かっている間だけでも気を使う事なくただ疲れを、心を癒したい。
理愛はただ静かに時間を過ごせばいいだけだった。
それなのに、理愛の願いは叶わない。一人だった湯船の中にもう一人。それは理愛の苦悩の塊。
わざとらしく理愛の前に座り、肩まで浸かり、気持ちよさそうに柔らかな表情を見せている。そう、この林間学校の間、理愛に粘着し続ける藍園逢離である。だが理愛はしぶとく追跡を繰り返す逢離に一切の感情を見せずに水面を見つめている。こちらからは決して動かない。
水から音が流れる。ゆっくりと何かが近付いて来る。
何かなどと、形容できるくせにそれをしない。
薄っすらと見えた白く長い足。理愛は横目で見えた足を視線から外す。
そしてまた音が止む。そして理愛の横に座っていたのはやはり逢離だった。
同性であってもやはり他人と同じ湯船に浸かるというのは気が引ける。理愛は少しだけ右へ動く。だが逢離もまた同じように右へと動く。理愛から動けば必ず逢離も動く。それは理愛もわかっている。だから動いてはいけない。これ以上動けば、また逢離も動く。だから理愛は静止した。
しかし珍しく逢離も湯船の中では大人しかった。声を掛けて来る事もなく、何もして来ない。だからこそ余計に怪しく、理愛は気になってしまう。
(違う)
気になどならない。自分以外の別の者から何らかの感情が生まれる必要は無い。だから理愛は小さく左右に首を振って、再び静止。一切の思考を働かす事もせずにただ湯船に浸かっている。
しかし、湯の温度は高く、何もせずただ静かに時間だけ消費したとしても理愛にも限界というものがある。明らかに体温が上昇している。長湯で完全にのぼせている。ちらりと逢離を見たが、逢離は平気な顔で鼻歌を歌いながら楽しそうにしている。これではジリ貧だ。なのに理愛は譲れない。
理愛が動けば追尾するように追い掛けて来る。
理愛とは真逆の少女。
逢離は理愛と徹底的に違う。確実に理愛の横に居座り、声を掛けてくる。何らかのアクションを起こしてくる。他人の側らに付く事もせず、声も掛けず、アクションすら見せぬ理愛とは大違い。
だから先に出て行って欲しい。この浴場から姿を消して欲しい。だから、逢離が先に出るまでは耐えようと理愛はその意思を曲げなかった。
なのに視界はグルリと回転を始める。
どうして――なんて思った矢先、理愛は気が付いていたのだ。自分はこんなにも長く湯船には浸からない。兄にはよくカラスの行水だと叱られる事の方が多かったぐらいだ。頭がボーっとした頃にはもう遅かった。ただ自分の身体が自分のものではないように、そのまま水面に顔から落ちていくのだけはわかった。でも、止める事が出来ない。そして、そして――
「だいじょうぶ?」
そっと理愛の身体に手を置いて、バランスを崩す理愛を支えていたのは逢離だった。
離せと、触るなと、そんないつもの非難めいた表情を繕いたくてもそれが出来ない。そのまま湯船から出ると、逢離が理愛の手を引いてくれた。
「無理して入ってても身体に悪いよ、外で涼んだほうがいいね」
とはいっても、ここも露天風呂だ。湯船から出れば冷たい夜風が身体に触れる。それだけで理愛の理性が少しずつ戻っていく。そして理愛は逢離の手を拒んだ。掴んでいた手は離れ、逢離の手だけが虚空を彷徨っている。
「ごめんね、余計なことしたね」
「…………――――ですか」
「ん?」
理愛の肩がわなわなと震え、そして息を吐くように出る小さな声。その声は逢離には聞こえなかった。だから、理愛はもう一度同じ言葉を吐く。
「なんなん、ですか、アナタは……どうして、どうして、どうしてわたしに構うんですか!」
慟哭にも近い、そんな声が二人きりの浴場に木霊する。
逢離は何を言われたのかわからないような、ただきょとんとしたまま呆気に取られたような、そんな感情を落としてしまった顔で、首を傾げ、理愛を見ている。
そんな表情が理愛にとっては煽られているようにしか見えなくて、だから理愛はそのまま逢離に近付いて怒りに満ちたままに再び声を荒げて叫ぶ。
「どうして、わたしに構うんですかと……聞いているんです!」
のぼせた身体のまま、言葉は途切れながらも必死に紡いでいく。
そしてその問い掛けは逢離に今までずっと気になって仕方が無かった悩みであり、その答えを知る為にただ叫ぶのである。
立ち込める湯気のせいで二人の身体はよく見えない。たった二人、生まれたての赤子の姿のままに立ち尽くしている。そして無言のままに無音のままにただ互いに静止している。理愛の銀の髪から伝う水滴が地に落ちる音だけを上げて、逢離は額や頬に手を当てて理愛の問いに必要な答えを考えている。だがどれだけ時間が経っても、逢離は答えを出す事が出来ない。本当に、何もわかっていない様子だった。
そしてやっと逢離の口が開いた時、返って来た言葉は理愛を更に逆上させるモノだった。
「わかんないよ、だってあたし……友達になりたいのに理由なんて用意してないから」
「わけが、わかりません」
「あたしだってわかんないよ。でも、時任さん見たときから友達になりたいって思ったの。わかってるよ時任さんが嫌そうな顔してたのも何もかも、でもそれで諦められないあたしって、やっぱ変なのかな?」
変なのかもしれない。
しかしそれは逢離が純粋であるが故の行動。ただ理愛と友達になりたいという想いから動いているだけに過ぎない。それが理愛には理解できない。
どうして他人に寄り添う。何の関係もない赤の他人でしかない。それなのにそこまでする逢離の行動に恐怖さえ覚え、理愛は一歩後ろに引く。
「わたしは友達なんて、いりませんから……」
「どうして? あたしが嫌い?」
「あなたが、嫌いではないです。あたしは兄さん以外が嫌い――」
それが理愛の本心だった。
信じていた。しかし裏切られた。
幼き頃の心の傷は未だに癒えてはいない。友達だと信じたその少女は理愛を売った。捨てられた。最初から人間そのものを嫌悪していたわけではなかった。しかしたった一つの裏切りで理愛の心には常に疑心暗鬼に苛まれている。
だから、理愛は逢離に本音をぶつける。
「逢っても、いつか離れるものだから……だから、わたしは友達なんて、いらないんです!」
理愛が絶叫し、逢離を睨む。
逢離は、いつものような惚けた表情ではなく理愛と同じような感情の見えない無表情になっている。理愛ははっきりと理解した。逢離を傷つけてしまったと、理愛の言葉は確実に逢離の心を削ってしまっ。どうすればいいか、出た言葉は呑み込めない。だから理愛がとった行動は逃走という最低の行為だった。
「あたしも、いらないのかな……」
そんな逢離の悲哀を帯びた嘆きが理愛の耳に届いても、ただ逃亡する事だけに意識を傾け、聞こえない振りをしたのだ。
そして慌てて水気を拭き、着替え、浴場を飛び出した。
最低だ。最低だ。最低だ。
理愛は何度もそうやって自分を戒める。
ただでさえ自分の立ち回りは周囲に不快を与えるだけでしかない。だがそれは理愛にとって他人と関わらぬようにする為の行為だった。だからどう思われてもそれは構わない。けれども、理愛の言葉一つで誰かの心を傷つけるのなら、それは自分の言葉が原因だ。そして明らかに逢離は傷ついていた。それが堪らなく苦しいのだ。
独りを好んでいる。けれど、他人を傷つける事はしたくない。
だから無言のまま、無感情で無表情で、そうやって相手から近付かせないようにしていたのだ。そうすればただここにいるだけの、ただの置物のような存在で居続けられた。
しかし逢離だけは違った。それだけで理愛は酷く困惑してしまったのだ。気がつけばそうやって本心を露わに、本音を吐いて、逢離を悲しませた。
最低だ。最低だ。最低だ。
理愛は走る。どこへ? 行く場所はない。ただ逃げる為に駆ける。
しかし、逃げるとこなんてどこにもない。自分の心はどこまで逃げても付いて来る。人でない結晶の分際で、気に掛ける必要などない。道具でしかない存在が、「人間」の真似事をしている。この感情はどこから生まれて来るのか、ヒトの形をして人間の世界に存在している。石ころならば石ころらしく何の感情も生まれずに、ただ花晶のままでいればいい。
だから、廊下の端でポツリと誰かがいれば、気になって足を止めてしまう。
同じクラスメイト。女子だった。しかし理愛は顔も名前も覚えていない。関心など理愛にはなかったから。無視して通り過ぎてもよかった。けれど、それが出来なかったのは両手を開いて理愛を制していたから。
「な、なんですか?」
頭を垂れて、あごを引き、だらりと腕を地面に向かって伸ばしている。
生気が感じられない。
呻き声を発し、まるで亡者のよう。同じクラスメイトとは思えない。まるで別の者。そしてはっきり言えば、何かに操られているよう。
「どいて、ください」
こちらから声を掛けたくはなかった。しかし一本の廊下を塞ぐように立たれてはそう言わざるを得なかった。しかしその女子は反応を見せない。理愛は強引にも通り抜けようとした、その時――
『待ッテいたヨ、時任理愛。出迎えに少々時間が掛かッテしまった。許しテくれ』
「っ――!」
理愛はすかさず後退した。
そして離れ、まるで左右に振るえる女子から出る言葉は女性のものではなく、男性や女性が入り混じったただの雑音。不協和音を響かせながら、ゆっくりと歩いて来る。廊下の電灯がゆっくりと消えていく。やがて暗闇に包まれていく。月と星の光だけで照らされる世界の前に不気味に揺れ動く女子は異音を発しながら理愛に近付いて来る。
『まってタヨ』
『待っテたよ』
『マッてタよ』
『まッテたヨ』
『待ってたヨ』
『マってたよ』
前からではなく、横から、後ろから、その雑音のような声が垂れ流される。逃げ場は全て塞がれてしまう。理愛の退路を塞いだのは同じクラスメイトだった。どこからともなく現れる女、女、女。全て理愛と同じクラスメイトの女子の筈なのに、それなのにそれが全部「違う」のである。
『待っテいたヨ。コッチは今しガタ終わッタばかリデネ。後は君ヲ回収シてお終いナンダ』
前か、後ろか、左右からか、誰から発した言葉かはわからなかった。だが分かる事がある。こいつらは、敵だと。理愛は手を握り締めて、構える。そしてクラスメイトだった彼女らは人形に仕立て上げられている。そして操られる人形らは一斉に嗤うのだ。理愛を嘲笑し、煽り出す。だが理愛の瞳には光が灯っていない。いつもの無感情を作り上げ、自分自身の心を強化する。敵ならば容赦しない。敵だから躊躇は要らない。だが、この前にいるのは理愛のせいで、理愛がこの世界にいるせいで巻き込まれた被害者でしかない。絶対に危害を加えてはいけない。それをしてしまえば時任理愛の存在は自身の行為で否定してしまう。
どこかで誰かが眺めている。どこかに何かが潜んでいる。
理愛は辺りを見渡す。しかし何も見えない。ましてや闇は深まり視界は悪くなっている。そして人形らは理愛に向かって襲撃を開始する。理愛はそれらを撃破する事は出来ない。ましてや攻撃すら許されていない。状況は最悪だった。
前方から伸ばされる腕を回避し、後方から繰り出される蹴りも回避し、上空から飛び降りては襲い掛かる人形すらも回避して、ただ回避行動だけに全ての意識を向ける。どういった手品かはわからないが、理愛のクラスメイトらは自分たちの意思で動いているとは思えない。泥酔したように足元はおぼつかず、ただ右へ左へと振るえながら動いている。
攻撃は出来ない。しかし気を失わせるぐらいなら……なんて自らを防衛する為に仕方がなく理愛は選択する。心の中で謝罪しながら、キっと正面を見据える。他人を、ましてや無関係の人を傷つけるなんて最低の行為だろう。それでも今は戦わなければ守れない。矛盾も甚だしい。自分を正当化して、結局は身を守る為に攻撃の選択を選ぶ。なんと、偽善か。それでも理愛は脳裏にふと雪哉の顔を浮かべては、それでもいいと覚悟を決める。
自分は人ではなく、結晶だ。だからそんな別物で、自分のせいで他人を巻き込んでしまっている。そんな自分がこの場所にいていいのだろうか。そう思ってしまう。けれど、構わないと――そのままでいいと、言ってくれた人がいる。その人の為にも自分はここで負けるわけにはいかなかった。
だから、伸ばされる魔手を取り、小さな身体を精一杯動かし、人形を背中に乗せ、そのまま叩き落す。背負い投げだ。人形の一体が地面に倒れ、理愛は心の中で謝りながらすぐさま別の人形に視線を移す。
『おや、オヤ、女の子がハシタナイ真似をしてイル』
「自己紹介もせずにいきなり襲って、姿を隠して遠くから見ているアナタには言われたくありませんね」
『これハ失礼シタ。しかし、紹介モ何も、わかっテいるんだロウ? 何が襲って来たナンテ、説明スル意味モないだろう?』
その通りだ。
不協和音の正体が何かはわからない。しかし理愛を襲う輩など一つしかない。
「またArkって組織? 本当にご執心なんですね、でもしつこすぎると嫌われますよ?」
『カカッ、冗談ダろう? 元々、最初から嫌っているクセに』
「ご存知なんですね、だったらとっとと消えてください。わたしはアナタたちの事は大嫌いですから」
『カカッ、カカカカカッカカッ! その通りダ。いやハヤ、言い切られてシまウトさすがに耳が痛クなルネ。このまま痛いままといウのも嫌ナノデ、とっとト勝たセテもらうとしよう』
一斉に扉が開き、人形の数が増した。全て理愛と同じクラスメイトだった。しかし全員が生気を失い、意識すら無く、ただそこに立って、理愛に数の暴力が押し寄せる。
『如何に結晶ノ最高位でアッタトしても、この数を全テを屠レルかい?』
「できませんね」
理愛は即答する。
屠るなどと、そんな事が出来るわけがない。
ここにいるのは敵ではない。敵に操られ、敵の一部にされただけでしかない。
だから人形と化したクラスメイトらに理愛が出来る事はないのだ。
伸ばされた手は理愛の腕を肩を取る。壁に叩きつけられ、理愛は小さく呻き、苦悶の表情を見せる。理愛を見る光を失った眼。そして聞こえてくる不協和音。
『ワタシの能力ハ不便でね上手には操れナイ、だからコウシテ、意識を奪ッテ一つノ感情を強化スルことで自律させてイルわけでね』
「どういう、ことよ?」
『恐怖、さ。時任理愛を恐レル心を強クした。そして絶対的ナ恐怖は自身を守らねばと本能が働クのさ。では、ドウナル? こうなる――』
床の上に転がされ、人形らは輪となり理愛を見下している。
『どんな気分ダ?』
「別に、いつも通りです」
さほどその視線を気にすることはなかった。
元々、こういった冷え切った視線を浴びせ続けられていたせいか、何の感情も浮かばない。これからもずっとこんな視線を浴びながら生きていく事に何の不安もなかったのだから。
『化け物め、お前ハ化け物なのだ。だから、お前は生きらレナイ。生きてはイケナイ。だから定められた型枠の中に嵌ってしまえ、まえ、マエ』
「そうかもしれない。わたしは、きっとあなた達の作った世界でしか生きられないのかもしれない」
結晶としての存在であり、その存在を求め、認めてくれるのはきっとその力を欲する者だけ。それ以外には異物として見做され、否定され、拒否される。
『では、諦めるとイイ』
人形の一つが理愛の首を強く締め上げる。呼吸が出来ない。結晶でありながらもこの身はヒト。紛い物であっても人間の構造で出来上がっている。外枠だけ人の形をしていればいいものの、中身まで立派に人間だなんて、おかしな話だ。
『花晶はどれだけ呼吸ヲ止めてモ大丈夫とイウわけではないのダナ』
「あいに、く、人間と同じ、なもので……」
『違うさ、似ているダケサ、一緒にシナイでくれ。コレほど完璧な化け物はいなイネ、この矮躯にどれ程の未知が隠されてイルのか、そう思うだけでオゾましいね』
段々と視界が白く染め上げられていく。完全に呼吸が止まっている。酸欠を起こす身体がゆっくり震え出す。死ぬ。このままでは殺されてしまう。だが両腕も両足も押さえつけられて、これではまるで集団による私刑だ。何もできやしない。数多の暴力を前に理愛は成す術が無い。
『もう眠レお姫様、そして目が覚めたコロには全てを失ッテいるコトだろう』
「い、や……」
苦しい、辛い、このまま眠ってしまいたい。
でもそれが出来ない。それをしてしまえば本当に全てを失ってしまう。
『お兄サンは来ないよ』
「え……?」
『来ないさ、喰ッテヤッタのだから』
「うそを、つくなぁ!」
理愛はそう叫んだのだろう。
だが止められた呼吸と塞がれた口、上手く言葉を発することなど出来やしない。
雪哉を喰ったと、敵は言う。
そんな戯言を信じたくない。あの兄が、そう簡単にやられてしまうわけがない。喰われてしまうわけがない。
『本当サ、今頃、闇黒の中サ。だから来ない、安心して諦めてクレ』
「ああ、そんな、そ、ん……――」
失望が、理愛を心を閉ざしていく。
このままもう絶望を前に堕落してしまいそう。
全身の力がゆっくりと抜けて、脱力する理愛の身体はそのまま失意のままに落ちていく。
「なんだかわかんないけど、時任さんを苛めるのは止めてくれないかな?」
人形が根こそぎ転がっていく。
理愛には何が起こったのかわからなかった。白くなっていた筈の視界が鮮明になる。そしてその向こうには理愛が確かに傷付けてしまった少女の姿が見える。
転がっていく人形の向こう側、そこにいたのは藍園逢離だった。
「時任さん!」
「アナタ、どうして、わたし……」
「いいから!」
惑う理愛の心は逢離の言葉で掻き消される。そして逢離の手は理愛に向けられていた。
「早く!」
何も、わからないままだ。
藍園逢離の行動原理はたった一つ。理愛と友達になりたい。
だがどうしてなりたいのかと問えば、逢離は上手く言葉には出来ない。ただ理愛と友達になりたいと言う。そして「今回」も理愛を助けに動いている。
わからない。
藍園逢離がわからない。
だけど、迷いは終わりを意味している。だからその手を取るしかない。力を失った理愛の身体が逢離の力で起き上がる。そして逢離の手は理愛の手を引き、理愛はただ成すがままに逢離に引っ張られていく。
『なんだ、アノ女は……?』
不協和音の声が背後から聞こえた。
そんなこと理愛だって知りたい。藍園逢離とは何者なのか――
そしてそんなことよりも、ただ理愛は思った。
負けた――――と。
だから、最後の手段を取ろうと思う。
これで決着をつけようと思った。そうすることでしか逢離を諦めさせることが出来ない、そんな気がしたから。
雪哉の身を案じながら、そして何度も謝罪し、藍園逢離に最後の一撃を与えようと理愛は覚悟を決めたのだった。