2-8 黒の相反
2-8 黒の相反
「死ね」
林間学校が始まる朝。
開口一番で死刑宣告。いつもの理愛がそこにいた。
その台詞をぶつけたのは兄である雪哉だった。だがそんな死の言葉を放たれて尚、平気な顔のまま受け止めて立っている。
「どういうつもりですか! 林間学校に一緒に来るなんて!」
「許可は貰っている、安心しろ」
「わたしは兄さんの常識の無さを心配しています!」
「だからちゃんと教師の格好をしているわけでだな」
「教師って! 瀧乃さんの格好してるだけじゃないですか! 白衣を着れば理科の先生にでもなった気分ですか? 子供ですか! 兄さんは!」
「どうした理愛よ、今日は感嘆符が良く付くな。もしやそれは何か意味があるのか? なるほど、そういうことか……何かが始まろうとしているのだな? ふふっ、――今宵、始まるは食肉祭か……良いだろう――相手を――してやる――」
「一々、つっこむのはあれですが一応言っておきます、今は朝です。あと兄さんも言葉の後ろに変な横一直線の棒が付いてそうで気色悪いです」
「物語にダッシュを使うのは基本中の基本だろうに」
「いいえ、その基本は兄さんの中の基本であって万人に共通しているとは到底思えません」
理愛は立腹していた。
それもそうだ。今日から林間学校。大雨が降れば中止になる体育大会とは違い、天候に関係無く開始される理愛のとって最低最悪の行事。入学し、一番最初に待ち受ける行事が絶望そのものであった。
そんな絶望を前に朝、目覚め、準備を整え、服を着替え、溜息を吐いて家を出ようとした。
おかしいと思った。
いつもより十分早く学校へ向かうので雪哉に声を掛けようとするともう雪哉は玄関で待っていた。しかも「白衣」を着てだ。
それはまた「いつもの」病気だとばかり思っていた。今日は何の設定なのだと聞くのも億劫だ。雪哉は黙って理愛に付いて来きたわけだが気にも留めず放置したのだけれども――
「なんなんですか、白衣だなんて……そんな胡散臭い格好をしてる人はわたしの保護者だけで十分です」
まさか「着いて行く」と言っていたその言葉の意味がここでわかるとは思ってもいなかった。
それよりも知りたいのはどんな手品を使えば、ただの一生徒が教師と同じ処遇に付けることである。
今の雪哉は曜嗣の代役だそうだが、どう見ても役不足にも程がある。曜嗣は何をやっているのだ。理愛はぶつぶつと恨み言を撒きながら雪哉を睨んでいる。雪哉は、いつも通り妄言を吐きながら話をはぐらかすのだった。
そんな理愛の口からは聞きたくも無い酷い言葉の連鎖から解放され、学校へ到着する。理愛は仮面を付け替えたようにまるで別人のように言葉を発しなかった。同じクラスメイトが通り過ぎても会釈をするだけ。他人行儀なままグラウンドで集合する生徒らと合流している。それを雪哉はただ黙って見ていた。
「やはり、独りか」
雪哉は両腕を組みながら、既に知っている理愛の現状を再確認していた。
グラウンドでは楽しそうに話す生徒らが殆どだったが、そんな輪の中に孤立する理愛の姿があった。まるでオブジェと変わらない。黒い髪の中にある銀は確かに目に付く。遠くから見れば本当によく目立っている。しかし誰もが理愛に関わらない。関わろうとすれば理愛は敵視を向け、突き放す事を知っているから。そんな周知の事実が理愛をただ置物のように扱っている。これでは流石にどうしようもない。理愛は孤独を決め込むつもりだった。それがいけないことだとはわかっている。雪哉ですら孤独ではない。このままただ時間を過ぎるのを耐える生き方をするつもりなのだろうか。
だが、雪哉に理愛の生き方を訂正する資格は無い。だからただ見ている事しか出来ない。それが情けなかった。
「あら? あなたは確か……二年生の時任くんだっけ?」
突然、後ろから声を掛けられてつい振り返ってしまう。そこには背の高い女性が立っていた。雪哉も十分背が高いのだがそれと同じ、いやもしかしたら少しだけ負けているかもしれない。年上に違いないだろうが、それでも年の差を感じぬ程に若く見える。また私服姿ということもあってかどう見ても生徒ではなさそうだが、雪哉には面識の無い人間な為、ついどう返事をすれば良いのか迷ってしまった。
「ああ、ごめんさいね。ワタシ、海浪密世。時任理愛さんの担任の先生よ」
「なるほど、しかしどうして理愛の名前を?」
「いやね、今日、瀧乃先生来れないんでしょ? 代役だなんて面白い事聞いてたから。だから名前とか容姿は一応確認してたんだけど、なんでも時任さんのお兄さんだって言うもんだから、ちょっと気になって。それにしてもその格好……瀧乃先生とお揃いね」
なんて言いながら、「白衣似合ってるよ」なんてどう反応していいのか困る評価をされてしまう。雪哉はとりあえず礼をして再びグラウンドを見つめる。
「時任さん、お友達いないみたいで……クラスでも孤立しててね」
「ええ、知っています」
「先生としては、心配かな」
「ありがとうございます」
適当に返事をし、理愛を見詰める。教師と言っても同じ人間だ。友達がいないから、孤立しているからといってどうにかしてくれるわけではない。教師だから全ての問題を解決出来るわけがない。聖職者という存在がいても、神様ではないのだから、何もかも上手くしてくれるなんて、そんな素敵な話あるわけがない。
だから雪哉は海浪蜜世に期待はしない。しかし、失望しているわけではない。こうして作った言葉でもいい、心配だと言ってくれたことには感謝している。
「イジメ、とかは?」
一番気になっている部分ではある。もし何かあれば即座に動き、即座に終わらせようと雪哉は考えている。
「それは無いと、思うんだけどね。もし何かあったらワタシもすぐ動くけど」
「アナタは良い教師だ。理愛を、よろしくお願いします」
すかさず雪哉は蜜世に頭を垂れた。雪哉の言葉に蜜世は顔を真っ赤にしていた。
「いやいや、そう言われると嬉しいな。教師として冥利に尽きるよ。ははっ、そんなこと言われたことないからつい照れちゃったよ」
年下の生徒に偉そうに言われたというのに気にする事もなく、微笑む蜜世に雪哉は安心してこの教師なら大丈夫だと信頼を寄せた。
「さて、点呼の時間かな……ワタシは行くよ。時任くんは?」
「ああ、じゃあ俺も行きます。一応、先生の代理みたいなもんなんで」
「それにしても瀧乃先生はどんな技を使ったのやら。あの人、ホント不思議な人だから周りも気になってるみたい」
「確かに。正直、「今回のこれ」も俺の我が侭のようなものですから」
「……? そうなんだ、まぁ、先生の変わりなんだからお願いね。と言っても瀧乃先生、臨時だし、ぶっちゃけ力仕事全般って感じなんだけど、もしかしたらそれが嫌だったのかもしれないね」
「ははっ、あの人のことだ嫌なことを他人に押し付けることぐらい平気でやりそうだ」
現に雪哉は曜嗣が面倒くさいと思ったことの全般をやらされているようなものなのだ。これぐらいどうってことはない。それどころか理愛の近い場所で行動出来るのだ。幸運ですら思える。三日間、雪哉の授業のノートは切刃に取って貰うように頼んで来たことだし欠席にもならないので、何ら問題は無い。安心して林間学校に行ける。
点呼が終わり、注意事項や三日間の内容を簡単に説明する教師。雪哉はそんな教師らの後ろで立っている。しかし視線を感じる。何人かの生徒らが雪哉を見ているようなのだが、雪哉は気にせず話を聞いていた。元々が妄言や不自然な行動を連発する男なのだ。周囲の視線に動じるわけがこの男にはない。ましてや白衣を着飾って、伊達眼鏡を装備している時点で何らかのキャラクターを作り上げている時点で死角などない。勿論、周囲からしてみれば変質者が独り言を呟いて立っているようにしか見えないわけだが。
そんな雪哉でも理愛の事を忘れてはいない。寧ろ気にかけている程なのだが、如何せん自分の身内がおかしな格好で立っているなんて思われたくないのか理愛は冷たい無表情のまま何も知らぬ顔でいる。
一通りの説明が終わり、生徒らはバスに乗り込んで行く。全員が乗り込んだのを確認してから教師らも乗り込んで行く。教師陣に位置する雪哉は前に、生徒らは後ろに座っている。
林間学校まで一時間弱の道のり。やけに便利になった世の中であっても失われていない風景というものは多い。雪哉の住む町も田舎の色取りが濃く残っている。森林も山もはっきりと生きている。寧ろ今は失われつつあるものだからこそ、国が強くこの自然を残そうと働きかけてくれているのは嬉しい限りだ。お陰で雪哉の町の森林は伐採される事無く、破壊される事無く残っている。
自然に触れ合うということはいつの時代になってもいい事である。ましてや失われつつあるものだからこその大事さが理解出来る。
足を組み、人差し指を額に、偉人のようなその雪哉の座り方はただのナルシストにしか見えない。だが黙っていれば美形なのだ。一年生の女子らは雪哉を横目でチラりと見ながら話し合っている。
「ねぇねぇ」「見てよぉ」「あれ、誰ぇ?」「あの瀧乃って臨時の教師の変わりで来たらしいよぉ」「そうなの?」「じゃあ瀧乃サボりじゃん」「給料ドロボーだよねぇ」「にしても、すごいよねぇ」「前髪なっがぁい、それに結構いいかも」「うん、格好いいかな」「声掛けてきなよ」「無理だよぉ」「それに何か、瀧乃みたいで怖いし」「にしても、名前って……時任だっけ?」「それって、もしかして……」「時任さんの、お兄さん――」
全員が一斉に理愛を見詰める。全ての視線が注がれて尚、理愛は眉一つ動かさない。その心の鋼鉄さに雪哉は感心する。理愛は何も言わない。口元を一切動かさず、瞳の位置すら揺らがない。両目を開いたまま意識が途絶えているようで、だから人形のようなその立ち振る舞いには誰もが悪寒を感じてしまう。
車内は凍り付き、注がれる視線。吐き気を催すような不快の中でたった一人だけ凍らぬ者がいた。
「もぉ、そんな見詰めないでよ照れちゃうじゃんか」
理愛の横に座っていた少女。長い髪を後ろで結った少女だった。照れながら頭を掻いて立ち上がる。刹那、車内はドっと笑いが起きる。「お前のことじゃない」と「勘違いするな」とそんな少女を馬鹿にしたように言葉の雨が降り始める。だが少女は手を振っては笑っている。
「ほぉ」
一人の少女の言動に雪哉は感服した。
一瞬で視点を理愛から自分に移した。この女、出来る――と雪哉は心の中で呟いた。
誰ももう理愛を見ていない。だが雪哉だけは気づいていた、理愛の肩が震えていた事に。それは視線の全てから解放された安堵からか、それとも――
「藍園逢離さんだね、いつも明るくて良い子なんだよ。ちょっと授業中に居眠りしているところがあって困ってるんだけどね」
雪哉の横に座っていた蜜世が聞いてもいないのにそんな事を教えてくれる。
「藍園、逢離……か」
理愛より遥かに背が高く、蜜世よりは少し低いかもしれないがそれでも女性の平均の身長は確実に超えている。髪色も黒く、背も高く、おまけに明るくあどけない。まるで理愛とは相対した存在だった。雪哉は狙いを逢離に絞った。
雪哉は藍園逢離という少女が気になっていた。あんな行為に出るぐらいだ、もしかしたら「この女」と――雪哉はニタリと不吉に微笑んだ。
バスは走る。ゆっくりと、けれど確実に目的の場所へと近付いていた。