2-7 心を持つ花
2-7 心を持つ花
ただ自分が人ではないということだけは自覚できた。
闇夜を駆け抜ける理愛ははっきりとそう思った。
一歩、地面を踏み込み、そして再び足が地上に離れれば自分の身体がほんの少しだけ浮遊していることに気付く。それは常人の跳躍力を遥かに超えている。
そう、理愛は人間ではない。
この世界を大きく変化させた結晶の最高位――花晶である。
そしてその人型の結晶である理愛は、その事実を受け止めながら力を行使する。第一界層という力が備わり、身体能力が常識を超越させる。まるで忍者のように屋根の上を走り、飛び跳ねれば瞬間ではあるもの空を翔け、屋根から屋根へと飛び移っていく。
さすがにこの速さでは銃者達も追い付けない。
夜天に瞬く星空の下で、銀の流星が飛翔する。小さな小さなその星は銀の少女。あれだけ家から離れた場所にいた筈なのに、ものの数分足らずで自宅へ到着してしまった。
「瀧乃さん、大丈夫かな……」
本来なら曜嗣のことなどどうでもいいのだが、さすがに助けられたとなると冷たい態度を取り続けることなど出来ない。人間ではないかもしれない。それでもこの心は「人」だと信じているから。どうして結晶の分際で人間の形を成しているのかなんて、自分自身が知らないことを理解できるわけがない。だから今だけはそんな事実は忘却し、都合の良い部分だけを記憶に残す。
十数メートルから落下したとしても身体には一切の負担が掛からず、一片の痛覚すら感じない。走れば遠くへ、瞬間で疾駆してしまうこの身体。それは花晶としての基本となる強化の力。既に人を超えたこの身体がただ忌々しい。自分の正体がわからぬままに、不可思議な力を使って、生き延びている。何も知らない。何もわからない。知りたい。けれど知れない。
そんなもどかしさだけが理愛の心を渦巻いていく。どうして自分は「敵」に狙われなければいけないのか。恐ろしい目に遭わねばならぬのか。世界を恨んでしまう。このあまりにも恨めしい世界で何の為に生きるのか。
理愛は自虐し、冷笑を浮かべ、そして自宅の扉を開いた。
「ああ、理愛遅かったな。待ちくたびれたぞ」
玄関には私服姿の雪哉が待っていた。長身に似合わない赤色のエプロンを着けて腕を組み立っている。そうだ、だからわたしはと――理愛のまるで凍ったような悲哀に満ちたその表情が溶けていく。靴を乱暴に脱ぎ散らかし、雪哉に向かって一直線。その矮躯でどれだけ勢い良く突進しても、雪哉は動じない。そして雪哉は大きなその手で理愛を抱き締める。理愛は雪哉の身体に顔を埋めてそのまま力が抜けたのかへたり込んでしまう。何度も何度も雪哉の身体に顔を埋めては左右に首を振るう。どうしたのか雪哉は聞かない。ただ理愛の頭を撫でていた。落ち着くまで、ずっと撫でていた。
「どうした? 酷く怯えていえるが?」
「兄さん、わたし――」
「疲れたろう? キッチンに行こう」
理愛のたった一人の理解者。兄――雪哉。頼れる者はきっと兄しかいない。だから、理愛は先程巻き込まれた凶変のことを口にしようとした。銃者達という新たな敵の襲来。そして曜嗣に救われたこと。ここまで逃げてきたことを。
だが雪哉が先に口を開き、立ったまま話をするのもなんだと雪哉は台所へ理愛を誘導する。そして椅子に座ると、温めたミルクをテーブルの上に置いてくれた。理愛自身も一旦落ち着こうと一口そのホットミルクを飲む。そして大きく息を吸い込み、口外へ吸い込んだ息を吐き出す。
落ち着いた。
そして理愛は先程の状況を雪哉に報告する。雪哉はただ黙って理愛の言葉を一字一句聞き漏らすことの無いように頷きながら聞いてくれていた。
「それで、銃者達とかいう不届き者がお前を襲ったと……度し難いな」
「え、ええ……それで、その……瀧乃さんが、助けてくれて、わたし逃げて来て、相手は武装していたんです。瀧乃さん丸腰でしたから、その、心配で――」
理愛の窮地を救ったのは曜嗣だった。そしてそんな曜嗣は何も持たずただ銃者達に挑んだ。そしてその先の結末を見ること無く、理愛はここまで逃げて来てしまった。あれだけ曜嗣のことを非難して来たけれども、それでもいざ助けられたとなると自分だけ逃げてしまったことを悔やんでしまう。何か出来たのかもしれない。一緒に戦ってもよかったのではないか。色んなことが頭の中で浮かんでは溢れてしまいそう。だがそんな苦悩も雪哉の言葉で消えて無くなってしまうのだ。
「先生なら、大丈夫だろうな」
「どうして……?」
「あの人は、その、なんだろう……ともかく凄いんだ。説明できないけれど、そのきっと大丈夫だと思う。上手く言えないけど、な」
雪哉も理愛と同じようにテーブルの上にコップを置いている。そしてその中には理愛の飲んだホットミルクとは違い、コーヒーが注がれていた。そしてそれを一口啜ると雪哉は言葉を続ける。
「先生に喧嘩の仕方を教わったことが、あってな――」
まるで昔を懐かしむように、雪哉はコップを回しながら中のコーヒーを見つめ呟いた。
何も出来ない。誰かを守る事も出来ない。力が無い。戦う術を知らない。雪哉は無能だった。だから幼い頃、雪哉は曜嗣に言ったのだ。強く、なりたいと。
曜嗣は笑ったそうだ。お前には出来ない。お前には無理だと。それでも、雪哉は諦められなかった。そして先に折れたのは曜嗣だった。幼いながらに雪哉に戦う術を教えたのだった。当然、素人であり子供であった雪哉がその過去のお陰で敵と対等に戦えるレベルにまで近付けたのかといえば、そんなことありえなかった。だが、もうそんな幼い頃から雪哉は強くなりたいという意思を持っていたということだけは確かだったのだ。
勝利や敗北は結果でしかない。戦うか、戦わぬか――それが戦闘を行うには重要なのだ。避けて通ってもいい。引くことも大事だ。だから負けるとわかっていても戦うなどと、愚直で蛮勇ならば意味も無いのかもしれない。それでも、戦わなければ守れないのならば、雪哉は戦うだろう。戦い方を教えてくれた曜嗣に、そう教えられた。戦う事でしかどうにか出来ぬのならば、逃げる事はするなと。
「恐ろしい人だったよ。殺されそうになもなった」
そこからは曜嗣が雪哉にしたとんでもない仕打ちの数々を暴露してくれた。当時の少年にした事ならばそれは虐待にも等しい行為だったのかもしれない。耳が痛くなる。理愛は時折、雪哉の言葉に耳を塞いでしまっていた。
「でも、わたしそんなの……知らない……」
「そりゃそうだ、お前に知られたくなかったからな。隠していただけだ」
「ど、どうして?」
「お前を守りたいからだ、ダメか? 無力な俺が何も出来ずにお前が苦しんでいるのを見たくなかった」
雪哉は、知っていたのだ。
理愛の容姿を侮辱する者らを。年少時代に理愛がその髪と瞳の色を卑下し蔑む様を見たことがあった。そして雪哉は理愛に見られることの無いように奇襲を掛けたのだ。まだ、中学にも上がらぬ幼い子供がたった一人で複数に挑み、勇敢に立ち向かい続けたのだ。
それでも数の暴力の前にはどうしようも出来なかった。戦い方を知らない子供のままでは勝利することすら叶わない。だから雪哉は曜嗣に声を掛けたのだ。そして曜嗣は喧嘩の仕方を教えたのだ。あの頃から曜嗣が教師だったのかは分からない。それでも子供が喧嘩の仕方を教えろなどと言えば、暴力に訴える事の無い様に導くべきではなかろうか? 曜嗣はそれをしなかった。それどころか曜嗣は雪哉にどうすれば勝てるのかを指導した。
それでも勝てなかった。
何度やっても勝利を掴むことは出来なかった。生傷が絶えぬ日々が続いていた。しかし幾度も無く挑戦を続けることで、理愛をイジメていた連中はもう銀の髪も瞳の事も悪く言うことはしないと言ったのだ。
だから喧嘩には負け続けても、そうして理愛を守る事が出来たのならば、それは雪哉にとっての勝利なのだ。だから、雪哉はそれで良かったのだ。最後まで戦って良かったと。
「わたしのことを悪く言っていた子らが突然何も言わなくなったのは……」
「まぁ、結果論だがな。俺は弱い。それでも戦う。お前を、守りたいから」
理愛は安堵する。兄は本当に、凄い人だと。
そしてそれに気付かずに今まで過ごして来たことを情けなく思った。
「気にするなよ」
「でも」
「俺だって、男なんだ……負け続けてばかりで、お前を守れないことが悔しかったさ。だから言えなかった。知られたくなかったからな。隠していたんだ。だから理愛が知らないのは当然。気付かないのも当然だ。だから、気にすることは、ない」
一気にコーヒーを飲み干して空っぽのカップを洗う。そして理愛をキッチンへ誘う際に受け取ったクリームシチューのルウを鍋の中へ投入していた。
男だから、無様な姿を見せたくは無い。わかりやすいプライド。子供だったから尚更だろう。それでも理愛は雪哉が怪我をして帰ってくる姿を何度も見ていた。その姿を見て、おかしいと気付かないのも最低だろう。自分の為にこうして傷を負いながら戦っている兄を放置し、自分はただ周囲の視線から、言葉から逃れる事で精一杯で、何一つ兄の事を考えずに生きていた事だけは余りにも心が醜悪すぎて辛かった。兄だけがと、兄がいればと、それはあの地獄を目の当たりにし、両親を喪った瞬間から思っていた事だった。それなのに、兄はずっと理愛の為に動いていたというのに、自分は何をした。何を雪哉にしてあげたのだろう……何もない。そう思うと、心が痛い。
「それに、お前も何もしていないわけがないだろう」
そうやって雪哉は包帯を巻いた左腕を見せる。
「お前は俺に「腕」をくれた。俺の「妹」になってくれた。それだけで十分だ」
失ってしまったものを理愛は与えてくれたのだ。それ以外は何もいらない。求めていない。此処にいてくれればそれでいい。
「だから、俺から離れないでくれ。情けないけれど、俺はお前がいないと困る」
「それは、勿論です」
人ではなく結晶であるという事実すらも「兄妹」という関係を壊すことはなかった。そして雪哉は命を賭して戦い、理愛もまた共に戦えた。一緒ならば先に進めるのなら、いつか理愛は自分を知ることが出来ると信じているから。
一人なら怖くて、辛くて、不安に打ちひしがれても、こうして雪哉が近くにいることを認識する度にその心は強くなる。
「ところで理愛……もうすぐ林間学校だったな」
「ええ、そうですけど」
鍋の中身を回しながら雪哉は言う。いきなり話題を変えたということは、この話は終わりということなのだろう。けれど気にするなと言われて、その言葉通りに生きる事が出来るのならばどれだけ楽か。だが雪哉も話題を変えてしまった。理愛はもう何も言えない。
「理愛は林間学校、独りか? 班行動だと思うんだが大丈夫か?」
林間学校には雪哉も去年、参加している。大体どんなことをするのかは知っている。林間学校では集団行動が基本である。孤独を好む理愛にとっては耐え難い行事であろう。それでも問題は無い。自分はそこにいるだけ。嫌な時間だっていつか終わるから、だからただその時を過ごすだけ。
「大丈夫ですよ、わたしは大丈夫」
何の確証も無く、説得力だってあるわけが無く、ただそんな言葉を吐いてしまう。
「誰か頼れる子はいないか?」
「知っているでしょう、兄さん……わたしに友達はいませんよ」
理愛は友達を作らない。それは心の傷がさせる理愛の行動原理。
そしてそれは雪哉も知っていた事だ。今更、聞かれても――と理愛は目を伏せる。
「兄さんはわたしにどうして、欲しいのですか?」
どうしてそんな事を聞くのか逆に気になってしまってついそんなことを言ってしまう。すると雪哉はピタリと動きを止め、左手を顔に当てている。「いつもの」ポージングをしている。
「何もしなくていいさ、俺が何かしろだなんて言える立場でもない。できるわけがない。お前をそんな風にしてしまった罪人は俺なのだから」
違う。雪哉は何もしていない。喩え、理愛のことを人外だと呟いた過去があったとしても、もうそれは罪ではない。償われているのだから。その罪を戒める事など必要ないのに。
最初から孤独を好んでいたわけではなかった。誰かと一緒に笑って歩くことを望んでいたのかもしれない。でももうそんなことを思う事は無い。他人と関係を持てば、それはいつか敵になる。心が弱くなる。辛くなる。だから他人の為に合わせる事をしなくてはいけない。それが、出来ない。
「それがお前の生き方ならば、それを誰にも否定はさせない。俺はお前を肯定する。だから俺は「着いて行く」んだ。わかったか?」
「……それって、どういう――」
そんな雪哉の言葉の心理を読み取る事が出来ず、つい理愛は声を掛けようとしたがその時、玄関からチャイムの音が鳴り響いた。二人は顔を見合わせて声を押し殺す。つい先程の襲撃を思い出し、理愛の拭い去れない不安が大きくなる。ここまで来たのだろうか、このまま扉を破り、襲い掛かって来るのでは。そう思うだけで理愛の顔面は蒼白する。だが、そんな理愛の肩に雪哉の手が置かれている。
そして雪哉は首を縦に、理愛は横へ振る。
だが雪哉は理愛の制止を振り切り玄関へ向かって歩いていく。もし敵ならば、どうする。雪哉は玄関の扉に近付いてゆく。
そして――
「ただいまただいまぁ。いやぁ、遅くなったよ。ははっ、腹減ったしぃ! 雪哉くんすぐご飯にしてよ」
そんな不安は杞憂に終わり、現れたのは瀧乃曜嗣だった。いつものようにあどけない厭味ったらしい笑顔のまま、ボロボロの白衣を着た眼鏡の男がそっと立っていた。
雪哉もまた頬を緩めては、曜嗣をキッチンの方へ連れて行く。調理は済ませているが、まだルウを鍋に入れてからは時間は経っていない。雪哉はコンロの前で鍋の中身を回し始める。まだ夕飯が完成していない事に嘆き、曜嗣はそのままコップを取り出して冷蔵庫にあった麦茶を注いでいる。理愛はまるでさっき行われた戦闘が嘘のように思えて仕方が無かった。
曜嗣は何も無かったように家に帰ってきて、理愛はまるで悪い夢でも見ていたような気がしてならない。それでもあれは現実だった。銃を持った黒く武装を施した人間が理愛を拉致しようと襲い掛かって来たことは紛れも無い現実。それを曜嗣が迎撃し、ここまで戻って来たというわけだ。
コップに溢れるほどの麦茶を注いだ曜嗣は喉を鳴らしながら一気に飲み干している。
「もぉ、お腹ぺっこぺこぉなのに餓死したらどうすんの、そんときは葬式してよねぇ!」
「部屋で待っててくださいよ、呼びに行きますから」
曜嗣を宥めるように雪哉は言う。曜嗣は「しょうがないなぁ」なんて言いながら空のコップを流し台に置いて出て行こうとする。理愛は声を掛けるかどうか迷ったが、何も言えないまま曜嗣が理愛の横を過ぎようとした時、
「今日した事はサービス。ここからは大好きなお兄ちゃんに頼って頂戴な」
そして曜嗣は自分の部屋へ戻った。
ほんの短い間だけ騒がしかったキッチン内が静寂へと変わる。
「お皿、出しておきますね」
何を喋っていいのかもわからずに、出た言葉はそれだった。まだ出来上がってもいないのに、急ぎすぎである。だが雪哉は「ああ」とそれだけ言っては鍋を見ている。理愛は食器をテーブルの上に並べていく。
先程の雪哉の言葉を思い出す。林間学校では、きっと独りだろう。それを望んでいる。そしてそうなるとわかっている。
クラスの中では孤立を決め込み、無愛想なその表情と応答のみの返事。それだけで悪印象を与えるには十分だ。これだけで距離を突き放す事は容易だった。だから、これでももう誰も理愛には近付かない。
もうすぐ林間学校が始まる。きっとそれは理愛の最初の試練。ただ耐えるだけでいい。それ以上の事をする必要は無い。時間が過ぎるのを待っていれば、それでいい。
ふと、藍園逢離の顔が浮かんだ。どうしてそこでその顔が浮かんでしまったのか理愛にはわからなかった。
そして逢離の言葉が脳内で再生されていた。友達になりたい。
――なりたく、ない。
その言葉で終止符を打つ事が出来たのに、それが出来なかった。そんなもの必要が無いとあれだけ心の中で決めているクセに、その割にはやけに小心すぎた自分の心の未熟さに苦笑する。どうしても他人を傷付ける言動だけは取れなかった。だから嫌われるように、自分ではなく相手から敵になるようにさえしてしまう。
結局は、どうすればいいかわからない。
そんな簡単な結論。そこに行き着いたとしても、理愛には何も出来ないのだけれども。そしてそれだけはどうしても雪哉に頼る事も出来なかった。雪哉はいつだって理愛の味方なのだろうけれども、ただ譲れなかった。
深く刻まれた癒える事の無い傷が、理愛の他人を信じるというその心を否定していく。友達はいらない。それは敵になる。いつか、きっと、自分を悪く言う。そんなこともう、されたくない。
どうしてそこまで深く、深く考えてしまう。忘れてしまえばいい。最初から捨ててしまえば。その「必要性」の有無に対して考察する事を止めてしまえきっと楽になるのに。
ああ、そうだ、理愛は、友達が、欲しかったのかもしれない。
その感情が理愛の中に芽生えたとしても、それに気付かぬように考えぬように。
逢離の言葉がまた聞こえた気がした。その声さえも、聞こえぬように、わからぬように。
――林間学校が、始まる。