2-5 その意味は識れない
2-5 その意味は識れない
逢離の言葉は、理愛を混乱させる原因となった。
そんな理愛は使われなくなった図書館で一人、本を読み漁っていた。
時代が進み、科学が進化していく中で今では紙媒体の書籍は過去の産物として扱われている。そしてそれは全てデータ化され、携帯情報端末を用いて読むことが主流となっている。今や現人類の常識とされ、携帯電話自体が今やその端末の機能を持っている。
そんな機能が備わっているはずなのだが理愛は機械に疎く、今や常識である携帯電話の使用も兄に繋げる以外の機能しか使っていない。もっと深く言えば使えない。使い方を知らない。受話器を押して電話を掛ける程度が理愛にとっての使い方だ。携帯電話なのだから、それさえ使えれば十分なのではないだろうか? なんて、理愛はメールの画面すら開いた試しが無い。送る相手も、受け取る相手もいないのだからメール機能を使う必要もないのだけれども。ともかく、それ程までに機械というものに触れない理愛であるからして、だから電子書籍を読み漁ることすら出来ないのだ。
だからこそ理愛にとっては図書館は稀少の存在であり、知識を手に入れる数少ない施設でもあった。今や倉庫のような存外な扱いをされているこの場所が勿体無くて堪らない。過去を生きた人は本を読み、知識を吸収したということを忘れたくはない。
では、理愛はこの場所で一体何の知識を手に入れようとしているのか?
「やはり、そんなもの……ありませんよね」
片っ端から見て回ったが理愛が所望する書籍を発見することは出来なかった。
椅子に溜まった埃を掃い、そこに座る。すると机の上を何冊かの本が滑り、理愛の前へ。
理愛はその本を手に取り、表紙を確認する。そこには「友達」という単語が書かれていた。他の本にも「友達」という単語が記されている。
「友達――」
声のする方を見れば、そこには白衣を羽織る一人の男――瀧乃曜嗣だった。
図書館の鍵は彼が持っている。そして図書館を開放して貰うように頼んだのだが勝手に着いて来た。曜嗣の存在を無視し此処まで来たが、理愛の調べ物は曜嗣が先に見つけていた。
「友達とは――喋り、遊び、同じ時間を過ごし、互いの心を許し、共有する者――いやいや何か難しい書き方してるねこれ」
曜嗣が読んでいたのは国語辞典だったのだろうかかなり分厚めの本だった。そして口にしたのは「友達」の意味が書かれていた部分だったのだろう。
そう、理愛はその意味が知りたかった。今更ながらに気になった。
しかし見つけられず、曜嗣に声を掛けたのが事の始まりだった。こんなおかしな頼み事、とてもじゃないが兄には出来なかった。
そう、逢離の行動の意味を知りたかったから。
ただの赤の他人。入学して一ヶ月が経過しているのだから初対面では無いが、それでも声を掛けられたのは初めてで、返事をしたのだって初めてだった。それがいきなり友達になりたいなどと理解に苦しむ。何をしたい。何がしたい。理愛にはわからなかった。そう、友達を作りたいというその感情がわからない。一度、友達というものを作った筈の銀の少女はたった一度の裏切りによってその行為の意味さえわからないものになってしまった。
それを未知とする理愛を嘲笑うように曜嗣は声を上げる。人を小馬鹿にしたような高笑い。机を叩き、本を叩きながら曜嗣は笑う。
「友達の意味を知りたいって言うからさ、さすがのオラチンもどうしたらいいのかわからないっすわ。これで満足?」
辞書を引き、その内容を読んだだけだった。勿論、そんなことで深く知ることなど出来ない。寧ろ、言葉だけの意味ならばとっくに知っている。辞書で探すまでもない。だが、曜嗣には理愛の言葉の意味がわからない。まるで母国語の通じない外の人間と話をしているようにさえ見える。情報の齟齬が生まれ、曜嗣の提供する知識は理愛の欲するモノとは違う。曜嗣の言っている意味は確かに正しいのだけれど、理愛が必要としているものとは大きく掛け離れている。
「そんなことわかってるんです、わたしが知りたいのは――そういう「モノ」を欲しがる思考ですよ」
「ははっ、何それ! なぁにそれぇ! 理愛ちゃん哲学ぅ! なんそれ? もしかして哲学ってる? 高校生の台詞吐いてくれよぉ! その台詞はさすがに引くわぁ、オラチンでも引くわぁ」
理愛の発言は常人からすれば不可解そのものだった。友達を作るというその意味を知りたいなどと、若者のましてや年端もいかない少女の台詞ではない。そんな大人びた、いや、大人でも中々そんな発言はしないであろう理愛の言葉に曜嗣は腹を抱え、大声で笑う。それは嘲笑ではない。爆笑であった。
「面白いね、理愛ちゃんって。これってさぁ、本読まなきゃ意味わからないこと?」
「だから……わからないから、ここにいるんでしょう?」
「ええ? それって変だよ、変すぎぃ! 理愛ちゃんって友達いないの?」
核心に触れられ、理愛は気分を害した。曜嗣とは殆ど口を交わしたことがない。だから理愛のことなど何一つ知らないだろうし、理愛自身も曜嗣のことを何一つ知らない。ただ一つ理愛が言えることは好意などこの男には微塵も湧かない、ただ単に生理的嫌悪という評価だった。
「でもさ、理愛ちゃんはロボットじゃないんだから。情報なり知識で納得できるものなの? 違うでしょうに。そこんとこ履き違えちゃダメっしょ? 識ったところで納得できるモノじゃあ、ないよね」
曜嗣の言うことは正論すぎて、理愛は何も言えない。
どれだけ知識として意味を知ったところで、それで逢離の行動理由までも明らかになるわけがない。そんなことわかっていた。ただ迷ったから、その為に行った逃避だった。けど、
「じゃあ藍園さんはどうして……わたしと友達になりたいん、でしょう?」
「え?」
理愛の発言に曜嗣はついに呆れた。
「いやいや、だから、だぁかぁらぁ、なんなの? なんでそんなこと考えるの? 理愛ちゃんってアホ?」
「誰がアホですか」
大変失礼である。
「別にオラチンがどうこう言って理愛ちゃん納得できる答え上げれないから言わないけどさ、そんなに「怖い」の?」
「なっ――――な、なにが怖いって!」
曜嗣の言葉に逆上し、理愛は凄い勢いで椅子から立ち上がった。勢いが強すぎたせいで、その椅子は倒れ大きな音が図書館に響く。理愛は怨嗟を篭めて曜嗣を睨み付けた。だが曜嗣は口元を尖らせて、笑みを浮かべる。ただその顔が理愛を苛立たせる。今にも胸倉を掴んで殴りに行きそうだった。
「オラチンは理愛ちゃんの過去は知らない。興味もない。どうしてそんなおかしなことを言うのかも、調べたいのかも、別にどうでもいい。けどね、キミに好意なり厚意なりを持った人間がいたことを忘れちゃいけないね。人の心なんて読めない当たり前だ。どうしてそんなことをする? んなもん相手に聞けよ。本、見てわかったらオラチンはとっくにヴァチカン辺りの図書館で一生本読んでる。心が読めるなんて、んなもん出来たらすぐに素敵な未来が待ってるよ。羨ましいねぇ。でもね「ヒト」はそれが出来なくて当然なんだ。出来ないならどうする? 理愛ちゃんみたいに本でも読んでガタガタこんな廃墟に隠れて終わるまで待つ? 無理だろ。なら、どうするんだ?」
今度は曜嗣は立ち上がり、理愛の前に立つ。
大きな身体で、小さな理愛の前に聳え立つ。そして見下ろされる。眼鏡越しに見える鋭い眼光。恐ろしかった。こんな恐ろしいモノと一緒に過ごしていたなんて、身震いが止まらない。全身の毛が逆立ち、理愛は戦慄し、下唇を噛み締める。
「でも、それもわからないからここにいるんだよねぇ? だったらさ、まぁ、時間はまだあるんだ。もう少しだけ考えてみなよ」
身の毛もよだつおぞましさは何処へやら。目の前にいたのは怪物ではなく、ただの白衣を着た男だった。いつものように不審そうに、いつものように不気味に笑み、ただ立っているだけだった。ではさっきいたのは? 考えたくなかった。だから理愛はそのまま倒れた椅子を元の位置に直し、そのまま座った。
「ところで理愛ちゃん」
「は、はい?」
さっきの恐怖の余韻が残っているのかまだ声は震えていた。そんな曜嗣は腹部の辺りを摩りながら、
「下校時間だねぇ、なんかお腹空いたわ。そろそろ帰んない?」
「そうですね……」
下校のチャイムが鳴っていた。
本当に意味の無い行為だったと思う。愚かにも程がある。曜嗣に言われなくてもわかっていたことだったのに。それなのに、それは、きっと、
(わたしが、怖い? 何を、どうして? そんな感情、抱くわけ――)
曜嗣と一緒に図書館を出る。
曜嗣は図書館を施錠し、理愛は空を眺めた。
図書館を出れば暗雲が垂れ込めていた。朝の天気予報の時点で夜から雨が降ると言っていた。夕方までずっと曇りのままだったが限界寸前だった。今にも真っ暗な闇から雨水が零れ落ちて来そう。理愛の鞄の中には備えとして折り畳み傘が入っているので問題はないだろうが。
「ん?」
胸ポケットに入れたままのマナーモードに設定している携帯電話が震えた。理愛の携帯電話のメモリにはたった一人の情報しか登録されていない。
携帯電話のディスプレイを見ればそこには雪哉の名が映し出されていた。すぐに受話器のボタンを押せば、電話越しに兄の声が聞こえる。
「今日の夕飯はシチューにしようと思うのだが」
いきなり今晩の夕食のメニューを口にする。家事全般は雪哉の仕事。夕飯も当然、雪哉が作る。逆に理愛は何をしているのかと言えば、何もしていない。何もさしてくれないと言った方が正しいか。そのせいで理愛は料理を作ることが出来ない。なら洗濯や掃除だけでもと雪哉の負担を少しでも減らしてあげたかったが、雪哉自身は趣味だと――そんな一言で理愛の提案は却下され、片付けられた。だから甘んじている。理愛は雪哉に依存する。
「ではクリームシチューでお願いします」
「そこで悪いがシチューのなんだ、あれはルウでいいのか? とにかくあれを買って来てくれるか?」
「市販のですか?」
「悪いが俺は料理を作る上で材料や調味料を厳選して、一から作る程のこだわりがあるわけではない。俺は料理人ではないからな」
「そりゃ、まぁ……兄さんが作るカレーだって市販のルウを使ってますしね。わたしも別に気にしませんけど」
美味しければそれでいい。理愛も雪哉も料理に関してはそこまでの考えしか持っていない。食材から調味料に当たるまでありとあらゆるルールを持って料理を作るわけでもなく、ただ美味しくだけをモットーにしているだけであって、無駄に細かなこだわりを持っているわけではない。そんなことに毎日気に掛ける程に料理を作るという行為を楽しんでいるわけでもないのだから。ましてや理愛は「作る」のではなく「食べる」側の人間だ。文句を言う筋合いなど存在しない。寧ろ文句を言おうなど思わないが。
それから他に必要な具材を聞いて、受話器を切った。少し帰りは遅くなるがスーパーに寄る必要がある。携帯電話を胸ポケットに戻し、理愛は歩く。曜嗣は放置する。
「何? 今日シチュー? いいね、早く帰ろうすぐ帰ろうお家に帰ろう」
「ルウが無いので買いに行きます」
「ええ? 肝心のヤツ無いのかよぉ」
「先に帰ってくれてもいいんですよ?」
「いんや、このまま帰ってもメシ無いんでしょ? それ無いとダメなんでしょ? 一緒に行くよ」
「でも瀧乃さんって仕事があるんじゃ……」
「無いよ。給料泥棒だねぇホント」
早退と言うのかは定かではないが社会人としてあるまじき行為である。理愛からすれば曜嗣の行いは反面教師であり、こんなダメな大人にはなるまいと誓わせてくれる。だが理愛が曜嗣を裁く力を持ってはいない。目の前で不正を行っている大人を黙って見過ごすことしか出来ず、それが自分の保護者であるということが余計に悲しい。
しかし何か出来るわけも無く、そのまま理愛は後ろから付いて来る曜嗣を無視してスーパーに向かうのだった。