2-4 いつか敵になるのなら
2-4 いつか敵になるのなら
理愛は最初から嫌悪していたわけではない。
きっと悪意なんてモノを抱かぬように、生きて来れた筈だ。
この銀に憎悪が生まれたのは、兄の言葉がきっかけだったのかもしれない。
兄が初めて理愛を見て言った無垢なる言葉は「へんないろのかみ」だった。一切の色を無関係のものとし、銀であろうが黒であろうがそんなものがこの世界に関係無いと信じていた理愛の価値観を崩壊させた一言だった。
しかしそれは決定打ではなかった。
何故なら、それでも兄は理愛を「妹」として迎えてくれたからだ。きっとそれは兄の逃避だったのかもしれない。縋るものが全て消えて無くなってしまったから、最後に残った「紛い物」を選んだのかもしれない。
でも、それでもいい。どんな理由であっても「家族」になれるのならそれでいい。理愛はそれでよかったのだ。だから、理愛は自分のことを嫌いにならずに済んだのだ。
なら、どうしてそんな歪んだ性格になってしまったのか?
それは兄と「家族」になってからだった。
始まりが、理愛の心を歪曲させてしまった。救済の日を越えて、新しい世界を見つけた筈の理愛にとってそれは皮肉のような。
やはり幼さはただ純真であり、小学時代に真っ先に理愛の容姿はからかわれた。それだけならよかった。問題は後からやって来るのだ。
中学時代、そう、それが本当に決定打。
そこで致命的な心の傷を負ってしまった。
友達ができた。
本当に心の底から嬉しかった。
こんな自分に親しくなってくれる人がいるなんてと、神に感謝する程だった。楽しかった。ただ銀の髪を汚らわしく、銀の瞳を不快めいて、常に向けられる負の感情に逃げたかった理愛にとって最初の友達は、本当に掛け替えの無いものだった。宝物だった。
否定された。
それは唐突に否定された。
いつものように理愛をからかう連中と一緒に理愛を指差し笑っていた。理愛は何もしていない。何もしていないのなら、どうして「友達」は、理愛を蔑んでいたのだろう。
今となってはもう理由さえ、どうでもよくなってしまった。
それはただ興味本位で、くだらない理由だけで人の心に土足で入り込み、理愛を蹂躙したに他ならない。どうして銀色なのか、そんなこと理愛自身が知りたかった。生まれた頃からこうなのだから。
裏切られた。いつしか周囲が敵に見えた。誰も信じるな。接近を許すな。心の領土を侵す者を迎撃しろ。だから全てが敵になった。
それが時任理愛の今の心を形成することとなる。他人を信じることは出来ない。友達は出来ない。敵だけが出来る。雪哉だけでいい。それだけでいい。それしか――
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
最高の居場所を、発見したと思う。
理愛は他人には決して見せぬ満足げな表情を浮かべ腰を下ろした。
それは月下虹子に誘われた屋上がきっかけだったろう。
屋上は不可侵。
開放されていない場所へ足を踏み入れることは許されていない。当然、勝手に入り込まないように厳重に施錠されている。その扉の向こう側は理愛にとってとても魅力的であり、誰の顔も見なくていい、誰にもこの顔を見られないであろう完璧な孤立になれる楽園にさえ思える場所だった。
だがその先へ進む扉は堅く閉ざされ、鍵を破壊してまで侵入する価値があるのかとすれば諦めるという選択をしてしまう。
だが、そう簡単に諦めたのには理由がある。
この屋上へ進む階段の真後ろ、そこは死角となっている。だからその場所を理愛は自分の陣地と決めた。理愛の学校には食堂もあるが、あんな人間の海に呑まれるようなそんな自殺はしたくない。そんな場所へ行けば奇異の視線で刺殺されそうなおぞましさしか感じない。
だから理愛は孤独を望んだ。理愛にとっては昼休みなど要らぬ時間だった。ただ授業だけ受けて帰らせて欲しかった。拘束し、束縛し、そして解放されて終わるだけでいい。教育機関の在り方を恨んだ。休憩とは自由だ。一個人の人間が常識の範囲内で思い通りに行動することが許される。要らない。そんなものは要らない。自由は要らない。だって、その自由さが理愛にとっては不自由だったから。
孤独であることには何ら迷いはないが、その孤立する理愛に興味を持って接近する人間が少なからずいるということが何より面倒だった。「違う」ということが、それだけで関心をそそる。誰が決めたのだろうか。どうして理愛の髪は瞳は、こうも違うのだろうか。
だから呪った。
何者も、一片の興味を示すことの無い、「無」を演出し、「存在しない」ように教室を抜け出し、屋上に続く階段の隙間に隠れるように昼食を取ろうとする理愛の前に、別の人間がいるということを。
「一緒にゴハン食べないって誘おうとしたんだけど、先にいなくなるから追いかけちゃった」
リノリウムの床に腰を落とし、昼食を取ろうとするそんな理愛の前には藍園逢離が立っていた。
理愛は今まさに袋の口を開き、中身を取り出そうとしていたのだが声をかけられた拍子に石のように動かなくなった。気がつかなかった。自分の新しい孤独の為の空間に赴くことだけを考えていたから。
理愛は嘆いた。
どうしてついて来るのだと、これでは二人っきりになってしまう。こんな時間にしかもこんな場所、誰もやっては来ない。それがいいのに、それだけを愉しみにしていたのに。
だから今頃は教室なりなんなり好きな場所で楽しく会話でもしながら食事でもしていればいいのだ。そうしてくれれば誰もが理愛のことを忘れ、理愛は孤立できる。それなのにこの場所にどうして自分以外の人間がいるのだと。そんな理愛の嘆きに気付く様子も無く、逢離は理愛の真正面に立ってはパンパンに膨れた白いビニール袋から紙パックのコーヒー牛乳と、大量の菓子パンを並べていく。
「時任さん、どれがいい? 出来たらメロンパンかカレーパン以外にしてくれると助かるかも」
目の前の理愛に意識を向けている割には理愛のことを完全に無視して一人で会話を進めていく。何も言っていないのに、理愛の膝元に三色パンとチョココロネを置いている。
「お弁当が……ありますので結構です」
頑なに拒絶した。
理愛は袋から小さな弁当箱を取り出し、逢離が置いたパンをビニール袋に戻す。
「ああ、お米派? ごめんごめん、でもあたしだってパンよりお米の方が好きだよ。いや、食べられるモノならなんだって好きなんだけどね、それにしてもおいしそうだなぁ、あたしも料理出来たらなぁ、羨ましいよ。時任さんは料理上手なんだね」
「いえ」
それは違う。
不正な評価だったのでさすがにそこは正さなくてはと理愛は口を開いた。
他人に自ら声を掛けるなどと、そんなことはしたくなかったのだが正しいことだけをしたいという理愛の信念は曲げられない。
「これは、兄が作ったモノです。わたしは食べるだけです」
なんとこの小さな弁当箱の中身、おかずから白米まで全て兄である時任雪哉の作品である。あの容姿、あの性格の割に料理や裁縫といった家庭観丸出しの母のような真似をする。しかし妹の分しか作らないのは単純に理愛の為である。そう思うとやはり妹に対しての執着が不気味な程に強い男である。
「お兄さんいたんだ……へぇ、それにしてもおいしそう」
近い。近過ぎる。
いつの間にか逢離は理愛の持つ弁当を覗き込んでいた。理愛はその弁当を逢離の見えない位置へ。そして明らかな敵意を向けた視線を浴びせる。
「なんですか、いきなり――」
「ああ、ごめん。ホントは独りの方がよかった?」
わかりきった事を聞くなと理愛は黙ったまま首を縦に。すると、逢離は肩で息をしてはビニール袋に菓子パンを戻していく。理解してもらえたと理愛は安堵したのだが、逢離は確かに菓子パンはビニール袋に戻したものの、その場を立ち去ろうとはしなかった。
「ごめんね」
「それなら――」
それなら早くここから立ち去れと、そう言いたかった。
しかし人間という「全」が嫌いであって、逢離という「個」が嫌いというわけではない理愛が直接、逢離を拒絶することは難しかった。
逢離は理愛の真正面の位置に立ったまま壁に凭れ掛かった。先程よりか幾分は離れたが、それでも理愛の視界に入っていることには変わりない。これでは孤独になれない。孤立を望む理愛にとって、立ち去ることのしない逢離は邪魔でしかない。何か不穏な動きを見せれば排除する気でいたが、十分に離れている為か座ったままの理愛ではどうすることも出来ない。
溜息を吐き、理愛は黙殺を決め込み、逢離を視界から外した。いないことにする。今はもうそうすることしか出来ない。逢離は何も言わなかった。ビニール袋に戻した菓子パンを今度は自分の膝の上へ。口が開いたままのコーヒー牛乳にストローを挿している。このままこの場所から立ち去ることはないようだ。理愛も無視を決め込み、箸を取り出す。
雪哉の作った弁当は相変わらず美味しかった。中学時代から給食がなかった為、雪哉が理愛の昼食を作ってくれた。理愛が中学の頃、雪哉だって中学生だった。それなのに理愛の為に弁当を作った。それは理愛に対しての贖罪の一つだったのだろうか。幼い頃の雪哉が無い知恵を振り絞って出た罪を償う行為の一つが理愛の為にしてやれること、全てをすることだった。
しかし力も無い、知恵も無い。何も無い。そんな無能な雪哉が理愛にした出来たこと――それが弁当を作ることだった。
最初こそ形の悪い、世辞にも美味そうには見えない見栄えの悪いモノだった。だが時間が経てば、経験を重ねれば立派へと昇華する。定番すぎる目玉焼きも、今では海苔が中に仕込んであったりする。形も整って、均一に一口サイズで切られてある。甘い方がいいと言った理愛の言葉を忘れぬように少量の砂糖で甘めの味になっている。
それをゆっくりと口に運ぶ。今日もいつもと変わらぬ文句のつけようの無い良い味だった。それなのに、違和感が折角の幸福を台無しにしてしまう。
チラリと一瞬だけ逢離を見れば、逢離はメロンパンを平らげてカレーパンの封を切っている。そして目と目が合ってしまう。理愛は見ていないように装い、すぐに視線を逸らすが逢離は口元を綻ばせては取り出したカレーパンを千切って口の中へ。
雪哉が作ってくれた弁当を毎日の楽しみにしているというのに、これでは楽しめない。いつもなら勢い良く食べ尽くすのだが、箸の進みは悪い。いつの間にか八割以上が残ったまま、そんな食べかけの弁当の中身を見つめていた。
「食べないの?」
「いえ」
箸が進まない理愛を見て逢離が尋ねる。だが理愛はすぐに言葉を返す。素っ気無いまま、瞬間で会話が終わる。不快に思えばいい、愛想の無い女だと思って早急に消えてしまえと理愛は心の中まで冷たいまま。
「時任さんは、あたしのこと嫌い?」
「いえ」
返って来た言葉は逢離自身の評価に対して。
しかしそんなわけない。嫌い以前のものなのだ。
だってそれは藍園逢離という個に対して嫌悪しているわけではないから。
「藍園さんが嫌いじゃないんです。わたしは、人間が嫌いなんです」
「よかった」
逢離は安心し、安堵の息を吐いては微笑んだ。それがあまりにもおかしくて、つい言葉を紡いでしまう。
「どうしてですか?」
「だって「あたし」が嫌いならきっと諦められるけど、「それ」だとまだ諦めなくていいから」
そのままカレーパンも食べ終えて、ゆっくりと立ち上がる。まだビニール袋の中には菓子パンが詰め込まれていた。あの量を全て食べるのだろうか? 気にはなったが聞くことはしない。
だって、そんなことをすれば逢離はきっと返事をするに決まっているから。逢離は理愛と友達になりたいのかもしれない。印象的に悪い人間ではないと、理愛は思った。寧ろ「良い」に分類される。屈託無い笑み、真っ直ぐな気持ち。一緒にご飯を食べたかったというその気持ちを言葉にして伝えてくるその姿勢。理愛には真似の出来ないことだ。羨ましいと思う。
「時任さん、あたしね、時任さんの友達になりたいんだけどダメかな?」
「それは……」
いきなりそんなことを言われても困る。
そして答えは決まっている。
友達なんて、いらない。
どうしてそんなことを言うのか、どうして友達になりたいのか、不可解すぎた。
「どうして、そんなことを?」
「どうしてって、それって理由がいるのかな?」
そんな逢離の言葉に更に謎は深まるばかりだった。
いつか裏切るのなら、いつか敵になるのなら、そんなモノは最初からいなくていいのだ。
だから、「藍園逢離」だって理愛はいらないのだ。
理愛がそれを欲することは、絶対にあってはならないのだ。
「ごめんなさい」
だから理愛は逢離に謝罪したのだった。