1―20 塞げ、言葉(エピローグ)
1―20 塞げ、言葉
深淵があった。
闇黒の中、小さな光が見えた。
そんな小さな光を今まさに喰い潰そうとする闇の下で、大きな円卓に座る人影。
そんな円卓を囲むように座り、声が並ぶようにして上げられる。端から聞けば、何を言っているのか、何を喋っているのかわからない程に、早く言葉が上げられる。そんな戦場のように激しい轟音を、会話と呼ぶのは間違いなのかもしれない。だが、言葉はただ乱雑に撒かれていく。
「やはりこうなってしまったね」「ははっ、いいじゃないか。順調ではないかな」「いやはや、本物には勝てないか。力も、絆も、全てが劣るか」「妹役を当てて、兄に仕立て上げたつもりだったが、やはり脳味噌を少し弄ったぐらいでは、あの子らを止めることはできないようだな」「酷いことを」「どれだけ此方が小細工をしたところで、あれは出鱈目だ」「星に手は届かない、わかりやすい存在ですよねぇ」「嘘の席に座らせた時点で、敗北は決まっていたよ。無駄だったかね?」「いいえ、成功ですよ。無駄ではないです。十分すぎますね、成功です」「そうか、それならよかった」「……それで、どうする?」「ははっ、そうだねぇ、じゃあ次は自分が組みましょうかね?」「君は少々、やり過ぎるところがあるが、今は人手不足だ。すまないが頼めるかね」「ええ、構わないよ。そろそろ新しい玩具が欲しいと思っていたところでして」「頼むから、君の持っているアレと同じようなことはしないでくれよ、使いモノにならない――なんて、そんなことになってしまったら大変だ」「そうですねぇ、自分としても別にアレの強弱は関係ありませんので、ついついやりすぎてしまって。でも安心してください、ちょっとだけ壊すだけなら問題ないでしょう? やりすぎて壊してしまっては自分が危ないですしね」「次はいつ?」「近々」「早急」「まぁ、待ちたまえ」「そうだなぁ、まぁ、少しだけ時間を上げてもよろしいのでは?」「今回だけは特別に」「確かにここまで来るのに少々、急ぎ足だったかと」「とにかくちょっとだけ待ってあげよう」「そうだな、まだ時間はあるか」「我慢できないね」「ちっとも」「でも、少し待つ」「しかし、こうも上手くいくと、怖いものですね」「まぁ、いいでしょう」「そうですね」
そしてあれだけ激しかった音が急に止む。
時間が止まる。全てが止まる。
「諸君、もうしばらくの辛抱だ。永遠に近付く為に、今しばらくの猶予を」
注がれるは赤い液体。それは酒だった。
「では、「いつか来る永遠の日」の為に――」
そしてその言葉と共に、合掌し、その血のような赤いワインを呑み干した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ここは……」
目を覚ませば、いつぞや雨弓の凶弾で腹部を撃ち抜かれた時に運ばれた病院だった。
左腕には聖骸布が巻かれていた。いや、ほぼ全身に包帯が巻かれている。これでは重症患者だ。ダンプカーにでも撥ねられたか、なんて、雪哉はすぐに思い出す。
日常を掛け離れた非日常と対面していた。非現実を駆け抜けていた。左腕はまるで封印されたように白い布が異常を包み隠している。そして右腕は――「人間」のモノに戻っていた。
思ったより見た目はミイラのようにグルグルに巻かれているせいか酷く見えるが、案外身体はよく動く。痛いというより「重い」のだ。気だるいだけで、動こうとするその意思さえ抱けば難無く身体は動いた。そして鏡を取れば、髪も瞳も半身銀と化していたその異形がまるで嘘のようだった。
眩しかった。
外が、空が。何もかもが、眩しかった。
朝だった。
この陽射しを見る為に生きていたのだろうか。理愛が消えて無くなったままならば、もうこの陽日を見ることも出来なかっただろう。あれだけ死ぬことさえ厭わなかった雪哉が、今もこうして現世に存命している。
まるで諧謔。どれだけ眠っていたのかはわからない。しかし目を閉じる前、あの夜。理愛と共に飛翔したあの日、まるで絵空事のような、そんな世界で、戦い、勝ち、前へ進んだ。
だから、日常がある。
そして――
「よっ、生きてるぅ!」
パイプ椅子の背凭れに身体を預け、胡乱という腐った臭気を放つ男。
瀧乃曜嗣だった。
朝日を拝むのも忘れて雪哉はその胡散臭い男を不審げな瞳で見詰めてしまった。
「いやぁ、理愛ちゃんから電話があった時は驚いたね。行ってみれば雪哉くん、ほぼ上半身裸でしかも血塗れで寝てるもんだから、オラチンの口から言えない凄いことしてたと思ってね」
相変わらずだった。
道化が雪哉の前にいる。けれどそれは恩人。どれだけ不気味でも、疑わしい人間であっても、侮蔑を口にしてはいけない。
「程々にしてよぉ、連載できなくなってもしらないよぉ?」
「勝手に俺の人生を書籍にしないでください」
「まぁ、まぁ、そう言わずに、生きててよかったねぇ。さっさと実感してよねぇ」
「それは――」
言い切るより早く、曜嗣の言葉の意味を理解する。
雪哉のベットの横、小さな机に突っ伏して、頬の肉が押し潰れるぐらいにそれは可愛げな寝息を立てて眠っている。理愛が寝ていたのだ。
「シィーっ」
曜嗣が人差し指を口に当てて、息を漏らしていた。
静かにしろとでも言いたいのだろうが、その本人が騒いでいたようにも思えたので納得できない。
そんな片目を閉じて、人差し指を立てる曜嗣が小さく口出す。
「芸術的だよねぇ、まるで聖母だぁ。理愛ちゃんって可愛いよね、ね? 雪哉くん」
「ええ」
否定する気など微塵もないので、すかさず答える。
「オラチンの嫁さんにしたい」
「芸術的な頭脳構造ですね、くたばれ」
曜嗣の発言を完全否定しつつ、死刑宣告しておく。
今はただ陽の光よりも、理愛に視線を。
これだ、これを守る為に雪哉は戦ったのだ。そしてここまで来れた。幾度と無く試練は雪哉を襲ったものの、こうして何も失わずに来れたのだけは奇跡だろうか。
いや、それは違う。雪哉は首を横に振る。
これは勝ち取ったものだ。必然だ。決まっていたことだ。
雪哉は最後まで選んだ。
だから、これは、そう――選出だ。
雪哉は選ばれたのだ。
勝者は先へ進むことが出来る。そしてこれからも勝ち続けなければいけない。理愛を狙う輩がいるのなら、その脅威は退かなければいけない。戦わなければいけない。いけない。
けれど、今は勝者の余韻に浸らせて欲しいと、雪哉は理愛の寝顔をジっと見る。何の為に逸脱のか、ただの無能力者が、何の力も持たぬ、出来損ないが、ただ与えられた力だけで、その先へ進もうとするのか、
「理愛と、一緒に……居たい、それだけなんだ」
それは単純明快で、至極当然のよう。同じ、だろう。そうだろう。それでいい。
たったそれだけの理由。小さな覚悟を胸に、信念一つで、世界の反転さえ耐えられる。
そっと雪哉の銀髪に触れた。
滑らかな絹のような感触。川のように流れるその長い銀にいつまでも触れていたいと指先がその銀の上を流れていく。そして毛先まで指は伝い、やがて離れていく。
「んんっ……兄さ、ん?」
理愛はゆっくりと目蓋を開け、目尻を指で擦る。口を開き、その欠伸を両手で隠している。
そんな理愛を雪哉はただ黙って見ていることしか出来なかった。何と声をかけていいのか、こんなにも近くて遠い。この不可解な距離感をどうすれば縮められるのだろうかと、雪哉は眉間に皺を寄せる。
「兄さん、あれから「また」一週間も寝ていたんですよ」
だがそんな距離感は容易く零になる。だって動いたのは理愛だったから。
立ち上がると、理愛は雪哉の横へ。
「まったく、心配させないでくださいよ。そりゃあ……「前」と比べればまだ我慢できましたけど」
結局、曜嗣に言われた一週間の謹慎の倍の時間、雪哉は学校に行かなかった。行けなかったと言うべきだろうか。しかし学年が上がったばかりだというのに学業を疎かにしては、後に繋がってしまう。自業自得だ。受け入れるしかない。それでも、今はそんなことで後悔している場合ではない。
「あ、瀧乃さん」
不機嫌そうに苦言を並べながら、理愛は腕を組む。そして曜嗣が視界に入るとその腕を解いてペコリと会釈。
「やぁ理愛ちゃんおはよう」
そして曜嗣は椅子から離れ、いつの間にやらタロットカードを何度も切りながら病室から退出しようとする。
「じゃあオラチンは帰るよ。ト○ネで録ったアニメ見ないと」
そう言って、手を振り病室のドアに向かって、
「選んだんだろう? 進めよ」
いつもとは違う真面目な口調。
茶化すようないつもの調子でもなく、欹てなければ聞こえない声。だがその言葉を雪哉ははっきりとしっかりとその耳で聞いていた。言われるまでもないと、雪哉は一切の反応を見せず無表情のまま、ただ黙止した。
曜嗣は、病室を退出した。
「今回ばかりは瀧乃さんにも感謝してます」
曜嗣のことはいつも悪いように言う理愛が世辞を言うのはかなり珍しい。
「俺を負ぶさってくれたとか?」
「まぁ、その通りです」
この辺りの話は過去のことだ。血塗れで上半身裸で倒れていた、などと無様な姿を見せていたことは曜嗣から聞いている。だからもうこれ以上格好の悪い話はしたくない。雪哉はそれ以上は聞くことはせずこの話はここで切り上げる。
――とは言うものの、やはり雪哉から会話を切り出すのは難易度が高いようで。
瞬間で距離を零にしてくれた理愛も黙り、気まずい空気だけが流れていた。立っていた理愛は自分が座って椅子に腰掛けていた。
やはり、気まずい。
おかしい。兄妹だろうに。どうしていつものように軽い気持ちで会話を切り出せぬのか。
相変わらず無能な兄の姿が、そこにはあった。
「兄さん、お身体のほうはいかがですか?」
「大事無い、と思う。見た目は大袈裟だが痛みはない。大丈夫だ」
そう言って、手を上げてみる。
本当に痛みは無かった。裂かれたし、折れもした。身体は酷使し、壊死れもした。それでも今、こうして病室のベットの上で五体満足のまま生きている。
しかし、会話はここで途切れた。
「きょ、今日「も」いい天気ですね」
理愛が気を利かせてそう言ったのだが、よもや会話の出だしが詰まったとしてこんな切り出し方を使うとは思わなかった。しかし、
「今日も? 昨日「も」晴天だったのか?」
雪哉が目を覚ましたのは今日。昨日の天候は存じていない。雪哉の言い回しに理愛は気がついたのか、申し訳なさそうな顔をして床を見つめている。雪哉はしまったと思いつつも、吐いた言葉は呑み込めない。取り返しもつかないので逃げるように黙殺することにした。
「昨日は、雨でした」
「ああ……そうか……」
致命的すぎる。
結局、ここで再度会話が途切れてしまう。
弾を撃てば不発する理愛に、そもそも装填する弾がない雪哉。状況は最悪だった。
数分程、経過しただけだったが正直雪哉は息が詰まりそうだった。白いベットの上で溺死したくはない。とにかく、何でもいい。雪哉は小さく呼吸を整える。
「兄さんにお願いがあります」
意を決した雪哉だったが、その覚悟は徒労に終わった。
やはり最後まで先手を打って来るのは理愛だった。
「言ってみろ」
「二つも、あります」
「いい、言ってみろ」
「わたしは、兄さんの妹でいてもいいですか?」
「それは願いではない。叶っているのなら、願いとは違う。そういうことは言うな。聞きたくない」
雪哉は鋭利な刃物のような言葉で理愛の願望を切り捨てた。
聞きたくはないのだ。それは雪哉の願いだから。自分が兄でいいのかなどと、そう思う。だが、雪哉もまたそんな言葉を吐くことはない。その言葉は自分の弱さを口にすることだから。だから、理愛のそんな台詞が、まるで自分の台詞のように聞こえて、理愛を叱咤する為に雪哉は返答したのではない。自分の弱さを違う声で聞かされているような、そんな気がしたから。だから、聞きたくなかったのだ。
「では、一つだけ」
「それでいい」
理愛は床に視線を向けたまま、雪哉を見ずにスカートを両手で握る。そんな強く握っては、皺になってしまう。止めろと言いたかったが、雪哉はただ理愛の次なる言葉を口にすることだけを待った。
「わたしが何なのかわかりません。花晶だなんてよくわからないですし、生まれた頃の記憶は殆どないです。わたしの記憶は兄さんの「妹」になれたあの日からしかないと言ってもいいです。だからわたし、何のかわかりません」
理愛が立て続けに言葉を流す。その言葉の濁流を雪哉はただ受け止めるだけ。
「わたしは、「わたし」を知りたい。だから、兄さん、わたしと一緒に探してくれますか?」
「それならお安い御用だ」
自分がわからない。未知という存在。それはとても恐ろしいことだ。
自分が何なのかなんて、そんなのおぞましいじゃないか。
結晶の子。種を超える花の結晶。生きた結晶。「行き」続ける結晶。
異常なまでな力が、世界を変えてしまう。
理愛が雪哉と同じ高校へ入学して、たった一ヶ月。
雪哉も理愛も、生き方を随分変えられてしまった。
たった一度の戦闘で全てが終わったとは思えない。それでも、今はまだ。
だからこの戦いは、手に入れる為の戦い。
平穏を、記憶を、全てを手に入れる為の戦い。
理愛の銀の瞳に意志の光は強く、雪哉は返す言葉が見当たらなかった。
それが理愛の願いならば、叶えてやれるのならば、こんな自分でよければ、なんて――そう思う。
だが、それだけなのだろうか?
願いを叶える為の助力を貸すだけで、いいのか?
それは違う。
「なら、俺の願いも叶えてくれるか?」
「ええ、わたしが出来ることならなんでも」
それなら何だって出来るな、と雪哉は心の中で呟く。
「理愛」
「はい?」
「好きだ」
「はい、……………………………………はいっ!?」
頷いたと思ったら、頷きながら理愛は大声を上げていた。病院では静粛に。後で看護婦が飛び出して来て、怒られたとしてもそれは雪哉のせいではない。原因は雪哉にあるだろうが。
「い、いきなり何を言ってるんですか!」
「いや、本当のことだ」
事実だ。
血は繋がらず、人としての繋がりも無く、人間の兄と結晶の妹という関係。
ずっと守りたい存在。六年前の地獄から生きる意味をくれた存在。左腕を、絆をくれた。与えてくれた、掛け替えの無い――妹。
だから好きだ。この想いに偽りは無く、喩え世界がそれを狂っていると選別しても、世界という天秤から堕ちたとしても、それは世界の分別でしかない。雪哉は此処にいる。理愛の手を取る。躊躇いなんて最初から無い。嘆きなんて吐いた覚えも無い。
何処までも往ける。
でも、それには理愛が必要だ。だから、
「理愛、俺の手を取って欲しい。これからも、この先も」
信じて欲しい。
それだけだった。
格好の悪い処ばかり見せて来た。無様で、滑稽で、軽蔑され、唾棄されてもおかしくない姿ばかり見せて来てしまった。それでも、信じて欲しかった。
だから、雪哉の言葉は切望だった。
理愛を失うことが、終焉だから。この手を取ってくれるだけでいい。それだけで先へ進める。
「死ね」
そんな雪哉の言葉に理愛は辛辣な一言と剣呑な視線で責め立てる。
「そんなこと言わなくていいです、兄さん。わたしは兄さんと一緒にいたいだけなんですから」
その手が包帯で包まれた雪哉の傷ついた手を握る。
冷たく、氷のような手。けれど、この冷たさが、今は心地良い。
終わらない。まだ、終わらない。終わりにはまだ早い。
まだ始まったばかりなのだから――
「べ、べべべべ別に、兄さんのことが好きだからとか、そんなんじゃないんですから。そ、そりゃあ、兄さんのさっきの台詞はび、びびっくりしましたけどどど、ともかく、わたしはですね、そのですね、ああ、なんですかね――」
言葉が破綻していた。最後まで言い切れていない。
そんな狼狽する理愛の表情を見て、雪哉の頬は緩み、口元が綻ぶ。
ああ、その顔が見たかった。その顔だけを見ていたい。
雪哉は理愛の頭を撫で、そして自分の顔へ近付けた。
そしてそっと理愛の言葉を、塞いだ。
[prologue. -了-]
一ヶ月とちょっとでしたが、ありがとうございました。
こんな感じですが、まだなんか続きそうです。