1―2 兄妹
1―2 兄妹
――あの絶望から六年。
季節は春。桜咲く並木道を背に二人の男女が歩いていた。
男の名は時任雪哉。今日から新しい学年に上がる。しかし雪哉の容姿はどこか不自然だった。背丈はやや高く、伸ばした背筋は何に対しての自信なのか。そしてやけに伸ばした前髪は片目を覆い隠すほどだった。しかしその奥には鋭い眼光を見せ、闇雲に敵意を向けていた。そんな雪哉の歪さとは真逆の存在がすぐ横にいた。雪哉と肩を並べて歩く少女は雪哉よりもずっと背丈は低く、身長は雪哉の腰元までしかない。そんな少女の身体は小さく細くそれは華奢と言うのだろう。白雪の肌に、そんな肌に負けぬ程の白銀の長髪。穢れなどない白の少女。無垢なる子。そんな清楚な雰囲気だけを形にしたような少女。
少女の名は時任理愛。そう二人は兄妹である。
あの六年前の惨劇、航空機墜落事故。乗員乗客は五百名を遥かに超えていた。しかし生き残ったのは十本の指で数えられる程度だった。日本国内で起きた航空機事故の中でも最多となる驚愕と悔恨の事故となった。その数少ない生き残りが雪哉と理愛である。不幸中の幸いとまるで言葉通りのように二人は無傷で生還した。しかし同乗していた両親は亡くなり、時任家は二人だけになってしまった。色んな人の援助があったおかげで生活もでき、こうして学校にも通えている。心に深い傷を負ったものの、なんとかこうして今を生きている。たった六年、たったの六年で傷が癒えるのかはわからない。しかし、
「世界が犯した過ちを教えてやろう……それは、俺を生かしたことだ」
「兄さんが生きてること自体過ちです」
こんな会話を平気にこなす兄妹に本当に心の傷などあるのだろうかと疑問さえ抱いてしまう。
雪哉は前髪に覆い尽くされた瞳を庇う様に手を翳し、小さく呻き声を上げる。
「――共鳴? なるほどな……魔的であるからこそ、異なった存在との邂逅する確立を増長させるわけか……さしずめ『転回式境界線』と呼ぶべきか?」
「マジ……? きょーかい? ……兄さん、お願いですから横文字と変な言葉を一緒に言うのはやめてください。日本語をお使いになってください、理愛はとっても心配です。兄さんがこのまま妄想しかしなくなるんじゃないかって時たま思うのです」
「案ずるな、理愛よ……俺は死なん」
「いや、そうじゃなくてですね……はぁ……もう死ね」
道路の真ん中に蛆の湧いた死体でも見るような飛び切りの不快感を露わにしたような目で理愛は雪哉を睨み、そして思いっきり死刑宣告した。だがそんな氷のような視線もおぞましい言葉も雪哉は何の反応も示さず、ただ顔に置いた手をずらし、そのまま歩く。二人の身長差は第三者から見ても歴然ではあるが、明らかに雪哉の歩幅は理愛に合わせて踏まれている。理愛はそれを知らないわけがなかった。だが何も言わない。だけど、二人は仲が悪いというわけではない。たった二人の家族。良いも悪いも二人にはない。だから二人はいつものように同じ道を歩く。
「それにその左腕の包帯なんなんですか……ちっともそんなの流行ってる気配なんてないです。外してくださいよ。ちらちら視界に入ってきて鬱陶しいことこの上ないです」
何もかもが不可解すぎる雪哉を象徴づけているのはきっと左腕の肘まで巻かれた包帯にあるのだろう。指先まで巻かれていてまるで大怪我でもしたのかと思わせるほど大袈裟に巻きついている。だがその左腕は思うが侭に、指先の一本一本が雪哉の意思でしっかりと動いている。そんな腕を見せ付けられては怪我をしているとは思えない。なら人に見せられない傷跡を隠しているのか?
「これは朽ちて尚、放出し続ける神の力を抑える為の聖骸布と何ら変わらないんだ。そう易々と触れていいものではないぞ。これを外す時はその者の終わりだけを見せつけるだけだ、わかったのならその手をどけろ」
「……兄さん、本当にこんなことしていられるのも今の内ですよ。さっさとこの包帯も解いて、そのボサボサの長い前髪も切って、ちゃんとした日本語を喋れるようになってください。社会に出た時、どうするんですか?」
こうやっていつも雪哉は妹に諭されるのである。
だが肝心の雪哉はというと聞く耳も持たず、自分自身の描いた設定を夢想し続け、創造された人格。そんな周知に理解されることのない人間性のまま今もこうして雪哉はここにいる。
「はぁ……兄さんの頭の中を覗くためだけにCTスキャンの購入を考えちゃいますよ」
「それでこの俺の深層心理を覗くことができるのか? できないだろう」
「できるわけないですよ。それ以前にそんなもの買うお金もないでしょ。もし買ったとしてもどこに置くんですか。まったくもう……冗談なんですから、もうちょっと気を利かせてくださいよ」
「そうか、そうだったな、すまない」
「謝り方もなんか気持ち悪いし、兄さんは学校で友達とかいるんですか?」
そんな質問にただ黙殺し、黙秘を決め込んだ雪哉にただ呆れて小さな嘆息をもらす理愛。こんな態度しか取れない人間と価値観を共有しようなどと思う物好きはいないだろう。
「なら、理愛はどうなんだ? 友達、いるのか?」
黙っていただけの雪哉が理愛に声をかける。質問を質問で返しているようなものだ。理愛は不満そうに頬を膨らませる。しかし、ゆっくりと選定するように言葉を紡ぐ。
「わたしは……わたしはいいんです、わたしは上手に過ごしますから」
拒絶。必要がないとそう言った。口上こそ緩やかだが、峻拒の意思がはっきりとわかった。雪哉はこれまで理愛と暮らしてきて、友達らしい友達を見たことはなかった。理愛自体、愛想も良く、柔和な関係を築くように、自ら進んで行動している。人間嫌いというわけでもない。けれど最後に必ず距離を置くその様は上辺だけ取り繕っているようにしか見えない。周囲の視線を気にするように、これまでもこれからも理愛は他人に気を遣って生きていきそうだ。
それは人とは違う髪の色と瞳の色だけで十分な理由になる。日本人らしい黒の色からは遠ざかった結晶のような色。人と違うというのは、それだけで異質なのだ。純粋の中に一つ異物を混入するだけで、焦点は定まるものだ。こうして学校への通学路を歩くだけで、実際何度か通りすがりの歩行者が理愛を見ていることは鈍感な雪哉でも確実にわかっていた。そしてそれを気にしていることも雪哉はしっている。しかし雪哉の心の中ではいつも舌を打ちながらこう嘯いているのだ。「くだらない」と。
「人とは違う……それは古なる戒めの力を封じた白き竜の生まれ変わり……さすが我が妹だな」
「わたし、昨日まで普通の中学生だったんですけど」
「そのように振舞って周囲の人間を巻き込まぬようにか……殊勝だな」
「兄さん、わたしまで巻き込まないで。他人に迷惑をかけたらそれこそ兄さんの病気はただの害悪ですよ」
「そんな言葉で俺を罵っても無駄だ。そして俺とお前は他人ではない……兄妹だ」
「もう他人でいいですよ、こんな兄の妹だなんてただの恥ですよ」
「お前の恥も何もかも背負って俺は生きよう」
「勝手に生きててください、わたしは兄さんの顔を見なくていいように遠くへ行きます」
途端に理愛の歩幅は広がり、速度が上がる。もはや競歩にレベルアップしていた。段々と理愛の小さな背中が更に小さくなっていく。それでも雪哉は鼻で笑い、歩き始めた。
「制服姿、似合っているぞ」
「話しかけないでください、あと追いついてこないでください」
どれだけ歩く速度を上げたとしても、明らかな身長差の前では雪哉が理愛に追いつくのは至極当然だろう。それどころか雪哉は半分の力も出してはいない。肩を揺らす程に力いっぱいに歩く理愛には目もくれず、ただ雪哉は理愛と肩を並べて歩いていた。歩く理愛を横目で見れば、そこには新調された制服を着込んだ姿が見える。理愛の着る制服は雪哉が通う学校と同じモノで別に一年早くその学校に通っていたのだから、女子の制服だって見慣れているわけなのだがそれでも妹の制服姿となると見る目も価値観さえも変わるものだ。
似合っているのは本心であり、ただ可憐さを際立たせている。確かに理愛の見た目は常人とは少し違いが生じているかもしれない。銀の髪に銀の瞳。だが理愛の感じている奇異な視線はただ珍しいからだけではないはずだ。異性なら振り返ってでも見つめてしまう美しさを理愛は持っているはずなのだから。雪哉はいつもこうして理愛を過大に評価する。しかしそれはただの過言ではない。誰が見たってきっと理愛に惹かれる。それほどの魅力を理愛は持っているはずなのに、それなのに本人はというと距離を置くことだけを第一に考える自信の無さを見せ付ける。そんなものを見せ付ける必要は無い。魅せることができるのだから、それを前に押し出せばそれだけできっと理愛は変われるはずだ。けれど雪哉はそんな本心をずっと内に隠し続けている。言葉だけで変化をつけることができるのなら、とっくの昔に言っている。理愛自身が気づけなければ意味がない。だから雪哉は信じているのだ。信頼しているのだ。兄妹だから。たった二人だけの、家族なのだから――
「見えてきましたね」
「そうだな」
緩やかな傾斜であっても上り坂。理愛にとっては十分過酷であったろう。そもそも運動は得意ではないし、体力もそんなに無いのに無理をするから。小さく、息を殺すほどに小さく荒い息を零しているのも雪哉は知っていた。けれど、絶対にそのことを指摘しない。ただ無言で手を差し出す。
「転ばれては困るからな、往くぞ」
「兄さんの手を握ってなんて……本当はイヤですけど、仕方ないです、ね」
頬が紅潮していたのは体温が上昇しただけのものなのか、それとも……しかし雪哉は気付かない。あれだけ理愛を見ていても、どんな細かな変化さえも見極めることができるはずなのに、肝心な部分だけ気付かないまま。
そして二人は手を繋ぐ、新たな高校生活が始まろうとしていた。けれどそれが二人の世界を一変させることなど知らぬままに、全てが動き出そうとしていた。