1-18 全能結晶の無能力者(9)
1-18 全能結晶の無能力者(9)
その銀の左腕を掲げ、雪哉は指差す。
だが、そんな雪哉を嘲笑うように虹子はゆっくりと立ち上がる。
そして顔を庇いながら、指と指の隙間から雪哉を睨む。その視線を浴びるだけで呪われてしまいそうな程に、虹子の発するその虹色の瞳は危なげで、おぞましい。
そんな呪詛を放出させながら虹子は痛みに耐えていた。顔面に受けた傷が痛む。痛覚などとっくに忘れていた筈だった。触れれば壊れてしまう。触れるから壊してしまう。そんな絶対無敵。その無敵を超えられたことが顔の痛みより痛い。心が痛い。心が――
自信を打ち砕かれるということは、耐え難い苦痛そのものだ。築き上げてきたものが瞬間で崩れ去るその様を悲嘆と呼ぶのだろう。
無敵が効かない。最強も利かない。あの左腕が、憎たらしく銀色に輝くあの腕が、虹子の全てを破壊する。壊された。壊すのは自分の役目。同じことをした。同じ真似をされた。
「トキトウ、ユキヤァ! お前はぁ!」
たった一撃で終わるわけがない。
怒鳴り、喚き、そして狂う虹子を前に雪哉は構える。何も出来なかった自分とはさっき決別した。そしてもうこの世界から乖離する準備も出来ている。その前に、勝利を手向けに消えることを願う。理愛を奪ったこの敵を許すわけにはいかない。理愛の結晶を手にするこの悪が憎い。だから、戦う。これで最期。全て、終わらせる。
「お前はぁぁぁああああああああああぁあっ!」
先手、虹子は両手を前に出したまま、走り出す。
叫び狂いながら、虹色の光を帯び、雪哉を破壊しようと疾駆する。
触れれば壊れる滅びの光。その絶望を前に雪哉は酷く落ち着いている。どう動き、どうすればいいのか、自覚することなく身体が自動的に動く。ただ純粋に、素直にその左腕に力を篭め、手を開き、雪哉に触れようとする虹子の小さな手の平へ、雪哉は渾身の力でただ殴る。
虹の光を超え、虹子の手に雪哉の拳が触れる。
そのまま雪哉の拳は虹子の両手を押し返す。両手は弾かれ、無防備に。しかも雪哉の振り抜いた拳が既に元の位置に戻っている。だが追撃はしない。構えを解き、無防備のまま尻餅をつく虹子を見下ろす。その情けが虹子を更に発狂させる。
「なんだ、なんだよ、なんで止めたぁ!」
「立て」
逆上する虹子に気も留めず、雪哉は人差し指を動かしながらたった一言。
そんな余裕めいた表情も、感情も、何もかもが気に入らない。
「何、それ? 何よ、それ? 何なのよ、それ? それ、それ、それ、殺す、アンタ殺すわ、殺してやる」
「全く気品の欠片も無いな、女はもっと淑やかにだろう?」
「その言葉の次に「理愛みたいに」って言いたいんでしょう! シスコンがぁ、この変態がぁ! 気持ち悪い、気味悪い、気色悪い、不気味不気味不気味、アンタ気味が悪いのよ! 理愛、理愛理愛理愛ってぇ、ずっとずっとずぅーっと、アホの一つ覚えみたいに妹の名前、そんなに好きかぁ!」
「ああ、そうだが? それが――……」
すました顔で、とぼけることもなく、悩むことなく告白する。
それの何が悪いとさえ顔に出ている。どれだけ中傷したところで雪哉は砕けない。大切な家族に好意を寄せて何が悪い。その「好き」が何の好きかだなんて、どうでもいい。それでも、もうその好意さえ雪哉は寄せることができない。だから、
「――それが、どうした」
雪哉が一歩踏み出すだけで、まるで虹子の背後に回る映像を切り取ったように、瞬間移動している。そんな超常を前に虹子は理解する。この男が常識を超越しているその理由を。
「そうか、「やっぱり」、そうか!」
雪哉の左腕が伸ばされる。その銀の手腕を虹子は躱す。そしてそのまま走り、雪哉と距離を置く。
「同じ土俵に上がられた気分はどうだ?」
攻撃は躱されたが、それが雪哉の強さを輝かす。
攻撃を回避した、ということは虹子は自分の力に不安を抱いたということになる。
躱す必要などない。触れれば壊れるのだから。
だが、それをしないのは雪哉の左腕を脅威と認識したからだ。そうしてしまったことで虹子は自身の価値を下げることとなる。わざとらしく音を立てて舌打ちし、汚らしく唾を吐く。
雪哉は知らない。この銀の左腕がどのように作用して虹子の力を跳ね飛ばしたのか。
しかし、理由などいらない。意味など知る必要は無い。
この腕で怨敵を討つことができる。それだけで十分すぎる。
「ちょっと勝てる可能性が見つかったぐらいで、はしゃいじゃって……ムカつくなぁ、私の顔がメチャクチャになっちゃったじゃない。ふざけやがって、その挙動も台詞も私の神経逆撫ですんだよ」
「勝てる可能性が見つかった――それだけで戦うには十分すぎるだろう? お前達に勝てるのならば億分でも兆分でも、そんなの幾らでもいい。「零」でないなら縋りもする。だから、戦える」
それがたとえ天文学的数値であろうとも、確立が発生するのなら諦めるわけにはいかない。雪哉はそう考える。そしてその確立は明らかに「零」に近いほどに小さくない。大きすぎる程だ。一撃を与えたのだ。ならば終われない。勝利できる。必ず勝てる。
しかし、そんな雪哉の言葉に呆れ返り、咽び笑う虹子がいた。雪哉の言葉がおかしくて堪らない。雪哉の言動がふざけているようにしか見えないのだろう、しかし雪哉はふざけてなどいない。戯れではない、これはただの殺し合いでしかない。大切な妹を殺した殺害者を縊り殺す為の復讐劇。
そんな雪哉を馬鹿にし、虹子は笑う。その笑声は雪哉を否定しているようだった。そしてそんな声がピタリと止み、冷たい風が吹き抜ける。
「アンタが私に勝てない理由があるわ」
「言ってみろ」
即座に言葉を返す。
そして即答される。
「考えてもわかるでしょ? ――経験よ」
虹子が屈んだと同時、雪哉は無意識のまま身を竦めた。雪哉の真上で風刃が飛び抜けた。虹子がいた位置から重なるように雨弓が銃を向けて立っていた。
「オレを無視すんなよ、交ぜろや」
回転弾倉が廻り、撃鉄が落ちる。火花さえ見えない不可視が音も立てずに雪哉を貪ろうと螺旋を描きながら穿たれる。そんなおぞましき弾を左腕で力いっぱい地面を叩き、その反動で跳躍することで回避する。人間の範疇を超えた跳躍力を垣間見ながら、雪哉は森の海から抜け出し、満月を背に再び落下。
人間ではなくなってしまっている。
やけに遠くがよく見える。夜空の星が一つ一つ重なり合って川のように流れているのが見える。身体も自分のモノではないように、ただ躍動し良く動く。飛べは羽根でも生えているように空が近くなる。更には脅威を前に思考はやけに冷静だった。恐怖という言葉の意味さえ忘れてしまいそう。
銀の左腕が解放されてからというものの雪哉は人間味を失ってしまった。
それでも今の雪哉にとっては何も問題の無いことだ。これからの未来なんてない。将来は潰えた。世界は滅んだ。ただ今は理愛を殺した敵を殺し返すという、その願いを叶えることしか頭に無い。そしてそれが果たされた時、雪哉は本当の終わりを迎えるのだから。だから、見えないモノに恐怖することも、不安がる必要もない。もう何も無い。理愛の消失は全なる消失。とてつもない存在感だ。その存在が消えて無くなってしまってはどうしようもない。だからもう雪哉は止まれない。止まることなんて出来ない。最期の覚悟だった。これを捨てれば瞬く間に雪哉は朽ちては果てていくことだろう。それでもいい。もうこのまま自ら消えたって構わない。
それでもこの憤怒は人間である証だ。感情が雪哉を生かす。理愛を殺した敵らが憎い。この憎悪を孕んで逝ってしまっては理愛に申し訳が立たない。笑顔で迎える為にも、笑顔で見える為にも、今はこの膿のような憎悪を出し切る為に、雪哉は飛翔する。人間を止めてでも、この敵を倒すことだけを――
「勘違いしてもすぐわかるんだよ、アンタが私達に勝てないワケを」
覚悟を糧に墜落する雪哉の真横に虹子がいた。
いつの間に、なんて思った頃には遅すぎる。虹子の手が雪哉に伸ばされる。雪哉はその手を左腕で庇う。そして直下したまま地面に叩き付けられる。何かに乗せられて射出されたみたいだ。虹子に触れられた時、雪哉は見えない力で押し出されたのだ。
「どれだけ不可思議がアンタを守っても、こうやって私と戦えたって、そんなの運が良かっただけじゃない。結局、能力を自分の手足のように使える私と、自分でもさっぱりわかってないアンタなんかとじゃ差が開くのなんてわかりきってる」
経験の差、とでも言いたいのだろう。
それが雪哉が覚醒し発現させた能力なのか、それさえも定かではなく、その左腕はただ輝くだけ。豪語し、啖呵を切っても、こうして雪哉は小蝿を叩いたみたいに潰れて死にかけている。何もかもが素人なのだ。どれだけ戦えたとしても、これが初戦なのだ。数え切れぬ程に戦闘というモノを経験しているであろう虹子と、初戦闘の小物の雪哉ではどうしようもない距離でハンデを背負うことになる。
――そして雪哉は背中から地面に打ち付けられた、
「やっぱり、死なないね、おかしいなぁ……なんで死なないの、アンタ」
地面には小規模ながらクレーターが出来上がっていた。その中心に雪哉が潰れている。虹子がその上で雪哉に愚痴り、さらに踏み付ける。痛みはないが、動くことはできなかった。しかし苦しい。呼吸もままならない。まるで重力が倍加しているようだ。
「私に触れたら飛んで、壊れて消えて滅びるまでぶっ飛ぶんだよね、それなのにアンタ、飛んでいくだけ。こうやって地面に叩きつけられて蛙みたいな声上げて悶えてるだけ。もういいでしょ? さっさと死んでよ、お願いだから」
そんな懇願、引き受けるわけにはいかない。
けれど虹子はどうしても死なない雪哉が恨めしいのだ。確殺の異能で、殺せないとなると苛立ちもする。傷らだけになりながらも五体満足のままというのが余計に腹正しいのだ。これまでだってずっとずっとこの異能は瞬間で終わりを与えてくれた。それがこうも時間が掛かり、しつこく耐え抜いていることに吐き気がするのだ。さっさと死んで、消えてくれないと、でないと意味がない。
「俺から大事なモノを奪っておいて、死ねだの諦めろだのまだ言うか」
身体の痛覚が麻痺しているのか、身体は思うように動かないくせに、まだ十分戦える。その気持ちだけは決して失うことなく、雪哉は声を上げる。
「言うさ、黙って死んでりゃいいだけなのにそうやって立ち向かって来るから悪いんだよ、アンタ元々おかしいくせに、その腕見せてからもっとおかしくなってるんだよ」
「そうなんだろうな、俺も吃驚している。まるで俺の身体じゃないみたいだ」
「そりゃそうでしょう、アンタの動きがいきなり「人間のモノ」じゃなくなったもの。すぐわかったよ。アンタのその左腕は……花晶でしょう? そりゃそうよ、そんなの当たり前じゃない! それの副産物で上手く動けるだけ! 上手く進めるだけぇ!」
この左腕は、理愛が与えてくれたものだ。
ここまで来れば繋がっていくのも無理はない。六年前の地獄によって雪哉の左腕は失われた。だから今、こうして雪哉の目に映る左腕は別のモノである。そんな左肩から下は人間の腕ではない別腕。その銀の腕は理愛の輝きから創造された神秘。そして人ではない結晶だった理愛がくれたのは、結晶の腕。その結晶は種晶ではなく、上位とされる花晶だった。
「第一界層よ。それは花晶そのものの能力を発動するよりも最初に付与するもの。だから所詮、現象程度よ。そんな超越をくれるの。人より早く、人より遠くへ、人より高く高みへと進ませてくれるの」
花晶には決められた段階というものが内包されている。
その一つが第一界層である。これは全ての結晶に備わっている仕組みの一つであり、言わば初期段階となる。花に劣るとされる種晶は全てこの第一界層に行き着いただけで終着となる。だから身体能力自体を向上させる程度の能力ならそれだけしかない。雨弓のような風を操る能力ならば、それだけしか使えないのである。だから種晶は一つしか能力が備わらない。
しかし花晶は違う。固有の能力の前にこの第一界層に到達するだけで、戦闘能力を飛躍的に上昇させ、強化し、この能力だけでまず微弱な種晶の有能力者と戦って、勝つことも可能となる。本来の能力は更に一つ層を上げる必要がある。虹子のあの触れるだけで全てを壊し尽くす「虹壁は全てを遠ざける」もまた第一界層ではなく階位を上げ、発動させた絶対なる異能である。
「なるほど……な、こうして俺が人間味が失われてしまったのはこの腕が原因か」
合点がいく。納得してしまう。やはり自分は無能力者だ。
時任雪哉は無能力者。
それだけは変わらない。結局、何も変わっていなかったのだ。
だってこの力は雪哉のモノではないのだから。その能力の一部が左腕から発した力ならば、それは理愛のものだ。無能力者という称号を捨てることだけは出来ないのだ。こうして地の上に倒れ、虹子に踏みつけられ、それでも戦おうとするその意思だけが雪哉の全て。この腕が無ければとっくに肉細工に加工されて獣の餌だ。
「そうよ、そういうことよ。もういいでしょ? わかったでしょ? アンタが何か出来たわけじゃなかったって、その奇妙な腕だって、アンタ自身何かわかってないじゃない。それなのに、それなのにまだやるの? まだ終わりたくないの?」
「そうだな、嫌だ。他人に結末を決められるのは耐えられない。俺は俺の成すべきことをする。それを果たすまでは、お前に抗ってやる」
「あっそう、そりゃ格好いい生き方ね、そんなにこれが大事なの? これを取り返したくて仕方がないわけ? なんで? どうして?」
雪哉を足蹴にしたまま、虹子は手に持つ結晶を見せびらかす。それは理愛だ。どんな形であったとしても、それが理愛の身体を創っていたのなら、それは必ず奪還しなければいけない。もう顔も見れない。声も聞けないとしても、それを抱き締めて死ぬ為に、ただ前へ手を。
「気持ち悪い、これはもうただの花晶。それなのにアンタ……これを理愛だなんて思ってるわけ?」
「それがどうした、俺は言ったぞ――理愛を、還せと」
どれだけ無様に寝転がりながら、傷つき汚れても、果たすべき使命さえあれば、後は勝手に結果がやって来る。願え、動け、止まることなく前へ、前へと、それだけを思考する。
どんな形に変わり果てても、理愛であるならそれでいい。
「怖いわ、アンタが怖い。異常だわ、アンタは異常。異常者よ。こんなちっぽけな結晶さえも、妹だなんて思えるアンタのその頭の中身、気持ちが悪い。気色が悪い。気味が悪い」
「ああ、そうだな。でも、そうやって他人の過小に評価していてどんな気分だ? 上に立てて満足か?」
「ええ、そうね」
雪哉の言葉に適当に返事をして、虹子は上げていた手をぶらりと下げる。そして結晶に絡み付いていたその五指が解かれる。その結晶が雪哉の胸へ。ゆっくりとその結晶を傷だらけの右手で掴む。まだ右腕はしっかり人間のままだ。けれどそれは脆く弱い、何も成し遂げることが出来ない無能の手。けれどその手で握らなくては意味がない。この腕が雪哉の腕なのだから。左腕は理愛に与えられたものであって雪哉のではない。だからそれではいけない。雪哉の腕で理愛を抱き締めなければ――
「ほら、お望み通りにしてやったわよ。それでどうするの? 大好きな妹がそんな形になっても、それが妹って言えるの?」
「ああ、これは理愛だ。俺の、理愛だ。お前が殺した理愛だ。こんな形にしたのもお前だ。だから俺はお前を許さない。だから俺はお前と戦うんだ――」
胸元で握り締めて、もう離さない。
これでもう大丈夫。憂いは潰えた。けれど愁いは潰えず、ただこの悲哀は雪哉の身体を奮起する。
だが激情する雪哉をただ憮然とした表情で虹子は吐気を催している。人としての形は失われ、結晶に変化した妹を前に、悦に浸るその様が気に入らない。時任雪哉の全てが気に入らなかった。心は折れず、信念も砕けぬまま、それどころか何か達成感に満ちていたようにさえ見える。結晶を取り戻せたことがそんなに嬉しいのだろうか。それはもう喋る事も無い。人の形を成すことなど永遠に来ない。それなのに、どうして雪哉はこんなにも喜悦に溺れる? わからない。だからもう、お仕舞いにする為に、その感情全てを押し潰してしまおうと、虹子は力を揮う。
「そう、だったら――時任雪哉、理愛をずっと抱き締めたまま、そのままその素敵な思想ごと圧死しなさいよ」
「お前の重みで、俺の想いを圧死すだと?」
雪哉は鼻で笑う。
圧死――重みに耐え切れず死ぬこと。
その重みとは、力によるもの。吹き飛ばし、叩き潰し、壊れるまで磨り潰す。
触れれば壊れる虹子の手。収束する虹色の光を纏いながらその手が雪哉に触れる。しかし雪哉はその手を左手で叩く。ただ右から左へと平手を打っただけ。それなのにその光は失われる。虹が消え、虹子は呆然とその様子を見つめるだけ。そして時間が動けば虹子の形相が歪み出す。
「潰れるのはお前だ、お前が犯した罪の重さで!」
「理愛は勝手に死んだだけだろうが、お前の弱さが殺しただけだ、私のせいにするなよ! この卑怯者が!」
その通りだ。何も間違ってはいない。虹子の言葉は核心そのものだ。
確かに殺したのは虹子なのかもしれない。それでも、その結果に至るまで雪哉に何が出来ただろうか。そんな悲しすぎる結末を招いたのは弱小で、脆弱な雪哉の無力さによるものだ。無能であるが故に理愛を守り通すことが出来なかった。だから、だから、だから、
「その結晶を大事に抱えたまま、何も遂げられぬままに、死んでしまえ!」
「ああ、そうするさ、そうやって死んでしまうさ……だけど!」
この戦いの終わりが、雪哉の「終わり」だから。
理愛が形を成す前のこの結晶を抱擁したまま、死ぬことは決まっているけれど。
でも、それを決めたのは虹子ではない。だから、虹子の思い通りにはさせない。
虹子が後退し、雪哉はすかさず立ち上がる。そして虹子は跳ねる。雪哉は駆ける。
虹子の七色が雪哉に迫る。幾度となく雪哉に襲い掛かるその全壊の力が雪哉へ向けられる。それでも雪哉は臆すことなく執拗に立ち向かう。
虹子の虹色の手が、雪哉の銀色の腕が交差する。
正対し、互いの憎悪が行き来した。しかし、その果てに行き着いたのは雪哉の腕だった。
虹子の額を雪哉の拳が打ち付けられる。まさにそれは鉄槌。結晶の腕は人の硬度をも凌駕していた。そんなものが直撃したのならば、無事ではすまない。二発目の直撃。虹子の手は雪哉の鼻の上で止まった。雪哉に触れることが出来ない。能力は発動されない。そして触れられても発動されるはずの能力もまた発動されない。硬いその左腕が虹子の身体を叩き割る。
何故?
虹子は自分の身体が宙に浮いていることよりも、無敵である筈の能力が何の効力も見せないことにばかり気を取られていた。そして身体が打ち付けられても、答えが出ないことだけに困惑する。痛い。痛覚とは無縁の世界で生きてきた虹子にとって、この初めての痛みに恐怖した。痛い、痛い、そんなことよりも胸が、痛い。心が……痛む。
「教えてくれた、この腕が。そうか、――「アンチ・マグナ」と言うのだな――」
雪哉は左腕を伸ばし、その花晶の名を呼んだ。
如何なる強固な力を撥ね退けるその左腕を手にしたとしても、偉大にはなれない。
それは雪哉が本当の能力者ではないから。
理愛がくれた腕。その奇跡の一片。願うことなく、気がつけば手に入れていた。それに気がつかずここまで来てしまった。そんな人間が手にしたとしても、それで自分自身の価値が高まるわけではない。誇ることもできない。寧ろ滑稽だ。結局、雪哉は何一つ一切の努力もせずにここまで来てしまったのだから。だからお前は偉大ではない。お前はそんなものにはなれないという、そんな雪哉には相応しい名がその左腕に付けられている。
けれど、その腕は虹子の能力を無視する。その腕は左右されない。雪哉の左腕は周囲の能力を拒否してしまう。
「時任ぉ!」
吹き飛んだ虹子を見て雨弓が叫ぶ。目の前で二度も殴られているのだ。怒声を吐くのも当然だ。
額に拳を打ちつけ、地の上に寝そべる虹子。虹子とは二倍の背丈はあるであろう男がそんな小さな少女に乱暴をする。これだけだと完全に雪哉が悪人であろうが、知ったことではない。
雨弓が怒鳴り散らし、「ARK」という名の銃器を振り翳し疾走する。そして雪哉に襲い掛かる。遠くから撃つのではなく、銃口を雪哉の身体に押し付けるように……これでは避けようがない。銃口が心臓に突き付けられる。しかし大人しく心臓を貪らせるわけにはいかない。危機を悟った瞬間、身体に命令を送ることなく自動的に防衛本能だけで行動する。左膝が動く。銃口を蹴り上げ、それは雪哉の心臓から空中に向けられた。撃鉄が落ちた頃にはその風の弾が空中に撃ち出された。この間、数秒も経過していない。
「殺す、殺す、殺すぅ! よくも虹子をぉ!」
それはこちらの台詞だった。
雨弓の感情は雪哉のものと同じだった。それでもまだ虹子は地面の上で悶えている。しっかりと生存しているのだ。こんなものでは済まされない。こんなもので終わらせる気などない。雪哉は間違いなく虹子を殺すだろう。理愛を奪った殺「人」者を殺すだろう。そして、雨弓には同じ感情を植えつけることだろう。理愛がどんな存在であろうとも人として括り続ける雪哉にとって勝手に化物という分類に分けられては我慢ならない。
「雨弓、お前にも教えてやる。だから、俺と同じ目に遭って、俺と同じように絶望しろ!」
復讐はただ殺し尽くすだけではない。
自らが受けた全ての負の感情を授けることもまた復讐の一つである。
だから必ず虹子を殺す。殺して、雨弓を絶望させて、それさえも殺す。殺してやる。そうしなければ雪哉の心は浮かばれない。
「だったらやってみろ、ごらぁ!」
雨弓は銃を、使わなかった。
その銃は「ARK」と呼ばれ、能力を格段に強化する代物だった筈だ。しかしそれを使わないのは、
「なんだ……?」
身体を包み込む程に大きな風が通り過ぎる。
そして吹き抜けた風が消えた後、そこに立つ雪哉はまるで鎌鼬に襲われたように全身を切り刻まれていた。ガクリと膝を落とし、裂けた皮膚を見る。魔風が雪哉の肉を刻み続ける。そしてその風は視界さえ遮る。左腕で顔を庇いながら、けれど身動きも取れずに雪哉の身体は地上に縫い付けられた。
「言っただろ! オレは風しか操れない。この「ARK」は上手く能力をコントロールするために使ってるだけなんだよ! 使わなかったら力の加減ができねぇから使ってやっただけだボケ!」
荒ぶる暴風が雪哉に深い傷を負わす。
左腕を大きく振るう。しかしその風が掻き消せない。
「さっきみてぇにやってみろよ! 虹子の力を消し飛ばしてみろよ!」
出来ない。
雪哉は何度も手を振るう。しかし暴風は消えない。勢いを増すばかりのその風が幾度となく雪哉を襲い、雪哉は何度もその風に攻撃される。虹子の虹色の壁を突き破る程の力が備わっているわけではなかったのか? 雪哉は考察する。
制限時間? 使用回数? この左腕は能力を打ち破れるのでは、なかったのか?
虹子の絶対破壊の能力を発動させることなく、封殺したとなると異能を持たない雪哉であってもその左腕の謎は十分解くことはできた。銀の左腕は能力を消し去れるものだと思っていた。しかし、違う。雪哉の左腕で雨弓の能力を消し飛ばせない。しかし、一つだけわかったことがあった。
「……この左腕、傷一つ付いていない?」
頬を、腕を、足を、全身に傷が作られていく。そんな中で雪哉の左腕は綺麗な銀のまま、原形を留めている。
「気色の悪い腕だ、ぶっ壊れろよ!」
竜巻を起こしたまま、その中心に立つ雨弓が再び「ARK」を取り出し、射撃を開始する。数発が雪哉の横に逸れ、そして一発が雪哉の左腕に命中した。巨大な大木さえも貫き通す破壊力で、その力は雪哉の身体を回しながら、木々を薙ぎ倒し、やがて止まる。
本来なら樹が折れる程の衝撃で飛んでいるのだ。即死もいいところだが……しぶとすぎた。雪哉はまだ生きている。本当に頭部でも切断しない限り活動は停止しないのではないかというその生命力。雪哉はまだ、生きている。
「がはっ……ははっ、なかなかどうして……人間じゃないな、これは――」
確かに左腕には風の弾丸が直撃した筈なのに、雪哉の左腕はしっかりと形を成している。それどころかやはりヒビ一つ入ることなく銀色の輝きを放ち続けていた。やはりこの腕は絶対に壊れないようだ。なら、攻撃にも守備にも使える。
「時任、お前、まだくたばんねぇのか?」
「くたばる? 俺は、こうして生きているぞ?」
裂傷と打撲、骨折その他諸々と傷だらけで雪哉は酷い有様。満身創痍もいいところだが、そこは忘却することで感じていないことにする。そうすることだけが今の雪哉に出来たこと。自分を偽ることだけが、能力の無い雪哉が出来ること。全てを失ったから、全ての感情を自在に作り、嘘で構成できた。理愛がいてくれたから、理愛の前では強い存在だと書き換えれた。
「そうか、じゃあ死ね」
銃口は向けず、再び「呼応風塵」が雪哉の全身を撫でた。
雪哉のそんな突風に身体を支えることが出来ず、成すがままにその身を風に委ねることしか出来ない。そんな滅びの風が雪哉の身体を壊し続ける。左腕は壊れずとも、所詮は人族の身体である雪哉の耐久力は最早皆無に等しい。
突風が雪哉の身体を押し出しては、樹に衝突し、雪哉は吐血する。拷問のように雪哉に地獄を見せ付ける。しかし、これで地獄ならば生温いものだ。これ以上の地獄は六年前に経験している。そんな体験を前に、たかが身体を押されては樹にぶつけられる程度、まだ耐えられる。身体に受ける痛みならば、まだまだ耐えられる筈だ。限界をとっくに超えているにも関わらず、心は未だに余裕のままだった。
風が止んだ。
雪哉は樹の下で、まるで死体のように崩れていた。
それを見下ろす雨弓がやっと終わったと息を吐いては銃器を向けた。
「わかったか? テメェはよくやったさ、虹子とあんだけ殺り合ったのも正直、感心してるんだぜ? でも、やりすぎはダメだな。あと舐めた口も頂けねぇ」
もう声も出ない。口元は少しだけ開いて、笛を鳴らすようにか細い音を上げるだけ。もう指の一本も動かせない。しかし、雪哉はまだ意識を失うわけにはいかない。
だって、あれだけ大事に握り締めていた結晶が無くなっていたから。
それだけで雪哉の閉じそうになる意識が覚醒する。
右腕にしっかり握り締めていた筈の結晶がない。理愛が、いない。
「お前、理愛をどこへやった!」
あれだけ死体のように押し黙っていた雪哉が突然、声を上げたことに雨弓は驚いたが雪哉の昂ぶったその声につい返答してしまう。
手の中で氷が解けたように消えてしまった。けれどその融けてしまった理愛は何処へ行った?
「はぁ? あの石ころは虹子がお前に返してやったろう?」
「ふざけるな! ない、ない、俺の手から消えてる、どこへ、どこへ!」
「知るかよ。なんだよ、さっさと死ねよ。もういいって、お前、犯罪級に変態だわ。虹子が苛立つのも無理ねぇわ」
そして雨弓は銃をベルトに挿して、両手を合わせる。
左右の手の中で織り成す疾風。それは雨弓の手の中で形を作り、球状となる。
「まぁ、これを手向けにしてやるよ。バラバラになれ」
小さなその暴風の塊。触れるだけで引き千切られそうな脅威を象ったモノ。それがこんな至近でぶつけられれば雪哉の左腕だけが地面に残り、それ以外の身体は塵芥だ。
「死ねよ」
死にたくない。
こんな形で終わりたくは無い。
でも、身体は動かない。もう動きそうもない。
どれだけ自分を偽っても、これだけボロボロになってもまだ行けるなんて、そう思っても限界なのだ。もうそれ以上は動けないのだ。終わりが、近づく。
『私の兄さんに、何をしてるの――』
消えそうになる意識の中で、確かにその声が脳裏を掠めたのが分かった。
『――殺しますよ』
右手が、動いた。雪哉の意思に反して――
雪哉を呑み込むはずの終わりの珠が両断される。そして雪哉ではなく、その背後の木々を呑み込み八つ裂きに細切れにしていく。だが、雪哉は生きている。しっかりと、はっきりとそこに存命していた。
何が起こったのかも、自分が助かったことさえも、そんなことはどうでもよくなってしまった。もう終わりだと思った。やはり最後の最期で諦めという感情を抱いてしまった。だから、また情けないまま終わってしまうところだった。
けれど、それを拒絶した。雪哉の右手が意に反したまま動き出す。まるで見えない糸にでも引っ張られているようだ。そしてその右手の指先からゆっくりと白く光を放ち、雪哉は立ち上がった。理解し、認識し、開眼した。
そして、その糸は切れる。雪哉の意思でその右腕が動く。異常性が更に増長され、増幅される超越。けれど、そんな逸脱さえ、今の雪哉にはどうでもいいことだった。そんな進化よりも、雪哉は言葉を紡ぐことだけしか頭にない。
「なんだ、そこに、いたのか……」
結晶は失われた。理愛が消失した。世界から消えてしまったのかと、それは杞憂に終わった。だって、理愛は雪哉と一緒にいるから。理愛は雪哉の右肩にそっと寄り添うように、天使のように銀の翅を羽ばたかせながら、けれどそれは翅じゃない。結晶だ。雪哉の長い銀の髪が好きだった。宝石のように煌く瞳も好きだった。
初めは嫌いだったくせに、嫌悪の言葉を並べてきたくせに、今は何よりも理愛の存在が大きくて、いなくなるだけで地面が音を立てて崩れてしまって、空が割れて破片を落としながら落ちてきそうで、そんな雪哉の世界を支える柱のような、そんな存在。
それがいなくなったとばかり思っていた。
もう二度と逢えないとさえ、思っていた。
だから全てが終わったら、すぐに迎えに行こうと思っていたから。
それが天国であろうとも、地獄であろうとも、この世界ではない別の場所であっても、異世界であろうが現実世界ではない何処か別の場所であっても、絶対に、如何なる手段を用いて邂逅を果たそうと思っていた筈なのに、それなのに、
『往こう、兄さん。わたしは選んだんです。兄さんと一緒に、と』
「わかった、理愛。これで最「後」だ。だから理愛と一緒に往く」
――お前がいたら、終われない。終われないだろうが。
だから雪哉は心の中で呟く。
理愛は生きていた。雪哉の傍らで、見守るように、そっと、ずっと、そこにいる。
雪哉の髪が少しだけ銀に染まっていた。
そして、
「なんだよ、どういうことだよ、これは、これはよぉ!」
雪哉の長い前髪の合間、黒い瞳の片割れが銀の光を放ち輝く。
半身が銀に染まり、雪哉は理愛によって力を与えられる。
無能力者のまま、けれどその身には全能なる結晶を超える能力が備わっているであろう。
けれど、どんな能力であろうとも、雪哉は構わない。
理愛がいる、それだけで十分だ。二人がいい。二人でいい。
一人で勝てないのならば、二人で一緒に戦えばいい。そうするだけで勝つことなど容易いから。
「兄貴……」
「虹子……」
蹲っていた虹子がヨロヨロと足取り重そうに雨弓の横へ。月下兄妹が雪哉を見る、理愛を見る。
雪哉も理愛もそんな二人を見る。出揃った。ほぼ異形と化した雪哉を前に驚きながらも虹子は前を向く。
「なんなんだよ、理愛も、アンタも……私より立派にバケモノじゃないか」
なんて手を広げ笑う。銀に染まる雪哉を見て、ただ笑う。
右腕は白い翅を生やしたような光の腕。左腕はただ純粋な結晶の形をした石の腕。異形なる両腕を見せつけ、雪哉はその腕を前へ。
「ならバケモノは一人でいい、お前の兄の言葉だ。俺だけが、それでいい。だからお前はその環から消えろよ、出来損ない」
雪哉は言葉を操り、虹子に先手を打つ。
怪物であろうが化物であろうが、そんな存在は一人でいい。雨弓が理愛に言った言葉。大きな力を掲げ、その力を自在に操り、思うがままに行動する。だから雪哉はその通りにさせてもらう。理愛の為だけに、この理愛に与えられた力で、全て思うがままに。
雨弓は眉間に皺を寄せ、血管を浮かせている。虹子もまた口元を引き攣りながら七色の輝きを纏い始めた。
「バケモノが、ぶっ殺してやる」
「ああ、殺してみろ、俺を殺してみろ。俺はお前を殺してやろう」
雪哉は理愛を見つめる。
笑顔のまま、何も言わず雪哉の身体に寄り添っている。何も怖くない。怖いわけがない。二人で一緒に戦えるだなんて、最高ではないか。
そして、雪哉は飛翔ぶ。
あれだけ溢れそうな憎悪が鎮まっている。
だからこれで終わりにしよう。あの日の穏やかな日常へと帰還る為にも。