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1-16 全能結晶の無能力者(7)

1-16 全能結晶の無能力者(7)


 なんとか追撃から逃れた雪哉と理愛だったが――


「あほ」

「すまない」

 理愛の機嫌悪く雪哉に悪口を言う。

「なんで登っちゃったんですか、これじゃあ家に帰れないです」

「無我夢中だった、許せ」

 理愛を担ぎ、走り出したのはいいが山を降るのではなく登ってしまったのだ。

 しかしそれも仕方がないことだ。敵の追撃を振り切るには登るしかなかった。ましてや破壊の弾丸が飛んでくる。まるで砲座のように鎮座する雨弓に接近し、回避しながら下山するなど不可能に近い。距離を離し、敵の命中精度を下げるには山を駆け登るしかなかった。しかしそれを何の考えも無しにした雪哉は本当に運がいいといえよう。とにかく逃げるという選択を一切の迷いもなく選び続けた結果が、こうして二人とも生きているということである。

「あほ、あほ……あほ」

「言い過ぎだろう」

 こうして助かったんだ。

 それなのに理愛の誹謗は止まらない。雪哉の腕の中で小さく丸まったまま、小動物のように震えたままの理愛。どんな罵詈雑言でも今は耐えよう。理愛はずっと耐えていたのだ。戦い続け、耐え抜いた。そんな小さな少女の勇気を評価し、雪哉はただ黙って理愛の言葉を受け止める。

「なんで、来たんですか――」

「妹の危機を兄が救っては、いけないのか?」

 今まさに殺されるかもしれないなんて、それだけは阻止しなくてはいけなかった。

 だから雪哉は雨弓に一撃を与えたのだ。あれほど綺麗に決まってしまったのだけはさすがの雪哉も驚きを隠せなかったのだけれども。

「わたし、なんて……助かっても、」

「やめろ」

 自虐を紡ぐ唇にそっと人差し指。

 そうやって心を自傷しても、何かが失われていくだけに過ぎない。

 雪哉はそんなことをする理愛を叱り付けるように黙らせる。

 それでも助かったとしても、良い事ばかりではない。その先の未来に待ち受けるは試練。そう、雪哉は知っていた――

「だってわたし、わたしは……にんげんじゃ、ない、から……」

 理愛は人ではなく、結晶。

 人を模った偽者。

 だから、なんだと、言うのだ。

 雪哉はあまりにくだらなさすぎて、それ以上理愛が喋るのを止めたくて仕方がなかった。

「それがどうした」

「それって……そんな言い方!」

 雪哉の冷たい言葉に理愛は憤りを感じていた。

 それでも理愛が怒っていても雪哉からすれば瑣末でしかない。その事実は理愛の世界では大事なことなのかもしれない。しかし雪哉にとっては些々たる問題でしかない。むしろそれが問題とさえ感じなかった。だからそんなことで怒る理愛を見て雪哉は首を傾けてしまうのだ。そしてそんな怒りを払拭する為にも雪哉は口を開く。

「俺はお前を守る、そう誓っている。理愛を守る。それだけだ。人間ではない? 結晶? そうか、それはよかったな。だが、お前はこうしてここにいる。それだけで、いいんだ」

「わたしの目も髪だって、全部、全部結晶なんですよ? 気持ち悪いじゃないですか……それなのに、わたし、兄さんに守られたって、」

「意味がないと、そう思うか? だが、それはお前の結論だ。俺じゃない。俺の結末はお前じゃ決められない。それだけは、俺が決める」

 それだけはたとえ妹であろうとも、家族であったとしても譲れない想いだった。

 守護することが、雪哉の使命。

 勝手に決め付けた自分の信念。

 何も無い、無能な存在であったとしても、それだけは忘れてはいけない。それだけを忘れぬように生きてきた。それを遂げたかどうかと尋ねられれば、きっと完遂できず、何度も何度も失敗してきたのかもしれない。だからこそ、今、この瞬間、生きてきた時間の中で最上級の危機を前に雪哉は理愛を守り抜かねばならない。

 だからこそこれまでだって自分を偽って来たのだ。何も無い分際で身の程を弁えることなく、生きて来たのだ。今だってしっかりと虚偽を完全武装している。竜を屠る剣を持たず、ふざけた名前の組織など何処にもいない。なのに、雪哉は思い込んでいる。自分は狙われている。自分にはとてつもない力が隠されている。そうやって、自分を創造つくりながら、この状況下ですら、困惑することなく理愛を抱きしめる。

「だから勝手に守られていろ、お前が嫌でも、お前は諦めていても、俺まで一緒に巻き込むな」

 ギュっと抱きしめるその腕が強くなる。

 この手を離したら、もう二度と掴めない。そんな気がしたから。

 山頂を目指しても意味はない。山を降りなければ未来は潰える。今はただ理愛と口論する気はなかった、生きる為だけに意識はそこに向けられている。

「兄さんは……わたしなんて、何も、ないのに」

 何もない。

 何もないなら、雪哉はここにはこない。

 価値の無いものに意味はないのか? それを決めるのは誰か?

「黙って、俺の手の中でおっかなびっくり怯えていろ――帰還かえるぞ」

 今は何を言ってもきっと理愛は納得しない。

 だからこれ以上何も言わない。不毛な会話こそ意味がない。恐怖したままだた価値を見出す無様な妹の姿を見たくない。

 抱いたまま、山を降りる。

 このまま何事も無く――なんてことはきっとないだろう。

 敵と遭遇することなく、家に無事帰れたらなんて夢物語もいいところだ。雪哉も理愛も一言も喋らずに降りる。手の中に理愛がいるのに、こんなにも近いのに、今はとてつもなく遠く、届かない。

 人ではなく、別物であるという事実。

 雪哉にはそれさえも気にはならないというのに、理愛は絶望し、恐怖している。

 その感覚が雪哉に理解できるはずもない。人間ではない、化物に近いそんな存在だったという事実は理愛を狂わせるには十分すぎる。それでも発狂せず、押し黙り、雪哉の手の中で震えているだけなんて、理愛の精神力の耐久性は計り知れないモノがある。身体の中ではなく、身体全体が結晶だなんて、もうその時点で人間としては終焉している。

 なのに、こんなにも人肌を感じる。温かく、鼓動さえ聞こえてきそうな、そんな身体を結晶だと雪哉は信じられなかった。小さく震え、怯え、恐怖するというその感情はどこから来た? 心は、身体は……全てが透明の石ころだとするのなら、雪哉の手の中にあるこれは、何だ? くだらない、どれだけ自問したところで答えは出ない。今、自分の中にあるこの結晶が生きているからなんだ、声を出し、感情を見せているのが人間ではなく結晶だというのなら、それがどうしたとしか言えない。

 雪哉の抱きしめるそれは、雪哉の妹、雪哉の家族、雪哉のたった一つの救いの象徴。それを手放すわけにはいかない。どのような存在であろうとも、そんなもの知らない。ただ理愛が消えて無くなるのだけは御免だった。

「よぉ」

 雪哉の足が止まり、そこに立つ雨弓が視界に入る。

 全身が強張り、嫌な汗が背中を伝う。どれだけ虚偽で塗り固めていても、力有る者を前にすれば自覚の無いまま後退してしまう。雪哉はそっと理愛を下ろす。

「逃げろ」

「そんな……!」

「俺も逃げる、必ずな」

「おいおい、この前みたいに妹の前でカッコつけようぜ! そんなんじゃ、ダセぇまんま終わっちまうぜ?」

 これ以上の逃走を阻止するように大砲のような拳銃を見せ付ける。

 格好の良い悪いの問題ではない。生きるか死ぬかの問題だろう。

「じゃあさっさとオレの「ARK」の前で、終わっちまえよ?」

「……「ARK」だと?」

 それは組織の名ではないのか。

 雨弓は銃を構えたままそんなことを言う。

「お前、「ARK」知らねぇのか?」

 雪哉がそれを知るわけがなかった。能力を持つ者が装備することで初めて意味が生まれる装置を無能力の人間が持っているわけがないのだから。


「ARK」――それは「Artifact・Radical・Knows」の頭文字を取った略称である。


 結晶が力を与える、そんなことは誰でも知っている。しかし、その能力を更に格段に強化増強を可能とした装置がある。それが「ARK」――雨弓の持つその銃も「ARK」である。

 当然、能力開発の研究に携わる「Ark」が開発した代物だ。そしてそれは同じ聖櫃の名を冠し、その兵器はやがて命を刈り取る。

 能力を行使し、暴力や犯罪に手を染める能力者を鎮圧する為に開発したとされている。よって「Ark」のみが携帯を許されている。この装備の有無だけで勝敗が決まるほどである。現に雨弓の力は通常の能力者の力を超越している。マッチ棒から火を出す程度、少し早く走れたり、旋風を巻き起こす程度しか見たことがなかった雪哉にとって、暴風のような狂気の力を見せ付けられてはその装備がおぞましいものであることを嫌でも理解させられる。

 だが、「ARK」の知識など雪哉には必要はないだろう。知っていても知らなくても状況が変わるわけがない。そう、能力を持たぬ者にその装備自体が意味を成さない。

「引鉄を引くだけで行われる暴力……能力者は本当に、恐ろしいな」

「それだけわかってんなら抵抗すんなよ、な? 利口になりゃ、もうちょっとだけ長生きできるぞ?」

 力は脅威。絶対なる暴力の前で、無力は何も出来ない。

 そんなこと、始まる前から理解していた。それでも諦めきれないものがある、だから抵抗はやめない。悪意から逃れ、生き抜くには、戦うしかないと再三呟いてきた。

「ムカツクなお前、そこまでわかっててなんで諦めねぇ?」

「お前みたいに、力で捻じ伏せるというやり方が気に入らないだけだ」

「正義の味方気取りっすかぁ? カッコいいねぇ、カッコよすぎだわ、お前」

 そして今度こそ、銃口が雪哉に額へ向けられた。

種晶シードは確かに花晶レムリアに劣っているのかもしれない。それでも、強けりゃ問題なぇ、何にも怖くねぇ、お前の妹がはっきり教えてくれたわ。結局、何の力もないなら、普通にぶっ殺せれるってなぁ!」

「理愛は殺させない、俺だって……お前みたいな奴に殺されるわけには、いかない」

「おお、いいぜぇ、いいぜその威勢、それだけは認めてやんよ! テメェみたいなおもしろいのは初めてだわ、何も無いくせに、何もできねぇくせに、御託ばっか並べておもしろおかしく格好だけ一丁前、だから最初にテメェをぶっ殺してやんよ!」

 雨弓の敵意が全て雪哉に注がれる。これでいい、これがいいのだ。

 雪哉は真っ直ぐ雨弓に視線を、雨弓は堂々と銃口を雪哉へ。

「だめ、ダメェ! 兄さん、逃げて!」

「お前が逃げろ、逃げてくれ……理愛、そうじゃないと、俺の誓いは果たされない」

「そんなの、兄さんの価値観の押し付けじゃないですか! わたしは嫌です、兄さんも――」

「理愛っ!」

 その叫びは、まるで全てを失った六年前に似た慟哭だった。

 聞き分けの無い子供を叱るように、そして懇願するように、大切な人の名を叫ぶ。

「頼む」

「……は、い」

 そしてその願いが届き、雪哉は安堵する。そして、

「出て来い……理愛は殺させないと、言ったはずだ」

 その言葉に、木の影から現れた虹子。

「バレた?」

「バレるも何も、さっきまで雨弓といただろう……急に消えたなんておかしい」

 そう指摘すると「そりゃそうだ」と虹子は笑う。そして笑みは消え、雨弓ほどに奮えてはいないが、向けられた敵意は雨弓のものと同等、いやそれ以上のものだった。

「安心して、理愛……こいつ殺したらすぐに行くからね、私の邪魔を、邪魔ばかりする、異物。死んでよ、それで私はやっと落ち着いて理愛の相手が出来る」

 虹子が卑下た視線を浮かべ、理愛を見る。だが理愛の前に立ち、虹子の視界には理愛が映らなくなる。そうやって邪魔ばかりする雪哉を生かすことなど虹子は出来ない。確殺することだけを決意し、虹子は笑う。そして雨弓は銃撃を放つ。

 理愛は走る。最後まで雪哉を心配し、走る。雪哉も面と向かって勝負する気など毛頭無い。有力と無力では出来ることなど限られている。

「さて、やっとこさネタバレだ。オレの能力教えてやるよ」

 教えてくれなくて結構。雪哉は構える。その構えは戦う為ではなく、逃げる為。まずはどれだけ時間が稼げるかだ。理愛を出来るだけ遠くへ、遠くへ逃がし、十分時間を稼げたならば自分も逃げる。どこかで破綻するのは目に見えているがやるしかない。やらないまま終わってしまうのだけは絶対に避けなければならない。

 雨弓は銃口を地面へ、そして手を軽く振り払う。無風だった世界に突風が舞い込む。吹き飛ばされそうになりながらも、雪哉は地に足が埋没するほどに強く踏み締める。風が強すぎて前がよく見えない。

「しょぼい能力だろう? オレのは「風」しか起こせない。風を使うことしか出来ないんだ」

 かなり離れていたはずの距離が瞬きを一度しただけで埋まっていた。

 そして気がついた頃には遅すぎた。

 右拳が雪哉の頬に撃ち込まれる。衝撃と共に雪哉の身体は地面を転がる。何が、起こった? 地面の上を転がり、そして止まった時には雨弓は雪哉を見下したまま、

「これがオレの種晶の能力ちから呼応風塵ゲイルヘイルだ」

 人々が手にした異能には名が生まれる。

 それは能力を手にした瞬間に、聞かされてもいないのに無自覚のままに理解できるのだ。

 そしてその異能が人を更に上の段階へと進化させる。

 雨弓の能力、呼応風塵ゲイルヘイル――それはただ風を操る力。風だけなのだ。それでも、その自然現象を思うがままに操ることが出来る雨弓。その力が序列という、数値化された評価の中でも上から七番目の座につく所以。

 瞬間的に間合いを詰めたのも、自らの風でその身を飛ばしたからだ。自分自身をまるで弾丸のようにして、跳躍したのだ。そしてその速度のまま拳で殴りつけられれば、意識の一つや二つ根こそぎ刈り取ることも造作無い。

 それでも、

「風、などで、俺を、俺を……!」

 意識は途絶えず、ただ堪える。

「親切にしてやったんだぜ? テメェ、オレの顔面蹴り飛ばしたろ? だから一発ブン殴ってやったんだぜ?」

 そして再び腰元のベルトに刺さっていた巨大拳銃を手に取る。

「折角、格好つけたんだ一瞬で終わったら可哀想だと思ってよ」

「そりゃありがたい、ことだな……感謝する」

「余裕ぶっこいてんじゃねぇよ」

 余裕など持ち合わせていない。

 顔面を思いっきり鈍器で殴られたようなものだ、今すぐに泣き出してしまいたいぐらいだった。それでもそんなことは出来ない。理愛を守りきるまでは、どんな逆境も耐え切ると覚悟している。ここで終わってしまっては、これまで受けた屈辱に耐えた理愛に申し訳がない。

「兄貴」

「虹子か」

 倒れたままの雪哉を今まさに撃たんとする雨弓に虹子の声。

 その声が引鉄にかかった指を離した。雪哉は雨弓から虹子に視線を移す。そこにはまるで人ではない、何か別のモノを見る不快感だけを象った異質な視線を見せる虹子がいた。

「さっさと死になさいよ」

「五月蝿い、理愛を貶めるお前に殺されてたまるか」

 そんな強気な雪哉の右手の甲を思いっきり踏み潰す。

 雪哉は目を見開き、声にならない声で悲鳴を上げた。その顔を見て、声を聞き、虹子は屈託の無い笑みを浮かべる。

「そう、その顔が見たかった」

「サディストが……」

「アンタが勝手に付ける私の評価なんてどうでもいいわ、でも、いいの? 私はアンタを殺したら理愛の所へ行くわよ。必ず行くわ。いいの? 私を止めないとダメなんじゃないの?」

 焚きつけるような虹子の言葉は明らかに雪哉の怒りを煽っていた。そんな安い挑発に雪哉は即座に乗りかかる。恐怖など消え失せ、雨弓に受けた傷の痛みも感じない。そして、すかさず立ち上がり雨弓がすぐ横にいるのさえも忘れて雪哉は自分よりも遥かに小さな少女に襲い掛かった。

「ふざけ、やがって――!」

「来なよ、無能力者。とっとと私を倒してみなよ」

 言われなくとも、と雪哉は右腕に全身全霊を篭めて殴り掛かる。

 どれだけ無能力の存在であったとしても、そんなことで決めさせてはいけない。何もかもが敵の思い通りに動くのならば、足掻かなくては、戦い続けなくてはいけない。だから、雪哉は拳を突き出す。力も無く、何も感じない、ただの拳で……有能なら結晶の力を持つ怪物に挑む。

「なんだ、これは……?」

 それでも、

「ふふっ、威勢がいいのね。そこだけは理愛とそっくり」

 雪哉の放った拳は、

「でも、いいのはそれだけ。理愛と同じ。性格は――アンタの方が腐り切ってるけどね」

 まるで薄い一枚の膜に守られているように、虹子に届くことはなかった。

 見えない壁を打ち付けたように。

 衝撃は確かにある。何かに触れている感覚も、ある。

 虹子の顔面に拳は触れているようにさえ見える。それでもまるでテレビ画面に映し出される虹子の顔を殴りつけたように変わらない。そして虹子は笑うことを止めず、雪哉を侮り続ける。

「アンタの威勢の良さは認めてあげる。覚悟も、信念も、勇気だって、全部認めてあげる。無能な屑が存外に扱われて尚、諦めず立ち向かうその姿勢だって評価してあげる――」

 虹子が雪哉の左肩に触れ、そして悪魔の微笑みを。

 やがて七色の輝きを孕む瞳の光が雪哉を呑み込む。

「だけど――虹壁は全てを遠ざける(レイン・ボネルファ)

 触れれば遠くへ消失する唯一無二の絶対力。

 種晶を超える花晶が持つ力。虹子の花晶に宿る力。

 それに触れたものは壊れるしかない。身体がバラバラになったようなそんな一撃が雪哉を完全に討ち滅ぼす。数十メートルは吹き飛ばされたろうか。木々をまとめて薙ぎ倒し、砂煙を巻き上げたまま、何もかもが壊れて消える。雪哉の身体は樹の海へと沈んでいく。そして闇の中へと消えて、もう見えなくなる。

「あっちゃぁ……虹子ぉ、やりすぎだろ。いくらなんでもただの一般人パンピーだぜ?」

 それは種でなく花を司る「本物」の力。

 その力が与える威力は計測など出来ない。ましてや何の力を持たない人間が耐え切れるレヴェルの話ではない。あまりの惨状に雨弓も顔を蹴り飛ばした相手であっても同情せざるを得ない。

「触れれば、壊れる……それが私の『花晶』――仕方ないでしょ、ムカツくんだもん。あの喋り方とか、頭の悪さ、殺したくなっちゃう」

 ただ望めば破壊を可能とする、そんな単純シンプルで雪哉は消えてしまった。

 能力そのものも説明など要らない程に簡単な力。意識すれば触れるだけで壊せる力。「壊す」とは、消えて無くならせることだ。吹き飛ばし、そのまま止まるまで消え続ける。初めて理愛に使用した際はフェンスまでの短い距離を飛ばしただけで、それは力の殆どを制約し、息を吐くようなその程度の力の分配で使用しただけだから、理愛の身体が浮いただけに過ぎない。だからそうやって虹子の感覚でその「破壊」の度合いを調整することは出来る。しかし虹子の怒りを買い続けた雪哉には慈悲も無く一切の優しさも見せずに能力の全開を使い、雪哉を滅ぼした。

「まぁ、成仏したか……さすがに」

 遺体を捜すのも億劫になる。完全に能力を行使すれば塵さえ残らない。そんな凄絶さだけを形にした最高の能力。触れればということは触れたとしても発生する危険。触らぬ神に祟りが無いように雨弓は虹子の逆鱗に触れる真似は絶対にしない。しかし執拗なまでに虹子の機嫌を損ね続けた結果だ。自業自得だろう。

 だが、

「はぁ……はぁ……が、ふっ、ごはぁ……」

 樹に凭れ、血を吐き、額から血を流し、壊れた右腕を庇いながら屍の如き、生気を失った状態で生きていたのだ。神に等しい花晶の力をまともに受けて、生還しているのだ。虹子の表情がまるで鬼神のような酷く恐ろしい形相に変わったのを雨弓は見てしまった。生きていたのなら、どうしてそのまま大人しくしていないのか、命が惜しくないのか、異常すぎる行動を取り続ける雪哉の生き方を雨弓は理解できない。

「り、あ……いか、せ――」

「黙れよ」

 虹子の口調が変わった。

 そして思いっきり真横に生えていた大木を殴りつければ触れた部分から真上が綺麗に無くなった。

「黙ってろよ、お願いだからぁ、なぁああああああああ理愛のところへ行かせろってええええええええええええええ」

 ここまで怒り狂う虹子を見たのは雨弓も初めてだった。

 絶望的な力の差を見せ付けられて尚、立ち上がり、致命傷を負ったとて同じ行動を狂ったように繰り返す異常者を前に虹子が耐えられなくなったのだろうか。


 時任雪哉に能力は無い。


 全能なる結晶が舞う世界で、一片の能力も見せず、得ることもなく、覚醒めざめることもなく、それでも同じ行動を取り、同じ選択肢だけを掬い取って来た。それだけが気に入らないのだ。何も出来ないくせに、何も達成できない、失敗しかない。わかっているくせに、それを認めようとしないその生き方が。

 雪哉は、逃げなかった。

 逃げられないと、言うべきだったろう。

 身体の外も内も破滅している雪哉自身もどうして生きているのかさえ不思議に思っていた。それでも理愛を守るという一心が雪哉をこの世界に繋ぎ止めている。虹子が狂ったように叫びながら、動きながら、迫って来る迫って来る。迫って――

「死ねぇって、死ねって、死ね死ね死ね、私の力見て、諦めればよかったんだよ! 黙って寝てればよかったんだよぉ!」

 七色の光を纏いながら虹子が走る。瞳から漏れるような七光が落ちる。ああ、終わってしまう。一撃だけで雪哉はわからされた。やはり、能力というのは凄まじい。

 人間なんてとうに先へ進んでいたのだと、自分がいかにちっぽけで、矮小な微々たる存在だったなんてわかってたはずだったけれども――

 虹子の手が伸びる。その小さな手が、生者を死の深淵に誘う死神の手にしか見えなかった。終わって、しまうのか、


「守りたい……わたしだって――――」


 ドスンと、雪哉の衰弱した身体に押し出す。

 もう立つこともやっとだった雪哉はその斥力を押し返す余力など残っているはずもなく。

 そして、その力の根源が、それは、雪哉の、

「理、愛?」

「生きて、兄さん、わたしは兄さんの為だったら……バケモノでもなんでも、いい……だから――」

 時間の流れが極端に遅くなったのを感じた。

 その時間の中で雪哉と理愛が声を上げた。

 逃げたはずの理愛が目の前に。そして雪哉の前に、虹子が走り、手を伸ばし、その腕は、

「やめろ、」

 止まらない。

「やめ、ろ、」

 その伸ばした手が止まることはなかった。

 死神が雪哉ではなく、理愛に触れた。そして、


「やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 その咆哮が、雪哉の大切なものを奪い去ったことを確信させた。

 雪哉を庇い、盾になり、吹き飛び、雪哉の身体に触れて、

「ごめんなさい、兄さん」

 理愛は笑う。

 破滅の力を受け、消散する身体。それは白銀に煌きながら。

 そんなの人の死に方では、なかった。

 まるで結晶が罅割れ、砕け散り、霧消するような……終わりの瞬間。

「ただ、わたし、わたしね――」

 消えてしまうのに、兄が無事だと知ってそれに涙する理愛を見て雪哉は何も言えなかった。消える。消える。消えてしまう。理愛が、雪哉の世界を支える最後の柱が。

「わたし、兄さんの妹で、よかった」

 そして、理愛は、消えて無くなってしまった。

 雪哉はガクリと膝を落とす。

 あっという間だった。秒単位で雪哉の構築し、守り続けていた世界が終焉を迎えてしまった。もう何もできない。何もできるはずがない。終わってしまったのだ。この物語が、終わりを迎えた。

 理愛の、妹の喪失が意味するもの、それは死だ。

 理愛が死ねば雪哉も死ぬ。

 そう病室で涙した理愛に約束した。約束とは絶対。誓いを破ることは許されない。


 だから、死のう。


 もう、死のう。死んで楽に、理愛の元へ。独りぼっちにさせてはいけない。きっとあの世なんて暗くて寒くて狭くて悲しい場所だと、雪哉は思っているから。だからすぐに追いかけないと、早急に自害して、さっさと理愛の背中を追いかけよう。

「ははっ、なんか理愛勝手に死んじゃった。手間が省けてよかったけどね、花晶これも手に入ったわけだし」

 そんな雪哉の前で虹子は大声を上げて笑っていた。

 手には巨大な結晶。銀色の結晶を手に、発狂している。その銀の結晶は理愛の身体に見えた花の名の結晶。それは理愛だ。理愛を、下衆が掴んで喚いている。


「すまない、理愛」


 すぐに自殺して、すぐに昇天して、すぐに抱擁してやりたかった。

 でも、少し待ってくれと、雪哉は立つ。

「俺もすぐに逝く、だから少し待て、天国でも地獄でも、お前が待つ場所なら、何処へだって迎えに往ける」

 呟く。

 それはここにはいない理愛に向けられた言葉。

 雪哉が理愛を守りたいように、理愛だって雪哉を守りたい。

 同じ行動原理を持ち生きていたのだ。理愛が雪哉を置いて逃げ切るわけがない。わかっていたはずだ。しかし自分の価値観を押し付けすぎたのだろう。理愛は納得していなかったのだ。逃げた振りをしていただけ。雪哉に危機が迫ればすぐにでも盾の代わりになれたのだ。

 能力があったのかもしれない。この状況を打破する屈強な異能があったはずだ。しかし理愛は使えなかった。光が溢れただけで、その銀の光は何もしてはくれなかった。だから理愛は諦めた。しかし戦うことを諦めたわけではなかった。雪哉を守り抜くと、それだけを諦めなければ戦えるから。だから、死ぬことなど怖くなかった。大切な人に見守られながら、逝くのだから。

 しかしこの兄妹、本当に愚かである。どちらか欠ければ酷く脆いことを忘れている。雪哉は死ぬ。すぐに死ぬ。理愛を追って死ぬだろう。だけど、まだ、死ねない。死ねないのだ。

「理愛を、還せ」

 理愛の花晶を持つ虹子を前に、ここで終わってしまっては理愛を葬れない。あれは理愛だ。あの結晶も理愛だ。理愛のモノは全て取り返す。全て終わって初めて死ねる。だから、

 右肩は上がらず、身体も動かない。それなのにまだ戦える。

 どうして? 

 奪われたモノを奪い返さなければいけないから。

「妹もだけどテメェも十分ゾンビすぎんぞ、この変態兄妹がよぉ!」

「兄貴ぃ!」

 銃口を向ける雨弓に怒号を上げる。

「こいつは私が殺すんだから、そこで見ててよぉ、ねぇ、こんなイカレ野郎、もう一回終わらせてやるよ、大好きな理愛のところにイカせてあげるんだからさぁ!」

 三日月が唇に架かる。悪魔のようなおぞましい視線を雪哉に浴びせ、命を略奪せんと虹色の終極おわりが世界を色彩いろどる。接触による終結の壁が創造された。

 そんな絶望を前に、雪哉はやけに落ち着いていた。

 心は冷たく、視界は鮮明に。

 左腕を握り締めた。包帯を巻いたままの「設定」の腕。その腕は何が掴める? 何が掴めた?


「そうか、そうだった……な――」


 答えは出た。

 もう失うモノがない。失ってしまったのだから。

 失って初めて理解してしまった。

 目蓋を閉じ、害悪の力を前に焦ることもなく、驚くこともなく、心を落ち着かせていく。

 そして、見開けば広がる世界。

 もうこの世界に未練もない。未練も恐怖も負そのものはもうこの世界に落ちていない。今あるのは信念を貫けず、覚悟など意味なく、理愛が死んでしまったという失望だけだった。もうとっくに諦めている。生きることは、もう止めだ。

 それでも、復讐する。

 そう、これは復讐だ。最愛を強奪した、最悪を穿つ為の最期の戦いだ。

「はは、ははぁ! 何、なになに? 突進しちゃう? そんなことしちゃう! 意味ないって、ぜーんぜんっ、意味ないってぇえええええええええ!」

 雪哉の暴挙に笑いが止まらない。

 考え無しに、策も無く、ただ走行する雪哉がおかしくて堪らない。

 触れれば壊れて、消えて無くなる無敵と知って、立ち向かうなんてただの死にたがり。

 そうだろう、そうなんだろう、あれだけ溺愛していた妹が死んだのだ。勝手にぶつかって消えて死んでしまえばいい。だから最期ぐらい付き合ってやろうと、虹子は手を広げる。まるでやって来る子を抱き締めてやろうと期待する母のように、雪哉の憎悪も悔恨も何もかもを受け止めてやろうとする。その抱擁は死しか与えない。触れれば破滅するだけの災厄。

 そして、雪哉は素人丸出しの大振りの左拳を振るう。

 もう攻撃する為に使える部位はこれしかない。だからその左腕を虹子へ。

 その最初で最後の一撃、虹色の光に向けられた雪哉の意思、その意思は、


「――――――――――――――――――――えっ?」


 虹色の光を突き破る。膜のような光が破れ裂けていく。

 虹子の絶対の自信、完璧なまでの弱点などない能力。無敵、最強、それが、たった一人の無能力者の拳に破綻させられる。ただ純粋に左の拳を虹子の顔面に向けて撃っただけだった。

 それが、触れれば終わる筈の結末を覆す。そう、結末が一撃で覆されたのだ。

 炸裂する雪哉の左拳は虹子の顔面に叩き込まれ、小さな身体が放物線を描き、虚空を舞った。そして何が起こったのかもわからぬまま、地面にその矮躯が埋もれる程に強く叩き付けられる。

「なんだ、なにを、なにを、した……?」

 能力は確かに発動していた筈だ。

 虹色の光が竜巻を生み出し、その防壁が虹子の全てを守護していた。触れれば消失を与える破滅の盾が消えた。もうボロボロになった壊れた人形に成り下がっていた筈の雪哉がそこにいない。そこにいるのは全て失い、終わりの果てに立つ勇敢なる者。これで最期と決め、ただ理愛の結晶を取り戻そうと最期の職務を全うする兄の姿しかない。

 そして、左腕を伸ばす。破れて汚れきったズタズタの包帯。ずっと縛り続け、虚偽を包み隠していた白き布。それが解かれようというのだ。

 そして、終にそれは外される。

 虹子の表情が愕然する。雨弓もまた驚愕したまま動けなくなる。


「言った筈だ、この聖骸布を外した時、それはお前を敵と認識したということだと――」


 外された包帯。聖なる骸を包む布が解け、封印が解除される。それは「設定」だった筈だ。

 これまでもただふざけて複数用意した御伽噺のほんの一部。本の中の世界。幻想でしかなかった。それは妄言の筈だった。これも妄想だった筈だ。

 

 違う。

 

 もしそれならば、雪哉の左腕は肩から指先にかけてどうして白き銀で構成されているのだ。その輝きが嘘ならば、雪哉の手は虹子の壁を越えることなど、出来なかったはずだから。

 天に掲げた左腕、そして右腕はその結晶の左腕の肘に置かれ、長い前髪の合間から見えた鋭い視線。今、ここに……全能結晶に挑む、無能力者が生まれた――


贖罪あがなえ、罪を背負い、ただ罰を受けろ」


 ――最期の戦いが始まる。

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