1-14 全能結晶の無能力者(5)
1-14 全能結晶の無能力者(5)
力は発動されることはなかった。
絶望する理愛に失望した虹子の凶刃が振り下ろされた。
肩口から腹部に掛けて切り裂かれ、血が溢れた。
「あ、ああ……」
切先で裂かれたのは皮膚だけだった。
それでも死という恐怖は付き纏う。
理愛は逃げる。殺される。このままだと間違いなく殺される。
(どうして……っ)
逃げる。逃げる。逃げる。
生きる。生きる。生きる。
たった二つ。それだけ念じ続ける。
光が生まれ、輝きを放ち、力が生まれるはずだった。
もう、そこまできていた筈なのに、それなのに、力は形を描くことはなかった。
裂けて見えた下着を隠すことなく走り続けた。
痛い。でも立ち止まればもっと痛いことになる。
勇ましかった姿はそこにはなく、今はただ映画のように殺人犯から怯え逃げ惑う被害者のよう。
そしてそんな加害者が後方から追いかけて来る。
死にたく、ない。
自分は有能力者ではなかったのか? 身体の中にその権利があるはずなのに、力は理愛を助けてはくれない。
「理愛ぁ! 逃げちゃダメだよ、もう終わりなんだから諦めて殺されてよぉ!」
耳に響く、おぞましい言葉。
きっと捕まれば殺される。
両手をギュっと握り締めただ走る。力は応えてくれない。
漫画のように、小説のように、都合よく覚醒を見せてはくれない。
涙が、毀れる。
何も出来てない。
何も、何も――
兄である雪哉を傷つけた悪い奴を倒すつもりで、その覚悟でここに来たのに、自分で選択して歩んだはずだ。
それなのに、今は、とても怖い。
死ぬのが怖い。
どうして?
兄と、離れ離れになる。
「いやぁ! そんなの、ヤダぁ!」
走る。
死から遠ざかる為にひたすらに。
疲労する身体と精神を無理矢理動かせる為に叫ぶ。
まだ走れる。止まるな。走れ。
「はぁ、はぁ、はぁ、わたし、わたしぃ……」
どれだけの覚悟も信念も敵に通用しなかった。敵わなかった。初めての敗北でさえ、心が折れることはなく、何度でも立ち向かえた。雪哉が凶弾で倒れ、その弾を撃った敵を見つけた時は胸が高鳴った程だ。戦えた。何度だって戦うことだけは止めなかった。
それでも、自分の刃は届かない。
どれだけ、願っても力は出ない。
理愛の心を壊すには十分な理由だ。
何をやっても敵わない相手を前にどうすればいい。そんな相手を倒すことが可能なのか?
見えない弾で理愛を暴行した雨弓の力。
見えない壁で理愛を蹂躙した虹子の力。
そんな不可視の前ではやはり何も出来ない。それでも、そんな力の前でもあれだけ勇敢に立ち向かえたはずなのに。今はもう、それも出来ない。
「きゃっ!」
躓き転び、泥だらけになってしまう。
そして、もう逃げ切ることは叶わなくなった。仰向けのまま真上を見れば、そこには虹子が立ち尽くし、睥睨したまま理愛を威圧している。動けない。少しでもここで抵抗の素振りを見せてしまえば手に持つ刃が喉奥に突き刺さる光景しか見えない。
「本当に、理愛って面白いよね。コロコロ表情も感情も変わって、なんだか私のこの眼みたい」
樹の陰影の下に立たれてしまっては虹子の顔を見たとしても表情まではわからない。けれど、樹と樹の合間から漏れる月光が暗がりを照らし、虹子の瞳が赤く染まるのが見えた。色を変える虹子の瞳。そんなすぐに色を変える虹子の瞳のように、理愛もまた憤怒や悲哀といった様々な感情を表現する。
殺してやりたかった。でもそれが出来ないのなら諦めるしかない。だから苦しんで悲しんでいるのに、そんなことを言われても嬉しくない。
理愛は何も言わずに虹子から視線を逸らすが、虹子はそれを許さない。理愛に圧し掛かり、持っていたナイフを捨てて両腕を押さえ拘束する。
「や、やめて!」
「やめるわけ、ないでしょ」
どれだけもがいても虹子の拘束を解くことは出来なかった。
虹子はただ愉しげに理愛の身体の上で踊る。
涙を浮かべ、悔しげに顔を歪める理愛を見て虹子の嗜虐心が刺激されたのか理愛の両手を片手で掴み、荒い息を吐きながら口元を吊り上げたまま理愛の胸元を擦り始める。
「な、にをっ……」
「何ってぇ、理愛が自分の身体の中にある花晶が、見えないままなんて可哀想だなって思ってさ」
そして丁度、胸の間に手は置かれ、ゆっくりと虹色の光を放ちながら理愛は自分の身体から何かが込み上げて来るのを感じた。胸が焼けそうに熱い。息も苦しい。声が出ない。そして、光が消え、理愛の胸元には銀色に輝く大きな玉の形をした結晶が姿を現した。
「そ、そんな……」
自分の胸元に埋まったその結晶を見て、理愛の身体にその異能を与える結晶が本当に存在していたことを理解してしまった。こんなものがあるせいで、自分も雪哉も、この世界も、何もかもが変わってしまっただなんて、そう思うだけで悲しみで押し潰されそうになる。
「泣いてるの? 理愛……ふふっ、でも、大丈夫。理愛だけがそんな大きな結晶を身体に埋め込んでいるわけじゃないんだから」
そう言って、服を捲り上げれば、
「私もなんだから」
白い腹部が露わになる。それは前。理愛に見せた虹色の結晶。
腹部に埋め込まれたその結晶が幾つもの輝きを放ち、煌き続ける。しかし前見せた時、その結晶は小さいものだった。だが今は理愛の胸に埋没する自分の拳ほどに肥大したモノへと変わり果てていた。
「理愛の見てたら、興奮しちゃった……」
「ひっ……!」
身体が竦む。一層大きくなる震え。止まらない。
それでも、声は出た。
「わたしは、何な、の……」
どうしてそこまでして追い詰める。
特別な力なんてあるわけがない。だって、力が使えないのに何の意味があるんだ。
だから、そんな疑問を投げかける。虹子の身体はピクリと止まり、そしてゆっくりと顔を近付けてこう言うのだ。
「種晶はね、視野の狭い愚か者が手に入れて悦ぶただの嗜好品。力? そうかもしれないね、人より優れていればそれだけでいいのかもしれないね」
種晶は人に能力を与え、異能という才能を開花させる。
火を放つことも出来れば、空を翔ることだって出来る。
たった一つ、それは人間を超越させるには十分な力を与えてくれる。そんな常識を逸脱する代物が、嗜好品などとそんな呼び方で虹子は括る。
「花晶は違う。これは「本物」なの。世界をどうこうするなんて簡単なぐらい、おぞましい力を秘めている。わからないの?」
わからない。
わからないからこうして怯えているんだ。
どれだけ嘆いても叫んでも何も変わらないから恐れているのだ。
「だから、さっさと黙ってテメェの能力を見せろって言ってんのに、お前はクズだな時任妹」
そしてはだけた服から白い肌を晒す理愛に向けられた銃口。
雨弓の持つ銀黒の銃身が不気味に輝き、銃口からは黒い底の見えぬ深淵が理愛を見つめている。
「わたしに、力なんて無いって……言ってるでしょう。わたしの身体に埋まったこんな結晶、要らないって、何度も――」
身体の奥底に存在していた結晶が、自分の世界を狂わせているのならさっさと消えて無くなって欲しかった。もうしつこいほどにそう言っていた。
けれど、そうはならなかった。
ただ理愛の身体に佇み、時間をかけて理愛を壊していった。
「埋まってる? ハハッ、虹子、ホントにこいつ何もわかってないんだな。こりゃ傑作だわ。自分が化物だってことに気づかずに人間ごっこを楽しんでたってか?」
「ば、け、もの?」
雨弓の言葉を反芻しても、その言葉の意味はなんだったろう。
おかしい、その言葉は聞いたことがある。けど、自分に向けられて言われたとなれば話は別だ。ばけもの? 誰が? 理愛はそこ言葉を脳内で調べる。どこに化物がいるんだ。この腕も脚も、身体だって、正真正銘の人の子だ。どこも化かしてはいない。人を恐れさせようと、悪巧みも考えていない。恐ろしい姿も形もしていないというのに、雨弓は理愛を化物だと決め付ける。
「そうだよ、バケモノ」
「わたしは普通の、人間です!」
我慢ならない。
いきなり人をバケモノ呼ばわりするこの男が許せない。
どれだけ辛く、苦しくとも、逃げたいはずなのに、その言葉だけは撤回させなければいけない。
けれど理愛の叫びは届かない。雨弓は笑いながら地団駄を踏み、言う事を聞かない子供に苛立つ大人のように腹を立てていた。
「聞き分けろよ、お前は人間じゃねぇの! 普通? お前が言うなよ、お前みてぇな人間知るかよ」
音が爆ぜ、理愛の近くにあった樹を撃ち抜く。
コルク栓のように綺麗に切り抜かれた円形の弾痕。
その威力の前に理愛は強制的に口を閉ざされる。
理愛の意見は全て否定され、雨弓の価値ばかりが前に押し出される。
「普通の人間が髪の毛が銀色なわけねぇだろバカが! どこの外国から来たんだよウケるわ!」
銀の髪と瞳。
それは確かに東洋人とは言い難い変色。
そしてその二つの要素はこれまでも理愛を苦しめてきたものだった。
だから、普通ではないと言われても強い意志を込めて否定することができない。
普通じゃない。
そう、普通ではないのだ。
人間の髪、瞳の色ではない。
刃のような、氷のような、結晶のような白銀。
その色は例え美しい輝きを放っていたとしても、人と異なった色ならば異常と見なされても仕方がない。
「理愛、花晶が種晶を遥かに超えた力があるのは何故だと思う?」
消沈する理愛に掛けられた虹子の言葉。
理愛はもう何も答えることができない。
「結晶そのものだからさ、髪も色も血も肉も、全部、全部で一つなの」
その言葉が決定打だった。
種晶は結晶の断片でしかない。小さな結晶を身に埋めることで得られる異能。
けれど、花晶は違う。
それは種ではなく、花。
花開くそれは異能を超えた窮極。
出鱈目もいい所である。種をその身に植え、花を咲かせることで能力を得るような、だから種晶なんて名前だと、そう理愛は思っていた。
でも、別に「花」の名を冠した結晶が存在しているのならば種の結晶は所詮、「花」には勝てない。
そしてその結晶は生きているのだ。人一人、そのままが結晶。身体に埋まっているそれは一部でしかない。血肉から髪の毛一本全てが結晶なのだ。そんなもの種晶の比ではなく巨大。
「そんな、そんな……そんな、それじゃ、それじゃ、わたしは……」
「化物、化け物、ばけもの、バケモノォ! お前は人間なんかじゃねぇ、ただのお化けだ。」
お化け。一番しっくり来ることだろう。
人の形に化けた結晶。
そう、花晶は「人」を形成した結晶だった。
小さな、本当に小さな結晶で、人に異能を与えるとするのなら、理愛のような矮躯であったとしても種晶のように小さなモノと比べれば何十倍、何百倍の質量となる。
種晶もサイズによって得られる能力が強大なものになるとされている。では理愛そのものが結晶だとするのなら、得られる能力は如何なものか?
「わたし、にんげんじゃ、ない?」
それでも能力の大小だと、今の理愛が知りたいことではない。
人間ではない。
結晶。
人間の形をした――結晶――
「じゃあ、わたし、わたしはぁ……」
壊れる。自壊する。崩れてしまう。
理愛を繋ぐ心の最後の一本の糸も、縺れたまま、たったもう一度衝撃を与えればプツリと切れて落ちてしまいそう。
「時任雪哉はお前の本当のお兄さんではありません、残念だったなぁ時任妹ぉ。ギャハハハハッ、今までずっと勘違いして生きてたわけだぁ!」
それでもまだ認めるわけにはいかない。
泣くな、ここで泣いたら、兄との関係にまで終止符を打つことになる。
理愛は耐える。あと一撃受ければ壊れてしまうギリギリまで耐え抜く。
「結晶が落ちてきたのは六年前……わたしは、六年以上前からここにいる! だから――」
「理愛、それは公になっただけ。結晶はね、ずっと前からあったんだ。二千年前から、もうこの世界にあったんだよ。それを気づかずに生きてきた人類が馬鹿なだけ、アナタはずっと前からもう結晶の形をしたままどこか暗い穴の底で動けずに停止してただけ」
「そ、んな……」
六年前、この世界に結晶が降り注ぎ、人々は「異能」を手に入れた。
それは違った。
結晶そのものは既にこの世界に現存していたのだ。それに気づかなかっただけに過ぎない。
「私達、「Ark」はずっと前から存在してる。ずっとずっと昔、遥か過去、結晶が超常を与えてくれたことなんてとっくに気づいてる。隠すさ、隠すに決まってる。大きな力は隠すに限る。でもそれが出来なくなった」
六年前、公になった結晶落下。
あの事件を境に結晶を隠蔽する意味はなくなった。
そして世界に組み込むことで、異能の異常性を限りなく正常に近付けた。
そんな中で、
「種晶なら構わない。どんな力だって、才能だって、問題ないの。でもね「花晶」は別。あれはもう何かわからないの。私だってわからない。だって――」
理愛の首を掴み、力を込める。
片腕一本で理愛の身体を持ち上げる。虹子の短躯からは想像も付かない力だった。息が出来ない。酸素が頭に回らない。
人間じゃないなら、どうして人間らしいの。
理愛は自分が殺されそうになる中、そんなことを思ってしまった。
心臓の鼓動が聞こえる。生きていると実感できる。
目は見通す。声は伝達する。耳は聴取する。心は感情を、描き、
理愛はまだ、自分を「人間」だと信じている。
ここで認めては、「兄妹」はどうなってしまう。
人間ではないモノが「妹」を名乗れるのか。
そんなの、嫌だ。
虹子の手に更に力が篭る。
無意識に涙を流し、呼吸することだけしか考えられないせいか口元から涎が漏れ続けていることにも気がつかない。目がゆっくりと上を向いていく。このまま白目を剥いてしまえば、それは生命活動の停止を意味する。死ぬ? 死にたく、ない。
「理愛、安心して、私が理愛を救済って上げる。何もできない理愛、可哀想な理愛、だから理愛の結晶は私の中に入るだけだよ」
「だか、ら、アナタ、も……」
ただひたすらに精一杯に声を出した。
理愛を執拗に追跡し、追い詰めてきたのは、虹子も「同じ」だったからだ。
ただの人間が、七色をも超える無限色の瞳を持つわけが無い。
数多の色を保有する虹子の瞳。それは名前通り。虹の子だった。
そして虹子もまた理愛と同じ「花晶」の子。
人形の結晶者。虹子もまた人間ではないのだ。
赤から水へ、黄から緑へ、黒から白へ、やがて金から銀へ。虹子は理愛を見つめる。理愛のように純粋な銀ではなく、不純物でも混じったような鈍い銀の瞳で理愛を見つめる。頬を赤く染めて、興奮し、紅潮したまま理愛の首を絞める、絞める、絞める。
世界が閉まる。ゆっくりと閉鎖されていく理愛の感覚。それでも、まだ、
「力を上手くコントロールできねぇヤツは化物以下だよな、でもまぁ、もうすぐ終わるわけだ。虹子、さっさと終わらせてくれよ。こんなクソ、自分の力を使うこともできやしねぇ木偶だ。木偶が力を得る権利なんて手に入れてんじゃねぇよ」
「ふざ、けるな……」
だから、理愛は声を上げる。
最期の最期まで抵抗し続ける。やっぱりおかしいんだろう。
虹子の言うように、彼女の瞳の色のようにコロコロと変わる感情。
あれだけ怖かった、逃げ出したくて堪らなかったのに、絞殺される手前でまだ反感の意思を見せるなんて、どうかしてる。
「あれだけ、バケモノ呼ばわりして、おいて、この子、も、そうなんでしょう、それなら、どうして、酷い、兄ね……アナタ――」
兄妹の定義、それは家族であること。
血など関係はなく、想いだけでどうとでもなる。
理愛は自分をずっと雪哉の妹であると思い続けてきた。それだけで兄妹なのだ。
だから、構わない。人間でなくとも、このことを雪哉が知って距離を置かれたとしても、家族が崩壊したとしても、理愛はこれからも永遠に雪哉の妹であると、言い切れる。
短い時間だったとしても、それでも理愛をあの大きな背中で虚栄と虚像だけで守護してくれた兄の為に理愛は妹であり続けたいのだ。
だからこそ、雨弓のこれまで理愛に向けられた言葉がまるで虹子に向けられているように感じてならなかった。妹をバケモノ呼ばわりする兄。雪哉にそんなことを言われたと思うと、想像もしたくなかった。
「はぁ? 虹子もバケモノだぜ? 人間じゃねぇんだからな、結晶の塊とか怖すぎんだろ」
「そ、れで、も……この、子は、アナタの妹、なんでしょう? わたしを侮辱、することは、アナタは、アナタの妹まで、侮辱してる、ことに、なる……のに――」
まるでそれは触れてはいけない雨弓の逆鱗に触れてしまったようだった。
銃口がいきなり理愛の額に押し当てられる。
そして雨弓はこれまでに無い怒りの形相を浮かべて
「お前に何がわかんよ? 知ってもらおうとも思っちゃいねぇ、けどよ、減らねぇ口なら黙らせるぞ、ああ?」
そして理愛は何も言えなくなった。
引鉄が今にも引かれそうだった。だが無言のまま制止する虹子のお陰で、事無きを得た。いや、今まさに絞殺しようとしている相手を前にそんなこと、間違っているのかもしれないけれど。
「ともかくだ……虹子は別だ、本当の化物はな、テメェみてぇなことを言うんだよ。能力が使えない、ド低脳のことを言うんだよ。理解してくれなんていわねぇ、だから一つだけ知っとけ、虹子が一番なんだよ」
妹を贔屓した姿だけは雪哉に似ているようにも思えた。
「だから化物は二人もいらねぇんだよ。例えどれだけ種晶を超越た「本物」でもテメェは虹子の「偽物」でしかねぇ。及ばねぇのに前に立つな、歩くな、ここから消えろ」
水平に構えられた銃口が理愛の眉間を狙っている。
この至近距離、理愛の首には虹子の手。
逃げることは出来ない。待っているのは確実な死。
死にたく、なかった。
「虹子、さっさとその胸の「核」でもぶっこ抜いて殺してしまえよ、見ててイライラするわ。後はオレが脳天ヘッドショットって消し炭にしてやる
「そういうわけで、理愛、短い間だったけど楽しかったよ」
そっと胸元に添えられた虹子の手は冷たかった。
そして理愛の意識は風前の灯にも等しい、消失の手前。
虹子と雨弓の会話も聞こえなかった。
音が、死んだ。
ああ、もう終わりだ。
終わってしまう。
それでも、最期に、最期に、
「た、」
消え入りそうな声で、理愛は言葉を紡ぐ。
頭の中はもう空っぽのようで、自分が何をしているのかさえわからない。
「た、す……」
どれだけ辛く、悲しい時でも、そう呟くだけで救われる……あの言葉だけを、口にしようとした。もうそれに縋ることしか理愛には出来ない。死に直面して尚、浮かぶのはたった一つ。
「なんだこいつ? まだ生きてんのか? マジでゾンビみてぇなヤツだな。おい、虹子どけ、死骸にしてからゆっくり調べろや」
もう何も聞こえない。
もう何も感じないのに、
それなのに、今はただ、あの顔が見たい。声が、聞きたい。
「た、す……け、」
だから、もうその言葉だけが今の理愛を生かしていた。
雨弓は巨大な銃器を理愛に向けて構える。虹子は手を離す。全ての力を失った理愛はぐったりとなったまま、涙を流しながら、グチャグチャのまま、倒れていく。倒れる、倒れる、ゆっくり、そのまま地面に落ちて、
「た、す……け、て――」
消えていく感覚。失われる意識。
それでも最期まで、あの顔を、声を、忘れようとしなかった。
それが忘却するということは、本当の化物になってしまうような、そんな気がしたから。
「終わりだ、死ねよバケモノ……さっさとオレらの力になっちまいな」
引鉄が引かれ、撃鉄が落ち、凶弾が、
「何を、やっている?」
凶弾が射出される。だが、それは逸れる。理愛に直撃することなく、通り過ぎる。
「――――がっ!」
雨弓は引鉄を引くと同時に声のした方へ。
そして声がした方を覗けば、雨弓に視界はブラックアウトした。いきなりの衝撃に、吹き飛んだ樹木と同じように雨弓は苦悶の声を上げながら回転しながら飛び跳ねた。
「あ、ああ……」
凶弾は理愛に当たることはなく、真横の樹木をまとめて吹き飛ばしただけだった。倒れこむ理愛は五体満足のまま存在している。
そして薄れゆく意識の中、大きな影が理愛を呑む。
でもその影はとても優しい。
枯れる程に流し尽くした筈の涙が再び生成される。どうして、この人は――と、理愛は驚愕し、そして感謝する。そこには強大な敵を前にして、震えることなく、臆すことなく立ち向かう正義がいた。そんなたった一人の正義は手を払い、怒号を放つ。
そうだ、この人を、待っていたのだ。
どれだけ勇気を抱いても、どこかに見え隠れする不安の塊がたった一人の存在で一瞬で消散する。
そして、その人はやはり立ち向かうのだ。
怨敵を、討ち滅ぼさんと誓いを立て、巻かれた左腕の包帯。そんな腕を前へ、翳し――
「お前たち、俺の妹に何してる――」
向けるは敵意の眼差し。
大切なものを傷つけた者に対する殺意。
だから、増大に膨れ上がるその想いは真っ直ぐ敵に向けられる。
「――殺すぞ」
その肥大する憎悪の中心に、時任雪哉の姿が見えた。