1-11 全能結晶の無能力者(2)
1-11 全能結晶の無能力者(2)
それは奇跡と呼ぶことだけは、了承するだろう。
雪哉の眠る病室に備え付けられた椅子に座り理愛はそう思った。
あれから丁度、一週間が経過したことになる。
曜嗣に言われた謹慎の期限の最終日だ。
だが、そんなことよりも肝心の雪哉が目を覚まさないのでは意味がない。
雪哉が倒れた日、何があった?
理愛は雪哉に押し倒され何をするのだと文句を言おうとしたら、血を吐いて倒れた。
最初、吐血したものだから何事かと思ったが、腹部からも出血していた。原因はその腹部の傷であり、鋭利な何かを突き刺したような痕があったそうだ。それが何かはわからなかった。
凶器は見つからず、雪哉が倒れたあの時、信号の前で立ち止まったとき車が通り過ぎただけで、そもそも朝の十時以降、平日で人気は疎らだった。雪哉に近付いて襲い掛かった人影などどこにもなかった。
だから、そんな雪哉にいきなり致命的な一撃を与える方法は一つしかない。
それは「能力」でしか不可能だ。
理愛は思った。あの時、いきなり自分を押したのは庇う為のものだった。
そして雪哉は倒れた。
意識はあるが目を覚まさないだけだ。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。そう思うと悔しくて堪らなかった。
ふと、考えが過ぎる。
理愛の身体に「種晶」なんていう不可思議が発見されてからだ。わけのわからない輩に襲われ、挙句には自分も壊れたように戦い出し、やがて兄が負傷し、倒れた。
もしも自分の身体の中にこんなものが見つからなかったら、こんなことにはならなかったんじゃなかったのかって――
そんなことを考えるだけで、胸を何かが込み上げていく。それは嘔吐感だけではなく、負の感情も一緒だった。
眠りから覚めぬ兄の前で、理愛は涙の粒が落ちる。
それだけは言ってはいけなかったのに。
それだけを言わぬために戦ったはずなのに。
なのに、
「兄さん、わたし、いない方が、いいの、かなぁ……」
そんな心にも無いことを言ってしまう自分が憎かった。
「わたし、こんなことなら死んだ方が、いいのかも」
そんな出来もしないことを口走ってしまう自分が憎たらしかった。
これは事実を知って一番最初に思ったことだった。
兄とは違う。
異能とやらを手にする権利。
兄には無い権利。
そんなものいらないのに、押し付けられた力。
いらない。
そんなものは、いらない。
だから、わたしも、いらない。
理愛はそう思ってしまったのだ。
だけど、その言葉は――
「そうか、なら死ね」
だけど、そんな自分自身を恨む理愛を叱り付けるように、雪哉は閉じたままだったはずの目蓋を開き、そう言ったのだった。
「死にたいのなら、死ね。止めはしない」
「そんな、兄さん……」
目を覚ました雪哉を見て驚愕し、理愛の震えが更に強くなる。
「死にたいなどと、ふざけたことを」
雪哉は身体を横に向けて、窓の方を見つめる。理愛の顔を見ないようにして、
「死ぬなら勝手に死ねばいい。だが、お前が死んだら俺もすぐに死ぬぞ。どうして独りにされなければいけない。俺は嫌だぞ。孤独を選ぶなら死んででもお前を追いかける」
それが、雪哉の願いだ。
孤独が雪哉の死に直結している。
あの日、全て消失した夜。雪哉の側にいたのは理愛だけだった。だから理愛まで失えば、どうなるか。兄妹という関係を超えているのかもしれない。それでも雪哉にとっては半身に近い。
だから、理愛の消失は雪哉自身の消滅に他ならない。
「ごめんなさい、わたしどうかしてました……ははっ、ちょっと風にでも当たってきますね」
目蓋に溜まる涙を拭って、作り笑顔をしたまま理愛は病室を飛び出した。雪哉はそんな小さな理愛の背中を黙って見ていることしかできなかった。それでも、自分のいった言葉に嘘偽りは無い。本当に、理愛が目の前から消えて無くなったら、きっと自分も同じように消えて無くなるはずだろうから。それだけは本当だから。
雪哉の目覚めと言葉に理愛自身の感情が滅茶苦茶に掻き回され、理愛は病室から逃亡するように飛び出した。病室の扉にもたれて、小さく溜息。たった一枚の扉の向こうに兄がいるはずなのに、こんな扉が今は頑丈で強固な開かずの扉のように感じられて、理愛はその扉をもう一度開いて、雪哉の元へ向かうことができなかった。自分から逃げ出しておいて、卑怯者だと思うだけで余計に辛くなった。あれだけ自分から消えていなくなってしまいたいなんて馬鹿げたことを抜かしておきながら、雪哉の言葉を聞いて舞い上がってしまった自分が情けない。
だからこの逃亡は自分を戒める為にしたことだ。あのままいればきっと泣き出して感謝し、雪哉に抱きついていたとさえ思う。それまでに雪哉の言葉が嬉しくて堪らなかったから。
だけど、本当に消えてしまいたいなどと、そんなことを思ってしまったことは最低である。そんな最悪を抱いた自分に対する罰なのだ。これ以上、兄の前にいてはいけない。
結局は、慰められたかっただけなのかもしれない。
この一週間、家には殆ど帰らずに雪哉の病室にいた。どうして血を吐き倒れたのかその原因などに微塵の興味も持たず、ただこのまま雪哉が永遠と目を覚まさぬままならどうしようとだけ思っていた。もしそうならどうすれば……きっと、同じように目覚めることのないように自分を傷つけていたかもしれない。
本当に、兄妹揃って愚か。この兄妹は純粋故にどこか、壊れている。
どれだけの悲しみが待っていたとしても二人ならば、なんて思ってる。
だけど、
「ここかぁ? 死に損ないが寝てる病室はよ?」
理愛の目の前に月下雨弓、そして虹子が立っていることに気がついた。
そしてそれまでの悲哀を投げ捨てて、感情を憎悪に切り替える。こんなところに何をしに来たなんて、もっとも見たくない顔を見せられればそう思うのも無理はない。
だがそんな怨恨を前に、厭らしく笑う雨弓が理愛の前に立つ。明らかな身長差、理愛は見上げなければその憎たらしい表情を窺うことすら叶わないだろう。雨弓は理愛を見ることなく雪哉のいる病室に入ろうとした。だが理愛は扉を守護するようにその矮躯で立ち塞がり、月下兄妹の侵入を許さない。
「どけよ、今はお前に用はねぇ」
「どきません」
雨弓の敵意に動じることなく手を広げて、その場から動こうとしない。
「何しに来たんですか」
「そっちこそ……こっちからの誘い、断ったろ?」
「何のことですか?」
雨弓は封筒を取り出し、理愛に渡す。
理愛はそんな雨弓の手に触れたくもないのか、封筒の端を摘み、まるで汚物にでも触れたような酷い顔をしてその封筒を奪うように取った。
そしてその内容を見れば、それは朝に曜嗣が見せてくれた「Ark」からのものと一言一句同じ内容のものだった。
「どうして……」
「そりゃオレらがそれの一員だから。「査定局」って言ってもわからんだろうけどな、オレらはお前のいつか開花する能力に期待している。だから、その手紙を送ったんだけどな」
査定局――「Ark」の中にある組織の一つであり、主に戦闘に特化した集団である。いつかいったこの世界に能力を持った人間の犯罪を取り締まっている組織と言っていいだろう。そしてそれはただ暴力から人々を守るだけでなく、高い能力を持った、または新しい能力を手に入れる可能性のある人間を選定し、協力を要請することもしている。協力などと、人間を研究する時点でそれはきっと間違っているのだけれど。
そんな名前を出されても理愛は知らない。雪哉と同じように世界を真っ直ぐに見ていない理愛にとって「Ark」も「査定局」も気に掛けず生きてきたのだから。
「わたしはアナタたちに協力する気は、ないです。だから……とっとと帰ってください。わたしにも、兄にも近付かないでください」
そのまま手紙を雨弓に押し付け、背中を向ける。
そんな理愛を見て雨弓は鼻で笑い、虹子は黙ったままけれど薄気味悪く口元を歪める。
「理愛、そんなに兄が大事?」
理愛の背中に冷笑した虹子が問う。
くだらない。
理愛は舌を打ち、キっと虹子を睨む。
しかしそんな虹子は理愛の前に立ち、凝視していた。黄色の瞳が紫色に変わり滲み出す。多彩なその瞳はまるで虹子の感情そのものだった。気味の悪いその瞳で見つめられる度に重圧を掛けられたかのように理愛の身体は硬直する。
「邪魔だよね、ホント。そいつがいなかったら……理愛だって、すぐに「こっち」にこれたのに」
「ふざけたことを、言わないでください」
続けて挑発する虹子に畏縮していたはずに理愛の瞳に光が灯り、銀の眼差しで反撃する。
刃のような煌きを放つ瞳が虹子を呑み込む。
ああ――
理愛はわかってしまった。
もう、戦闘は開始されている。
やり方こそ違うけれど、戦いはもう始まっていたのだ。兄が、穿たれたあの日から。
「理愛、私はね、理愛にもっと知ってもらいたいんだ。自分のこと。だからさ、」
虹子は手を差し出す。
それは誘うように――そして悪魔は囁く。
「一緒に行こうよ、もっと楽しくなる。世界が輝くはず。兄のことは忘れなよ。再三言うね。理愛、キミはもう兄と同じ未来を進めない」
未来はすでに決定している。
能力を持たぬ兄と能力を持つ妹。
能力こそわからないが、それでも確実に無能な者以上のモノを理愛は手に入れている。
あとはどう考え、どう動くかだけで更なる能力が解放される。
どうして他人が未来を決めることができるのだろう。
理愛にはどうしてもそれだけが理解できなかった。
「私は理愛に来て欲しいな。これ以上、理愛のお兄さんが傷つくの見たくないならそうした方がいい。傷つくならまだいいけどさ、でも傷だけじゃ済まなくなったら?」
少しだけ屈んで、虹子は見上げるように理愛を見つめる。理愛は声を出すことができなかった。
「兄さんが、倒れたのは……」
「おお、オレがやった。ノーコンなんだわオレ。でも、まぁ、運よかったな。もし頭にでも当たってたらそれこそお釈迦だったろうに。運いいなアイツ」
事実を知り、理愛はただ下唇を噛み締めることしかできなかった。
赤く染まり、唇が切れてしまう程に噛み締めることしか。
敵。
この兄妹は敵だ。
それでも、
「アナタたちについて行けば――」
理愛は選択をする。
ゆっくりと頭の中で考えをまとめ、一つ一つ言葉を選んでいく。
「兄さんにはもう、手を、出しませんか?」
その言葉を聞いて、
「「もちろん」」
二人は声を揃えてそう言った。
「わかり、ました」
理愛は深々と頭を下げる。
「それじゃあ理愛、早速だけど場所を変えたいんだけどいいかな?」
「え、ええ……その前に、兄さんに声を掛けてからでも、いいですか?」
そんな理愛の切実な願いを前に、虹子と雨弓は顔を見合わせて、
「いいよ、お別れしてきなよ」
虹子がそう言った。
「おい、オレら先に行くからよ……番号教えろや」
雨弓が携帯電話を開き、そこに電話番号が表示される。
他人に番号を教えるのは気が引けたが、理愛は渋々自分の番号を表示して雨弓に教えた。雨弓もまた自分の携帯電話の画面に表示された電話番号を理愛に見せてくる。それをさっさと登録して、ポケットに直した。
今はそんなことより兄の元へ戻りたい。
雨弓が理愛の番号を登録したことがわかると、理愛は再び頭を下げ、すぐに兄のいる病室に戻る。
後ろから二人の声が聞こえたが無視した。あれほどもう兄の病室に戻ることは出来ないなんて言っておきながら、もう兄の元へ戻るなんて腑抜けもいいところだ。
やっぱり、雪哉がいないと駄目だ。
理愛はそう思った。そう思ったからこそ、理愛は決意していた。
「兄さん、わたし帰りますね」
「そうか、気をつけてな」
突然帰るという妹を前にそこは少しでも寂しそうな仕草なりなんなり見せて欲しかったが、雪哉にそんなことを求めるのは酷なことだろうと理愛は納得し、病室を出ようとする。長くいればそれだけで迷うから。きっと助けを求めてしまいそうだから。今から単身で敵地に赴くなんてとてもじゃないが言えなかった。
「じゃ、じゃあね兄さん」
「理愛」
その場から逃げようとした理愛に雪哉は声をかける。
立ち止まるな、早く立ち去れ。それが出来ない。
「さっき病室の前で誰と話してた?」
「だ、誰と? わたしが? わたし、風に当たってくるって言いましたよね? ははっ、兄さんおもしろいこと言いますね。わたしは外にいましたよ」
嘘を吐いた。
「そうか? ……そうなのか? 扉越しの影は理愛に似ていたのだが」
「それならドッペルさんか何かですね、はははっ」
言葉だけでなく表情まで嘘で塗り固め、自分を偽り続ける。自分に嘘を吐くことはとてもいい気分ではない。心に棘が刺さるような、ただ胸が痛い。大切な兄に嘘を吐く自分を前に、ただ今はとても辛い気持ちでいっぱいだった。
「ドッペル? ああ、自己像幻視体のことか……ふふっ、理愛よ。お前もまさかそういうことを言うとはな」
雪哉がそうやって笑う度に理愛は自分の中に必死に押し留めている気持ちを止めることができなくなった。
「わ、わたしだって兄さんの横で変なことばっか言われてたから伝染っちゃったんですよ、バカ……わたしもう行きますね!」
「そうだな、そうだったな……すまない」
「だから高校生の謝る言葉がすまないってなんですか、ふざけてるんですか……」
最後はやけに自分でも言葉に力が無かった。
いつもの朝のような会話。そんな会話をしながら学校へ。
いつものように夜は一緒に。でも、もうそれもできないなんて。
辛い。
「ははっ」
理愛は笑った。それはとても自虐的な笑みだった。
自分を隠し、殺し、やるべき事を見つければそれはとても過酷だった。
理愛は自分の親指の爪を噛んだ。
塞き止めた感情が溢れる前に雪哉を見ることなく飛び出す。
「兄さん……さよなら……」
きっと聞こえていないだろう。本当に自分の口から出たのかと疑う程に小さな、小さな声でそう言ったから。そして、理愛は自宅を目指す。場所が変わる。なら、その場所で、全て――
だから、これで最期だ。
全て終わらせる為の。
漆黒が世界に宵を落とす。
一人、街路樹を歩く理愛の瞳には銀ではない鈍い色で溢れていた。
光が消え、糸の切れた人形のように揺れる。
自宅に到着し、携帯電話を取り出す。そこには雨弓の電話番号が記されている。名前を記入せずに登録したので、未登録リストに登録されているが二度と使うことはないのだ。だから修正する必要はない。
集合場所を聞き、「はい」とだけ返し、通話は終了する。受話器のボタンを押した途端、まるで電源を入れたように理愛の瞳に光が灯る。この間、本当に感情の無い機械のように動いていた。そして全てを変える為に、覚悟してやっと理愛は人間味を帯び、目的の為に行動する。
(コロス)
理愛は自分の部屋の鏡を見つめたまま、そんなおぞましい一言を心の内で念じる。
もう兄の前で散々、自分を偽ったのだ。自分自身の全て、心までも偽って、全て台無しにする為に理愛は笑う。
(コロス、コロスコロスコロスコロス)
外に飛び出す。
猟人の如く、ただ獲物を見つける為だけに生きるように、それ以外を全て忘れて。
もうそこにはいつものように可憐で華奢な妹の姿は無く、ただの復讐者に成り下がった別物が歩いていた。
(兄さん、あいつらコロスね。さっさとコロスよ。兄さんに酷いことしたアイツらコロスから。そしたらまた前みたいに、いつものように、一緒に、一緒にいられるね。だから、コロスよ。コロシテヤル)
理愛が最初から敵に身を捧げることなど毛頭無かった。
いや、それでもここまで歪んだ感情を抱くことは無かったはずだ。それがここまで理愛の感情を捻じ曲げたのは、月下兄妹が雪哉を傷つけたという事実を知ってしまったからだろう。
許せない。
許すわけにはいかない。
世界が変わり出した中でこれ程まで理愛を憤怒させたことは無い。そんな怒りを鎮めるには、殺すしかないのだ。そんな結論に行き着いてしまう時点で充分理愛はおかしくなっている。
力が、理愛を変えたとするならばきっとそうなのだろう。
そうでなければこんなことするはずがない。異能とやらを手にするかもしれないなんて、そんな権利を得た時から理愛は変わってしまっていたのだ。
変わらないことなんてない、なんて……それこそがあり得ないのだろう。
だから、理愛は敵を抹殺する。罪悪なんてものはそこにはなかった。
そして――