ケルパ
「では行ってくる」
そう告げる父の横で、僕は草履の紐を結ぶ。
早くしないと置いていかれそうだ。
「待って、ケルパを忘れているでしょう?」
そう言いながら、母が奥から出てくる。
「いつもの道を歩くだけだし、そんなものはいらないよ」
「お守りだと思って持って行って。それに、あなたは慣れていてもテンジンには初めての道でしょう」
「分かったよ。テンジン、持っておきなさい」
渋々答えた父は、そう言って僕にケルパを渡した。
初めて持たされたケルパに、僕は軽い高揚感を覚えた。
一人前になれたような気がして、嬉しかったのだ。
僕が今まで許されていた行動範囲では、ケルパは必要なかったからだ。
「では改めて。行ってくる」
僕は慌ててケルパを背中の籠に放り込み、父を追った。
前を悠々と歩く父の背を追いながら、僕は必死に歩いた。
最初こそ未知の光景にわくわくしていたものの、すぐに余裕はなくなった。
薬草やきのこ、鉱物など、あらゆるものが詰め込まれ、三分の一ほど埋まった籠が肩に食い込む。
薄い空気と疲労で、くらくらする。
突然、父が告げた。
「見ろ、あそこがヤクトゥーラだ」
言われるがまま顔を上げると、そこにはナイフのように鋭く切り立った尾根と、真っ白な空だけがあった。
「多くの人が落ちた場所だ。絶対に油断するなよ」
そう告げて、父は再び前を歩き始めた。
次第にヤクトゥーラが近づくにつれて、僕にはそこまでの難所ではないように思えてきた。
遠くから見たときはナイフのようだったが、近づいてみれば十分に歩ける幅があったからだ。
順調にヤクトゥーラを進み、「こんなものか」と思った、そのときだった。
浮石を踏み、僕の体が右へ大きく傾く。
まずいと思って左手を伸ばしたが、バランスは戻らず、掴まるものもない。
空白の思考の中、視界がゆっくりと傾いていく。
そのとき、右から大きく僕を押し戻す力があった。
バランスを取り戻した僕は、その場に座り込み、手近な岩に両手で必死に掴まる。
思考が戻る。
父が助けてくれたんだ。
父の姿を探して顔を上げる。
だが、そこには誰もいなかった。
最悪の可能性に気づき、背筋に冷たいものが走る。
右側の谷を覗き込む。
そこには、崖の途中にかろうじて引っかかっている父の姿があった。
「父さん! 父さん!」
叫んでも反応はない。気を失っているのだ。
最悪が、現実になった。
思考を放棄しようとする脳を必死に繋ぎ止め、方法を探す。
降りられない。引き上げられない。助けを呼びに行くには遠すぎる。
絶望が、じわじわと広がっていく。
そのとき、朝の会話を思い出した。
僕は籠を背中から下ろし、中身を周囲にばらばらと放り投げる。
――あった。
震える指でそっと取り出し、ケルパを構える。
弾いた瞬間、澄んだ音が山々に向かって、高く、高く響いていく。
僕は夢中になって、ケルパを弾き続けた。
すると、別のケルパの音が返ってきた。
そう遠くない。
しかも、複数だ。
僕は底知れない安堵の中、ケルパを必死に弾き続けた。




