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【アップ✨】2025年11月16日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります☕️

初めまして、天川裕司です。

ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。

また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。

どうぞよろしくお願い致します。

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


【アメーバブログ】

https://blog.ameba.jp/ucs/top.do


【男山教会ホームページ】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【YouTube】(星のカケラ)

https://www.youtube.com/@%E6%98%9F%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%B1%E3%83%A9-v5x/videos


【ノート】

https://note.com/unique_panda3782


【YouTubeドラマにつきまして】

無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、

お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。

基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。

創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪

出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬

でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、

どうぞよろしくお願いします(^^♪



【本日のメッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=VMqqAJyGf5A


聖書


『ヨハネによる福音書』(第一四章一五〜二〇節)

『詩篇』(第五一篇一二〜一九節)


讃美歌〜♫


讃美歌142番

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=suNQ0U3EqQA


讃美歌361番

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=zL93PpmXFJQ&pp=ygUV6K6D576O5q2M77yT77yW77yR55Wq



2025年11月16日 礼拝説教 聖書箇所


「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生 きているので、あなたがたも生きることになる。」

ヨハネによる福音書14章19節


御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。

詩編51編14節


はじめに

わたしたちのささげる祈りは、御言葉と聖霊の恵みによることを、今日覚えたい。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」とは、主イエス御自身が、永遠の 保護者であり、養い主であることを約束される言葉。「みなしご」とは、慰めのないままに、 という意味。さきに、主イエスは、天国を「わたしの父の家」として弟子たちに示された。そ れは、永遠の住まい。アブラハムは、信仰の父と呼ばれる。しかし、その旅立ちは、住み慣れ た父の家を出て、神が示す地に行くことから始まった。そこで求められたことは、行先も知ら ないで出て行くこと(ヘブライ11章8節)。その旅路において、いつも、天の父が共におられ た。わたしたちの人生の旅路も同様。主イエス御自身、天の父もとから来て、十字架の死を負 うために、この地上の生涯を歩まれた後、三日目の復活の後、弟子たちの見ている前で、天に 上げられた。十字架によって、神と和解する迪を開かれた御子である主イエスのもとに来ると き、わたしたちは、もれなく、天の住まいを「父の家」として受け入れる者とされる。ここに ある平安こそ、永遠の保護者でいます、父と子と聖霊なる神が、わたしたちと共に住まわれる 本当の平安。主イエスは、十二歳の時、「わたしが、自分の父の家にいるのは当然であること を、ご存じなかったのですか」(ルカ2章49節)と、肉の両親にあかしした。今や、わたしたち の内に住まわれる霊(聖霊)は、わたしたち自身を、祈りの家、父の家としてくださる。

「あなたがたのところに戻って来る」とは、主イエスが必ずそのとおりにされるという、 もう一つの真実の言葉。アブラハムの妻、サラに息子イサク(笑いという名)が与えるとき、 二人は高齢で、心の中で笑った。それがイサク誕生によって喜びの笑いに変えられた。この 時、主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生ま れるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに 戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」(創世記18章14節)。つまり、 主が戻って来るとは、人の不信を超えて、ご自身の約束が実現する事。事実、主の十字架を前 にして、弟子たちの方が、主のもとを逃げ去った。しかし、復活の日に、主は再び弟子たちを 召し集められ、戻って来られた。霊の息吹を受けた弟子たちは、喜びながら、天に上げられた 主イエスを見送り、聖霊降臨の日を、祈りをもって待つ者に変えられた、聖霊降臨の日には、 主イエスは、霊において使徒たちの内に、戻って来られた。ここに、主の言葉の実現を見る。

「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」とは、 先の約束を言い換えたもの。じつに、永遠の命、復活の命は、「わたしが生きているので、あ なたがたも生きることになる」と約束される。主イエスは、十字架の上で、わたしたちの身代 わりに命をささげられた。それは、罪人の死を喜ばず、かえって、罪赦され、神と和解して生 きることを喜ばれる神の惜しみない憐れみのゆえ。永遠の命とは、罪の赦しを完全に生きるこ と。そこには、もはや、神を神として認めることを隔てる壁は存在しない。「もはや、わたし が生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きておられる」(ガラテヤ2章,20節) との告白が、アーメンであるお方、キリストにささげられるのみ。「かの日には、わたしが父 の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなた がたにわかる」と主イエスは、復活、昇天、聖霊降臨と福音の宣教、そして、遂には、ご自身 が再び来られる日における、完全な栄光が明らかになる日を、御業の実現として定められる。

おわりに

主イエスの約束を信じ、「神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授 けてください」と祈る時、死から命に至る道を真実に喜ぶ者とされる。祈りの霊を求めたい。



(Mynote)


二〇二五年一一月一六日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『スコットランド教会新カテキズム』

「使徒信条の一一番目の箇条は何を含んで居ますか。」

「終わりの日に、私達の体が甦る事です。」

ラザロの事が引用された。ラザロは病で死んだ。しかしイエス様は「この病は死んで終わるものではない」と周りの者達に教えた。イエス様と弟子がラザロの元を訪ねた時、ラザロは死んで四日が経って居た。ラザロの姉妹はイエス様に「終わりの日に甦る事は知ってます」と言ったが、イエス様は、「私が甦りそのものなのです」と応え、イエス様が呼び掛けると、ラザロは墓の中から甦った。

(公同礼拝)

『ヨハネによる福音書』(第一四章一五〜二〇節)

『詩篇』(第五一篇一二〜一九節)

『ヨハネによる福音書』のこの箇所では、信仰に就いて、改めてイエス様が弟子達を始め、全ての人に教えて聴かせて居る。

「もしあなた方が私を愛するならば、私の戒めを守るべきである。私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなた方と共に居らせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受ける事が出来ない。あなた方はそれを知って居る。何故なら、それはあなた方と共に居り、又あなた方の内に居るからである。私はあなた方を捨てて孤児とはしない。あなた方の所に帰って来る。もう暫くしたら、世はもはや私を見なくなるだろう。しかし、あなた方は私を見る。私が生きるので、あなた方も生きるからである。その日には、私は私の父に居り、あなた方は私に居り、又、私があなた方に居る事が、分かるであろう。」(『ヨハネによる福音書』第一四章一五〜二〇節)

祈りの時に、よく人は、イエスキリストを脇へ置く。だから本当の祈りが出来ない。従って神様が全ての人に与えて居る恵みと愛に気付かず、人間中心の祈りに成り変わり、結果主義・ご利益宗教に成り代わる。

信仰に生かされる者を、神様、イエス様はそのまま捨て置かず、孤児にしない。詰り必ず対応して下さり、抱擁して下さり、その心に於いて、信仰に於いて、神様から絶え間無く与えられる愛と恵みに気付く。

孤児とは、養育者が居ないと言う事。子供にとっては安心も平安も無く、それ以上寂しい孤独は無い。その「人の命の出どころが何処なのか?」を常に考える事。問い続ける事。その考える事と問う事が、人間主観ではなく、信仰を第一にした上で、その土台にて祈り聴く事が必要である。

キリストを無視して御言葉も聖霊も働かない。それでもその人が救われるのは、キリストを無視してる様に人の目には見えて、無視して居らず、心の中でその信仰と、信仰に依る救いを求めて居るからだ。

イエス様は神様のもとで、信仰に生かされる全ての人を兄弟姉妹とし、孤児にしないと確約した。この事を覚える。

イエス様は天国の事を、「私の父の家」と言った。

信仰の父とされるアブラハムは、父の家を出なきゃならなかった。しかしイエス様はその父の家に帰るのである。その父の家にイエス様は、全ての信仰に生かされる人を導くのである。

旧約聖書で成される全ての預言は、イエス様の事を指して居る。イエス様を全ての人の救い主であると証し、その為にアブラハムから最後の預言者までが神様(イエス様の天の父)に依り遣わされ、全ての信仰者に与えられる救いを教えて居る。

イサクは、笑いの内に産まれた。イサクと言う名前にも「笑い」と言う意味が込められて居る。アブラハムとサラが高齢の時に生まれたのがイサクで、サラは九十歳を超えて居た。だから「有り得ない」と笑いの中で二人は初め居たが、それが神様の御力・御計画に依りイサクが産まれ、喜びの笑いに変わった。神様に不可能は無い。その御計画に依り、神様のなさる事は必ず成る。

イエス様は「私はあなた方を捨てて孤児とはしない。あなた方の所に帰って来る。」と答えた。詰りこの事は絶対に成る。

イエス様が十字架に付けられ葬られた時、弟子達を始め、周りに集った者達の多くはイエス様の葬りを嘆き泣いた。この時にイエス様の言った事を思い出し、心に留め、その復活を知る程に信じて笑える者が居たら、幾ら人の信仰でも、その笑える者・喜ぶ者を諌め、非難するかも知れない。しかし信仰から言えば、この様に笑える者の姿勢、イエス様の葬りから復活を知り、喜ぶ事の方が正しいとなろうか。この信仰の姿勢を、クリスチャンと言えど、中々保つ事が出来ない。人としての主観・感情・常識があるからだ。

イエス様を見なくなるのは、イエス様が人の姿としてこの地上に見えるものになくなる事、しかし弟子を通してイエス様は信仰の内に永遠に生きて居り、後世の全ての信仰に生かされる者も、その信仰を通して永遠に生きるイエス様を見、そのイエス様を通して全ての人の父である神様を見る。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw&t=13s


「ジーザスがあなたを選んでくださった」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=HaRXa-j0YZ0


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


星のカケラ

https://www.youtube.com/@星のカケラ-v5x/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


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