2話 再開は唐突に
胃液で汚れたブラウス。シミのついたままのスカート。
あの日――学校の前で起きたあの出来事以来、お母さんも黒木先生も「登校」という言葉を使わなくなった。きっと、二人とも私のことを諦めたのだと思う。気づけば、もう1ヶ月も学校を休んでいる。
けれど、それだけじゃなかった。
2週間前のこと。家から一番近いコンビニに入ったときだった。自動ドアの開く音と一緒に鳴る、あの軽やかなメロディ。
その瞬間、見てしまった――
白いブラウスにグレー系のチェックのスカート。私が通っていた高校の制服を着た女の子を。
心臓が跳ねた。視線を逸らすこともできず、そのまま店の奥のトイレへ駆け込んだ。吐いた。胃の中のものを全部ぶちまけるように。おむつの中に、生温かい質量が広がったのを感じた。何も買えず、逃げるように帰宅した。また『おつかい』に失敗した。
それ以来、外に出なくなった。
アマプラを見て、YouTubeをだらだら流し、インスタは削除した。スマホを触っている時間だけが現実から遠ざけてくれるような気がしていた。
お母さんは、そんな私を黙って見ていた。
何も言わないけれど、アクションを起こしてきた。冷蔵庫にマグネットで貼られていた千円札。付箋には「お昼ご飯代」と書かれていた。冷蔵庫の中もストッカーも、調味料ばかり。食材は明らかに少ない。つまり、外に出ろってことだ。
(……仕方ないか)
でも、一番近いコンビニに行く気にはなれなかった。そこはこの前、失敗したコンビニだったからだ。二番目に近いのは、その道路の反対側。だから、三番目に近いコンビニへ向かうことにした。といっても、徒歩10分以内の距離。
平日の昼間、歩いているのはお年寄りくらいだ。
こんな時間に出歩いている自分が、まるで「不登校です」と叫んでいるみたいで、自然と歩く速度が上がる。
コンビニの駐車場に入ったあたりで、誰かの視線を感じた。ふと見ると、一人の少女がジュースを飲みながら、じっとこちらを見ていた。
(……え? あの子って……)
違和感が、頭の奥を駆け抜ける。それは、誰なのかはすぐにわかったから。
保育所から小学2年生まで同じクラスだった――三月沙織ちゃん。
でも、おかしい。おかしすぎる。彼女の見た目は、当時とまったく変わっていなかった。今は私も彼女も15〜16歳のはずなのに、どう見ても小学校低学年の子どもだった。
「久しぶりだね、あずちゃん!」
懐かしい声。記憶の中と同じ姿。笑顔。
「沙織ちゃんなの……?」
思わず聞き返すと、少女はにこっと笑ってうなずいた。
「うん、三月沙織。覚えててくれて、うれしい」
その手には、今どきのパッケージデザインのジュース。昔のままの小さな手と、妙に今風なジュース。そのアンバランスさに現実感がぐらつく。
「でも……なんで……あの、今……何年生?」
聞いてから、自分でもバカみたいな質問だと思った。でも、それくらいに彼女は“成長していない”ように見えた。
「私ね、ちょっと変わってるんだ。だから、あずちゃんが思ってる“普通”とはちょっと違うかも」
沙織ちゃん――いや、三月沙織は、そう言って私の手を取った。
「それより、買ったもの、うちで一緒に食べない? 一人で食べるの、ちょっと寂しいしさ」
「……え?」
「だって、あずちゃん、学校行ってないんでしょ? じゃあ、家でも一人でしょ?」
図星だった。見透かされているようでムッとしたけれど、それ以上に彼女の言葉には不思議な温かさがあった。
「……うん。じゃあ、ちょっとだけ」
コンビニでお弁当を買って、彼女の案内する道を歩く。
たどり着いたのは――かつて私たちが通っていた保育所だった。少子化で数年前に閉鎖されたはずの、あの場所。
「え、ここ……まだ入れるの?」
「うん。私、鍵持ってるから」
沙織ちゃんはポケットから鍵を取り出すと、音を立てて玄関の鍵を開けた。
「……おかえり、あずちゃん」
その一言が、胸の奥をじんわりと温めた。
変わらない玄関の匂い。変わらない景色。だけど、鏡に映るのは16歳の私。混乱しそうだった。
「暑いから、奥に行こう。業務用エアコン、電気代高いけどさ」
私の戸惑いを気にする様子もなく、沙織ちゃんは『ひよこ組』の部屋へ進んでいく。私たちが出会ったはずの場所。当時の私はまだ1歳だったから、記憶はないけれど。
保育所の面影を残すのは、奥にある格子状のロッカーくらい。そこに、12畳ほどの空間。中央にはローテーブルが置かれていた。奥には冷蔵庫やコンロが並んだ台所みたいなスペースがあり、その横には元からあったシャワースペースが見える。エアコンが効いていて、玄関よりずっと涼しい。
「ここで食べるけど……その前に、おむつ大丈夫?」
頬が一気に熱くなる。
(……バレてた。いつ? どうして……?)
「私も交換しないと」
そう言って彼女は奥へと歩いていった。格子状ロッカーに、おむつのパッケージが見えた。
つまり――彼女もおむつを使ってるってこと。だから、私のことにもすぐに気づいたのか。
「やばっ。パンツタイプ切らしてる。あずちゃん、テープタイプつけるの手伝って」
「……いいよ」
警戒心が、不思議と消えていった。沙織ちゃんはジャンパースカートをめくり、床に横になる。ギャザーを破って、おしり拭きで丁寧に拭き、新しいおむつを広げて装着する。こんな無防備な姿を私に見せられる、その安心感。
(聞きたいことは、いっぱいある。でも……)
「私に合うサイズのおむつ、ある?」
私が最初にした質問は、それだった。