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1話 はじめてのおつかい

6時間目の教室には、疲れた空気が漂っていた。前の時間が体育だったこともあり、生徒たちは少し汗ばんだ制服のまま椅子に座り、だるそうに古文の教科書を開いている。午後の柔らかな陽射しが窓から差し込み、教室をぼんやりと明るく照らしていた。


「さあ、みんな。ここからは頭を切り替えて、清少納言の世界に浸りましょう」


黒木先生の声が響く。50代前半の彼女は、肩までのボブカットに眼鏡をかけた、優しい雰囲気の女性だ。けれど、生徒たちの集中力が散漫なときには、きっぱりとした口調で注意を促す姿勢も持ち合わせている。


「里中さん。教科書の35ページ、最初の段落を読んでみましょう」


右前に座る生徒が立ち上がって、読み始める。私は机に肘をつき、じっと黒板の文字を見つめていた。けれど、意識は授業にはほとんど向いていなかった。


膀胱がじわじわと圧迫されていく感覚に、呼吸は浅くなる。

5時間目の体育では、着替えに時間がかかってしまった。友達と急いで着替えたけれど、トイレに行く余裕はまったくなかった。しかも、喉が渇いていた私は、水筒の冷たいお茶をぐいっと飲んでしまった。その一口が、まさか最悪の裏目になるなんて思いもしなかった。


膀胱の痛みが強くなってくる。

まだ我慢できるはず――そう自分に言い聞かせながら、足を小刻みに揺らす。窓から入る湿った風が、背中をじんわり冷やしていた。じっと座っているだけなのに、尿意はどんどん押し寄せてくる。

時間の流れが、いつもより遅い。一秒一秒が、砂のように指の間からこぼれ落ちていくようだった。


息を吸って、吐いて。

気を紛らわそうと必死だったけれど、それはまるで、海の波を手で押さえつけようとするような無力さだった。


スカートの内側に、ほんの少しの温かさを感じた瞬間、心臓が一瞬止まりそうになった。


「あっ……」


声にならない声が、喉の奥で詰まる。確実に広がる湿り気に、冷たい汗が背中を伝った。

体が震えだす。


そして、椅子の下に、水たまりが広がっていった。


「ちょっと!」


後ろの席の子が、驚いたように声を上げた。終わった――そう思った。教室がざわつき、黒木先生が何かを言っていた。

けれど、そのあとの記憶はあいまいだった。

保健室に運ばれ、着替えさせられて、古びたジャージのズボンをはかされた。誰かが優しい声をかけてくれた気もする。でも、全部がぼんやりしていた。


気がついたときには、お母さんの車の助手席にいた。


「梓、大丈夫?」


お母さんがそう問いかけてきた気がする。けれど、返事はしなかった。ただ窓の外の景色を見ていた。車のエンジン音と、ブレーキのたびに揺れる車体だけが、現実のものだった。


翌朝。2階の自室から階段を降りると、リビングには昨日私が汚した制服が、綺麗に洗濯されて干してあった。


「梓、どうする? 休みたいなら休んでいいけど?」


お母さんは朝の情報番組を見ながら、いつもの調子でそう言った。私は黙って椅子に座る。お味噌汁の湯気があたたかくて、なんだか泣きそうになった。


「……ありがとう。きょうは、休む」


しぼり出すように答えただけで、それ以上は話せなかった。お母さんは「そう」と短く言って、スマホを手に取る。学校に連絡を入れてくれたのだろう。そのまま、バタバタと仕事へ出かけていった。


時刻は8時。もうとっくに、学校は始まっているはずだった。


夕方。ぐちゃぐちゃになった気持ちから逃げるように、私は手を動かす。お米を研いで炊飯器にセットし、冷凍庫にあったイカと里芋を煮る。鶏肉の筋を切っていると、お母さんが帰ってきた。


「ただいま」

「おかえりなさい。夕飯の下ごしらえ、やっておいたよ」

「ありがとう。パパも喜ぶと思うわ」


そう言ってニッコリと笑う。そのとき、お母さんのスマホが鳴った。数回「はい」とか「ええ」と相槌を打ったあと、私にスマホを渡してきた。


「梓、黒木先生よ」


スマホを受け取り、耳に近づける。

「岸本さん、昨日のこと、大丈夫だから。……一回、学校に来てみない?」


優しい声だった。何も言えずにいると、お母さんがスマホを取り返し、代わりに答える。


「考えておきます」


その声にも、優しさがにじんでいた。

実は、昼休みに何人かの友達からLINEが届いていた。返信はできなかったけれど、少しだけ前を向けた気がした。


「行ってみようかな、学校」


つぶやくように言う。


「できればでいいわよ」


お母さんも、同じように小さな声で返した。



さらに翌朝。

朝の光が、カーテン越しに淡く部屋を照らしていた。目を開けると、体に違和感がある。蒸れたような不快な感触が、太ももに広がっていた。

心臓が跳ねる。


「まさか……」


薄い掛け布団をめくると、パジャマの股のあたりが濃く変色していた。敷き布団の上にも、うっすらと染みが広がっている。

信じられなかった。


おとといのことだけでも、耐えられないほど恥ずかしかったのに。今度は、家で――。

ドアが、ノックもなく開いた。


「梓、起きた? 朝ごはん――」


お母さんの声が一瞬で止まった。視線が布団の染みに落ち、眉がわずかに動く。でもすぐに、何もなかったかのように、静かに言った。


「シャワー、先に使っていいよ」


その瞬間、胸の奥がギュッと痛くなった。学校でクラスメイトに見られたのとは、また違う恥ずかしさだった。

子どもみたいに失敗したことを、大人である母親に見られた。慰められるのも、怒られるのも嫌だった。なにも言われないのが、逆に苦しかった。


「……今日は、無理。行けない」


小さな声で、それだけ言った。お母さんは小さくうなずき、スマホを手に取った。学校に連絡するのだろう。

私はシャワーへ向かった。濡れたパジャマを脱ぎ、タオルで布団を拭く。その動作一つひとつが、自分を情けなくさせた。


シャワーの音が、ようやく気持ちを落ち着かせてくれる。

そのとき、脱衣所のドアの向こうから、お母さんの声がした。


「梓、黒木先生から電話。代わるね」


えっ、と思う間もなく、濡れた手でタオルを掴み、ドアを開けるとスマホが差し出された。

裸のままで話すのは嫌だった。でも、断るのも逃げるのも、なんだか違う気がして。タオル一枚で受け取る。


「……はい、岸本です」

『あ、梓さん。先生よ。おとといのこと、本当に気にしないで。ね、今日ね、一時間目の最中とかでもいいから、保健室にジャージだけ返しに来ない? それだけでいいから』


黒木先生の声は、柔らかくて優しくて、でも芯があった。授業に出るよりも、ずっとハードルが低く感じた。

私は、小さくうなずいてから、ようやく声を出す。


「……うん。行ってみる」


お母さんがそのやり取りを聞いていたのか、制服をそっと部屋に置いてくれていた。髪を乾かして、制服に袖を通すと、少しだけ背筋が伸びた気がした。

おもらしして。おねしょして。ジャージを届ける。


「……『はじめてのおつかい』かな」


少し自嘲気味に笑って、私は玄関の扉を開けた。


登校時間を過ぎた街は、どこか空っぽだった。通学の自転車も、信号待ちの人影もなく、陽射しだけがやけに眩しい。


制服のスカートが風に揺れる。そのたびに、昨日の湿った感触が蘇るようで、胸の奥がぎゅっと縮こまった。


学校の建物が見えてきた。その前に、小さく立つ影。

校門のところで黒木先生が、手を振っていた。


「おはよう、梓さん。来てくれてありがとうね」


微笑んでくれたその顔を、ちゃんと見られなかった。足元ばかりを見ていた。その瞬間だった。


――バシャ、という水音。冷たい感覚。椅子の下で広がっていく水たまり。

「うわ、なにあれ……」「高校生にもなって、おもらし?」「かわいそう……」


脳内で、あの日の教室が一気に再現された。


息ができない。視界が歪む。胃の奥から、何かがこみ上げてくる――


「っ、う……っ!」


かすれた声とともに、胃液がこみあげ、口から溢れた。制服の白いブラウスにかかり、足元にぽたぽたと落ちる。酸っぱい匂いが鼻を突いた。その瞬間、膀胱の力も抜けてしまった。


「……やだ、うそ……っ」


スカートの内側が一気に温かくなる。下着に染みて、腿をつたって、滴り落ちた。自分の体から出るものに、何一つ抗えなかった。

黒木先生が駆け寄ってくる気配がした。でも、それを拒むように、私はその場を蹴るようにして走り出していた。

走って、走って、靴が脱げそうになっても止まらなかった。足元も、胸も、ぐちゃぐちゃだった。


帰宅してすぐ、自室に駆け込み、ベッドに倒れ込む。ブラウスもスカートも汚れたままで、どうでもよくなっていた。

息を殺すように泣いて、それから、気を失うように眠った。

次に目が覚めたとき――また、濡れていた。


「……やだ、また……」


いつの間にか眠ってしまったベッドの上で、私はおねしょをしていた。もう、何度目かわからない。現実のはずなのに、まるで悪夢が延々と続いているようだった。


夜。トイレに行こうと立ち上がったときにも、間に合わず、また失敗した。

下着も、制服も、パジャマも。もう何を着ていても、関係なかった。「普通でいること」が、自分の手からこぼれていくのを感じた。

数日後には、お母さんがそっと言った。


「夜だけでも……梓、おむつ、してみない?」


抵抗する気力もなかった。私はただ、うなずいた。それが、自分を守る唯一の手段に思えた。


それから徐々に、夜だけじゃなく、昼間も必要になっていった。

家にいても、間に合わないことが増えた。

「はじめてのおつかい」もできない子は、おむつでも履いてなさいって。

そう言われてるような気がして、悔しくて、情けなくて、でも……どうしようもなかった。

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