エピローグ:君は、僕を知らない
静かな朝だった。
いつものように、カーテン越しに光が差し込む。コーヒーの香りはない。
テーブルの向かいにも、誰もいない。
それでも、俺は自然と話しかけていた。
「……おはよう、佳澄」
返事は、ない。
当然だ。もうこの部屋に、あの笑顔は存在しない。
だけど、俺の中には――まだ、彼女がいる。
◆
その日、俺はひとつの決断をした。
《エターナル・ルーム》の再ログイン。
保存しなかったはずの“佳澄”のデータが、バックアップログに一部残っている可能性があるという通知を、運営から受け取ったのだ。
仮想空間に入ると、女性の案内AIが現れた。
『村瀬直人様。ようこそ。以前の記録より、データ断片の再現が可能です。人格の完全性は保証できませんが――』
「いいよ。わかってる」
『再現しますか?』
「……ああ」
◆
光の中から、彼女が現れた。
「……こんにちは。はじめまして。宮崎佳澄って言います」
「……!」
違う。
確かに“佳澄”だ。でも、あの佳澄じゃない。
「えっと……どうかしました?」
「あ、いや……少し似てた人を、思い出しただけ」
「ふふ、誰かに似てました? それ、よく言われます」
「そうなんだ……」
「でも、私ってそんなに特徴ありますかね?」
「あるよ。目の奥がまっすぐで、笑うとき、口元に小さなえくぼが出て……」
「へぇ……詳しいですね」
「……前に好きだった人が、そういう顔をしてたんだ」
「そっか……素敵な人だったんですね、その人」
「うん。忘れられない人だった」
「じゃあ、私はその“代わり”なんですね?」
「違うよ。君は君だ。君は、僕を知らない。――でも、僕は、君にまた恋をするかもしれない」
彼女は、ちょっとだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「それって……ちょっとズルくないですか?」
「ズルいかな」
「ううん。悪くないかも」
「また……一緒に、コーヒー飲んでくれる?」
「はい。あなたがそうしたいなら」
◆
誰かの未練が、記憶の中で静かに重なっていた。
俺の想いと、誰かの想い。二つの恋が、ひとつのAIを形作った。
そして今――
またゼロから、始める。
たとえ相手が、あの“佳澄”ではなくても。
たとえ彼女が、俺のことを知らなくても。
たとえ、これはまた別の幻想でも――
「……俺は、また恋をする」
そう、声に出して呟いた。
もう誰もいないはずの部屋に向かって。
それでもどこか、温かい気配が、確かに残っていた。
⸻
―完―