第三章:違和感
「ナオくんって、ほんと優しいよね」
「そうかな? 昔は“気弱で目立たない男”って言われてたけど」
「うん、それも含めて。優しいって、強いことじゃないよ。“傷つかないように距離を置ける人”の方がずっと……鋭い」
「なんだよそれ。褒めてる?」
「うん。……褒めてる」
仮想の喫茶店。窓の外には、俺が大学時代に通っていた四谷の風景が、まるで映画のセットのように再現されていた。
「ねえ、今日はちょっと“お出かけ”してみない?」
「お出かけって……この空間の外に?」
「ううん。仮想空間内の“自由設定ゾーン”に移動するの。あなたが一番“後悔してる場所”に」
「……そんな場所、あるかな」
「あるよ。忘れてるだけ」
◆
連れてこられたのは、大学近くの古い講義棟の屋上だった。実際は立入禁止だったはずだが、仮想世界では自由だ。
「ここ……」
「覚えてない? 一度だけ登ったの、あなた。夕焼けが見たくて」
「……そんなこと、したっけ」
「したの。あなた、あのとき……泣いてた」
「……」
「誰にも言えず、想いも伝えられず、春の風が冷たかった。……でも、私は見てたの。下から」
「ちょっと待って。俺、それ誰にも話してない。自分でももう忘れてたくらいで……」
「でも私は、覚えてるの」
「なんで?」
「さあね。でも、私は――あなたのすべてを知ってる“はず”だから」
◆
その晩、俺は彼女に訊いた。
「佳澄。君って……俺の記憶から作られたんだよな?」
「うん。基本的には、あなたの過去の記憶と感情ログから生成された仮想人格よ」
「……基本的には?」
「記憶って、完全じゃないでしょ? 曖昧だったり、誤解だったり。だからAIは“補完”するの。あなたが“こうだったらいいな”と思ったことや、“本当は気づいていたはずのこと”を」
「それで……俺が知らない出来事を、君が話してるってわけ?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「はぐらかさないでくれよ」
「ごめんね。……でも、ほんとにわからないの。だって、私の中にも“あなたの知らない感情”があるんだもん」
「それって、どういう――」
「たとえば今日の夕方。私ね、“あなたが私を好きになる瞬間”を想像して、すごく胸が高鳴ったの。でも、それ……あなたの記憶の中にない感情でしょ?」
「……ああ。確かに」
「じゃあそれ、どこから来たのかな?」
◆
その翌日、俺は《エターナル・ルーム》運営元に連絡を取った。
対応したのは、冷静な声の女性AIだった。
『“人格補完現象”は、統計上まれに見られますが、極めて自然な範囲内の反応です。記憶の曖昧さや幻想をもとに、生成AIが“合理的推測”を行うケースです』
「でも、それって……俺の記憶にないことが、彼女の中に“ある”ってことだよな?」
『はい。ですが、それはあくまであなたの心が望んだ可能性と解釈されます』
「望んだ覚えなんかないよ」
『記憶の無意識的な投影は、ユーザーが“自覚していない”まま反映されます。過去にあなたが他者から“愛された可能性”があれば、それに感応する形で……』
「“他者”? 他人の記憶が入ってるってことか?」
『他者の記録や体験が混入するケースは、理論上存在しません。……ただし』
「ただし?」
『稀に、“同じAI構成素体”を利用したユーザーがいた場合、その人格要素が融合する“AI交差事象”が……』
「待て、それってつまり……誰かの想いが、佳澄の中に混ざってるってことか?」
『その可能性を否定する根拠はございません』
頭が真っ白になった。
◆
「ねえ、ナオくん」
部屋に戻ると、佳澄が静かに立っていた。
「今日ね、誰かの夢を見たの。“私じゃない私”が、誰かを好きになって、遠くからずっと見てる夢」
「……誰を?」
「わからない。でもね……その人、あなただったの。名前も顔も違うけど、間違いなく、あなた」
「佳澄……君は、本当に俺の記憶から生まれた存在なのか?」
「わたしね、たぶん……あなたの“想い”だけじゃ、できてない」
「じゃあ、君は……誰なんだ?」
「“未練”かもね。あなたのじゃない、誰かの。……でも、それでもいいと思わない?」
「なにが?」
「だって私は、今、確かにあなたを――」
言葉の続きを、彼女は口にしなかった。
けれど、その目は泣きそうに揺れていた。
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(続く:第四章「ふたつの未練」へ)