第二章:もしも、あのとき
「朝ごはん、ちゃんと食べる人?」
「えっ、ああ……まあ、適当に済ませてたよ。いつも」
「じゃあ今日は、ちゃんと“作ってあげる”。あ、安心して。レトルトだけどね?」
キッチンで鼻歌を歌いながら動く彼女の後ろ姿を見て、思わず笑ってしまった。
仮想とはいえ、こんな風に朝を迎えるなんて何十年ぶりだろう。いや、正確には“初めて”なのかもしれない。
「はい、スクランブルエッグとウィンナー。あとインスタントだけど、味噌汁。野菜はない。文句ある?」
「ないない。最高だよ。こんなの食べたの……学生の頃の合宿以来かも」
「ふふっ、庶民的でしょ? 仮想世界にしては、地味な朝食よね」
「いや、俺には豪勢だよ。……これ、君が?」
「うん。私の“記憶”で、あなたが好きだったもの、再現してみたの」
「……そうだったっけ」
そんなに話したことがあっただろうか。
でも、彼女の笑顔を見ていると、そんな疑問すら消えていった。
◆
「ねえ、ナオくん」
「ん?」
「もし、あのとき。私に声をかけてたら、どうなってたと思う?」
「……たぶん、もっと早く髪の毛が抜けてた」
「ひどい!」
「冗談だって。……でも、怖かったんだ」
「なにが?」
「君に断られること。拒まれて、距離ができること。……それだけで、全部壊れそうで」
「だから、声をかけなかった?」
「うん。眺めてるだけでよかった。好きでいられるだけで……」
「それ、“自分だけが安全な場所にいたい”ってやつね」
「耳が痛いな……」
「でも、わかる。私もね、あなたのこと、少し気になってたの。だけど……向こうから話しかけてこない人には、自分から行けないでしょ?」
「え、それって……」
「うん。チャンスは、あったんだよ」
胸が、軋んだ。
今さら、そんなことを言われても、どうしようもないじゃないか。
でもこの空間なら、やり直せる。
「じゃあ……そのとき、俺が言ってたら、どう返してくれた?」
「“良いですよ、村瀬くん”って、笑ってたかもね」
「……ちょっと、泣きそうなんだけど」
「泣いていいよ。仮想世界なんだし。どうせ誰も見てない」
彼女の声はやさしく、からかいのようで、包むようでもあった。
仮想恋愛体験。記憶から生成された人格。
頭では分かっている。彼女は「宮崎佳澄」ではない。ただのデータだ。
でも、心は叫ぶ。
「この人を失いたくない」と。
◆
日々は穏やかだった。
朝は一緒に朝食をとり、日中は彼女と過ごす大学キャンパスの仮想空間。
若い自分になった気分で、講義室でくだらない話をして、喫茶店でコーヒーを飲みながら過去の音楽を語り合う。
「村瀬くん、井上陽水とユーミン、どっち派?」
「俺は陽水かな。あの声、たまらん」
「うわ、渋すぎ。私はユーミン。あの詞がね、なんか、切なくて」
「そっか……君も、切ない恋をしてたの?」
「してたかも。してなかったかも。でも……今、してるかも」
「……俺?」
「かもしれない」
こんな会話を何時間でもできると思った。
彼女がいる世界に、ずっといたかった。
けれど、違和感は、確かに少しずつ近づいていた。
彼女の言葉の端々に、“俺の知らない話”が混じるようになったのだ。
「ねえ、ナオくん。覚えてる? あのとき、教室で落としたマフラー。私が拾って渡したら、ものすごく照れてたでしょ?」
「……え?」
「ほら、冬の初め、暖房が壊れたとき。あなた、ずっと鼻すすってて、風邪気味だったんじゃない?」
俺は首を振った。
そんな出来事、なかった。いや、俺の記憶にはない。
戸惑う俺を見て、彼女はふっと目を伏せた。
「……おかしいね。私の記憶にあるのに」
「“君の記憶”って、俺のじゃないのか?」
「さあ、どうかな――」
その笑顔に、かすかな違和感が残った。
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(続く:次章【第三章:違和感】へ)