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37 いつか貴方に届いて欲しい

お読みいただきありがとうございます

胸が痛いくらいバクバクと早鐘を打ち、無意識に手をぎゅっと握りしめた。


『月が綺麗ですね』


夏目漱石が「I love you」をそう訳したと言う真偽不明の逸話から、よく物語のネタとして使われるセリフだ。


近年、それの返事として「死んでもいいわ」というセリフがよく挙げられるがこれは少し違うと思っている。

このセリフは、また別の小説家さんがロシア語の小説のセリフ「あなたのもの」という単語をその小説の文脈にそって翻訳したものだ。


もともと対になっているものではなく、さらに私の印象として「愛してる」も言えない日本男児に「死んでもいいわ」は強すぎるのではないかと思っている。というか、ギャル的には『むしろこれからハッピーに一緒に生きよっ!』である。


そこで友達となんと返すのがいいかと話し合ったことがある。そして、私たちの中で決定したお返事の一つがこちら。


『あなたのものよ。』


女性に解釈を委ねるような消極的な告白してくる

文学系奥手男子に対し、強くインパクトのあることばでドキッとさせてやろう大作戦だ。


そして、今私は「月が綺麗ですね」の意味を知らないであろうルト君をドキッとさせてやろうという悪戯心でこの返事をした。


さらに言えば、一生この会話しないだろうからこの機会に使っておきたいという好奇心もあった。


つまりつまり何にもわからないであろうルト君を使って自分勝手な欲を満たそうとしました!すみませんでしたっ!!


しかし、ルト君のこの動揺した表情を見るに、もしかして過去の異世界人イーリスからこの逸話がこの世界でも知られている可能性がある。

だとすれば今熱烈に痴女レベルで迫ってしまったことにならないかっ?!!


「ルト君は月が綺麗ですねってどう言う意味か知ってるの…?」


ルト君は困惑の表情のまま黙り込んでしまったので、意を決してもう一度同じ質問をして見た。


「あ、いえ。どう言う意味というのは…?それより、あなたのものというのはどう言うことなんでしょうか…?」


んんん?これは知らなそう?だとすると、なんでこんなにルト君は動揺しているんだろうか。しかし、もうこれはちゃんと弁明しないと前に進めない気がするので、ものすごく恥ずかしいけどちゃんと説明して、謝っておこうと腹を据えた。


「私たちの国で『愛してる』って意味の外国語を『月が綺麗ですね』って訳した有名な人がいるって話があってね…で、ルト君がその話を知らないのはわかってるんだけど、ちょっとそのセリフにドキッとしちゃったから…私もドキッとさせたいなー…なんて思っちゃって…」 


この時点でもう、恥ずかしさで思考回路はショート寸前、手は汗で湿っている。

ルト君の言葉にちょっとドキッとしちゃったことも、それに対して愛を受け入れるような返答をしてみちゃいましたな事も自分で説明しなきゃいけないって、これなんて拷問。


私の説明を聞いて段々と落ち着きを取り戻したルト君は、もういつもの爽やかな雰囲気を纏っていた。


「なるほど、それを聞くと私もドキッとしてしまいますね。詩子からそんなふうに言ってもらえるなんて。」


クスクス笑われながら言われると、もう恥ずかしさと情けなさで穴がなくても、どこでもいいから入りたい気分だ。


「ち、ちがうよ?!ルト君のことは好きだけど、そう言うんじゃないし、ちょっと言ってみたかっただけって言うか、ふざけて言っちゃってだけで…ごめんなさいっ!」


しどろもどろで手をめちゃくちゃに動かしながら、半泣きになって言い訳をした。がばりと頭を下げて謝罪すると頭の上から堪えきれない笑い声が聞こえてくる。

色んな感情でぐちゃぐちゃな顔を見られたくなくて、俯いたままで羞恥にプルプル震えていると、ふいにルト君が黙ったのを感じて不思議に思い少しだけ顔を上げると、ルト君が笑みを消し、真剣な顔をこちらを見ていた。少し怒っているようにも感じて、自然と体に力が入る。


「…どうか、した…?」


恐る恐る問いかけると、ルト君は白く細長い指を少し曲げて顎の辺りに当てながらゆっくりと言葉を紡いだ。


「いえ、先ほどの詩子の言葉は、たとえ冗談だとしても相手の男性が理性を失い、不適切な行動に出ることをあるかもしれませんので、できればあまり使って欲しくはないな、と…」


「………っ!!」


一気に全身がブワッと熱くなって汗が吹き出してくるように感じた。やはり!やはり、()()()()解釈をされかねないことを言ってしまったんだと実感して思わず悲鳴を上げるように叫んだ。


「もうっ!絶対言わないっ!」


頭を抱えて体を小さく丸めていると、ルト君がふっと笑った。


「ではお返しに、私の恥ずかしい話を聞いてもらえますか?」


ルト君の言葉に、私は丸めた体を起こして彼の横に座り直した。


「ルト君の…恥ずかしい話?」


ルト君はゆっくりと頷いて、月を見上げた。私もつられるように同じ月を見つめた。


「私は小さい頃、自分の母はあの月に、いるのだと思ってたんです。父と兄がいることは知っていましたが、私は屋敷にひとりで…使用人の1人に母のことを尋ねると『貴方にはお母様はいませんよ』と言われました。」


「…っひどいこと…」


母親を求める子供にそんな言い方をするなんて、どんな事情があれ、あまりにも酷い。

思わず憤慨してしまったが、彼は緩く首を振った。


「本当に知らなかったのかもしれませんし、貴族の家庭は本当に複雑で、言えない事もあったかもしれません。でも、私は人には必ず母がいると知っていました。動物や魔物、虫ですら雌雄しゆうがあるのに、私だけ母がいないなんてことはないだろうと思ったんです。」


ふっと吐息を吐くように笑う姿が寂しそうで胸がぎゅっとなる。


「だから、母は月にいるのだと思うことにしました。夜、怖い夢を見てベッドから飛び起きた時、空に光る月が私を優しく慰めてくれているようで。その一時だけは、私だけのものだと、そう思っていたのだと思います。」


夜の帷に包まれる中、恐怖も孤独も自分の中だけで慰めていた小さなルト君を想う。

その小さな胸の中だけでは押さえきれなかった悲しみを月に託していたのかと想うと、周囲の大人たちへの怒りが沸くと共に、痛ましさに胸が痛む。


「詩子に『あなたのもの』と言われた時、あの夜の月の暖かな光は確かに私のものだったと…肯定してもらえたような気がして、驚いてしまったんです。情けないでしょう?いい歳の男性がいまだに母への思慕に縋っているなんて…」


これが、私の恥ずかしい話です、と言ってルト君は悲しげに笑ったが、そんなふうに無理に笑ってほしくなかった。


昔から人々は月に色んなものを重ねて見てきた。月を見上げながら恋心や愛おしい人、故郷や自分の治世に想いを馳せた人もいた。多くの人が、自分が欲しているものを月に見ていたように思う。

ルト君と同じように。


「わかった!ルト君、もう一回『月が綺麗ですね』って言って?」


私が勢いよく言うと、ルト君は驚いたように目を丸くして、戸惑いながら口を開いた。


「…つきが…きれいですね…?」


私はルト君の手を取ると、彼の両手の甲に自分の両手を重ねて、お椀のように丸く形作った。


「ここにありますよ。」


その両手で作ったお椀の中に月が乗るように少し持ち上げてみせた。


ルト君は月の乗った手と私の顔を交互に見て、困惑したように瞳が揺れている。


「あのね、きっと小さいルト君が欲しかったのはお母さんってより、誰かに必要とされたり心配されたり…つまり愛だったのかなって思うんだけど、今はね、あるの、ここに。」


持ち上げた手をまた、ルト君の膝の上に戻す。

迷子の子供のように少し視線を彷徨わせ、不安そうな顔をするルト君を安心させたくて、ゆっくりゆっくりと言葉を区切って言った。


「昔のことは私にはわからないけど、今はジュスタン様もフェネージュ様も屋敷のみんなも、エラン君もディミディミも騎士団の人たちも皆んなルト君が必要だし、大好きだと思う!もちろん、私もっ!」


戸惑い揺らぐその瞳を正面から見つめる。最後の部分は恥ずかしいのを隠すようにちょっと語気が強くなってしまった。


「だからね、ルト君が小さい頃欲しかった『月』は、もうルト君の手の中にあるんだよ。」


ルト君はじっと私が包んだ手を見つめていたが、ゆっくりと視線を空に向けた。


その、少し潤んだその瞳の中に月があった。


その瞳に映った月の光が、溢れてこぼれ落ちたかのように一筋、彼の美しい輪郭に沿って雫が流れた。

それがこぼれ落ちてしまったら、壊れてしまうような気がして慌てて指で掬い取った。


「…あっ…」


思わず彼の頬に触れてしまったことに気づいて手を引こうとすると、私の指の間を埋めるように手を重ねられた。


「あ…ルト君、ごめんね…っ…」


その指先に伝わる温かさと頬の柔らかさに彼に触れている言う事実が生々しく感じられて、胸が落ち着かなかった。


「詩子…私は…」


彼の唇が何か言いたげに薄く開き、反対の手が私の肩あたりまで持ち上がった。


「…っ!」


抱きしめられるかと反射的にきゅっと体を硬くしてしまうと、彼ははっとしたように一瞬動きを止め、私の横にあった手はくうを握りしめた。


少しの間をおいて、私の手に重ねられた手が離れると同時に、自らを制するように一歩後ろに下がった。


「…すみません…嬉しくて…。いえ、もう戻りましょうか。フェネージュ義姉上もそろそろお帰りになる頃でしょう。」


ルト君は慌てて顔を背け、その場を離れようとする。

拒絶されたと誤解させてしまったかと心配したが、彼はむしろ自分自身の行動に戸惑っているように見えた。


まだ、私の言葉を受け止めきれないのかもしれない。

珍しく少し頬を赤くするルト君の顔を見ながら、いつか自分が愛されていると言うことがわかる日が来るといいなと思った。

次はルト君視点です

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