25 月明かりの決意(ルートランス視点)
お読みいただきありがとうございます
夜中に、ふと目が覚めた。
暗い部屋の中、執務机の手元灯だけがぼんやりと光っている。
持ち帰った仕事を片付けていたが、急に眠気が襲ってきたので、ソファで少し仮眠を取るだけのつもりで横になったが、つい寝入ってしまってたらしい。
今日はとても良い日だった。詩子の作ったパンを一緒に食べて、仕事の話を聞かせてもらった。
しかし、薄暗いこの部屋にいると嫌なことばかり考えてしまう。楽しかった昼間の雰囲気が消え、昔のような冷たく暗い牢獄のような屋敷に戻ったようだ。
背筋がすーっと冷たくなった。
もし
もし、あの楽しい光景が夢だったらどうしよう。
フェネージュ義姉上も、詩子もいなくて、私は騎士団にも入っておらず、ずっと小さい頃のように屋敷に捨て置かれたままだったら。
「……っ…」
息が苦しくなり冷や汗が首元を伝う。喉がすごく渇く。机の上に置かれたままでぬるくなったグラスの水を煽る。
部屋の空気が急に薄くなった気がして、救いを求めるように廊下に出た。
縦に長い窓からは青白く光る満月が見えた。
「…はぁ……っ」
少し息がしやすくなって、新しい空気を吸い込み、ふうっと吐き出す。
小さな頃もこのように夜中、目が覚めては月を見上げていた。
昔、1人のメイドに「僕のお母様はどこにいるのですか?」と尋ねたことがある。
メイドは事も無げに「ルートランス様に御母上はいらっしゃいませんよ。」と言うだけだった。
でも、母がいないなんてことはありえないとわかっていた。子供には必ず父と母がいると書物に書いてあった。動物や虫でさえ、そうなのだ。
だから私は、母はあの月にいらっしゃるのだと思うようになった。
昼間の暖かな陽や庭園の鮮やかな花々はあまりにも眩しくてとても私のようなものには手に入らないと思えたが、暗い闇夜を照らすあの冷たくも美しい月は何故か私のものであるように感じていた。
「つきにいらっしゃる、ぼくのおかあさま。ぼくはここにいます。むかえにきてください。」
愚かにも本気でそう、願っていた。
フェネージュ義姉上を初めて見た時、暗闇に光る月のような青い髪を見て、母が迎えにきたのだと思った。この冷たい屋敷から連れ出し、夜空に光るあの美しい場所へとうとう行けるのだと。もう寂しい思いはしなくて良いのだと思ったのだ。
今思うと、17歳の女性に対してとんでもなく失礼なことを言ったものだと恥ずかしくなる。
「ルートランス様、どうかなさいましたか?」
驚いて、声のした方をみると、手にランプを持ったクラリベールが月明かりに照らされていた。
「あぁ、目が冴えてしまってね。月を見ていたんだ。クラリベールもこんなに遅くまでどうしたの?」
夜ふかしを見つかってバツが悪いと言うような顔を態と作る。
「詩子様のお手伝いがございまして少し…これは秘密でございました。お忘れください。」
そっと口元に手を当てる。失言をしたと言うようなそぶりだが、慌てた様子はない。わざと何かあることを匂わせて楽しんでいるようだ。
クラリベールの口から詩子の名前が出たことで、今日のことが現実であったことを、確認しそっと息を吐く。
「ずるいなぁ、クラリベール達ばかり詩子と秘密を作って。」
「詩子様の秘密はいつも、ルートランス様のためのものですよ。」
よく覚えていないが、クラリベールも昔からこの屋敷にいた気がする。その頃は侍女長ではなく、侍女の一人であったと思う。私が使用人たちに無関心であったため、どのように関わっていか思い出せないが、少なくとも今のように砕けた物言いはしていなかった。彼女にも何か変化があったのであろうか。
「そうだね。楽しみにしておくよ。ねぇ、クラリベールは詩子が女神の花であったらいいと思っていたのかい?」
詩子から聞いた話だ。クラリベールが女神の花の話になると声に熱が籠るという。きっと女神の花が好きなんだねーと言っていたが、そうだろうか?女神の花であるリタに対して特に大事にしているという様子もない。だから、詩子に何かを期待していたのではないかと思ったのだ。
クラリベールはなにか逡巡するような様子を見せた後、ゆっくりと口を開いた。
「詩子様が女神の花であったのなら、ルートランス様を救ってくださるかと思ったのですよ。」
静かにまっすぐとこちらを見つめる瞳にどきりとした。
「私はなにも…助けを求めてはいないよ。」
「そうでございますね。」
うまく言葉を紡げず、動揺を隠すことができなかったがクラリベールは特に追及することはなかった。
「昔もよくこのように月を見ていらっしゃいましたね」
クラリベールが窓の外に目をやるのに合わせて、私もまた、夜空に目を移した。月は変わらず美しく淡い光を纏っていた。
「私は最近、詩子様の憧れに興味がございます。」
唐突に言われた言葉をすぐには理解できなかった。
「詩子の憧れって…クラリベールがギャルに興味があるってこと?」
あまりに意外な言葉にクラリベールを視線を向けると、少し悪戯っぽく微笑んでいた。
「えぇ、女神の花より自分の明るさと、気負いなく懐に飛び込んでしまうことで、相手の心を溶かすギャルに心惹かれております。ルートランス様もそうではございませんか?」
ああ、そうだなと思った。
私をまっすぐ見て、無邪気に笑って自然と隣に寄り添ってくれる詩子を思い浮かべた。私だけを見て屈託なく笑いかけてくれる存在をずっと求めていたのかもしれない。
だが、それを詩子に望んではいけない。
突然、知らない世界に送られて懸命に生きる少女に私の孤独を押し付けるようなことがあってはいけない。できることならば、私が彼女の心の支えとなりたい。そのためには私自身が誰に寄りかかることなく、一人で立たなければいけない。
私が何も話さずにいると、クラリベールはすっといつもの落ち着いた侍女長の姿に戻ったようだった。
「何か温かいお飲み物でもお持ちいたしますか?」
「ありがとう。大丈夫だよ。もう、休みことにするよ。」
「では、おやすみなさいませ。ルートランス様」
クラリベールと別れて部屋に戻る。
部屋は目が覚めた時と同じように、手元灯がぼんやりと明るく光っていたが、先ほどの重苦しさはどこかへ消え、夜のさらりと冷えた空気があるのみだった。
手元灯のスイッチを切ると、ベッドに横になった。もうこの暗闇も怖くはなかった。
明日の朝、わかるであろう「詩子の内緒」を楽しみにそっと目を閉じた。




