18 フェネージュの想い
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「…それって私が聞いていいことなんでしょうか」
口元に緩く握った手を当てる。出生の秘密なんて、知られたくないかもしれないと逡巡する。
「そうねぇ、でも貴族なら誰でも知り得ることよ。ジュスタン様のお母上はルートランス様がお生まれになるずっと前に旅立たれていらっしゃったもの。ルートランス様のお母上については誰も存じ上げないのだけれどもね。」
「えっ…」
さらりと言われて戸惑ってしまったが誰も知らないとはどういうことだろうか。
何か事情を抱える方だったのか、身分が釣り合わない方だったのかと考えてしまったが、勝手な想像はルト君に失礼だと思い、振り払うようにゆるく頭をふる。
フェネージュ様は私の動揺など気にも止めず、話を続けた。
「ルートランス様を産み落とされて、そのまま儚くなられてしまったとか…。ジュスタン様の姉上様も同じ頃に旅立たれてしまったそうだから…お辛かったと思うわ。」
つまり、ジュスタン様は幼い頃にお母様を亡くし、さらに10歳頃にお姉様とルト君のお母様、つまり義母を相次いでなくなってしまった。
また、同じ頃お父様である侯爵様が事故でお体が不自由になり、その上精神的にも不安定になってしまったため、ジュスタン様は官僚学校に生徒として通いながら、侯爵の仕事を代行していたと。
家には心身ともに傷ついた父と、幼い義弟。
家令や執事、使用人たちの手伝いがあったとは言え家族を相次いで亡くした少年には過剰な責務であっただろう。しかし、彼にはそれを表にはださず、嫁いでくる女性を気遣える優しさと胆力があった。
ジュスタン・グライユルは15歳にしてすでに貴族としての矜持を備えていたのだ。
「わたくしはどうしても旦那様を諦めきれず、グライユル侯爵家について徹底的に調べ上げました。そして官僚学校にも入学いたしまして、社交の場に足繁く通いましたの。学校内外を問わずね。」
「え!フェネージュ様が官僚学校?」
この国の官僚学校は基本的に家門の政務を支えるか、将来は王宮に仕官する子息が通う。
女性には女官という道があるが、男性の官僚とは性質が違う。他家に侍女として奉公し、経験を積んだのちに王宮で女官として取り立てられるのが慣例である。
つまり、女性が官僚学校に通ったとしてもその先の道がないのだ。
「一年だけの期間限定でしたけれどもね。旦那様を側で支えるためには、彼の重責を理解し対等に語り合えなければならないと思いましたの。実家に我儘を言って例外的に捩じ込んでいただきましたのよ。」
事も無気に微笑んでいらっしゃるが、貴族の慣例を娘のわがままで曲げさせるフェネージュ様のご実家が恐ろしい。
「それに、旦那様は成績は優秀でお人柄も素晴らしいけど、社交には向かない方でしょう?情報収集に偏りがあると思いまして、わたくしが補おうと思いましたの。」
学校内での人脈作りは学校卒業後、官僚として働くにしても家業を手伝うにしても大変重要だ。
しかし、勉強と執務に追われる彼はとても、社交まで手が回らない。そこで、フェネージュは学校内で彼に利益がありそうな子息たちとの人脈を作り、学校外のお茶会では令嬢たちと世間話の中で巧みに情報を引き出し情報をまとめた。
そしてある日、その成果をジュスタンの目の前に積み上げて、再度プロポーズしたそうだ。
「旦那様は呆気に取られたお顔をされてね、『貴女には敵わない』とおっしゃって、婚約を快諾してくださいましたのよ。うふふ、わたくし押しかけ女房なの。」
その時の旦那様のお顔が大変お可愛らしかったのよ、と微笑むフェネージュ様は少女のように可憐だった。
心を閉ざした相手に、明るさと優しさでぐいぐい距離を近づけて心を開かせる。これこそ私の理想のギャルではないだろうか。
「フェネージュ様かっこいいです…ギャルみたい…」
ついつい、褒め言葉にギャルを使用してしまったが、フェネージュ様にギャルは説明済みなので問題ない。
「あらぁ、詩子様の憧れのギャルみたいなんて嬉しいわぁ。」
コロコロと鈴が鳴るように笑った後、フェネージュ様は何かを決意したように、真摯な眼差しを向けた。
「…わたくしが17歳でルートランス様が8歳の時、侯爵家に嫁ぎましたの。初めてルートランス様にお会いした時、あの方なんとおっしゃったと思う?」
フェネージュ様がわずかに視線を下げる。
「キラキラとした瞳で私の顔を見上げて、おっしゃったのよ。『僕のお母様ですか?』と。」
胸がぎゅっと締め付けられたかのように痛んだ。
その言葉だけで、幼い彼がどのように過ごしていたか押しはかることができる。彼の周りには母親について教えてくれる人も、兄の婚約者が嫁いでくるという情報さえも伝える人はいなかったのだ。
「侯爵家の内情を知る中で旦那様の弟君がどのような環境に置かれているかはわかっていたけれども、実際にあの方をみたら…耐えられなかったわ。」
フェネージュ様は当時を思い出し、苦々し気に表情を歪めた。
「侯爵家の使用人は皆真面目で過剰なまでに職務に忠実だから、指示されていない情報は与えないし、職務を超えて彼に愛情を与える者もいなかったのね。侯爵様も旦那様もルートランス様について特に使用人に指示を出さなかったのでしょう。」
頭の中に幼児のルートランスがいる。ぽつりと1人で立って、忙しく働く使用人たちを見ている。体も服も部屋もピカピカに磨かれて、不自由はないけれど、彼と気軽に話す人はない。心の中でずっと母親と言う存在に焦がれていたのだろうか。
頬に涙が伝っていることに気づき、慌てて手の甲で拭った。
そんな私の様子を見てフェネージュ様が私のそばに歩み寄り、そっと膝をついた
「わたくしね、あの子に『わたくしは貴方のお母様ではないけれど、貴方の姉になるの。わたくしと貴方は家族になるのよ』と申し上げたの。その時の嬉しそうなお顔がとても愛らしくてね。わたくし達、本当の姉弟のように過ごしたわ。」
フェネージュ様の白い手が、膝の上で固く握り込んだ私の手を優しく包み込んだ。
「でも、わたくしが息子を身籠った後、逃げるように騎士学校に入ってしまったのよ。母になるわたくしが怖かったのかもしれないわね。」
彼の心をかき乱したのは、やっと心を砕いてくれた家族が離れていくことか、大好きな姉が母という未知の存在になることか。あるいは、自分には母がいないと言う事実を突きつけらることを恐れたのだろうか。
「あの子がね、わがままを言ったのは貴女をこの家で守りたいと言ったあの時が初めてよ。わたくしは嬉しいの。自分の気持ちを押し殺して、周囲を乱さないよう、ずっと笑顔貼り付けていたあの子が、貴女の為に心を砕いている事が。」
フェネージュ様が握り込んだままの私の手をそっと撫でる。
「貴方の理想が、突き抜けるような明るさと、誰にも曲げられない強い思いで、人のお心を溶かすような女性なら…その相手はあの子ではないかと、そう思ってしまったのよ。」
私の手に、ぽたりと雫が落ちた。
フェネージュ様がそっと私の目元を撫で、それが自分の涙だったのだと気づいた。
フェネージュ様はふっと優しく微笑んで立ち上がると、元いた対面の椅子に腰掛けた。
「お茶が冷めてしまったわね。新しいものを入れてちょうだい。」
メイド達がお茶を入れ替える為、動き出すのを感じながら、私は俯いたままだった。