王妃セラフィーヌ
外はいつの間にか、雨が降っていた。
寝室の硝子窓に映り揺れるのは、雨の滴に滲む頼りないランプの灯り。窓の前に座った王妃は、然したる意味も無くそれを指先でなぞった。
「──浮かない顔だ」
「陛下……」
「ふたりきりだ、セラ。 レニーと」
侯爵令嬢だった王妃セラフィーヌは、国王であるレナルドが抱いた肩に、甘えるようにそっと身を寄せる。
「拒めば良かったのに」
「……できませんわ」
ふたりの会話はジョージナを婚約者候補に入れたこと。レナルドが妻に判断を委ねたのは、王太子妃の選任を取り仕切っているからでもあるが、彼女が拒むと思ってだった。
学生時代こそ些か少女じみた振る舞いをしていたセラフィーヌだったが、それも前王妃の早逝や、現国王である王弟との再婚という複雑な局面を乗り越えてきたことで変わった。
セラフィーヌは確かにルパートを愛していたが、今は夫となったレナルドをそれよりも深く愛している。
皆が思う程、彼女はジョージナに悪感情を抱いていない。初めて見た筈のジョージナは、あまりに自分の知るジョージナに似過ぎていて驚いただけで。
婚約者候補の件にしても、ランサム公爵家との確執を埋める良い機会だとも思えるのだが……
それでも簡単に許可できなかったのは、ひとつ、どうしても確かめなければならないことがあったから。
──サミュエルがジョージナを娶りたいと申し出た時のこと。
「いいわ、ランサム前公爵に打診してみましょう」
「王妃陛下……!」
「ただし、条件があります。 わたくしが貴方の妻として相応しい女性かを確かめてからです」
「!」
「サミュエル、王妃たる母を信じよ。 私情に目を曇らすような愚かな判断はせぬ」
「は……」
サミュエルを下げ、ふたりきりになった後。
レナルドは妻に尋ねた。
「して、どうする? 真実あの娘が記憶を失っているのなら、確かめるのは難しかろう」
「わたくしに考えが……成功するかはわかりませんが、もし駄目ならあの子にも真実を話すいい機会なのだと」
真実──それはルパートもまた、ジョージナと同じように生死不明で謎の失踪を遂げたということ。
それはジョージナの失踪から一年程で、サミュエルを妊娠したばかりだった。
これは極少数の人間しか知らない。
代わりの遺体を準備し、国葬も行われている。
婚姻後すぐに前王妃が逝去し喪に伏している最中というのもあって、ルパートは殺すよりなかった。せざるを得なかったこの判断だが、セラフィーヌにしてみれば幸運だったと言える。
前王妃が倒れ、王妃教育を詰め込まれたセラフィーヌはただでさえ疲弊していた。なのに、どんなに夫を愛し努力しても、ルパートのもういないジョージナへの執着は消えることがない。自分を抱きながらも、夫が血眼になって彼女を探していることにセラフィーヌは気付いていた。
彼女を慮り寄り添ってくれたのは、レナルドだけだった。
サミュエルが健やかに産まれてきたことは幸いだった。レナルドは王のスペアとして教育されていたが、10代の頃にかかった熱病により子種を失っていた。
それすらも幸いだと言って、自分と息子を愛し慈しんでくれた夫を大切に思っている。
サミュエルはレナルドの子だ。
だが──流れる血は確かにルパートのもの。
だから王妃は確かめなければならない。
ジョージナが息子の妻として相応しい女性かどうか……異母姉、或いは異母妹でないかどうかを。
「王妃陛下にご挨拶申し上げます。 ご機嫌麗しゅう、ランサム公爵家が娘ジョージナにございます。 お招き頂き大慶至極に存じます」
美しくも深く膝を曲げるカーテシーと共に、流麗なテンポで挨拶を述べる娘に、軽く戦慄を覚えた。
(似ているどころじゃないわ)
「ジョージナ、楽にして頂戴。 わたくしも貴女と会うのを楽しみにしていたの」
眩暈と不穏な動悸で倒れそうになりながらも、優雅に微笑み席へと促す。
和やかに続く当たり障りのない会話から、覗く配慮と知性。募る焦燥を悟られないようにしながら、セラフィーヌは早く終われと祈っていた。
──医師の指示の下、ジョージナの飲み物には薬を盛っていた。
決して彼女を害す為ではない。
ジョージナの意識下に深く沈んでいる記憶を掬い上げる為──それは、催眠療法に近い方法。
「顔色が悪いわジョージナ。 こちらで少し休みなさい」
「王妃陛下……」
「さあ、今はわたくしを母だと思って」
「……」
いけない、と思いながらも王妃の声や背中に触れる手は優しく、ジョージナは微睡みの中に堕ちていった。
結果──ジョージナはサミュエルの異母姉や異母妹ではなかった。
だがわかったのは、もっと信じ難い事実。
「あれは……本当なの?」
「……私も信じられませんが、ご説明した通り、少なくとも彼女の記憶での事実ではあります」
医師は予め、『記憶が正しい事象とは限らない』と前提していた。
だがそうでなければ辻褄が合わない諸々が、セラフィーヌに『ジョージナの記憶は正しい』と告げている。
これを共有しているのは、医師とレナルドのみ。
「……ここは」
「ジョージナ、貴女は眠っていたの。 環境が変わったばかりなのに色々あったから、きっと疲れていたのね。 ごめんなさいね」
「いえ……」
「今日は貴女が来てくれて楽しかったわ。 今度はサミュエルと一緒にいらっしゃい」
本人すら、記憶を吐露したことは忘れていた。
ジョージナは起き抜けこそ、なにかされたのかと僅かに身構えていたが、『サミュエルと一緒に』という王妃の言葉を正しく受け取ってくれたようだ。
卒なく不調法を詫びて礼を述べるとその場を辞すと、程なくしてけたたましい足音。彼女に駆け寄るサミュエルが見えるようで、セラフィーヌは一瞬だけ母の顔で微笑んだ。
納得はしたつもりだった。
だが、本当にこれで良かったのか。
「セラ、今ならまだ」
答えはわからないまま。
それでも王妃は夫の優しい言葉に、ゆるりと首を振る。
「いいのです。 あの娘程、いえ……ジョージナ様程、王妃として相応しい方はいらっしゃらないもの」
──ふたりのジョージナなんて存在しない。
あれは、セラフィーヌの知るジョージナ・ランサムだ。