始まりの朝
※かつてのジョージナの話
ずっとジョージナは胡乱な存在だった。
民や家の為に尽くす、矜恃に溢れたランサム公爵令嬢の姿も、思慮深く控え目な『月の姫君』の姿も、自分ではどうにもならないことでかたち作られたものに過ぎなかった。
誰かの為に都合のいい姿に、ただ擬態するだけのナニカ。
そんな自覚と諦念に寄りかかるように、粛々と日々を過ごすうちに、益々平坦になっていく感情。なにかに傷付くこともなくなっていた。
きっかけはなんだったか、詳しく覚えていない。ある日、指先に小さな怪我をしてフト気付いた。
心臓が脈打つことに。
呼吸を行い、手足の動く身体──それは空っぽな器のようでいて、それは比喩でしかなく、なにも感じないような気になったとしても、確かに存在しているのだ。
ひとりの人間として、今、自分が。
だからセラフィーヌの存在はむしろ、ジョージナにとっては希望だったと言ってもいい。
その中に在る筈の、朧気に感じるだけの自分の姿を、ハッキリ捉える為の。
だが、最終的に待っていたのは絶望だった。
婚約破棄されたジョージナは、ドレスから平民のような服に着替えることのみを命じられると、粗末なローブ以外になにも持たされることなく、直ぐに王都から追放というかたちで馬車に乗せられた。
「ジョージナ。 大人しく待っていろ……お前には私しかいないのだからな」
ルパートは馬車の中でジョージナの頬を撫で、それだけを言い残して外へ出ると扉を閉めた。
「……なるべく人目につかぬよう、旧道を」
「御意」
貴族牢で沙汰を待つことすら許されない、性急な処遇。馬車は最低限の護衛で、夜の闇の中を走る。
ジョージナは震えていた。
行われた婚約破棄や断罪よりも、ルパートの言葉と向けられた瞳が恐ろしくて。
ジョージナがルパートを愛したことはない。
まだ子供で幾分か対等だった時に育まれた情はあったが、直ぐにそれはなくなった。ジョージナにとって、自分と彼との間には主従関係のような明確な上下が存在したからだ。
ルパートの言うことは絶対で。
逆らえない──彼がそれを不満に思っていても、既に与えられた役割に相応しい姿に擬態していたジョージナにとって、それはどうにもならないこと。
捨てられ瑕疵がついたのであっても、修道女となっても、解放されるなら良かった。
なのに、彼は手放してくれない。
執着に光る瞳がそれを物語っていた。
ルパートはただ冷たかっただけでもなく、時折優しさも見せた。だがそれが自分に依存させる為のものだと気付いていたジョージナには、ただ役を押し付けてくるだけの父や当時の国王夫妻よりも恐ろしく、微かに感じるだけの己の魂をも喰らう悪魔のように映った。
突然、馬車が激しく揺れた。
馬はいななき、怒号が走る。誰かの叫ぶ声。
激しく鈍い金属音が続く中、引き綱が切られたのか、馬車はにわかに逆走し傾いて横転した。
その衝撃で強かに全身を打ち付けたジョージナは、意識こそ失わなかったものの、なにかで切ったらしく頭から血を流していた。
(死ぬのかしら)
目に入る血と夜の闇に阻まれて視界は狭い。
身体は痛いというよりは重く、もぞもぞと体勢を整えて座り直す。
喧騒は遠くぼやけ、馬車の車輪なのか、カラカラと糸車のような音が眠気を誘う。
閂が壊れた馬車の扉は、半分程開いて自分の斜め上にきており、そこから見えた月は妙に美しくて、ジョージナは笑った。
(最期に見るのがこれなら、悪くないわ)
ジョージナの意識はそこで途切れた。
野盗が馬車を襲ったのだ、とわかったのはずっと後。
目を覚ましたジョージナの視界に映ったのは、柔らかにそよぐ木の葉と、隙間から零れる光。いつの間にか馬車の外にいる。
自分が仰向けに横たわっていることに気付き、身体を起こす。
「痛いっ!」
「えっ……?!」
大きな白い蛇がそこにいた。
生で蛇を見るのは初めての経験だったが、特に嫌悪感は抱かなかった。
大きいことと、なにより喋ることに驚きはしたけれど。
「ご、ごめんなさい……?」
位置関係から、どうも枕にしていた様子。そこから伸びた彼の身体を、起きる時に爪で引っ掻いてしまったらしい。
蛇はとりあえず謝ったジョージナの背中の裏側、ビタンビタンと土を叩き抗議するのと逆から、にゅっと顔を近付けた。
「僕が怖くないの?」
生理的嫌悪感で言ったら全くない。
カエルやイモリのように変にヌメヌメもしていないし、虫や蜘蛛のように沢山の脚が謎の動きをするわけでもなく、むしろ近くで顔を見ると意外と可愛い。
見た事のある他のどんな生物よりも、目がクリクリとしている。
確かに大きいけれどそれは全長の話で、顔や身体の太さは、ジョージナの肘から下の腕を合わせて、両掌でそれらしくかたち作ると丁度同じサイズになるくらい。
顔の造作がハッキリわかる分、逆に大きくて良かったのでは、とすら思う。
「……怖くないわね。 私も蛇とは初めて接したのだけれど……と言うか、貴方は蛇なのかしら?」
そう聞き返すと、蛇は人のような声で笑った。
もう夜はすっかり明けていて、白んでいた空は太陽が上がると共に柔らかく色を纏う。
そこは湖の畔で、湖面がキラキラと輝くとても美しい場所。それが森の中だということは、周囲を見渡してわかった。
自分を見ると、ローブにおびただしい血が上から流れるようについている。
特に痛みはないが、頭を切ったことを思い出したジョージナが、手で確かめようとするのを見て、蛇が止める。
「傷、塞いだばかりだから。 痛みもあまりないのかもしれないけど、もう少し触らない方がいい」
「あ、ありがとう……」
頭は少し切っただけでも血が沢山流れる、というのは知識として知っていた。だがそれにしても治りが早い。
どんな方法で塞いでくれたのかはわからないが、目の前にいるのは喋る大蛇である。疑う余地もなく礼を述べた。
「貴方が助けてくれたのだけはわかったけれど、一体なにが起きたのか教えてくださらない?」
「いいよ」
あっさりと承諾すると、蛇は人の姿になった。
驚くジョージナをヒョイと抱きかかえると颯爽と森の中を抜け、何度かの跳躍で軽々と崖を登っていく。
「そのままみたい。 まだ見付かってないんだね」
事も無げにそう言って彼が降り立ったのは、横転して壊れた馬車の上だった。
「散歩してたら騒がしかったから、来てみたら君がこの中で寝てたんだ」
そこに倒れている、破落戸のような男の死体を蹴飛ばし、落としてから続ける。
「コイツが持っていこうとしたから、なんか嫌だなって思って。 でもひとり殺したら、他のもうるさかったから全部殺しちゃった」
「──少し降ろしてくれる?」
ジョージナは目を凝らし、死体を眺める。
騎士や馭者の死体には、刀傷だけでなく矢が刺さっているのもあり、野盗の襲撃を受けたことがわかる。
今もって現場がそのままであることから、おそらく全員殺されたのだろう。
ジョージナの頬に、涙が流れた。
それは自分を守る職務を遂行しようとして殺された騎士に対して、あまりにも不謹慎な気持ち──歓喜からだ。
「ね、やっぱり怖くなった?」
顔を覗き込むように身体を屈ませ、彼は変わらない口調でそう尋ねる。ジョージナはすぐに首を振って否定した。
仮に騎士達を殺したのが野盗でなく彼だったとしても、きっと同じだったように思う。
涙を流したまま、彼に微笑む。
「怖くなんかないわ。 ありがとう、助けてくれて」
──色々なことから。
「そう? じゃあ僕のお嫁さんになってくれる?」
唐突に彼は言った。
ジョージナは驚いたけれど、子供のようなあどけない表情に含みは感じられない。そして彼が、先程まで蛇だったことを思い出す。
多分、人とは感覚が違うのだ。
「まだ知り合ったばかりよ。 一緒に過ごしてお互いを知ってからじゃ駄目かしら」
「う~ん、そう? じゃあいいよ、それで。 君はどっちの僕も怖がらないってわかったし……」
「私も蛇が可愛いことを初めて知ったわ」
「可愛い?」
「ええ、可愛いわ」
本当は怪我をしてたから連れて行っただけで、怖がられたら戻すつもりだったらしい。
「うっかり眠っちゃったけど、結果としては良かったのかな?」
そうへにょりと微笑む青年の周囲には、いくつもの死体が転がっている。概ね彼が殺したというのに、全く恐ろしくはなかった。
やけに空が青く、眩しい。
鮮やかな空を見ながら、再び抱きかかえようとする彼を静止する。
ジョージナは血だらけのローブを脱ぎ捨てて、微笑んだ。
きっと今、誰も見たことのない顔で笑っている──そんな気がしていた。