裁かれざる大罪
「王妃陛下にご挨拶申し上げます。 本日は──」
「いいのよ、キャシー。 私の可愛い娘、楽にして頂戴」
キャシーの堅苦しい挨拶を遮った王妃は、彼女を娘と呼び、これがプライベートな交流であることを示した。
王妃は公平を期す為か婚約者候補とは一線引いていたけれど、婚約が決まってからはキャシーにとても良くしてくれている。
(でもこの場所は……)
王妃宮の見事な庭園は、代々の王妃に受け継がれるもの。しかし案内されたのは、それよりも遥かに小さな中庭に面したサロン。
一番値の張るのは、おそらくサロンの壁面となる数枚の大きな板ガラス──婚姻後数年し落ち着いた後で、国王が妻の為に趣向を凝らし、増設した特別な場所。
王太子妃となってからは何度か個人的に誘いを受けているが、ここに招かれるのは初めてのことだった。
そんなキャシーの気持ちを知ってか知らずか、
「ここに誰かを招待するのは貴女が初めてよ」
王妃は思い出すようにそう言って、目を細める。
招待するだけでなく、職務に関わること以外でここに他人が入ることは殆どなかったと言っていい。
基本的にレナルドは忙しく、彼をわざわざここに呼び付けることはない。幼いサミュエルが勝手に来てしまうことはあったけれど、年頃になるとそれもなくなった。
「ここはね、キャシー。 私が王妃ではなく、ただのセラフィーヌとして心を休められるように、と陛下が作ってくださったの」
王妃として生きなければならないとなれば、当然相応の重圧はあるだろう。
だがセラフィーヌの心に重くのしかかっていたのは、それだけではない。
かつてのジョージナとの、ルパートを巡る醜聞──断罪による婚約破棄から、新たなる王太子妃として選ばれた女。
それがセラフィーヌ。
学園の子女子息らを通して貴族達が動かなかったのは、辺境に嫁いだ姉が既にふたりの息子を産んでいたことも強く影響した。
これは辺境との繋がりだけでなく、王家に嫁ぐ者としての一番の責務である妊娠出産への期待も含む。
ジョージナとルパートは王命で縁を結ばれたものの、ジョセフィンとジョージナの母であるランサム公爵夫人は身体が弱く早逝……ふたり子を産んだのが奇跡的な程だった。
しかもルパートは王家の一粒種。
多少能力や家格が劣ろうとも、セラフィーヌもやんごとなき血筋の娘で聡明、妃として申し分ない。
ならば儚げな『月の姫君』よりも、明るく健康的な御子を授かりそうな彼女の方が……という空気があった。
それは実際に妻となれば圧でしかなかったけれど、幸いにして婚姻後すぐサミュエルを授かり、無事出産を終えた。
ただ──セラフィーヌにとって、ルパートとの短い結婚生活は幸せとは言えないものだった。
時の王妃が倒れるという不運から、王太子妃教育を跳ばして行われた厳しい王妃教育と、慣れない王宮での生活。強い圧を以て望まれる王家の血を引く子。
自業自得な面もある。それをわからない程、愚かではない以上、前を向くしかなかった。
だが、公務と閨だけでしかルパートと会えない日々……彼は常に優しかったけれど、無意識のうちに告げられた他の女の名前に、心は呆気なく折れた。
伴侶の愛などなくても情は育めるし、他にも己を律し努力する方法はある。
それは間違いでもないが、セラフィーヌはルパートを愛していたのだ。愛されているから選ばれたのだ、という気持ちが彼女を支えていた。
必要な時以外に会えないのは、忙しい間を縫ってジョージナを探しているからだ、と知っていても。
──だからこそ。
サミュエルとキャシー。
ふたりが仲睦まじい様子で戻ってきたことに、一番安堵し喜んだのは王妃だ。
サミュエルの行動はルパートと似ているようでいて、実際はまるで違っており、日に日にふたりの愛情が深まっているのは見て取れた。
けれど見て取れたのは、ふたりが未だ夫婦となっていないことも、だった。
セラフィーヌはレナルドに支えられ、立ち直ると共に心を移したけれど、不貞はしていない。結ばれたのは婚姻後だ。
別の女の名を呼ばれ抱かれるよりは余程いいにしても、関係の曖昧さが齎す不安と辛さは良くわかっているだけに、自分のことのように心配だった。
ただでさえキャシーには、いくつも負い目がある。
血が近いせいか、レスリーとサミュエルは合わないと見た王妃は、夫である国王と相談の上、最初から彼女を本命視して選出していた。
そのくせ政治上の安定を図る為、アントニアを本命的立ち位置として擁立し、双子まで受け入れたのだ。
無論、裏から手を回し助ける気ではいた。
王宮は王妃の庭であり、婚約者候補に関することは王妃の仕事。密かに動かせる人員は充分におり、容易いことだ。
だがレスリーが自主的に動いたことで、特になにもすることはなかった。それは彼女がキャシーを気に入った結果であり、キャシー自身の力と言っていいだろう。
その上で最大の失敗を犯した──ジョージナ・ランサムを婚約者候補に加えることを許したのだから。
彼女がかつてのジョージナと同一人物である、そのことを知りながら。
サミュエルの気持ちやランサム家との関係など、一応の名目はあるが、今思うと完全に私情だった。
それは、ジョージナの過去に報いる為……という体で、自分の間違いを正した気になる為の、甚だ身勝手で独り善がりな判断で。そこにキャシーのことなど、入る余地はなかった。
なのに変わらず──いや、一層の献身を見せてくれたキャシーに、どれだけ救われたかわからない。
「キャシー、貴女には感謝しているの」
過去にこだわり、その記憶から自分が救われる為にしたことは、自分も含め誰も救われない愚かな選択だった。
なのに王妃は、更なる罪を犯そうとした。
今回、王太子夫妻が望んだ『夏至祭りのお忍び参加』がそれだ。
ジョージナの記憶を彼女の口から直接聞いた王妃は、キャシーと違い本当に全てを知っていたのに、止めることはなかった。
未必の故意という裁かれない大罪を、キャシーという一縷の望みにかけて。
「サミュエルを見捨てないでくれて、ありがとう」
「王妃様……」
潤む瞳を見せないよう、それでいて涙が零れたりしないように目を伏せ、誤魔化すように茶を一口飲み、静かに顔を上げた。
「──貴女の聞きたいことを、きっと私は知っているわ」