悪夢
「……キャシー?」
触れている身体の硬直に、ようやく漠然と異変を察知したサミュエル。
彼はキャシーを抱き寄せたまま、優しく問い掛けるように妻の名を呼んだ。
(いけない……!!)
我に返ったキャシーはそう思った。
理屈ではなく、本能的に。
「どうした?」
彼女の身体は鋭敏に反応した。
しかしサミュエルの腕と胸の服を僅かに掴むだけだった彼女の手では、彼のちょっとした仕草を阻止するには至らなかった。
「ッダメ、見ては……ッ!!」
渇いた喉から放り出した叫びは響くことなく、夏至の夜の生温い空気に散る。
サミュエルはもう、湖の方へと振り返っていた。
──彼の視線が捉えたもの。
ワルツのリズムで煌めく湖面の上。
優雅なターンに、女の美しく長い髪が光彩を纏いながら柔らかく靡く。
女をリードしながら、彼女に熱い眼差しを向ける背の高い男──
「あれは……………………私?」
その顔は、サミュエルと瓜二つ。
呆然と立ち尽くしたまま、呼吸をしているかもわからない程に、動かなくなったサミュエル。
なにもできずにその様子を眺めるしかできずにいたキャシーは、瞬間、彼以外の全てが白で埋めつくされたように見えなくなっていた。
それは、起きて思い返せばあまりに下らない悪夢を見ている時に似ている。
全く意味のわからない、およそ納得も理解もできないような事象なのに、疑問すら感じることはない。
感覚的な恐怖と絶望。
「──! ──!!」
なにかが纏わりつくように重い身体で、キャシーはそれでも必死に抗おうとサミュエルにしがみつき、出ない声で泣き叫んでいた。
「──ぐっ?!」
突如、くぐもった悲鳴を上げると共に、サミュエルが膝から崩れ落ちた。
「サミュッ、サミュエルさま!」
「うあっ……うぅ……」
あんなにもハッキリと近くに見えた湖が霞みがかり、ゆっくりと薄れていく。
そのことにも、自由が利くことにも気付かないまま、キャシーも土に膝をつけた。
支えたサミュエルの意識は薄い。息が荒かったのは一瞬で、呼吸も弱く、時折小さく喘ぎ声が漏れる。力が抜けているのか、身体がゆっくりと重みを増していく。
「ふぅっ、……くっ!」
重みに耐えながら彼の背中から肩に回した華奢な腕に精一杯の力を込め、上半身の位置をなんとかずらす。全身で抱き止めるようにしながらキャシーはその場に座り込んだ。結局支えることはできず、膝枕のようになりながら。
「はあっ……」
(人を……人を呼ばなければ!)
「だ、誰か……!!」
「──大丈夫」
今度こそ響くぐらいに叫ぶところだったキャシーの声を押さえたのは、この夜に相応しくない程静かな、あのひとの声。
「ジョー、ジナ、さま……」
顔を上げると、ジョージナがそこにいた。
月の光を受け、自らの身体の影を半身からこちらに落として。
「大丈夫ですわ、キャシー様」
表情こそハッキリと見えないが、穏やかに弧を描く口元から降り注ぐ声は、酷く優しい。
風に揺れるような自然さでふわりとしゃがんだジョージナは、滑らかな白い手でキャシーの手を取る。
サミュエルを支えている為にままならない彼女の手を両手で包み、そっと握らせるように渡したのは、小さな薬瓶。
「これは……」
「飲ませて差し上げて」
キャシーはなにを言われたのかを呑み込めず、虚をつかれた顔をする。
「さあ」というジョージナの、促す声にハッとして慌てて動き出した。
既にサミュエルの意識はない。
薬瓶を近くに置き、二の腕で頭を支えながら片膝を立てるように斜めにサミュエルの上半身を起こす。
全身に汗が滲む。お忍び用のスカートはもう、至るところが土で汚れていた。
再び手に取った薬瓶の蓋を口で開け、そのまま下に落とす。
突き動かされるように、したことのない仕草で身体が動く。ただただ、必死だった。
自らの口に薬瓶の液体を含み、口移しで飲ませる。慎重に、少しずつ。彼の喉が小さく動くのを、確認しながら。
どれくらいの時が経ったのか。
蒼白だったサミュエルの顔に血の気が戻り、いつの間にか呼吸が整っていた。
ただの寝息のようだと安堵したキャシーは、安堵と共に訪れた疲労と眠気に抗えず、倒れるように意識を手放した。
(ジョージナさま……は…………)
彼女のことが頭に過ぎるも、周囲を見渡すことすらできないまま。
それでもほんの少しの間。
薄れゆく意識の中で、重い瞼をなんとか持ち上げようとしたキャシーの、僅かに開いた目の端。
確かにそれは映っていた。
あの晩見た映像の逆回しのような、ジョージナの愛しい者の変化──白い蛇が、ゆっくりと人に姿を変えていくところが。