湖へ
ふたりはそっと抜け出し、帰る素振りで警備に扮した騎士に従い、森へ。
まず向かうのは、森の中に一軒だけある家。
かつてはヘーゼルという老婆が住んでおり、今はエディが管理している。
『魔女』と謳われ尊敬されていた物知りな老婆は、森の危険な場所や生息する動植物に詳しく、薬を作ったそう。
エディが語ったような注意事項を述べると、外で控えると騎士は部屋を出る。
小さな家に、老婆が住んでいた形跡は古ぼけた棚と奥にあるこじんまりした書斎のみ。他の家具は最近変えたのか、妙に真新しい。
水場はかまどのある調理場以外一纏めにされており、内扉はそこだけで後は壁とカーテンで仕切られている。
玄関扉を開けてすぐがリビングダイニング、間続きで寝室と書斎らしき部屋。
整えられたテーブルには、軽食とワインが用意してある。
「……キャシー、少し飲むかい?」
ジョージナが来るような気配はなく、用意されているグラスもふたつだけ。
サミュエルはジョージナのことよりも、どうしても目の前のキャシーに意識がいってしまっていた。
きちんとした初夜はまだ迎えていないが、今も寝室は共にしている。
だが視界に入る、タッセルで纏められたカーテンの奥の部屋に置かれたベッドは、王宮のそれより遥かに小さく、今の彼には目の毒で。
質問に小さく首を振る妻のどこか緊張している様に、それが自分と同じモノではないかと感じたサミュエルは小さく嚥下する。
しかし彼女の可憐な唇から発せられた言葉は、サミュエルの浮き立つ気持ちを一気に現実に引き戻した。
「この先に湖があるそうです──ここに来たのは、ジョージナ様が『そこに向かうように』と」
「あ……ああ」
キャシーは地図を開いてそう説明し、ランタンを用意する。
どうやら家は湖までの経路の確認と、戻る際の目印。そしていざという時の避難や、待機の為の場所でしかないようだ。
サミュエルは反省しつつも、自分の心が今どこにあるのかを強く再認識していた。
これでふたりが話し合い、互いに想いを伝えていれば、湖に行く理由はない。
なのに、ふたりとも──サミュエルは一時期ジョージナへ向けた、素直すぎた己の言動への反省と後悔から。キャシーは頑なになっているだけの自分から目を逸らし、半ば義務と化している行動の是正をできないまま──心の内を語ることはなく、湖に向かう。
サミュエルはキャシーの手を取り、自身の腕に添わせた。夜の闇の中、夜光石がふんだんに入ったランタンの青い光が足下を薄く照らす。
季節柄いくぶん草は生い茂っているものの、日中に多少人が入る場所らしく、踏み締められて土は熟れ、小路ができている。
ふたりはそこを無言で進む。
なにを話したらいいかわからず気詰まりなせいか、やけに道が長く感じる。盗み見るように視界に入れたキャシーの顔が不安気で、サミュエルの胸を締め付けた。
自惚れでなければ、キャシーは自分を好ましく思ってくれている。
ずっと傍で寄り添ってくれ、愚かな恋を応援してくれた……ただそれは同時に、一番近くでジョージナのことを想う自分を見ていた、ということでもある。
だからこそサミュエルは、ハッキリとジョージナと決別する必要があると思った。
だがその気持ちの裏を返せば、疑われることなく愛されたいというただの利己に過ぎない。
それに薄々気付いていたのに引けなかったのは、なにも自尊心からだけではない。
これが彼女の思い遣りだとわかっていたからでもあるし、『大切にしたいからそうする』という自分の言を嘘にしない為でもあった。
(ああ、馬鹿だな。 私はどこまでも愚かだ)
けれど今、自分が間違っていたと痛烈に感じる。少なくともこれは、大切な相手にさせたい表情ではない。
「キャシー」
サミュエルは一旦足を止め、立ち塞がるように彼女の前へと出た。
余計なことなど考えずさっさと謝罪撤回し、愛の言葉でも捧げるべきだったのだ。遅くなったがそれに気付いたサミュエルは、今からでもそうしようと思った。
それがどんなに嘘くさくてチープでも、やがて真実に聞こえるよう、惜しみなく──
「でん……」
その時、一陣の風が吹いた。
靄のようなあたりを包む。
ふたりは覚束無い足元に抱き合うかたちで体勢を崩し、目を瞑った。
先に違和感に気付いたのはキャシーの方だった。
少し離れて後ろから護衛騎士が着いてきており、周辺にも目立たないように騎士が配備されている筈……だが彼等の気配は感じられない。代わりに本来配備されてないような位置から、沢山の気配と視線。
支えてくれているサミュエルの身体越しに、今まで見えなかった筈の湖が見える。
それはもう、すぐ傍で。
月明かりに照らされ、軽くさざ波立った湖面がキラキラと光っている。
(なにが、起こっているの……)
体勢を崩した時、咄嗟に掴んだサミュエルの服と腕に力が入る。
サミュエルは位置関係や直前の思考による高揚もあって、まだなにも気付いていない。
不安がっていると感じたのか、キャシーの背中にそっと腕を回し、震える肩を優しく撫でた。
先程とは違う弾むような風に、木の葉がサワサワと歌う。
中に小さく混ざる、クスクスと笑う声。
──パシャン
水の跳ねる音。
月明かりにキラキラ輝く湖面。
その中央で踊っている。
美しい男女。
(──あれは……!)
キャシーは息を飲んだ。




