誘惑
アントニアとの話を終えると、キャシーが待っていた。
「ジョージナ様。 今日は私の家に欲しかった画家の絵が届くのです。 良かったら一緒にご覧になりませんか?」
「ええ……是非御一緒させて頂きますわ」
昔からキャシーは絵が好きで、懇意にしている画商がいるのだそう。
「『画商』とは言っても、絵専門ではなくて商会を営んでいる方なんです。 今までは仲介だったり、私は画材や画集を購入したりしていたのですけれど、将来有望な若手を数人見付けたとかで数年前から本格的な部門を。 そのうちの一人の絵が気に入っていて……」
こちらを慮った様子を見せながらも先程のことには触れず、馬車の中でも熱心に絵のことを語る。それがとても好ましいと思う。
(彼女といると落ち着くわ)
──思いの外、ジョセフィン以外のランサム公爵家の皆も優しい。
基本は公爵領にいるのでそう頻繁に会うわけでもないが、王太子の婚約者候補になったことを喜んだり、逆に家名を穢す心配をするというよりも、ジョージナ自身の心配をしてくれているのがわかった。
その一方。どうしてか、彼等の優しさを疑ってしまう……それはサミュエルへ抱く、不条理な気持ちに似ている。
皆、信じられない。
感覚としては他とはまた少し異なるが、レスリーもそうだ。
誰といても息苦しい中で、不思議とキャシーと過ごす時だけは、自然に息が吸える気がする。彼女にも心の内を語るわけではないけれど、それだけで充分だ。
キャシーの購入した絵は、美しく幻想的な森が描かれた繊細な風景画が大小合わせて十点近く。大きな物でも12号程度の、小品と言っていいサイズ。
飾る場所の指示を待つそれらは、小さな物はテーブルに、大きな物はイーゼル代わりの椅子に立て掛けられてられている。
ジョージナは息を飲んだ。
「うふふ、お気に召しました? 」
「え、ええ。 ……作者の方と、キャシー様はお会いに?」
「残念ながら。 私も一度お会いしたかったのですが、叶いませんでしたの」
なんでも才能があるのに埋もれていただけあって、表に出れない事情があるのだそう。それに目を付けた件の商会主が 『謎の画家』として売り出すのはどうか、と作者達に交渉して成功、事業を拡大したという経緯があるのだとか。
「……先見の明がおありですのね。 その商会主様のお名前を伺っても?」
「ええ、勿論ですわ」
──彼女の名は、イヴリン・マッコイ。
現ケンジット男爵……当時ケンジット侯爵家の令息だった男を元夫に持ち、円満に離縁した後に元夫から引き継いだ商会を大きくした女性経営者。
貴族女性の離縁は勿論、特定の職業以外で女性が働くこともまだまだ珍しいこの国だ。
元夫との円満な関係と協力があったにせよ、経営者として成功を収めた彼女の名は、それなりに有名と言える。
だがジョージナが知っていたのに、そのことは関係がない。
イヴリンは、半年程前に自分を保護してくれた女性。
そしてこの森の絵は、最初にジョージナを見付けた夫婦のいずれかが描いたもの。
おそらくこれは──あの森の絵だ。
(ああ……)
眩暈がしそうだ。
そうジョージナは思った。
──頭に過ぎるのは、先程のアントニアとのこと。
「貴女、本当は王太子妃なんかなりたくないのね?」
「──」
まるで無垢な少女のような愛らしさに、品良く艶めきを醸した微笑みを湛え、彼女はそう言った。
庭園のジャスミンは盛りの時期で、可憐に咲いた小さな白い花々が、華やかな芳香を発している。美しく整えられてはいるものの、パーゴラのアーチに沿って伸びる蔓は野趣に溢れていた。
「……今のアントニア様のお姿は、まるで絵画に描かれた森の女神か精霊のようですわね」
「あら。 煙に巻く気?」
「いいえ、ただの感想ですわ。 ご発言の意図の見えなさも含めて、ですけれど。 アントニア様は先程婚約をご辞退なさった、と。 今私の心持ちをお知りになって、如何されるおつもりなのかしら」
「私が貴女を逃がしてあげる、と言ったら?」
「! 」
思いもよらぬ提案に、流石のジョージナも動揺を隠しきれず瞠目する。それを見てアントニアは可笑しさを堪え切れず、少女のように声を上げて笑った。
「言ったでしょう? もうあの方には失望したと。 隣に未練はないけれど、不愉快極まりないのよね。 考えてみたの、なにが一番素敵な仕返しかしら? ──って」
それは『手に入れられる寸前で、ジョージナに逃げられること』。
答えが案外平和的なモノだったのには少しガッカリしたけれど、アントニアにとってもそう悪くはない。
捨てる男への復讐なんて、わざわざ自分の未来を脅かすような高いリスクと天秤にかけるようなモノではないのだから。
充分リスキーなのでは、と言うとそうでもない──アントニアはそう踏んでいる。
それは今の遣り取りで確信に変わっていた。
「それに貴女、外側だけだわ。 向いてないもの。 それとも一生そうしているつもり?」
彼女の見解は、図らずも国王と同じ。
ジョージナが逃亡し離脱しても、騒ぎになるのはおそらく最初だけ。彼女の加入が許されたことは、そもそもがサミュエルの我儘であり、ジョージナがそれに相応しい令嬢だったにせよ、なにかの功績を挙げたわけではない。代わりはいる。
叩きのめされ、打ちひしがれるのはサミュエルのみに過ぎない。
元々ジョセフィンは反対していたのだ。ランサムには後から上手くフォローすればいい。
「私は構わないのよ。 別に仕返しできなくても」
アントニアは、ジョージナが言い付けるとはまるで考えていない口振り。
尤も、言ったところで誰も相手にしないような話……王太子への不敬であり唆すような言葉だとしても、決定権はジョージナ自身の意思でしかないのだから。
そしてジョージナは話す気などない。
今のランサム公爵家は、ジョージナを駒として扱っていない──疑いつつも、それを感じているのだから、尚更。
揺れているのだ。
それが自分でもわかる。
なんの為に自分はここに立っているのか。
それは今となっては最早、ただ流されただけでしかなかった。
「──ではまた、ジョージナ様」
今までよりも良い反応をするジョージナに満足したのか、アントニアは答えを急がなかった。
微笑みをひとつ向け軽やかに去っていく姿はやはり可憐で美しく、ジョージナは精霊に惑わされたような気持ちで、暫し呆然とそれを見送っていた。