とある酒場
※三話同時投稿です
↑四話ダッタヨ……
──パシャン。
水が跳ねる音がした気がして振り返り、少年は足を止める。
「──よくないね。 もう行くのはおよし」
「でもヘーゼルさん、あそこ良く釣れるんだ! 行かないなんて無理だよ……」
「なら行ったらいいさ。 アンタがたかが数匹の魚で人生を棒に振る気ならね」
にべもなくそう言われ、少年──エディは唇を噛んだ。
まだ幼い彼が出来るのは釣り程度だが、それは確かに生活を支えているのだ。
ヘーゼルは魔女……とか言われるが、本人曰く『ただの少し物知りな年寄り』。どちらが事実かはわからないが、彼女の言うことは大体正しい。
わざわざ声を掛けてくれたことからも、その後に続けた言葉は真実なのだろう。
そう思った。
「──で?」
「行ったよ」
20年後。
幼かったエディ少年は既にいない。
いるのは30手前の、青年というには些かトウが立った男。
食事の匂いと煙草の煙で淀んだ空気と、いつもの喧騒。小さな幾つもの灯が橙色に部屋を照らす。彼の定位置であるカウンター端は薄暗く、それがなんとなく落ち着くので気に入っている。
だがいつもとは違い、落ち着くというよりも浮かれている。然程飲んでもいないが、もう酔ったのかもしれない。
なにしろ普段ありつけない、いい酒だ。
それに──
「当時はちょっと大変でね。 なんせ親父は失踪、お袋は倒れる……で、俺はただのガキだ。 先の見えない未来と今の生活の糧、秤にかけてどうのってのは俺には難しかった」
「そうか。 まあそんな事情なら当然だよ」
「だろ? でも次の一回で止めた。 結局怖くなった、とんだチキンだ」
そう自嘲するも、男はその選択を後悔してはいない。それが本当は自分でした選択ですらなく、ヘーゼルという老婆の言葉に恐怖を煽られただけだったとしても。
『聴こえる筈のない水音が聴こえたなら、それは湖の精霊に気に入られた証拠。 早く逃げないと、魅了されて引き込まれてしまうよ』
このあたりに昔からある御伽噺だ。
最後になった『次の一回』の日の帰り道、釣果にホクホクしながら歩いているとまた、水が跳ねる音を聴いた気がした。
それは受けた言葉への恐怖による幻聴だったのかもしれないが、エディ少年は今度は振り返らずに走った。
釣った魚は入れた魚篭ごと、放り投げるように置いていった。
「それが良かった、と婆さんは言った。 なんでもこの湖に棲むのは魅了して引き込む精霊だけじゃないらしくてね。 結果的に別のナニカの捧げ物になったって言うんだよ。 魅了する精霊より力が強いナニカへの」
『この地の不思議な話を聞いて回っている』、『一杯奢るから、貴方の経験を聞かせてくれないか』とエディが声を掛けられたのは一時間程前。
相手は粗末なローブを深く被っているが、物腰は柔らかく上品。おそらくは高貴な方か、それに連なる方なのだろう。
「俺自身の話はこんなモノさ」と話を締めたが、まだ会話を続けたくて酒をふたつ頼む。
「折角だから俺にもアンタの話を聞かせてくれないか。 普段の安酒で悪いがね」
それは地元のみで製造流通される、どぶろくのようなもの。
確かに安価ではあるが、あくまでもここだからこそ。保存と運搬の問題から、他に出すとなると途端に採算が取れなくなる。逆に言うとここでしか手に入らないし、好みによるが味も悪くはない。
「これはこれでいい。 なかなか野趣がある」
「だろう?」
幸い気に入ってくれたようで、奢られた一杯を軽く飲み干し二杯目を頼んでいる。
「君はなにが聞きたい?」
「そうだな……」
まだこの夜を楽しみたいだけで、特に内容などエディは考えていなかった。
そもそも彼は饒舌な方でもない。
寡黙を気取るつもりもないが、わざわざひとりで呑むのは非日常を求めて。
それが日常の範囲であり、ただの軽い逃避だとしても、ひとり杯を傾けている時だけは誰にも咎められることはない。
話し掛けてきた非日常との会話を楽しむだけの彼に相手の名前は必要ではなく、名を聞かなかったところまでは粋だった。だが、つい引き留めてしまったのは野暮だったかもしれない……と少しだけ後悔するも、すぐ気を取り直す。
「……アンタ、王都から来たんだよな」
「ああ」
多少野暮でも、どうせこちらは田舎男。
大して高くない自尊心を気にして、折角のこの時間を下卑た興味や下心とは取られたくはない。
当たり障りのないことで、それなりに楽しめそうな話題を振ることにした。
「王太子様の婚姻パレードは見たかい?」
そう問うと、少しの沈黙。
「なんだ、見られなくてガッカリしたクチか?」
「……いや、見たよ。 そんなことを聞くのか、と意外に思ってね」
「まあそう言うな、田舎から出ない俺にとっては王都は別の世界だ。 ましてや王子様のパレードなんて、ガキの頃の俺の経験なんかよりよっぽど不思議な話さ」
「ふふ、君の話も充分不思議だったよ。 ただ君の言う通り……」
不自然に言葉を途切れさせたのを、誤魔化すようにグラスに口を付ける。
「パレードで見たおふたりはとても美しかったよ。 それこそ」
『夢でも見てるみたいにね』──続いたこの言葉に、どんな意味が込められているのかなど、ただの田舎の男であるエディにはわかる筈もない。
それに彼は彼で、今そんな気分でいる。
曲がったカウンター端、ひとつだけの席。
斜め前に座る相手の話を聞きながら、粗末なローブから覗く、長い睫毛が朧気な影を作る様に見惚れて。