繭玉
「ねえねえ、知ってる? 最近人気のマッサージ店の話!」
「あー、それってあれでしょ、『コクーン』ってお店」
「そうそう! すっごくいいんだってねえ。女性人気が高いって、予約が滅多に取れないらしいよ?」
それなりに広さのある更衣室の中で、おしゃべりに興じる女性たちの声が響く。
少し離れたところで水着に着替えていた荻野麻友は髪を結いながらなんとはなしに聞こえてくるその会話に、思わず手を止めていた。
「あたしの会社の別部署でさあ、恋人に浮気されて落ち込んでた子がいたんだけどその子がコクーンに行った翌日からもう雰囲気変わったんだってー!」
「えー? なにそれ」
「詳しくはわかんないんだけどさあ、その人すっごく真面目ちゃんって感じで感じいい人らしいんだけど……こう、なんていうの? 色気が出たっていうか……それで浮気男が縒りを戻してくれって騒いで大変だったんだってさ」
「やだー、ドラマじゃん!」
「でもあたしもチラッとだけ見たんだけどさ、確かに別人だった。ただのマッサージじゃないのかなー」
「ええー別人級に美人になれるんだったらあたしも通っちゃおうかな!」
「まず予約取れないけどね!」
「それね!」
キャハハと笑いながら出て行った女性たちの足音が遠離るのを確認して、麻友も外に出る。
と言っても彼女たちは私服に着替え去って行くのに対し、麻友はプールにだったけれども。
しっかりとストレッチをして、プールに入る。
体が一気に冷えるのを感じてそうっと彼女は息を吐き出した。
(……コクーン)
麻友も噂で聞いたことがあるマッサージ店だ。
いかがわしい店ではなく、単純にリラクゼーションサロンらしいのだが……完全予約制だというそこに通った女性が以前このジムにいたことがあるので、実在するのは確かだ。
その当時、その人は噂の渦中にあった。
麻友も彼女とはよく会話をしていた。とても穏やかで感じのいい女性だった。
時間帯はまちまちで、麻友とは違う時間帯にも友人ができたと笑っていた人だった。
しかし、その友人が彼女の夫を寝取った――……という話が出て以降、彼女は日に日にやつれていったのだ。
会話をする仲だったとはいえ、ジムのプールで時折顔を合わせる程度の麻友は、詳しく噂について聞けるはずもなく。
体調が悪そうだと心配する言葉を投げかける程度しか、結局できなかったことを覚えている。
やつれきった彼女に『大丈夫だ』と言われてから一週間だか、二週間だか間を空けて再会した時、彼女は様変わりしていた。
初めて会った頃のように肌艶よく、それでいて……何かが違った。
同性である麻友の目から見ても、輝くような魅力に満ちているような……そんな、何かだった。
そう、それはまるでサナギから羽化した蝶のように。
『わたしね、変えてもらったの。人生が今はとっても輝いて見えるわ!』
そんな風に笑って去った彼女の姿を、麻友はどことなく恐ろしいものを見たような気持ちで見送った。
去り際に、一枚のカードを手渡された。
コクーン
白いカードに緑の文字で刻まれただけのシンプルなそれには、電話番号があるのみ。
何故彼女がそれを麻友に渡したのか、麻友にはわからない。
ただあの時はそれがなんだか不気味で、カードケースの奥にしまい込んだままつい忘れていた。
思い出したきっかけは勿論、先程の女性たちの会話だ。
けれど興味を引いたのは……綺麗になるという点。
男がよりを戻したくなるほどの魅力が、そしてそれを振り払えるほどの心境の変化をもたらす何かが、今の麻友には喉から手が出るほど欲しかったものだったから。
麻友は、それなりに利益を叩き出す広告代理店に勤めていた。
必死に食らいつき、先輩方とクライアントから信頼を得るまでに何年もかかったが、それでも自分の努力を彼女は内心誇りに思っていた。
ところが、だ。
なんてことはない躓きが、麻友を襲う。
学生時代から付き合っていた恋人が、関係企業に入った。営業としてやってきた。
別にそれはいい。
公私混同はしないが、それでも会えることは麻友にとって嬉しい出来事だった。
だが、中途採用が入ってから変わった。
麻友の後輩となった人間は四人。人手不足の解消になると喜んだのも束の間だった。
不思議なことに麻友の功績は後輩の一人にスライドするかの如く奪われ、恋人に悔しさを訴えれば『可愛さが足りないからじゃないのか』なんて冷たいことを言われ、気づけば会社でも孤立していた。
挙げ句に恋人が、好きな人ができたと言ってきた。
相手は、その後輩だったのだ。
無心になってプールで泳ぐ。
何も考えたくなかったし、頭を冷やしたかった。
週末は彼と一緒に過ごそう、そう思って楽しみにしていた自分がバカみたいで……プールに入ってさえいれば涙を流そうが誰も気づくまいと思ってここに来たのだ。
(コクーン)
けれど、頭の中を占めるのはそれだ。
もし、もしも……もしも本当に、美しくなって見返せるなら。
あの可愛らしい後輩よりも美しくなって、みんなの視線を集めることができたら。
自分を捨てた男が、後悔していると足下に縋り付いてきたなら。
そしてそれらを振り払うことができたら。
どれだけ爽快だろうか!
(……バカね、妄想も甚だしいわ)
体力配分も何も考えず、がむしゃらに泳いだせいか体中が疲れた気がする。
麻友はプールから上がって時計を見上げた。
思っていたよりも経過していた時間を見て、ロッカーへと向かう足取りは酷く重い。
他にも利用客がいたが、ロッカールームはしんとしていた。
適当にシャワーを浴びた麻友は手早く着替え、濡れた髪をクリップでひとまとめにする。
特に意味もなく、つい習慣的にスマホを手に取って開くと同僚からのメールで、クライアントのメールアドレスを間違えて登録していたようだから連絡先を教えてくれないかというものだった。
どうやら急ぎのものだと判断して、麻友もスマホのアドレス帳を開いてみるが見当たらない。
登録のし忘れなどないはずだが、おかしなことだと思いつつも麻友は普段から持ち歩いているカードケースを取り出して目的のものを探した。
「あった」
見つけて思わずホッとする。同僚にそれを送って、カードケースを再び鞄に戻そうとした瞬間ひらりと落ちる一枚のカード。
「あ……」
目に飛び込むのは『コクーン』の文字。
彼女は変えてもらったと言った。
しまい込んで忘れていたものに縋るなんて、おかしな話だと思いつつも麻友は震える手でそれを拾い上げ、記載されている電話番号にかけてみる。
予約で一杯。取れなければそれはそれで、諦めがつく。
どこかで言い訳をしながら、ワンコール、ツーコール。
『はい』
「あっ、あの……!」
『ご予約ですか?』
スリーコール目で繋がった電話は、どこの誰と名乗るでもなく静かに麻友に問いかけた。
気づけば麻友は「はい」と答えていた。
予約で一杯だというそこは、不思議と麻友を待っていたかのように予約を受け付ける。
『それでは荻野麻友様、この後すぐのご予約でお待ちしております』
「はい……」
電話の声は、淡々としていた。
それなのに麻友の脳裏には、姿もわからないその電話の向こうの人物が笑っているような気がした。
時刻はもう夜の十時を過ぎている。
麻友が通うこのジムも遅くても夜は十一時までで帰宅を推奨しているし、一般のリラクゼーションサロンがどうかは知らないが、それでもおかしいと麻友の頭の中で警鐘が鳴り響く。
それなのに、電話の声が頭から離れない。
(行かなくちゃ……予約、できちゃった、し)
ふらりとした足取りで、店へと向かう。
麻友自身、よくわからないままだ。ただ行かなくてはという気持ちに駆られて歩むのだ。
店の場所など案内されていないし、彼女もまた知らない。
それなのに足はそれを知っていると言わんばかりに勝手に動く。
どこかで怖いと叫ぶ自分がいるのに、それすらもうよくわからない。
「おまちしておりました」
ふらりふらりと、ジムからどう歩いたのかも定かではない彼女の前に、一人の男が現れた。
白い髪に白い肌。なんとも不健康そうなその男の顔かたちはマスクでわからないが、それでも整っているように見えた。
ぼんやりとしたまま、差し出された手に手を重ねる。
「荻野麻友様。おまちしておりました。――……ええ、ええ、待っておりましたとも」
あの夜を境に、麻友は変わった。
自信を持って前を向き、後輩に対してもなんの気持ちも持たずに接することもできた。
どこか怯えた表情を向けられることは納得できないが、麻友にとってもうそんなことは些事だった。
「麻友!」
「あら……久しぶり。元気だった? あの子はまだ仕事が残っているみたいだからもうちょっと待っていてあげてね。最近大きな仕事を任せてもらったらしくて――」
「そ、そうか。あの、今ちょっと話せないか?」
呼び止められて振り向いた先には、自分を捨てた男の姿。
あれほど胸を痛めた相手だが、今の麻友にはなんの感情も与えない。
そのことを不思議に思いながら麻友は首を左右に振った。
「ごめんなさい。私行くところがあって」
「ジムか?」
「ジム? ああ、最近退会したの」
コクーンに足を向けたあの日の翌日すぐに麻友はジムを辞めた。
元々健康とスタイル維持のためにと始めた運動だったが、辞めても麻友の艶やかな黒髪もスタイルも、むしろ以前よりもより良くなっている。
元恋人もそんな彼女のことを見て、ごくりと喉を鳴らした。
男の欲を孕んだ眼差しに気づいた麻友は、その様子をジッと見てからふふっと笑う。
それは長い付き合いのある男ですら見たことのない、蠱惑的な笑みだった。
「私ね、変わったのよ。だから前みたいにはいられないの。遠くに飛ぶことはできないけれど……」
「……麻友?」
「私ね、どろどろに溶けて変わったのよ。あなたの知る麻友はもういないの。そうだ、これあげる」
「……なんだよ、これ」
「繭玉よ。蚕の繭。絹が採れるって昔教わったでしょ? 私が変わった記念にあげる」
男の手に握らされたのは、小さな繭玉だ。
中身は入っていないのか綺麗なころりとした丸いままだ。
「知ってる? サナギの中で溶けて、それから形を作り直すの。ふふっ、変わっちゃうのよ」
「何を……」
目の前にいるのは、男もよく知る荻野麻友という一人の人間だ。
それなのに、まるで知らない人間を相手にしているようで男の背筋がゾッと冷えた。
けれど目を離せないほどその姿は蠱惑的で、黒髪が街灯に照らされてキラキラして見えた。
「それじゃあね」
振り返らずに颯爽と去って行く女を、男はもう呼び止められない。
呆然とする男の手から、繭玉が落ちた。あっと思った時には、風に吹かれて転がっていく。
追いかけようかとも思ったが、男が足を向けたその瞬間に新しい恋人が建物から出てきたのを見てため息を吐いた。
麻友と別れて若い女と付き合ったはいいものの、どんどん落ち目にあっている気がする。
だからよりを戻したかったのに――しかもイイオンナになっていたから。
(でも、変わっちまった。……変わっちまっただけ、だよな?)
そんな男の心の声などつゆ知らず、麻友は脇目も振らず目指していた。
コクーン。
彼女が生まれ変わった場所。
「いらっしゃい」
「ただいま」
蚕は飛べない。成虫になってからは餌を食べることなく、卵を産んで死んでいくだけ。
そう作られた。作った。
絹という美しいものを生み出す代償。
人も同じだった。
この繭の中で変わるのだ。
中身そのものを代償に、美しいモノへと姿を変えるのだ。
まるで羽化するかのように。
飛べなくてもいい。
人の身を得た彼ら、あるいは彼女らは、そうして増えていくのだ。
「おや、繭はどこにやったんです?」
「あげたのよ、彼女が一番最後に想った相手に」
「そうですか」
小さな繭に入っていたのは、誰だったのか。
この店という繭の中で、誰がすり替わったのか。
遠くに飛べなくとも羽ばたいたモノたちがどこに行ったのか、どこにいるのか。
繭の中に溶けていった想いは、羽ばたいたのか。
「おや、電話だ」
今日も繭玉の中で、サナギは羽化する夢を見る。