囚われの王女と名もなき騎士
「貴方の名前は?」
椅子に座ったまま首だけ傾けて、少女がそう声をかけると、床に片膝をついている男は首を振った。
「私に名はありません。お好きなようにお呼びください」
曖昧な答えに少女の顔には困惑の色が浮かんだが、少女が育ってきた環境も特殊であるため、目を伏せた少女はそういうものかと納得した。
「わかりました。では、騎士さんと呼びましょう。私のことも好きなように呼んでください」
「いいえ、そのようなことは許されておりません。短い間になるかと思いますが、ガブリエラ様、どうぞよろしくお願いします」
ガブリエラと呼ばれた少女は、返事をすることなく、感情のない目で男を見た後、目線を窓の方へ向けた。
少女の後ろ姿を、男は無言で見つめていた。その漆黒の目にもまた感情と呼べるものはなく、ただ少女の形がそのまま映っていた。
「……もう、いいかしら? 少し疲れてしまったから、横になりたいの」
「これは、失礼しました。では、私はこれで。何かありましたらお呼びください」
背中に視線を感じたが、男が立ち上がり部屋を出て行った音が聞こえて、ガブリエラは小さく息を吐いた。
「どこへ行っても同じ……。籠の鳥のような生活。四角い窓からではなく、この目で広い空を見ることができるのはいつになるのかしら……」
そんな日は来ないかもしれない。
そう思いながら、ガブリエラは先ほど挨拶に来た騎士の顔を思い出していた。
この国に来て、まともに目を合わせて会話をした初めての人かもしれない。
自国でも城勤めの騎士達を目にすることはあった。
あの騎士は、わずかな記憶の中の人達よりも立派な体躯で、黒々とした髪に、黒い瞳は研ぎ澄まされた剣のように光っていて、冷たくて鋭い目が印象的だった。
短い間と聞いたが、なぜかあの騎士との関係は長く続くような気がして、ガブリエラは彼が出て行ったドアを眺めた。
不思議な縁を感じたように思えて、一人になっても、しばらく騎士のことを考えてしまった。
それは騎士も同じだった
部屋を去った後も、王女とは思えぬほどげっそりと痩せ細った手足に、暗闇に沈んでいるような目をしていたガブリエラのことが頭に残っていた。
まるで罪人のような扱い。
幼い少女が置かれた環境はあまりにも過酷に思えだが、騎士は自分のことではないのだからと思い直した。
彼にとって皇帝への忠誠こそが自分の全てで、それ以外のことに欠片も心を留めてはいけなかった。
お互いあまり良い印象ではないが、妙に心に引っかかるものを感じていた。
この時、ガブリエラは十歳、騎士は叙勲を受けたばかりで十六歳。
これが、王女と名前のない騎士との最初の出会いだった。
◇◇◇
ガブリエラ・フォンタニア。
フォンタニア王国、王フェリシバ五世の王女。
上に王太子である兄のノーベル、アナスタシアとカトリーネという二人の姉がいて、ガブリエラは第三王女という立場であった。
兄と姉二人は正妃である王妃から生まれたが、ガブリエラの母は側妃だった。
母は貴族であったが身分が低かった。
王の寵愛を受けてガブリエラを授かったが、出産時に呼吸が止まり、不幸にもそのまま他界してしまった。
ガブリエラは無事生まれることができたが、死を招いた子として、王からは不吉な存在として忌み嫌われてしまった。
そんな危うい立場の王女の味方になる者などおらず、ガブリエラは物心ついた頃から粗末な部屋を与えられて、そこに閉じ込められた。
王族として最低限の教育は受けたが、部屋から外出することすら許されず、忘れられた存在として、ただ生かされてきた。
兄や姉達とは、顔を合わせたことも数えるほどしかなく、その時も会話はおろか目を合わせてもくれなかった。
そしてガブリエラが十歳になった日、ついにフォンタニア王国の王女としての行き先が決められた。
大陸に名を轟かせる大国、ゴルゴン帝国に和平のための人質として差し出されることになった。
王国を去る前夜、国王である父親に呼ばれたガブリエラは、しっかり務めを果たすようにと言い渡された。
ガブリエラは、光栄でございますと言って頭を下げた。
そう言えと言われていたものを、そのまま口にしただけだった。
野心家の王は和平など形だけのものとして、いつの日か必ず帝国に噛み付くことになるだろう。
誰もが影でそう囁いていた。
自分は政治の駒、おそらくもう二度と父に会うことはない。
ガブリエラはそう感じながら、王国を出ることになった。
こうして帝国に連れてこられたが、皇帝は小国の王女であるガブリエラに興味はなく、顔すら見ることもなかった。
大人しくさせておけと命じて、ただのフォンタニアからの人質として、城にある塔に幽閉した。
結局場所が変わっただけで、ガブリエラの生活はほとんど変わらなかった。
部屋を訪れるのは、身の回りの世話のために、自国から一緒に来たひとりの侍女と、監視と報告を兼ねて、週に一度、帝国の騎士がやってくるだけだった。
その騎士の男は、幼い頃の戦争で両親を目の前で亡くし孤児となり、孤児院で育った。
そこは劣悪な環境で、とても子供がまともに生きていけるような場所ではなかった。
国からの補助金は全て院長が懐に入れてしまい、衣食住の世話をする者もなく、狭い部屋で寝起きして、物乞いや盗みをして食い繋いでいくという生活だった。
同じように生きていた子供達は次々と死んでいき、ある日男はついに孤児院から逃げ出した。
逃げる途中、男は帝国の兵士募集の話を聞いて、帝都に向かう荷馬車に乗り込んだ。
当時は度重なる戦で、兵士の募集はどこでも行われていた。使い捨て同然の兵士の身元調査など行われるはずもなく、帝都に着くと男はすぐに平民の少年兵として仕事を与えられた。
一年中、戦場で大所帯での暮らしだったが、そこで読み書きと剣を覚えた。
他の大多数の兵士と同じように、皇帝に仕え、皇帝のために国を守るようにと、たっぷりと忠誠心を植え付けられながら育った。
年月が経ち、剣の腕が上がるとともに、めきめきと頭角を現して、敵の少隊長を次々と倒していった。
一つずつ功績が認められる度に、男の忠誠心は硬い石のようになった。
ただのボロ切れのように生きていた生活とは違い、自分は必要とされているのだと思うと、ますます皇帝のために剣となり、必要とあれば駒として散ろうと考えるようになった。
男の功績は認められて、十六歳になった時、最年少で平民騎士の位を受ける。
これは一般の兵士達の士気を高めるため、見せ物として選ばれたようなものであったが、男は歓喜し、ますます忠誠心を高めることになった。
そんな騎士になった男が初めて受けた命令が、フォンタニア王国の人質である王女の連絡係だった。
幽閉されている王女の様子を監視し、体調管理まで任せるという任務だった。
騎士は落胆した。
戦場で皇帝のために、国を守り散るのが役割だと思っていたのだが、それがなぜ敵国の王女の世話などをしなければいけないのかと、最初は苦い気持ちしかなかった。
しかもすぐに終わると思われた連絡係りの任務は一年、また一年と続いた。
騎士は所詮平民上がりで、騎士の世界では実力があっても全く認められることはなかった。
いつしか花が咲き、花が落ちて。
冬が来て春が来て。
十二年の歳月が流れていた。
「おう、マノン。これから、王女さんのところか?」
皇宮内の騎士団宿舎の横を歩いていた騎士に、ひとりの男が声をかけた。
騎士はマントを翻しながら振り返った。
精悍な顔つきに鍛え抜かれた体に成長し、今や同じ隊の中で騎士に敵う者はいなかった。
おそらく平民騎士団の格上である皇宮騎士団の中でも、その腕は通用すると言われているが、平民騎士とわざわざ剣を合わせてくれるような連中ではない。
騎士はいつまで経っても、ただの平民騎士という立場でいっこうに出世することはなかった。
しかし、すらりと背が高く端正な顔立ちの騎士はどこにいても目立った。
街を歩けば女性達は頬を染めて、高い家門の令嬢からも熱い視線を浴びていた。
「……ロベルトか。よく分かったな」
「そりゃ、そんなに何冊も本を抱えて歩いていたら、すぐに分かるさ」
「…………」
ロベルトは同期で、同じ年に位を受けたが、年齢的には騎士より十は上だった。
明るい性格で誰とでも上手くやれる男で、騎士とは正反対の性格だったが、無愛想な騎士が唯一まともに会話をする相手だった。
それは、戦場で敵に囲まれた時に、二人で助け合って切り抜けた経験があってのことだった。
だからこそ、他の相手なら凍りつきそうな目線を送る話題でも、ロベルト相手であれば、騎士は不機嫌そうにではあるがそれなりに対応した。
「ラング子爵家の令嬢から求婚されているらしいじゃないか! さっさと跪いてキスをしろ。本物の貴族騎士になれば、そんな面倒なことやらなくてすむんだぞ」
「………結婚するつもりはない。俺は皇帝のためにいつ死ぬか分からない身だ」
「そりゃ……俺だって同じ立場だけど、結婚はいいものだぞ。子供も可愛いし」
「必要ない」
騎士は自分にも他人にも厳しい男で、一切笑うことなく淡々と職務に当たる姿から、氷の騎士とあだ名されていた。
男から見ても魅力的ではあるのだが、いかんせん愛想が悪いので、友人と呼べる人はおらず、ロベルトとの関係も一方的にロベルトが懐いているだけであった。
冷たいと称されても、どこか危うげな魅力のある騎士は、どこへ行っても女性の視線を集めるので、同僚からはますます反感を買っていた。
愛想がないのはいつもと変わらないのだが、どこか遠くを見つめるような目をしている騎士を見て、ロベルトは胸に何か引っかかったような気持ちになった。
「マノン、お前さ……。あまり王女さんには深入りするなよ。……情を移すなってことだよ。意味は分かるよな?」
「……何を言っているのか分からないな。俺が忠誠を誓ったのは皇帝だけだ。その誓いを破るのは死と同じだ」
「……そうか。俺はお前に辛くなって欲しくないだけだ。もしもの時は……いや、なんでもない」
ロベルトは苦笑して頭を振った後、宿舎の中へ戻って行った。
騎士はその後ろ姿を見ながら、小さくため息をついた。
コツコツコツ。
石の床を叩く、硬質な靴の音が聞こえてきたら、ガブリエラは本を読む手を止めて顔を上げた。
鉄で頑丈に作られたドアの鍵がガシャンと開けられる音がして、ドアは重く軋んだ音を立てながら開かれた。
「騎士さん、ごきげんよう。今日はよく晴れているわね。窓から見える空がいつもより青く見えるわ」
「はい、朝からよく晴れています。空が青いのは夏が近いからでしょう」
ガブリエラが思った通り、ドアから入ってきたのは騎士だった。
この塔に幽閉されてから十二年、まだ幼い子供だったガブリエラはすっかり大人の女性に成長し、金色の髪は長く伸びて、榛色の瞳も輝くように美しくなった。
まだ若き青年だった騎士も、立派な大人の男になっていた。
何度目の夏だろうと、時の流れを感じながら、ガブリエラは騎士を見て微笑んだ。
「まぁ、頼んでいた本ね。こんなにたくさん、マドックスの新刊もあるじゃない。嬉しいわっ、今日は寝ないで読んでしまいそう」
「睡眠はきちんと取ってください。昨日と今日の朝食を抜かれたと聞きました。ちゃんと食事も取っていただかないと……」
騎士は抱えていた本を机の上に載せた後、不摂生な発言をしたガブリエラを腕を組んで見下ろした。
「わ……分かっています。でも、この中にいると、階段の上り下りくらいで……食べてばかりだと、ふっ……太ってしまうから……」
「肉……ですか? そのように細い体で何を仰っているのですか。もっと食べていただかないと、健康とは言えません」
騎士が自分の体を見ているのだと思ったガブリエラは一気に頬が熱くなってしまった。
慌てて椅子にかかっていた膝掛けを持ち上げて、腹回りを隠すようにしたが、騎士はそんなガブリエラのことなど全く気が付かずに、いつも通りベッドを整えたり、手紙の確認などを始めてしまった。
侍女からは綺麗だと言われたし、本の中に出てくる絵の令嬢達のように、胸も膨らんで女性らしい体つきになったと思うのだが、やはり自分は魅力的ではないのだとガブリエラ悲しくなった。
十二年経っても、この男の表情を少しも崩すことができない。
自分ひとり赤くなったり青くなったりして、何をしているのだろうとガブリエラは頭の中でため息をついた。
初めて会った時は、無愛想で冷たい人だという印象しかなかった。
しかし、毎週のように顔を合わせて会話をするようになると、ガブリエラはその時間が楽しみになった。
ガブリエラが接触する唯一の異性でもあり、端正で男らしい顔立ちに心が惹かれてしまった。
ただの騎士に対する気持ちが、違うものとして大きくなるまで時間はかからなかったが、それがより確実なものになったのはあることに気がついたからだ。
「次に用意する本はこのリストのものでいいですね。手に入らない可能性もありますので……」
「ええ、もちろん。かまいません」
この生活でほとんどの自由はないが、唯一、本を持ち込むことは許された。
毎週、読みたい本を紙に書いて騎士に渡していた。
騎士は毎回用意できないかもと言うが、一度だってできなかったことはない。
ガブリエラは一度だけ、いじわるをして、他の本に入手困難と書かれていた本を頼んでみたことがあった。
ついにダメでしたと言われるかと思っていたのに、翌週騎士は平然とした顔でその本を差し出してきた。
どんな手を使ったのか分からないが、苦労して探し出してきてくれたはずだ。
それなのに、何一つ文句を言わない騎士に、ガブリエラは一気に心を奪われてしまった。
「必要なものはこれだけですね。食事のチェックは続けますので、ちゃんと召し上がってください。それと、明日は午前中に医師の診察がありますので、用意してください」
「ええ、分かったわ。朝は鳥の声がよく聞こえるから、すぐに目を覚ますの。寝坊することなんてないから大丈夫よ」
「ああ、アカ鳥が巣を作ったんですね」
「そうなの、今年はそこの窓枠の上に巣があるみたいなの。小鳥の声がたくさん聞こえて、親鳥は餌を運ぶのに大忙し……でも、この角度からだとよく見えなくて、どんな姿をしているのか。見られないのが残念」
ガブリエラが悲しげに笑うと、騎士は無言でその様子を見ていた。
やはり、表情は変わることなく、読み終わった本を整理して、またきますと言って部屋を出て行った。
騎士の姿が消えると、また静かで何もない日常に戻ってしまった。
塔の中には机と椅子とベッドしか置かれていない。
ガブリエラは、心を寄せる騎士に会う時も、着古して汚れが染み込んでしまった簡素なドレスしか身につけることができない自分が恥ずかしくなった。
「……好きに、なってくれるはずがないわ。私は敵国の王女であるし、こんなに薄汚くて……少しも可愛くない……これじゃ好きになんて……」
鳥の姿だけではない。
ガブリエラは鏡を見て自分の姿を確認することもできなかった。
悲しい気持ちで胸が痛くなり、本を読んで気を紛らわそうと、ガブリエラは騎士が持ってきてくれた本を手に取った。
その時、本の中からハラリと何かが出てきて床に落ちた。
「あら……これは、押し花ね」
押し花は貴族の令嬢の間で流行っているらしく、花を書物の間などに挟んで乾燥させて作ると聞いていた。
額に入れて飾ったり、栞にしたりすることもあると聞いたが、ガブリエラが手に取ったのはまさに栞のようだった。
「もしかして……これ……」
ガブリエラはその栞についている青い花を見て息を呑んだ。
そういえば前に読んだ本に、ネモフの花畑という言葉が出てきたことがあり、騎士にどんな花なのか見てみたいと言ったことがあった。
「青くて小ぶりな鈴のような花、ネモフの花畑はまるで海のように揺れて美しい……その青を見た者はみんな目を奪われて……」
ガブリエラは何度も読んだので、本の内容をすっかり覚えていた。
栞になっている花は確かに小さい花だった。
しかし小さくとも目の覚めるような青色は美しかった。花がたくさん集まったところを想像して、ガブリエラは口元に手を当てた。
「見える……ネモフの花畑。見えるわ」
騎士はガブリエラが言った言葉を覚えていて、栞にして持ってきてくれたのだ。
花畑を見せることはできないけれど、せめて一本だけでもという騎士の想いが伝わってきて、ガブリエラはポロリと涙をこぼした。
「もう……好きになるしか……ないじゃない」
ガブリエラは騎士のさりげない優しさに気がついてしまった。
騎士は出会った時からずっと、冷たい目をしていて、表情が変わることはない。
けれどこんな風に、時々胸をくすぐるような優しさを見せてくる。
それに気がついてからは、ガブリエラはますます騎士のことが好きになってしまった。
ガブリエラは騎士がくれた栞を胸に抱きしめた。
ガブリエラは痛いほど分かっていた。
騎士と自分はどこまで進んでも、一本の線で、決して交わることのない相手である。
騎士がガブリエラの気持ちに気がついて、想いに応えてくれたとしても、待っているのは悲惨な運命だ。
敵国の王女に惑わされて、職務を放棄した騎士。
任務を外されるだけではすまない、騎士としての将来をつぶすことになってしまう。
押し花に騎士の温もりを感じたガブリエラは、優し包み込むように抱きしめた。
まるで騎士を抱きしめているかのように、しばらくそのまま離さなかった。
不穏な動きは、風と共に帝国に流れてきた。
「どうやら、ミタニア国が怪しい動きを見せているらしい。国境付近で小競り合いが始まったようだ」
「このままいくと戦になるな」
食堂でスープを飲んでいた騎士は、何やら物騒な情報が聞こえてきて、近くに座った貴族騎士達の話に耳を傾けた。
「ミタニアといえば水軍の戦力はあるが、陸の方は弱いだろう。もしかして援軍を頼むかもしれないぞ、確かフォンタニアの王妃の出身国のはずだ。もしフォンタニアが援軍を出したら……」
騎士はスープを口に運んでいた手を止めた。指の力が抜けて、スルリと落ちたスプーンが机の上を転がった。
フォンタニアが援軍を出したら、それは帝国に対する裏切り行為。
そうなった時、ガブリエラはどうなるのか……。
騎士は皇帝の忠実な僕だ。
叙勲の時は別の王族が行ったので、直接皇帝には会ったこともなければ、まともに顔を見たこともない。
それでも、熱く燃え滾る忠誠心を持ち、今まで皇帝のために命を捧げる覚悟で生きてきた。
それは生まれて初めて自分が必要とされた場所であると感じていたからだった。
それは一生変わらず、このまま自分の胸の中で燃え続けて、消えることがないと思って生きてきた。
今でも、それはそのまま変わらない気持ちであることは間違いないが、胸が騒いで締め付けられるように苦しいのだ。
騎士はこの苦しさは恐怖からくるものではないかと考えた。
恐怖を感じたら、その原因を考えて、徹底的に消し去ること。
今まで学んできた騎士道の精神から、必死に頭を働かせたが、恐怖の正体は雲のように掴めず、胸騒ぎはいつまで経っても治らなかった。
夢を見ていた。
もしかしたら籠の中の鳥であっても、このままいつか扉が開かれて青空に飛んで行ける日がくるのではないかと……。
ガブリエラは自分の運命に、身を切り裂かれるような気持ちになって両腕を抱いて震えた。
「アン、それは……間違いないの?」
「ええ……、洗濯場でメイド達が話しているのを聞きました。使用人までとなると、みんな知っている話だと思います」
「そう……ついに……来てしまったのね」
フォンタニアから一緒に付いてきたのは、アンという名前の、もともとガブリエラの侍女をしていた者で、帝国に入ってからもずっと身の回りの世話をしてくれた。
ガブリエラにとって、今まで一緒になって苦楽を共にした友人のような存在で、アンには心を許してなんでも話していた。
「まっ……まだ、分かりません! 戦争は始まっていませんし、フォンタニアが動くなんて……そんなこと!」
「そうね、まだ……分からないわね」
半泣きになっているアンに向かって、ガブリエラは安心させるように微笑んだ。
口ではそう言いながらも、ガブリエラには近い未来が手に取るように分かっていた。
野心家の父親がこの機会を逃すはずがない。
ミタニアを焚きつけて、戦いの火を上げようとするはずだ。
勢いに乗じて、自国の存在感を出して、ゆくゆくは帝国の領土を手に入れようと目論んでいる可能性がある。
ガブリエラが帝国に来た時は、目一杯着飾った格好をさせられた。
こんなに目をかけて大切にしている王女を、人質に送るのだからと印象付けさせるために。
父親にとって、ガブリエラは駒に過ぎない。
そして忌まわしき厄介者など、万が一何かあっても少しも惜しくないのだろう。
父は動くはずだ。
ガブリエラは確信していた。
ガブリエラの思った通り、ミタニアが帝国領土に侵攻して、戦争は始まった。
まずは得意の水軍を利用して、島を次々と奪っていき、まもなく陸地戦が始まるだろうと言われていた。
フォンタニアに動きはなく、一見すると静観しているかのようにも思われた。
ガブリエラはほとんど食事を取ることができなくなった。
そして、ガブリエラの元を訪れる騎士も、いつもと変わらない無表情ではあるが、どことなく悲しげに見えた。
「本は……よろしいのですか?」
「ええ、もう十分すぎるくらい読んでしまったから、少し休みたいの」
そう言ってガブリエラは騎士の方は見ずに、ずっと窓から外を眺めた。
騎士の姿を見たら胸がいっぱいになって泣いてしまいそうだったからだ。
毎回渡してきた次に読みたい本リストは真っ白な紙だけで、何も書かれていなかった。
ガブリエラが希望を書いても、この混乱で今度こそ用意できなくなってしまうかもしれない。
騎士に悔しい思いをしてほしくなかった。
二人の思い出である本のやり取りは、楽しい記憶のままにしたかった。
「今朝は起きられなかった……鳥の声が聞こえなくなったの」
「小鳥達が、巣立ってしまったのでしょう」
「それは……良かった」
窓枠に手を置いて、ガブリエラはすでに鳥が飛んで行った後の空を見上げた。
小鳥達がずっとずっと遠くの空に向かって元気よく飛んでいく姿を想像して、自分に重ね合わせて切ない気持ちになった。
「これを……」
窓の外を眺めていたガブリエラの膝の上に、一枚の紙が載せられた。
何かと思いながら手に取って、折り畳まれた紙を開いたガブリエラは、一瞬言葉を失ってしまった。
「これは……鳥、かしら……?」
紙には絵が描かれていたが、丸が二つ並んで手足と思われる棒と、目と思われる点がそれらしい位置に描かれていたが、なんと表現していいか分からなかった。
「ゴホッ……申し訳ございません、その……私が描きました……図鑑には見つからなくて、見ながら……直接紙に……」
「もしかして、これがアカ鳥かしら? 私が見たいって言ったから? それを……騎士さんが!?」
いつも無表情な騎士が珍しく耳で赤くして恥ずかしそうに顔を下にしていた。
「ふっ……ふ、ふふふっ、はっはははっ、可愛い……、とっても可愛い」
「笑っていただけて良かったです。ひどいと言われるのを覚悟できました」
可愛いのは鳥の絵もそうであるし、騎士のことでもあった。こんな可愛い鳥を書いてくれたなんて嬉しくて、ありがとうと言って笑顔を見せた。
「次はもっと上達してきますので……」
「ええ、嬉しい。楽しみにしているわ」
騎士を笑顔で送り出したガブリエラは、ドアが閉まった後、その場に崩れ落ちた。
なんとか我慢した。
必死で笑顔を作って、おかしくて大笑いしたのだと、そう思ってもらえるように演技をした。
でも本当は胸が張り裂けそうなくらいになって、感情が堪えきれなかった。
ドアに背をもたれたまま、ガブリエラは嗚咽を漏らして泣き続けた。
騎士の優しさが嬉しくて嬉しくて、悲しかった。
王女を幽閉している塔から出た騎士は、立ち止まって塔を見上げた。
下手な絵など描いて、自分は何をしているのだろうかと頭に手を置いた。
外の事情は話してはいないが、侍女からは母国に関しての噂は聞いているだろうと思われた。
息が詰まりそうなこの状況で、少しでも明るい気持ちになってほしい。
十二年の時を過ごすうちに、騎士はいつしか王女に対してそう考えるようになった。
だから王女が見たり触れたりできないものに興味を示したら、なるべく叶えてあげるようにしてきた。
今回も同じだった。
アカ鳥の姿が見たいという王女のために、騎士は初めて絵を描いて持っていった。
ただ状況は今までとは違う。
母国は岐路に立たされていて、王女の立場は危う過ぎるものとなっている。
こんな時に絵など持ち込んで、自分は何をしているのだろうと頭が痛くなった。
ただいつものように笑ってほしい。
他の誰のことも、こんな風に思ったことなどない。
騎士にはこの気持ちが何であるかよく分からなかった。
ずっと職務の延長上の、同情心からくるものだと思っていた。
それが年々分からなくなって揺らいでいた。
王女の、ガブリエラの笑顔が見たい。
両親を目の前で亡くし、孤児院では家畜のような扱いを受けて、死と隣り合わせという環境で生きてきた。殴られるのが当たり前で、周りは敵だらけ、戦場に出れば一瞬たりとも気を抜くことなどできない。
ただ、斬って、斬り続けて、返り血で目が開けられないくらいの日々を生きてきた。
自分の心はとっくに死んで、冷たくなった残骸だけが胸を巣食っているのだと思っていた。
それが、王女の笑顔を見ると、胸が温かくなった。
まるで血の通った人間に戻れたかのように……。
「マノン!!」
前方から血相を変えた顔で走ってきたのは、ロベルトだった。
額から汗を流し、息を切らしている様子を見た騎士は、腹の底に鈍痛を感じて、ぞわぞわと鳥肌が立っていくのが分かった。
「緊急招集だ。陸地戦が始まる。……フォンタニアがミタニアに援軍を送って参戦した」
強い風が吹いて、一瞬音が聞こえなくなった。
騎士の目には、窓辺に座って外を眺める王女の後ろ姿が見えた。
窓から入ってきた風が、王女の黄金色の髪を揺らしてふわりと部屋に広がった。
何かに気がついたように王女がこちらに向かって振り返る。
しかし顔を見ることは出来ず、王女の姿は真っ暗な闇に包まれた。
¨騎士さん¨
王女が自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、振り返ってもそこには誰もいなかった。
戦いは始まってしまえば、あっという間だった。
帝国は陸地戦に備えて、わざと水軍を誘うようにして隙を作っていた。
兵力を集中させて、一気に叩いたことによって、ミタニアとフォンタニアの連合軍は壊滅状態となった。
国内での内戦が勃発したミタニアは、早々に白旗を上げて、戦いは帝国の大勝利となって幕を閉じた。
「今日は厚い雲がかかっていますね。雨が降りそうです」
「ええ……、国境の町は寒いのかしら」
「ここよりはずっと寒いと思います。私はあの辺りの出身ですから」
ガブリエラの顔を拭った布を、アンは水桶につけた後、また軽く絞って、今度はガブリエラの体を拭き始めた。
もう何回見たか分からない光景、それでももうすぐ見ることができなくなるのだなと、ガブリエラは人ごとのようにその様子を眺めていた。
「皇帝からまだ使いは来ないの?」
「……はい。まるで忘れ去られたように、ひっそりとしています。このまま、というわけにはいかないのでしょうか」
アンの声は震えていた。
人は絶望の中に希望を見出そうとする。
わずかな光でも感じたい。
それはガブリエラも同じだった。
「それは無理ね。人質とは何であるか。約束が反故された時には、真っ先にその矢面に立つ存在よ。私が民衆の前に立てば、帝国の脅威を各国に知らしめて、民衆の心を鼓舞することができる。……もう、逃れることはできない」
堪えきれなくなったのか、アンは布を床の上に落として、両手で顔を覆って声を殺して泣き出した。
ガブリエラは、ここまで世話をしてくれたアンに感謝を伝えるように、肩に触れて軽く抱きしめた。
「もう半年も会っていないわ。こんなに寒くなるなら、毛糸でベストでも編んで持たせてあげたかった」
「こんな時になっても、ガブリエラ様の心は、あの騎士にあるのですね。鈍感で冷たくて、ひどい男です」
「そんなことを言わないで。あまり感情を表してはくれないけれど、とても優しい方よ。あの方は、心が燃えるような胸の高鳴りを教えてくれた。知らずに死んでいくより、ずっと幸せだわ」
ガブリエラが素直な気持ちを口にしたら、アンはもっと悲しい顔になって、今度は声を上げて泣き出した。
「どうかご無事で……」
もうすぐ冬を迎える乾いた空を見上げながら、ガブリエラは遠くに行ってしまった騎士を思いながら小さく呟いた。
凱旋パレードは三日三晩行われた。
敗戦国となったミタニアは属国となり、帝国の支配を受けることになった。
フォンタニアに関しては、今のところ処遇が決められていないが、おそらくミタニアと同じ運命を辿ることとなるだろう。
帝都に半年ぶりに帰還した騎士を待っていたのは、皇帝との初めての謁見だった。
今回の戦いで騎士は多くの功績を上げていた。
それを讃えてるために呼ばれたのかと思われたが、謁見の間はずいぶんと和やかな雰囲気に包まれていた。
ゴルゴン帝国皇帝ザヒルは、玉座に深く腰掛けて、満足そうな顔で騎士のことを見下ろした。
ザヒルは大国を仕切る巨星と呼ばれる男だ。若い頃から実力を発揮して、たくさんの国を滅ぼしてきた。年をとって頭も髭も白いが、人間離れした眼光の鋭さは誰も敵わない。
「ご苦労だったな。足場の悪い場所で上手く指揮を取って勝利に導いたと聞いている。それで、お前の名は、マノンだと聞いたが間違いないか?」
「はい、間違いありません。親が早くに死んで、はっきりと名を覚えておらず、マノンと呼ばれてきました」
「朕の側近になるのだから、マノンでは格好がつかないな。この際、新しい名をくれてやることにしよう」
皇帝に名を与えられることなど、思っていなかった騎士は驚いて目を見開いたが、側近という言葉にもまた息を呑んだ。
「お前を皇宮騎士団所属とする」
騎士はすでに膝をついていたが、頭を深く垂れて、胸に手を当てて喜びと忠誠を表した。
このまま腐っていくだけだと思っていた人生が、ようやく認められたのだと騎士は喜びに震えた。
「だが、その前にやってもらうことがある。お前にしかできない大役だ」
すぐに言い渡させるものだと思っていたが、少しだけ間が空いたので、騎士はわずかに顔を上げた。
皇帝はまるで騎士の様子を観察していたかのように、ニヤリと笑って玉座から腰を上げた。
「明日、フォンタニア国からの人質であるガブリエラ王女の処刑を行うことになった。お前はずっと王女の監視役をしていたから、お前が一番適任だと思ってな。お前に、王女の処刑執行人をやってもらう」
先ほどまで、王の言葉に胸を高鳴らせて、喜びに震えていたが、一瞬にして冷水を浴びせられたように体が冷たくなり、心は握りつぶされるように痛くなって悲鳴を上げた。
「どうした? 不服か?」
「いいえ……、光栄にございます」
騎士は頭を床につけて、服従のポーズをした。
気を良くしたのか、皇帝はその後も歩き回りながらベラベラとくだらない話をしていたが、騎士の耳には何一つ入ってこなかった。
床の上でぎりぎりと力を入れて手を握り込んで、唇を噛んだ。
心は砕けてバラバラになってしまいそうなのに、頭ではまだ理解できていない。
皇帝に直接会って認められること。
ずっと、夢に見て憧れていた世界だ。
皇宮騎士団にと言われた時は、若き日に感じた忠誠心が燃え上がり、感動で震えるも思いだった。
しかし、王女の処刑が決まり執行人に自分が選ばれたと知った時、心臓が千切れそうな痛みを感じた。
悔しい。
辛い。
苦しい。
皇帝から信頼を得て、重要な役目を任されたのだ。
どうしてこんな気持ちになるのか、騎士には理解できなかった。
ただ苛立たしげな気持ちを指先にこめて、床を引っ掻くようにして力を入れていた。
「そうだ、フォンタニアの魔女にはお前から明日の刑について伝えろ。明日は凱旋広場に人を集めて大々的にやるつもりだ。見ているからな、しっかりやってくれ」
刑の執行については、遅くとも数日前には伝えるのが一般的とされていたが、どうやら皇帝は騎士の帰還を待っていたようだ。
任務とはいえ、十二年も顔を合わせていた相手を処刑することで、忠誠心を試そうとしているのかもしれない。
「泣き叫んで命乞いをするか……、逃げたいと言って大泣きするだろう。明日の夜は盛大な宴を開くから、その時にじっくり聞かせてくれ」
明日が待ちきれないという顔で、楽しそうに去っていく皇帝の後ろ姿を見ながら、騎士はまだ手の震えが止まらなかった。
これが喜びなのか、興奮なのか、苦しみなのか。
それすらも判断できない。
しかし、皇帝に行けと言われたら、自分が行くしかない。
騎士は重い体を持ち上げて、王女の元へ向かった。
久しぶりに会った騎士は、しばらく見ない間に、少し痩せて頬がこけていた。
戦場での過酷な状況を想像して胸が苦しくなったガブリエラは、思わず騎士の頬に触れそうになって手を上げたが、ハッと気がついてその手を自分の胸に当てた。
「ご無事で……またお会いできて嬉しいです。寒くはなかったですか?」
「戦場の寒さには慣れています。もっとひどい環境もありましたから」
「騎士さんが来ない間に、ずいぶんとこちらの景色も変わったんですよ。ほら、あそこの木は色づいて葉が落ちてしまいました。朝晩はこちらも少し寒くて……」
「ガブリエラ様」
硬質で冷たい声が自分の名を呼んだので、ガブリエラはびくっと肩を震わせた。
騎士が戦場に向かったと聞かされてから半年。
毎日窓から外を眺めながら、騎士のことを思わない日はなかった。
葉が色づいて落ちる度に、騎士が帰ってきたらなんと声をかけようか考えていたくらいだ。
しかし、半年ぶりに騎士が部屋のドアを開けて入ってきたら、考えていたことなど全て真っ白になってしまった。
ただ、ただ会いたくて、会いたくてたまらなくて。
その顔を見たら、想いが溢れてきて口に出してしまいそうだった。
しかし、そんな熱い感動の時は一瞬で終わってしまった。
騎士の冷たい声色を聞いたガブリエラは、すぐになんのことだか察知した。
騎士の口から告げられることを、すべて感じ取ったガブリエラは、姿勢を正して騎士の前に立った。
「フォンタニア王国第三王女、ガブリエラ・フォンタニア。フォンタニア王国が和平の条約を破ったことにより、明日、死刑を執行する。方法は斬首、皇帝の命を受けて執行人はこの私が務める」
愛する男の口から淡々と告げられたのは、愛の言葉ではなく、自分の死に関しての話だけだった。
揺るぎなく、冷たい目で自分を見つめ続ける騎士を見て、ガブリエラはやはり自分の気持ちが叶うことはないのだと現実を突きつけられた。
「分かりました」
ガブリエラは背筋を伸ばして真っ直ぐに前を見据えたまま、そう一言答えた。
「アンは……私の侍女はどうなりますか? 彼女だけでも本国へ返してあげることはできませんか? 弟や妹がいるのです」
「本来ならば、同罪として侍女も刑を受けますが、長く勤めていたことと彼女は平民であるので、貴女が希望するのであれば帝国に留まらないことを条件に追放というかたちにできます」
「では、そうしてください」
心残りがひとつなくなって、ガブリエラは安堵した顔になった。
その顔を見て、騎士の顔が少しだけ歪んだように見えた。
「帝国では、教会の教えに則って、罪人の刑罰執行前夜は清めの儀式が行われます。拒否することもできますが、どうしますか?」
「帝国にいるのですから、こちらの決まりに従います」
ガブリエラの心の中は、いまだに嵐が吹き荒れていたが、それを顔には出さずに姿勢を崩すことなくしっかりと足に力を入れて立ち続けた。
「では……用意させていただきます」
マントを翻して部屋を出て行った騎士は、丸と棒で鳥の絵を描いてくれた優しい人とは別人のようだった。
彼が皇帝に抱いている忠誠心は、ガブリエラもよく分かっていた。
会話の中で皇帝の話が出ると、別人のように目を輝かせて雄弁になった。
そんな時ガブリエラは、微笑んで話を聞きながら、自分と騎士の間に聳え立つ越えることのできない壁を感じた。
そもそも騎士とは、皇帝に死ぬまで仕えて、国を守り抜くことの誓いを立てる。
騎士の忠誠心は十分すぎるほど理解ができる。
それに、人を拒絶して心を閉ざしている様子から、騎士が育ってきた環境は過酷なものだったのだろうと想像できた。
戦いに身を置き、皇帝のために生きることに、自分が存在する意義を見出してきたに違いない。
週に一度、わずかな時間を過ごしただけの関係である自分が、そこに取って変われることなどありえない。
そんな男を愛してしまったのだから、見返りなど何一つ期待できないのだ。
騎士は皇帝から執行人なるように命じられても、顔色一つ変えることなく了承したのだろう。
「……愛する人の手で終えられることを、幸せだと思うべきだわ」
ガブリエラは胸に手を当てて、騎士が去っていったドアを見つめた。
戻ってきてはくれないかと期待を込めてドアを見つめたが、静寂だけが辺りを包んで、風の音すら聞こえなかった。
処刑執行前夜。
罪人は聖水で体を洗うことを許される。
現世の罪を洗い流すためではなく、清い魂となり、現世を彷徨うことがないようにという意味が込められている。
教会からの見届け人数人が見守る中、アンの手伝いで体を清めたガブリエラは、白いドレスを身に纏った。
見届け人から白い紙を渡されたガブリエラは、静かに机に座りペンを手に取った。
これは、現世での心残りや、果たせなかった願いを書くという遺書を残すようなものだと聞いた。
だいたいの罪人は、恨み辛み、家族や恋人への別れの言葉を書くという。
首を落とされた後、体はすぐに焼かれるらしいが、その時に一緒に火に入れて、魂と共に浄化するらしい。
騎士は見届け人の後方に立ち、儀式の様子をじっと眺めていた。
書き終えたガブリエラから、紙をもらった見届け人達は、それを丸めて紐で縛り箱の中に入れた。
「これで儀式は終了です。あなたの魂が浄化され神の元へ正しく戻れることを祈っております」
箱を持って、教会からの見届け人達が連なって部屋を出ていくと、部屋の中にはガブリエラと騎士だけが残った。
「このような結果になり残念です」
ガブリエラは軽く首を振ってから、ドアの横に立っている騎士に視線を向けた。
「……ある程度、分かっていたわ。フォンタニアからこちらに来る時に、こうなる運命だと」
「そのようなことを……仰らないでください」
予想外の答えが返ってきて、ガブリエラは目を大きく開けた。
いつも揺るぎない忠誠心に満ち溢れている騎士が、小さく萎んでいるように見えた。
彼の中にわずかにでも自分を思ってくれる気持ちがあって、罪悪感に苛まれているのではないか、ガブリエラはそう感じた。
ガブリエラは歩き出した。
一歩一歩、騎士の元に向かって、ゆっくりと歩みを進めた。
騎士が息を呑んだ音がした。
長い間この部屋で会ってきたが、ガブリエラと騎士は、触れるどころか、必要以上に近づくこともなかった。
その見えない線をガブリエラは越えた。
「ここへ来たときは、大木のように大きな方だと思ったけど……お互い、年月を感じるわね」
「ガブリエラ様……、何を……」
音もなく手を伸ばしたガブリエラは、騎士の頬に触れた。
騎士はびくりと体を揺らしたが、避けることなく、そのまま立っていた。
動けずにいる、という言葉が近いかもしれない。
戸惑いの目でガブリエラを見ていたが、頬には人間らしい赤みが広がっていった。
「もっと冷たいのかと思っていたけれど、温かいのね……」
「あの………」
「もし、貴方の心に何か重いものがあったとしても、迷わないで。その時が来たら、躊躇うことなく剣を振り下ろして。私のことで何か背負うようなことはやめて。全てが終わったら、何もかも忘れて、前を向いて信じる道を生きて欲しい」
騎士は言葉を失い、体を硬直させていた。
二人の間に静寂が落ちてきて、長い間、もしくは長く感じるくらいの間、間近で見つめ合ったまま時が流れた。
「どうして……そのようなことを……」
「騎士さんの心に傷痕を残したくないの。これが私のただの杞憂で、何も感じることがないのなら、今の台詞は忘れてちょうだい」
ガブリエラは騎士の頬に触れていた手を離した。
その瞬間、騎士の手がわずかに揺れたような気がしたが、見間違えであったとガブリエラは悲しく微笑を浮かべて騎士に背中を向けた。
「ガブリエラ様……、教えてくれませんか? 紙には、なんと書かれたのですか?」
騎士の声は掠れていた。
彼にも思うところがあるのだろうかと胸が熱くなったが、ガブリエラは平静を装って口を開いた。
「あら、優しい騎士さんのことだから、また叶えてくれようとしているのかしら。でも残念ながら、これは貴方には叶えられないわ。……私は祖国へ帰りたいと書いたの、家族に会いたいと……」
「……そう、ですか」
騎士から離れて窓辺に立ったガブリエラは、もう騎士の方を振り返ることはなかった。
騎士はしばらくドアの横に立ったままだったが、やがてドアが開く音がして足音がした後、そのまま閉められた。
コツコツという足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ガブリエラはぽろりと一粒涙をこぼした。
「……別れの挨拶すら、言ってくれなかったのね。本当のことは言えないわ。貴方の人生に私という影が残ってしまったら……そんなことは嫌」
窓からは塔の入り口が見える。
騎士が歩いていく後ろ姿が見えて、振り返ってくれないかと、ガブリエラは手を伸ばした。
しかし騎士は振り返ることなく、何かに追い立てられるように早く歩みを進めていた。
風のように去っていく後ろ姿を見つめながら、ガブリエラはもうこれで泣くのは最後だと決めた。
「好き……騎士さんが好き」
騎士に言えなかった言葉を、涙と一緒にこぼした。
ガブリエラは儀式の時、教会の人間が言っていた言葉を思い出した。
人は魂が肉体から離れるまでの間、夢を見るのだという。
もし神から導きがあるなら、幸せな夢を見ることができるだろうと。
「せめて……夢の中で貴方と……」
騎士の姿が闇に消えて完全に見えなくなり、ガブリエラは伸ばしていた手を下ろした。
この部屋を出る時には、目隠しをされると聞いたので、これが彼を見る最後になるだろう。
ガブリエラはその姿を焼き付けるように、そっと目を閉じた。
騎士は走っていた。
誰もが寝静まった真夜中、闇の中を足を止めることなく、兵舎の訓練場で走り続けていた。
王女の儀式に参加した後、張り裂けそうな胸の痛みに耐えきれず、走り出したらそのまま止まらなくなった。
不遇の少年時代、皇帝のために生きると決めてからずっと、心が揺らぐことがなかった。
それなのに、今騎士の心を占めているのは、その皇帝への反逆の気持ちだった。
忠誠の炎が消え去って、焼け野原に一人剣を持って佇んでいる。
その手は怒りに震えて、皇帝に向けて走り出したいと、めらめらと黒い炎が腹の中で渦巻いていた。
ずっと自分を生かしていた力のはずが、なぜこんなにも憎く思ってしまうのか、今度は恐怖に苛まれて叫び出したい気分になった。
「そろそろやめたらどうだ。明日は大役を務めるのだろう」
訓練場の入り口に一人の男が腕を組んで立っていた。暗闇でよく見えないが、声で誰だかはすぐに分かった。
「………ロベルト。俺のことはいいから、お前は先に戻れ」
「見ていられないぜ。バカなやつだ。深入りするなと言ったのに……」
戻れと言ったのにロベルトはベラベラ喋りながら、訓練場の中に入ってきてしまった。
月明かりで顔が見える位置まで来たら、ロベルトはいつもお調子者の顔ではなく、初めて見る真剣な顔をしていた。
「やるしかないぞ。お前がしくじれば、控えている他のやつが王女の首を落とす。他の処刑人は残忍だと聞く。一度で首を落としてはくれないぞ。それを見せられた後、お前は、死を懇願するほどの拷問にかけられて殺される」
騎士はロベルトの顔を見た後、何も言わずに目を伏せた。そんなことはもう十分に騎士にも分かっていた。
「俺は……なぜこんなにも、焦っていて苦しくてたまらないのだろう。王女の、ガブリエラ様のことを考えるだけで……苦しくて、陛下のことが憎くて……なぜこんなに、こんな気持ちに……」
混乱して取り乱している友の様子を見て、ロベルトは深くため息をついた。
「悲しいな、マノン。それを俺に尋ねるのか。……分かったよ、その時は任せろ」
ロベルトは切なげに笑った後、騎士の肩を叩いた。
含みのある言い方で全てを語ってはくれなかったが、荒れ狂っていた騎士の心は少しだけ落ち着いた。
震えていた手足がやっと大人しくなって、騎士は膝をついてから地面に転がった。
空に浮かぶ月が、王女の髪のように輝いて騎士を見下ろしていた。
研ぎ石に水をつけて刃先に当てた後、何度も往復する。
刃がギラギラと光るたびに、騎士の心は切り刻まれるような思いだった。
騎士は広場に作られた天幕の中で、朝からずっと座って剣を研ぎ続けていた。
始めは様子を見に来た者達も、騎士のあまりの気迫に圧倒されて、時間になったら知らせると言ったまま、誰も入って来なくなった。
このままずっと、刃がなくなるまでと研ぎ続けるような勢いで、一心不乱に手を動かしていたら、すみませんと女の声が聞こえた。
「どうしても、お伝えしたいことが……」
「入れ」
天幕を開けて入ってきたのは、ガブリエラの侍女だった。
今朝、塔から解放されて国境へ向かったはずの女が、なぜここに姿を見せたのか、騎士は女をギロリと睨むように見た。
「恐れながら、騎士様に申し上げます。ガブリエラ様はフォンタニアでご家族からひどい扱いを受けていました。王の最愛の娘を送るなんて話は嘘です! ガブリエラ様が処刑されたとしても、フォンタニアには何一つ……不利益になるようなことはありません! 今からでも、処刑を止めることはできないのでしょうか」
どうやら侍女は逃げることをやめて、主人の命乞いに戻ってきたらしい。
その勇気は讃えるが、どう考えても無理な話に騎士は首を振って応えた。
「帝国にとってフォンタニアが痛みを感じるかなどということはどうでもいいんだ。これは自国の国民を鼓舞するための見せ物にすぎない。広場に集まっている民衆を見ただろう。彼らはこの混沌とした日常で鬱憤を晴らすような激しい出来事を求めているんだ。帝国の勝利と共に、敵国の王女が落ちるところを祝う。ここに集まった誰もが望んでいることだ」
騎士の答えに侍女はがっくりと項垂れたが、すぐに顔を上げて勢いを取り戻した、
「貴方も……そのお一人ですか?」
「なに!?」
「十年以上、あの方を見続けて、自分が首を切ることになるなんて、何も思われないのですか? どうしてそんなに平然としていられるのですか!?」
「私は……騎士だ。帝国の皇帝を守る……」
「騎士である前に! ひとりの人間として、ガブリエラ様と過ごした日々に何も感じなかったのですが? あの方は最後まで、貴方のことを……貴方の幸せを願って……! ……これを、これを見てください! 必ず! これを見てから、剣を手に取ってください」
侍女が泥だらけの手で渡してきたのは、丸めた紙を紐で縛ったものだった。
その形状からおそらく昨夜、儀式で教会の人間に渡ったものだと思われた。
羊皮紙に教会の印が押されているので間違いないだろう。
それがここにあるということは、どうやら侍女が盗んできたようだった。
「おいっ、誰かいるのか!?」
話し声が聞こえたからか、兵士がこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
騎士は天幕の入り口とは反対側を開けて、そこから侍女を外へ逃した。
「なんだ?」
「失礼しました……、話し声が聞こえたので……」
「気のせいだ。さっさと行け」
「いえ……あの、そろそろ準備が整ったと……広場においでください」
いよいよ時間だと連絡がきて、騎士は息を吐いた後、ゆっくり立ち上がった。
すぐに行くと言って兵士を下がらせた。
騎士は剣を手に取る前に、侍女が渡してきた紙が気になって、紐を解いて中を見ることにした。
教会の人間以外が触れてはならないとされているが、もう侍女が持ってきた時点でそれは崩れているだろう。
王女は祖国へ帰りたい、家族に会いたいと書いたと言っていた。
紐を解きながら、先ほど侍女が言った、王国で家族からひどい扱いを受けていたという言葉が頭に浮かんできた。
あの言葉が本当なら、死を前にして、家族の元に帰りたいなどと本当に書くのだろうかと疑問が湧いた。
するりと紐が床に落ちて、騎士の手の上に紙が広がった。
そこに書かれていた文字を見て、騎士は息を呑んで言葉を失った。
頬に風を感じたガブリエラは、鼻から空気を吸い込んで口からゆっくりと吐いた。
明らかに部屋の中の空気とは違う、肺に流れ込んだ冷たさに、これが外の世界なのだと実感した。
ガブリエラの格好は、昨夜から同じ白いドレスだ。
今朝起きるとすでに侍女の姿はなく、その場で縄で後ろ手に縛られて、大きな布で目を覆われた。
そのまま縄を引かれるようにして、裸足のまま歩かされた。
久々に踏む地面の土の感触と、新鮮な空気に包まれているのを感じて、こんな時だというのに嬉しくなってしまった。
「しっかり歩け、フォンタニアの魔女め」
ガブリエラを連れてきた兵士は、帝国の人間らしい反応をしていた。
和平は破られて、今や敵国、しかも敗戦国の王女である。
騎士や教会の人間との反応の違いに、胸が詰まるものがあったが、それは広場に近づくに連れて、もっと深く胸に突き刺さってきた。
「魔女め!」
「卑怯者!」
民衆は口々にそう言って叫び、ガブリエラに向かって石を投げてきた。
わざとゆっくりと歩かされるようにその中を進んで、断頭台に到着する頃には身体中に痛みが走り、歩くのもやっとになっていた。
ガブリエラは見ることができないが、至る所から血が出て傷ついていた。
木製の台は民衆がよく見えるように高くなっている。
その上でガブリエラは跪いた状態で待つように言われた。
民衆の声は鳴り止まない。四方から聞こえてきて、絶えず耳を揺らしてきた。
しかし、いつしか騒がしい音は遠くに聞こえて、ガブリエラは風を感じて顔を上に向けた。
ずっと大きな空が見たいと思っていた。
いつも窓から見る空は四角くて、もっと先には何があるのだろうと、よく想像していた。
今、ガブリエラの目の前に、その大きな空が広がっているのだ。
上空から流れてきた風がガブリエラの頬を揺らすと、ガブリエラの目の前に空が見えた。
竜の鱗のように連なる雲、空の高いところは深い青で低くなるにつれて水色に変わる。
アカ鳥達が空を舞い、温かい風に乗ってここよりもずっと遠くへ飛んでいく。
少年が落としたハンカチが風に舞い上がって高い空に消えていく。
「見える……見えるわ」
いつだったか、騎士が青い花畑を見せてくれたように、今もまたガブリエラの前には、ずっと見たいと思っていた大空が見えていた。
その時、コツコツと靴の音が聞こえてきた。
クセのある音を聞けば、誰が近くまで来たのかすぐに分かってしまった。
「騎士さん、来てくれたのね」
「……私だと、どうしていつも分かるのですか?」
「足音を覚えたの。不思議ね、この靴音を聞くといつもワクワクして嬉しくなった。こんな時にこんな場所で聞いても、その気持ちは変わらないのよ。今も嬉しいなんて……おかしいわね」
いよいよその時が来たのだと、ガブリエラは息を吐いて首を見せるように下を向いた。
もう、泣かないと決めたのに、涙がこぼれてきそうだった。
目隠しされているのだから、騎士には見えない。
それならいいだろうと、ガブリエラは溢れてきた涙を堪えることをやめた。
剣を待つ手が震えていた。
断頭台に立って、どうやってここまで来たのか思い出せなくなっていた。
目の前には首をさらした状態で最期を待つガブリエラがいた。
ガブリエラは足音を覚えていると言った。
思えばいつも塔に行って部屋を訪れると、ガブリエラは立ち上がってドアの前で待っていた。
いつも、いつも、いつも。
明るい笑顔で、騎士さんといって出迎えてくれた。
まだ幼いガブリエラから、大人に成長したガブリエラまで、全ての光景が騎士の頭に浮かんできた。
その時、自分が感じていた気持ちはなんだろう。
ドアに手をかける時、いつも考えていた。
早くこのドアを開けて、あの笑顔に……ガブリエラに会いたいと……。
ガブリエラが願うことは全て叶えてあげたかった。
希少な書物も、遠くに咲いている花も、渡鳥の姿も、何もかも全て。
閉じ込められていて可哀想だから?
任務で相手をしていて、気の毒だと思ったから?
違う……
違う、違う違う違う!!!
ただ、ガブリエラに喜んでもらいたかった。
微笑んで、笑って欲しかった。
どうして?
思ってはいけない感情
抱いてはいけない感情
だけど温かくて、熱くて、心から……
ガブリエラに触れたくて……
この気持ちを、同じようにガブリエラにも感じてもらいたい。
「殺せーー!」
「さっさと殺れよ!」
「腰抜けー! 魔女を殺せ」
ガブリエラの笑顔を見るだけでこんなにも温かくなる気持ちを……
この気持ちに名前をつけるなら、それは……
幸せ
騎士は自分がガブリエラといる時間が、幸せであったことに気がついた。
騎士は震える手で剣を高く掲げた。
このまま振り下ろせば全てが終わる。
自分が生きてきた不遇の時代。認めてくれた皇帝への燃えたぎるような忠誠心。
その思いに押されて、何とか剣を掲げるところまでいったが、傷だらけで血を流しているガブリエラの体を見たら全身が凍ったように動けなくなった。
あの細い体で、いつだって心配していたのは騎士のことだった。
暑くはないか、疲れていないか、寒くはないか、悩みはないか。
ガブリエラはずっと自分のことを思ってくれていたのだと、騎士はこの時になってようやく気がついた。
ガブリエラが心残りとして紙に書き記したのは、願わくば、貴方の名を呼んで愛していると伝えたかった、という言葉だった。
それを見た瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。
これを書いたのはガブリエラであるはずなのに、まるで自分の気持ちがここに記されているようだった。
カランと音を立てて、手からこぼれ落ちた剣が地面に転がった。
「………めだ………俺にはできない」
何とか絞り出した掠れた声が耳に届いたのか、ガブリエラが顔を上げた。
「愛して……ガブリエラ、愛しているんだ。君に剣を落とすことなんて……できない」
「だ……だめっ、騎士さん。だめよ! 早く! 早く首を……早く……」
一番欲しかった言葉をもらっても、騎士を思うガブリエラはだめだと悲鳴のような声を上げた。
そんなガブリエラを騎士は胸の中に抱きしめた。
「もっと早く、こうするべきだった。たとえ八つ裂きにされても、もう離れない」
「きし……さん」
「今になってやっと……すまない」
「……いいの。私の願いを叶えてくれてありがとう」
「おぼろげな記憶だが、昔、母か父が俺を呼んでいた名前がある」
ガブリエラの耳元で騎士は囁くようにその名を告げた。
微笑んだガブリエラは、同じように騎士の耳元に口を寄せた。
「………、私も愛しています」
ガブリエラが何と呼んだのか、それは民衆の怒号にかき消されて、他の誰にも聞こえなかった。
「王女とあの者を引き離せ! 執行人! 王女の首を! あの者は牢に、死の拷問にかけるんだ!」
見学席で酒を飲みながら事態を眺めていた皇帝が、グラスを投げて声を張り上げた。
控えていた別の執行人がニヤリと笑って、長剣を振り回しながら歩き出した。
もはや誰でもいいと、誰かの死を望む群衆の声は大きくなり、王の声すら聞こえなくなっていた。
そこに、誰よりも早く、二人が抱き合う断頭台に姿を表した男がいた。
男は騎士が落とした剣を手に取った。
「約束を果たしにきたぞ」
断頭台に悲しくて重い音が響いた。
民衆の歓声が響き渡って、鳥達がいっせいに空に飛び立った。
空を見上げた男は目を細めた。
二人の魂が鳥になって仲良く空に飛んでいった。
そんな風に見えた気がした。
※
「馬ってこんなに足が早いのね。こんなに遠くまで来たら、戻れなくなってしまうわ」
「戻るって、どこに?」
馬の背に乗ったガブリエラは、後ろに座り手綱を握っている騎士を見上げた。
「そうか、もう戻る必要はないのね。私達、自由になったんだったわ」
「今さら、やっぱり嫌でしたはやめてくれよ」
「あら、それは私の台詞よ。ずっと好きだったのに、全然気がついてくれなくて。どれだけ待たされたか……」
「はははっ、悪かった。これからはずっと、飽きたと言われてもずっと側にいるから」
風が吹いて草の擦れる音がした。
自然の匂いと音に、ガブリエラはうっとりとして耳を傾けた。
「そんな風に笑うなんて……、もっと早く見たかった」
「見ればいい、これからいくらでも笑ったり泣いたり怒ったり……ガブリエラに全てを捧げるから」
「それは嬉しいわ。頼めば、いつでもこうやって一緒に走ってくれる?」
「ああ、どこへでも。行きたいところへ行こう。世界の果てまででも、どこへだって行ける」
「……幸せだわ。なんて幸せな夢なのかしら」
「夢じゃない。俺達は永遠に一緒だ」
振り返ったガブリエラの唇に、騎士の唇が落ちてきて、ぴったりと重なった。
柔らかな唇の感触に、温かさと幸せをこれでもかと感じて、ガブリエラは涙を流した。
生まれて初めて流した。
幸せな涙だった。
※
「ねぇ、パパ。ここに書いてあるマノンって、本当にこの人の名前なの?」
まだ幼い少年が、覚えたての字を見て、興味津々といった様子で父親に話しかけた。
少年の明るい声に、手を組んで祈っていたその父親が顔を上げた。
「そうだよ。本当の名前が分からなかったんだ。だから、だからマノンと書かれている」
「ふーん、可哀想な人……」
「でも、一人ぼっちではないんだ。そのお墓にはその人の恋人も埋葬されているんだよ」
「そうなの!? でもその人の名前は? その人も名無しなの?」
「……いや、事情があって記されていないが、でも二人が一緒ならそれでいいと、二人ならそうきっと……」
「あっパパ、ママが呼んでる。もう帰る時間なんじゃない?」
嬉しそうに歩き出した息子に手を引かれて、父親も歩き出した。
草原の中にひっそりと置かれた墓石には、かつて友人だった男と、その男が愛した人が眠っている。
背負うと決めたが、二人を最期に導いた自分の手が、今でも時々震えてしまうことがある。
そんな時、二人の眠る場所に来て祈ると、苦しみから全て解放された気持ちになる。
名前を呼ばれた気がして、振り返った男の目には、草原を楽しそうに馬で駆けていく二人の姿が映った。
また会いにくるよと呟いて、息子の頭を撫でた後、遠くで手を振っている妻に向かって手を振り返した。
□終□
最後までお読みいただき、ありがとうございました。