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白銀のネフィリム  作者: 九蓮
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一条結衣

 『一条結衣』は夜の繁華街の通りの裏路地でじっとそのときを待っていた。真夏の日差しで熱せられたアスファルトは、先ほど降った通り雨に塗れて黒く染まっているが少しも涼しくならず、蒸した空気がじっとりと身体に纏わりつく。道行く誰もが不快そうな顔をしている。そんな熱帯夜の中でも、結衣は汗一つ流していない。


 結衣はその整った顔から一切の表情筋を取り払ったような無表情で手に持ったスマートフォンの画面を眺めている。いくつかダウンロードしたゲームアプリもクリアしてしまい、SNSで無限に流れてくる情報を追うのにも飽きてしまった。待機命令と言うのも楽ではない。


「あ~~お姉さん、ちょっと良いですか~?」


 突然、声を掛けられた。結衣が顔を上げると、若い男が二人。二人ともそろって髪を似合わない金色に染め、わざとらしく日焼けしている。片方は暗記カードを束ねるのに使うのかと思うほど大きなリングピアスをしていた。店のキャッチという風ではない。


「……何かご用ですか」


 ちょっと良くないです、という言葉を飲み込み、できるだけ感情を出さないように応える。


「あれ、大人っぽい格好してるから大学生くらいかと思ったけど、若いね。高校生?」「今、ヒマ?」


 何がおかしいのか、ヘラヘラと笑いかけてくる男たち。

またか、と結衣は誰にも聞こえないくらい小さく舌打ちをする。この手の男に声を掛けられるのは今日で何度目か。皆同じような顔で同じような言葉を並べられると辟易する。


「暇じゃないです。ごめんなさい」


 結衣が目も合わせずに男たちの間を通り抜けようとしたとき、特大リングピアスの方が結衣の腕を掴んだ。もう一人も素早く結衣の前へ回り込んで逃げ道を塞ぐ。


「まぁまぁまぁ、そう警戒しないで~」「俺ら合コンしてたんだけどさ、相手の女超ブスでソッコー抜けて来て暇してんだよね」


 聞いてもいないのにペラペラと喋りまくる金髪を、結衣は冷めた目で見る。掴まれている腕の感触が気持ち悪い。男たちの視線が、徐々に結衣の顔から、歳の割に大きな胸に移るのが分かって背筋がぞわぞわした。

 結衣はチラと大通りに目を向ける。何人かと目が合うがすぐに背けられる。


「君、こんな夜遅くに誰を待ってんの? もしかして売り?」「脂ぎったおっさん相手にするより、俺ら二人とする方が良くね? 俺らめっちゃウマいよ」


 ポン、と肩に置かれた手はだんだんと首筋に寄って来る。

 ああ―――


 結衣は投げやりな気分でため息をついた。


 ―――こういうときって半殺しにしていいんだっけ?


 いつか渡された教本の中身を思い出そうとするが、内容まではよく覚えていない。


 そのとき、結衣のスマートフォンが、にゃ~ん、と可愛い猫の鳴き声を発して着信を知らせる。画面に映し出されたのは年中目の下に隈を作っている不健康そうな顔をした結衣の上司の名前だった。


「結衣、おまたせ」


 電話口からどこか疲れたような女の声がする。


「場所の特定はできましたか?」


「10分前から補足しているわ。下水道にずっと隠れていたみたいで探すのに手間取ったけど、奈々が追い出してくれた。今、結衣がいる路地から道路を挟んで反対側に、周りより頭一つ高いビルがあるのがわかる? そこの屋上、60秒後」


「了解。……ところで『私たち』が一般人に危害を加えられそうになったときの対応ってどこまでセーフですか?」


「……どうして?」。


「えっとですね、現在進行形で頭がヘリウムガスよりも軽そうな男二人に絡まれていまして……」


「……いや、何シカトぶっこいてんだよ」「てか、誰の許可得て電話してるわけ?」


 結衣はタイミングよく怒号を飛ばしてくれた男たちにスマートフォンのスピーカーを向ける。


「……一応、『能力および銃器の使用は認められないが、やむを得ない場合、最低限の防衛は認められる』ということになっているけど……やるならうまくやってね。これ以上面倒ごとを増やさないで。今回の事件が始まってから私、ろくに寝てないの」


「それは普段のコーヒーの飲みすぎのせいかもです。完全にカフェイン中毒ですよ、指令」


「てめぇ、さっきから何ごちゃごちゃ言って―――」


 耳にリングを付けた男が結衣のスマートフォンを強引に奪い取ろうとした瞬間―――男の身体は宙を舞った。結衣が瞬きよりも素早い速さで回し蹴りを放ったことに気付くことすらできずに、男は意識を手放した。


「え、え! え!? え!!?―――」


 蹴られた発泡スチロールの空箱のように軽々と吹っ飛んだ仲間を見て、もう一方の男は困惑する。

逆上して殴りかかるのか、それとも仲間を置いて逃げるのか。目の前の出来事を脳が処理して判断を下すまでの空白の時間。その時を、結衣は逃さない。

猫のように俊敏かつしなやな動きで間合いを詰めると、男の顎、下から30°の角度で掌底を放ち、正確に打ち抜いた。ミシ、と骨にひびが入る音がする。男は脳震盪を起こし、そのままフラフラと道端のゴミ箱に頭から突っ込んだ。


「あのさ、結衣……『やむを得ない場合、最低限の……」


「あと何秒ですか?」


 やりすぎを諫めようとする女の言葉を勢いで遮る。指令と呼ばれた女もそれ以上は追及しようとはしなかった。今はナンパ男の容態よりも重大なことの真っ最中だ。


「あと5秒。さぁ、いってらっしゃい」


 『指令』の言葉通り、きっちり5秒後。向かいのビルの屋上に人影が現れた。

 両目視力2.0以上の人でも朧気ながら人影を認識できるかどうかという距離だが、しかし結衣の目はたしかに、その男を捉えていた。黄色いレインコートを羽織ったその男―――。


「ターゲットを目視で確認。『ギア』を起動します」


「……なるべくケガしないようにね」


 通信が終了される。

 結衣はベルトにつながれたケースから黒い長方形の小箱を取り出すと、フード付きジャケットの腕の部分に入ったスリットから手を入れて、腕に巻かれた拘束具のような機械に押し込む。カチンとはめ込まれる音がする。

 瞳を閉じる。

 腕の装置から結衣の身体に広がるように、電子基板のような赤い光の模様が現れる。模様は頬にまで到達すると、やがて結衣の肌に吸い込まれるように消えた。


「……エヴォル!」


 瞬間、結衣の体が赤い炎のように揺らめく光に包まれる。

 結衣は静かに眼を開く。その眼は爛々と紅く輝いていた。


 結衣は一度深くしゃがむと、身体全身で反動をつけて勢いよく跳び上がった。足元のアスファルトが砕け、結衣の身体はネオンに照らされた夜の空に舞い上がった。


 街並みが眼下に吹っ飛んでいく。この瞬間が結衣は好きだった

 灰色の街、人込みの喧騒、自分を巻き込み飲み込もうとする欲望の渦。自分を縛るあらゆる全てのしがらみから解放されたような晴れやかな気分になれる。

 一条結衣は、この瞬間だけは、誰よりも自由だった。


 結衣は空中で足を抱きかかえるようにして、くるりと一回転すると、空中を蹴った。まるで結衣がいるところだけはそこに見えない地面があるかのように、結衣は空中を何度も蹴って跳び回る。

 結衣の姿は星の見えない都会の夜空に紛れて、道行く大勢の人々は誰も気づかない。

 結衣は赤い瞳の残光を描きながら空中を駆り、やがて目的のビルの屋上に軽やかに着地した。

 そこに居た黄色いレインコートを着た男は突然現れた少女に驚愕する。


「なんだてめぇは! どこから登って来た!?」


「降りて来たんですよ。女の子が空から降って来る、そんなこともあります」


 結衣はジャケットの内ポケットから手帳を取り出して突きつける。それには「ASC」の文字と共に、盾と翼を象った紋章が金で捺されている。


「あなたにはアストラル・ギアの違法所持、および殺人の容疑が掛けられています。大人しくこちらの指示に従って―――」


「さんざん追い回しやがって、お前らさえ来なければ……俺は、平穏に暮らせて行けたのに!!」


「何人もの人の命を奪っておいて、何が平穏ですか!」


「俺はずっと、我慢していたんだ……人でいることに我慢していた……。だけどな、人間の命は……軽い。だから俺は……!」


 男はレインコートのフードを被り、両腕をだらんと前に垂らして俯く。


「ぬグぁぁぁああああ!!」


 男の身体に毒々しい黄色の光が筋となって刻まれていく。しかしそれは結衣の整然と並んだ電子基板のような模様と異なり、歪にねじ曲がった線が繋がっただけの模様だった。


「はァァァあああ……」


 フードの奥で濁った黄色の眼が不気味に光る。

 結衣はまた一つため息をついて、ASCの手帳をしまう。


(会話が成り立ちませんね)


 結衣は頭の中で敵の情報を整理する。

 警察やASCの上層部から降りて来た情報によると、犯人の所持するアストラル・ギアは〈FROG〉。カエルの能力。レインコートの男は既に判明しているだけでも3人を殺している。いずれの被害者の首には長いもので絞められた跡があり、粘膜のような液体が渇いた痕跡があったらしい。


(つまり……カエルの舌?)


 結衣の予想を裏付けるように、レインコートの男改めカエル男は、深くかぶったフードの下から細長い舌を伸ばした。舌はのた打ち回るミミズのようにひくひく動き、攻撃の機会をうかがっている。結衣はその光景に顔を顰めた。


「キモチワル……」「ダマレっ!」


 その一言に怒ったカエル男は、結衣に一気に舌を突き出した。振るわれた鞭のように襲い掛かる長い舌を、結衣は軽く半身になるだけで避ける。完全に攻撃の範囲と速度を見切った避け方だ。しかし、避けた舌は弧を描くように曲がり、後ろから結衣の足元を掬おうとする。


「危なっ……!」


 結衣はそれをギリギリのところでジャンプして避ける。

風が吹いた。月明かりを遮っていた厚い雲が流され、カエル男のフードの影を照らす。顔の半分を占める大口はカエルと同じく歯が無く、その口元はほくそ笑むように吊り上がっていた。


「跳んだら終わりだぜ、雌ガキぃ! 自由に動けない空中に逃げるのは、失敗だったァ!」


 カエル男は帰ってくる舌を瞬時に口内に戻すと、再び舌を放つ。今度のはさっきの比ではないほどに速い。貫くことだけを考えた舌の弾丸だ。

 だが相手にしたのが〈LIBERTY〉のギアを持つ結衣だったのが悪かった。


「空中だからこそ自由に動ける、そんなこともあります」「はっ!?」


 結衣は何もない空間を蹴った。まるでアクションゲームの二段ジャンプ。実際に見るとこれほど不可解で予測不能な動きはないかもしれない。

 そして攻撃を回避する動きがイコールそのまま反撃に転ずるスタートダッシュになっている。

カエル男が舌を戻すより早く、結衣はカエル男の腹を蹴りつけた。訓練された身体の動きは結衣の体重を余すことなく蹴りの威力に変換する。そして加速により更にエネルギーが加わった一撃は、カエル男を十数メートルも転がした。


「ぐ、ガぁぁぁ! くそガキが!!」


 カエル男は苦悶の表情を浮かべふらつきながらも立ち上がり、拳を振り上げ駆け出す。

 結衣はカエル男の右手のパンチを腕でガードし、がら空きになったわき腹へ膝蹴りを見舞う。

 人間の右半身には肝臓がある。ここには筋肉がなく、保護することができない急所である。内臓に直接攻撃するようなものだ。

カエル男は強烈な痛みに一瞬ガードがさがり、動きが止まった。それを好機と見た結衣は力強く一歩踏み込み、カエル男の顎を下から突き上げるようにパンチを放つ。

 見事にアッパーカットが決まり、カエル男の身体は身長の3倍の高さまで浮き上がった。そのまま野球のフライ球の如く緩やかな軌道で、ビルのコンクリートの床に叩きつけられる。


 結衣はゆっくりと、陸上選手がするようなクラウチングスタートの体勢を取る。


「……臨界充填〈クリティカル・チャージ!!〉」


再び結衣の身体に電子基板の模様が浮かびあがり、結衣の腕の装置―――〈LIBERTY〉のアストラル・ギアから、大きく引いた右足へと赤い光が伝う。赤光は輝きを強めていき、ついに臨界点に達したとき、赤いオーラが右足に宿った。幻想的な赤い輝きが、陽炎のように揺らめいている。

 結衣は一度お尻を高く上げると、豹のように猛然と駆け出した。地面を蹴る度にぐんぐん加速していき、すぐにトップスピードに乗る。強大な反作用を受けるための脚力で踏みしめられたコンクリートの地面は蜘蛛の巣状にひびが入る。

 カエル男は呻きながらようやく顔を上げた。もう手遅れだった。結衣はすでに最後の一歩を終えて、勢いを殺さずに跳び蹴りの姿勢に入っている。

地面と水平に飛来する一撃は、赤く輝くオーラが闇夜に線を引いて、さながら一筋の流星のようだった。

 その赤い流星はカエル男の胸部に突き刺さり、ビルの屋上の端まで蹴り飛ばす。血飛沫が舞い、何度も地面をバウンドするが勢いは死なない。転落防止用の頑丈な鉄製フェンスにぶつかって、ようやく止まった。

 常人なら即死……運がよくて内臓破裂程度の一撃だった。しかしカエル男は、身体をびくびくと痙攣させているが、驚くべきことにまだ生きていた。結衣が攻撃を当てる直前でわざと急所を外したからだ。

 勝負はついた―――。

 結衣は大きく深呼吸する。

そのとき、結衣のスマートフォンが震えた。画面には再び結衣が指令と呼ぶ上司―――『神谷咲』の名前が表示されていた。


「一条です。戦闘終了しました。司令」


『ご苦労さま。既に回収班がすぐ近くに来ているわ。結衣、怪我は?』


「ありません。アストラル・ギアを破壊したあと、回収班に引き渡します」


『ありがとう。……みんな、貴女のように職務に忠実でちゃんと話を聞いてくれる娘ばかりだといいんだけどね』


 通話が切れる。

 結衣はさっさと任務を終わらせるために、手錠を取り出す。念のために拘束しておいた方が良いだろう。

 結衣はうつぶせに倒れたカエル男の両腕に鉄の輪を嵌める。黄色いレインコートを剥ぎ取ろうしたとき、結衣は気づいた。レインコートの下、カエル男の身体の歪な模様がまだ消えていない。

 しまった、そう思ったときには既に遅かった。


「アガァァァ、グ、ご、が……!!」


 カエル男が急に口から泡を吹いてもだえ苦しみだす。身体の模様は黄色く光っては消え、光っては消えを繰り返す。全身の血管が浮き上がり、おぞましい肌色の山脈を築く。


(この人、身体がギアの毒素に耐えられてない……!)


「ご、あ、グ、あ゛あ゛ア゛アアアア!!!」


 もはや人間のものではない咆哮。同時にカエル男の身体から強烈な熱波が発生し、結衣は押し飛ばされた。

 結衣は地面に伏せたまま、顔を上げる。

 そこには、人ならざる異形の存在がいた。

 成人男性を優に超える巨大なガマガエル。でっぷりと太った茶色の身体には無数のイボが付いていて、そこからドロドロした黄色い膿のような液体が滲み出ている。腕や足は人間の原型を辛うじて残しているが、たるんだ皮膚が焼け着いたように硬化していた。

 頭から出張った眼を開いた。充血したような毒々しい赤の眼球に真黒な虹彩が結衣を睨む。

 舌の鞭が飛んでくるのを結衣はなんとか転がって回避するも、追撃の突進は避けきれなかった。車がぶつかって来たかと思うほどの力に、今度は結衣が地面に転がされる番だった。

 肺の空気が強制的に押し出される。アスファルトの凹凸にひっかかり眉の上の皮膚が切れた。生暖かい血が顎まで伝う。

 身体を起こそうとすると、手首に痛みが走った。倒れたときに変な方向にひねったらしい。

交戦か、撤退か。

結衣の能力で空へ逃げようとすると、あの長い舌に捕まる恐れがあるが、幸いにも屋上とビル内部への出入り口は結衣の後方すぐ近くにある。

 だが、結衣にとってその選択肢はない。指令の命令は絶対だ―――課せられた任務は必ず達成しなければならない。


(格闘戦は……体格差があり過ぎるから無理そう。……もう一度、全力の臨界充填を食らわせるしかない!)


 ふらつく足を殴りつけて立ち上がる。口内に溜まった血を吐き捨て、手の甲で口を拭う。結衣は覚悟を決めた。

 再び、足にエネルギーを集めようとする。

 まだ抵抗する様子の結衣を見て、カエル男だったもの―――怪物は再び突進する。ついに二足歩行すらやめた。手足をフルに使った予想外の速度は結衣の目測を狂わせる。


―――間に合わない。


 眼前に迫る怪物。その背後で、ビルの屋上から屋上へ跳躍しながら近づいてくる影を結衣は見た。紫色に輝く眼が、夜の闇に残光を走らせる。その影は、走り寄るカエルの怪物を上回る速度で背後からとびかかると、追い越しざまに腕を振るった。

音はしなかった。一瞬だった。分厚い肉に覆われた全くくびれていない首がその場に転がる。一拍遅れておびただしい量の血が噴き出した。


「奈々さ……うぶっ!!」


 結衣は突如現れたその少女の名前を呼ぼうとしたが、慣性の法則に従って突っ込んでくるカエル男の胴体に押しつぶされる。


「あ、ごめん。残った胴体のことまで考えてなかった」


 結衣は自分の体の上にのしかかる首無し死体を蹴飛ばしてどかすと、血まみれになった服や髪を見て顔をしかめた。


「怪我した?」


「あ、ちょっと手首を……。大丈夫、自分で起きられます……」


「あっそ」


 黒い髪に赤いメッシュを入れた20手前くらいの少女―――『奈々』と呼ばれたその少女は、首に巻かれたチョーカーから鎖骨の間あたりに垂らされた装置から黒い小箱を取り外す。数秒目を閉じて、再び開かれたとき、彼女の眼は怪しく輝く紫から落ち着いた濃茶色に変わっていた。


「はぁ……疲れた。清掃班と回収班に連絡してさっと帰ろ」


 奈々はそう言って転落防止用のフェンスに寄りかかり、黒のミリタリージャケットのポケットから取り出した加熱式タバコを咥える。自分で連絡する気はないらしい。仕方なく結衣は血まみれの手で端末を操作して本部に連絡を取る。状況を簡単に説明して、場所を伝える。もっとも結衣たちの居場所は手の甲、皮膚の内側に埋め込まれたチップによって常に追跡されている。それは彼女たちの動向を常に把握し、最大限サポートをするためであり、同時に超人的な力を使える彼女たちを監視するためでもある。


「15分くらいかかるそうです」


 奈々はただフェンスの向こうを肩越しに見下ろしている。呼気に混じって吐き出される白い煙は一瞬だけ存在を主張するがすぐに霧散して見えなくなる。奈々の表情からは何も感じられない。何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか。

 結衣は血にまみれたグローブを取って奈々の隣に立つ。奈々と同じ目線で、フェンス越しに眼下の繁華街を見下ろしてみる。こんな戦闘が自分たちの頭上で起こっていたことなど知る由もなく、人々は灰色の街を埋め尽くすようにうごめいている。


「たまに、羨ましくなります。自分が明日も生きていけるということを、毎朝太陽が昇ることくらい当たり前に信じていられる彼らが」


 奈々は相変わらずの無表情のまま、もう一度タバコをふかす。ポップコーンのような香ばしいにおいがした。


「それが普通でしょ。ずるいなんて思っちゃだめだよ。こんな仕事でも、居場所があるだけマシと思わなきゃ」


 それは奈々の本心なのか、結衣にはわからなかった。あるいは自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

 この街では、普通から外れたものは生きることを許されない。自由であることと、それに伴うリスクを天秤にかけ、人々は、あるいは社会は、あるいは時代は、監視の元に守ろれる平和と安全を選んだ。

 そんな社会において、結衣たちはあまりに特異で、アウトローの存在であった。

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