かわいいかわいい私の魔獣
魔王復活の報せは瞬く間に全世界へと広がらなかった。
そもそも伝達手段が郵便程度の世界に即座に地方の情報を中央へ届ける能力などないのだ。
「おかげでこうやって私たちも安穏としてられますねえ」
小さな家の中で椅子に座りながらユーカリは息をつき、テーブルにもたれた。
金持ちが冬の間使う別荘らしいが今は時期が違うためユーカリがサキュっと相談したことによって今はククルクルル一行が滞在していた。
「よろしかったんですか? 私まで連れてきていただいて」
厨房からミルク粥の入った皿を手にして出てきたのは先日物乞いをしていた男だった。
男の名前はキース・マクレガン。
元はこの国の首都にある魔術アカデミーに通っていた秀才だったそうだが、何を思ってか攻撃魔法を学んでいたことが級友たちによって密告され、追放処分を受けたのだ。
その追放処分の刺青がククルクルルにキスをされた瞬間に魔王の魔力で消し飛んだらしく、今となってはフリーのお尋ね者だ。
「いえいえ、ククルクルル様がようやく男性に興味を持ってくださった方ですから。 その調子で初夜もサキュっとお願いします」
「おい」
「え、そ、そんな、ククルクルル様さえよければ私は……」
「やめよ、頬を赤らめるな、まんざらでもない顔をするな」
自分の前に置かれたミルク粥をスプーンで口に運びながらククルクルルは2人に牽制の声をあげた。
ククルクルルは今だ自分の性の対象は同種の女であると主張し、この数日も男から精を吸い上げることをしなかった。
しかし、肝心の同種の女であるはずのユーカリへも手を出していないことから、ククルクルルは現状魔物と人間双方から男に抱かれるよう要請されている状態になっていた。
「もうこうなったら街に行って、ククルクルル様が壁から尻でも出してといたらいいんじゃないですかね? どうせ人間の男なんて穴があれば木の幹だって突っ込みますよ」
「それは言いすぎですよユーカリさん。 男にも好みの尻というのはありますし、ククルクルル様ほど美しいのであれば顔を出していた方が男は集まります」
「余の尻を安売りするでない!」
思わず大声を出してからククルクルルはミルク粥を一気に飲み干して、寝室へとかけていった。
その後ろ姿を見ながらユーカリは困惑したように自分の頬へと手を添えた。
「反抗期かしら」
◆
ククルクルルはベッドに横たわって息をついていた。
この肉体になってからひたすらに慣れないことをやり続けている。
龍であったころの自分は腹が減る、という感覚も眠いといった感覚も持ち合わせていなかった。
強大な体躯は恐れるものを何一つ持たず、欲と呼べるほどの明確な感情もほとんどなかった。
唯一あったのは、「他者と話したい」その思いだった。
龍の父は意思疎通こそ行えたが会話と呼べるものはできなかった。
これは母の遺伝、サキュバスが他者がいて成り立つ種族だからこその欲求だろうと納得して、ククルクルルはかつて意思疎通のための器官も自らの肉体に生み出した。
だから、強くなりたいなどという感情はククルクルルには無かったはずなのだ。
「この身があまりにも脆弱なためか?」
命を脅かされる危険すら生前には封印された瞬間以外に感じたことがなかった。
だからこそ、自分を殺そうと無謀な突撃をしてくるものたちは皆気に入った。
今でもそれは変わらないが、先のキースを助けた時に感じたがこの肉体はあまりにも脆弱である。
このように弱い体では突撃してくるものたちを愛でてやる前に自分が死ぬ。
そして何よりも、魔物たちを守ってやれない。
ユーカリがそう望んでいるから、ではないが現状の魔物が家畜扱いされているという世界は気に入らない。
生存戦争に負けた結果だというならば今度は魔物が勝てばいいだけのことだ。
人間は多少は間引く必要もあるだろうが、まあ生かしておいてもいいだろう。
何せキースの作る料理は美味かったし、多分人間の作るものでも魔物が気に入るものは多くあるから、そこは利用していけばいい。
当面の問題は自らの肉体の脆弱さだ。
このように弱くては魔物たちが自分を旗印に担ぎ上げても人間にはなんら効果あるまい。
「弱い?」
弱い、という言葉を考えている内にふと頭をよぎるものがあった。
なんだったか、名前も忘れてしまったごく小さなもふもふした魔獣だったのだが。
◆
「ぶぇーっくしょい!」
盛大なくしゃみをしてベガント山を根城にしている巨大な岩のような体をした魔獣・アズゼンは身を震わせた。
アズゼンはいまだ人間が手出しを躊躇うほどの強力な魔物であり、体毛の一本一本が剣のように鋭く、6つある赤い目はぎょろぎょろと周辺を睥睨して常に隙がない。
アズゼンは自分の鼻を大きな手でこすりながら、訝しげに眉間に皺をよせた。
「どうにも嫌な予感がしやがるぜ」
「アズゼン様ー! 魔王が復活したって噂があるようですぜ」
自分の前に転がるようにして出てきた猪の姿をした魔物を見ながらアズゼンはふん、と笑った。
「馬鹿野郎! 教会がククルクルル復活の予兆だとかいって騎士を派遣したのは俺様も知っている。 だーが、いまだに騎士どもは谷から出てこねえそうじゃねえか。 山脈も動いちゃいねえ。 ククルクルルは復活してねえ何よりの証拠だ」
「で、ですが、ハルスフルトって街に出た魔物が魔王を名乗ってたって」
「ぶぁーか! んなもんは便乗犯っていうんだよ! ククルクルルの名前を騙って人間どもをビビらせようなんて手口は昔はありふれてたんだ!」
「じゃ、じゃあ、なんだって今は誰もしないんですか?」
「決まってるだろうが、ククルクルルを名乗った魔物は全員ぶち殺されたからさ。 この俺様にな!」
アズゼンがそう語ると配下の魔物たちは恐れおののきながら平伏した。
その様子が愉快とばかりにアズゼンは高笑いをしていた。
まあ、本当はぶち殺したのは人間どもなんだけどなあ!
ククルクルルが復活したって情報を人間どもに流せばそれだけで騎士やらはそっちに集中して俺様が生き延びるチャンスが増えたってわけよ。
おかげでこの300年やべえ魔王もいない中、雑魚人間どもぶち殺して俺様は最強の魔獣になれたってわけよ。
アズゼンは内心で呟きながら、にやにやと自分の顎を摩っていた。
ククルクルル封印後、目立った魔物たちが次々に討伐されていく中を生き残ったということと、ククルクルルによって魔獣にされたという経歴からアズゼンは魔物の中でも一目置かれる存在となっていた。
しかし、その反面でククルクルルが封印されたことを誰よりも喜んだのもまたアズゼンだったのだ。
アズゼンの肉体にはククルクルルの魔核の一つが埋め込まれている。
強大な龍であったククルクルルは自らの魔核を複数所有しており、抜き出しても再生すると言っていた。
なんの気まぐれか死にかけていた獣に魔核を埋め込み魔獣とした、それがアズゼンだ。
そのため、アズゼンはククルクルルには逆らえない。
例えククルクルルと離れていたとしても魔王が魔核を砕くと決定したその瞬間にアズゼンの体は塵になって消えるのだ。
へっへっへ! 力ばっかりでアホなククルクルルは封印されて晴れて俺様は自由!
人間どもも魔術師狩りなんぞおっぱじめてるぐらいで、今の連中はかつてほどの力がねえ!
まさに今がこの世の春ってやつじゃねえか!
アズゼンはにんまりと笑みを浮かべると耳まで裂けている巨大な口で酒樽になみなみと入っていたワインを一口に飲み干した。
「アズゼン様、ハルスフルトの街を襲った魔物はサキュバスらしいですぜ」
「ぶはぁ! サキュバスだあ? そりゃ確かにククルクルルの母親はサキュバスだったがなあ、龍とおっぱじめられるサキュバスなんざマツリカぐれえのもんだ!」
「へへへ、とんでもねえオオボラを吹きやがったな」
「よーし、てめえらハルスフルトの大ぼら吹きがどこにいるか探してこい! 俺様が直々にククルクルルの恐ろしさを教育してやらねえとなあ」
ついでにサキュバスてことは美女に決まってるから、ぐへへへ。
アズゼンは下卑た思惑を隠しもしないままに部下たちへと号令をかけた。
◆
「へっくしぃ!」
マントのフードを被った状態でククルクルルはくしゃみをしていた。
今は食料品の買い出しのために近くの農村に来ているため、珍しいククルクルルの容姿を隠す必要があった。
「風邪ですか、ククルクルル様。 セックスします?」
「薬飲むか、みたいなテンションで聞いてくるでない」
うう、と小さく呻きながらククルクルルは自分の鼻に手の甲をあてた。
この間、自分の肉体の弱さから古い部下を思い出したところだというのに風邪などという人間並みの病になどかかってたまるものかとククルクルルは眉根をよせた。
「おい、キースは今この村で働いてるのか?」
「そうですよ、日雇いで宿屋の手伝いを。 文字の読み書きできる人なんて農村じゃほとんどいませんからねえ」
追放魔術師の刺青が消えているとはいえお尋ね者の身でよくやるものだ、とククルクルルは溜め息をついた。
一度目は奴の目がまだ生きていたことから拾い上げるに値すると命を助ける形になったが、ククルクルルの本質は魔物の王。 人間などいつ見捨てても構わないのだ。
「何分、服を買うにも生活をするにもお金がかかるのが人間社会ですから」
当初ククルクルルは生活資金を略奪によって得ることを提案したのだが、それはユーカリによって即座に否決された。
今のククルクルルでは騎士や本格的な魔物払いと戦えない、という意見であり非常に不本意だがククルクルルはそれに同意せざるを得なかった。
その結果、キースは宿屋、ユーカリは娼婦として働いている。
「余は働かなくてよいのか」
「何かできるんですか?」
仮にも魔王に向かって何かできるか、とは何なのだ。
ククルクルルは眉間に皺を寄せていたがユーカリは特に気にする風でもなかった。
ユーカリとキースにしてみればククルクルルは王なのだ。
王は君臨することが仕事であり、雑事に手を向ける必要などない。
ユーカリたちにとってはククルクルルが存在していることこそ彼の役目であり、彼にしかできない仕事なのだ。
だが、ククルクルルの方はそう感じなかった。
「貴様らがいない間、余は話相手もいない別荘に1人なのだぞ」
ククルクルルが生前から持ち合わせていた唯一の欲望、「他者と話したい」という欲求が満たされない。
それは魔王にとって何よりも今、切迫している問題だ。
だが、そう告げた瞬間ユーカリは盛大に噴き出していた。
「それじゃ、お小遣いをお渡ししますからしばらく村を見て回ってくださいませ」
そういっていくらかの銅貨が入った巾着を首に下げられ、魔王ククルクルルは片田舎の農村で置き去りにされた。
◆
フレデア王国の首都では教会の長老派に属する司教たちが国王へ謁見していた。
問題はひとつ、ククルクルル復活の予兆を調べに派遣した騎士たちが未だ戻らぬ異常事態についてである。
騎士に選ばれるものは傭兵の類とは違う。 家柄も地位もある立場で報酬をもらったから逃げるというようなことはあり得ない。
それが調査期間を終えても報告の手紙ひとつよこさず、最寄りの宿場にも逗留した記録がないというではないか。
「やはり、魔王が復活したのでは……」
「しかし山脈は動かず、地震もあれ以来報告されておりません」
「では何故騎士たちは戻ってこないのですか」
長老派のものと宰相の話を聞きながら国王は深い溜め息をついていた。
元々、人間と魔物の生存戦争において最前線であった防御要塞を拠点として作り上げられたこの国ではいまだに魔王ククルクルルへの怯えが根強く残っている。
それゆえに教会の長老派を中心とした魔物嫌いたちは些細な事象を魔王復活の予兆として言いがかりをつけてくることが多いのだ。
「何分、常は人の立ち入らぬ土地故、不測の事態があったのやもしれん。 私も現在新たに騎士を送って調査しているのだ」
「しかしながら、国王陛下……万一にも魔王が復活すればこのフレデアの土地は一挙に魔物らの襲来を受けるのですぞ」
「そうならないためにも、常から騎士たちには魔物の掃討を命じているし、この国では魔物の家畜にも登録制度を設けている。 仮に魔王ククルクルルが蘇ろうとも、恐れるべきはその巨躯であり、魔物ではない」
深く溜め息をつきながら国王は傍らへ控えさせていた騎士へと目を向けた。
鮮やかな金色の髪に美しい緑の瞳。 婦人ならば一目見た途端に恋に落ちるほどの甘いマスクをした自分の甥へと国王は声をかけた。
「ルドルフよ、ククルクルルを名乗る魔物が現れたという報せがあったな」
国王の一言に一挙に場はざわついた。
しかし、名指しされたルドルフはいたって落ち着いた態度で一歩進み出ると国王へと一礼をしたのちに、優美な微笑を浮かべて顔をあげた。
「はい。 報告されたのはハルスフルト。 種族はサキュバスと名乗り、体格は並みの人間程度とのこと。 死人もなく、怪我人が3名でいずれも軽症、行方不明者は追放魔術師が1名とのことです」
「だそうだ。 魔王の名も弱小の魔物が詐称するに落ちぶれたようだ」
ふははは、と笑う国王に追従するようにルドルフもにこやかな表情を浮かべていた。
魔王復活の予兆はやはり誤報に過ぎず、ククルクルルは蘇っていない、そんな空気が謁見の間に広がっていた。
だが、その謁見の間へと急いで駆け込んでくる兵士がいた。
「あ、アズゼンが人里近くに現れました! 方角は西、カズタービュの村です!」
「な、なに、アズゼンじゃと!」
告げられた魔物の名前に一挙に動揺が広がった。
魔王ククルクルルの直属の部下で唯一現在も生き残る最強の魔獣が何故カズタービュなどという農村に現れたのか誰にも理解できなかった。
兵士たちではアズゼンの足止めすらできない。
いっそ農村は見捨てた方が被害が広がらず済むのではないか、そんな空気が出かけた瞬間、ルドルフが高らかに声を上げた。
「陛下! 私に1個連隊の指揮権をくださいませ、必ずやアズゼンを打倒して参りましょう」
高らかに宣言するルドルフの表情には一切の曇りがなかった。
現存する最古の脅威へ挑むのは決死の戦いとなるというのに、悲壮感すら漂わせずきらめく緑の瞳を自分へと向ける甥に国王は目頭が熱くなるのを感じた。
勝てぬ可能性が高くとも弱者を見捨てることはできない、騎士としての使命に燃えるルドルフの姿にその場に居合わせた全員が感激した。
そして、ルドルフは長老派の司教からの祝福を受けるや部下たちを連れて城からカズタービュの村へと向かっていった。
その勇ましい姿、そして恐れを知らぬ様は首都に住むすべての民の心に、「たとえ魔王が蘇ろうとも我が国の騎士たちがいる限りこの国は亡ぶことがない」という絶対の安心を与えていた。
◆
農村の飯屋に入ってククルクルルはカウンター席に座っていた。
賑やかな話声が聞こえるのは嫌いではないし、早速牛乳とチーズグラタンを注文して待っていると背後で面白い声がした。
「なんでも首都の方じゃ長老派が魔王が復活したかもしれないって騒いでるんだと」
「へえ、またかよ……去年だって魔王復活! とかいって騒ぎになってたってのになあ」
どうやらこの300年あまりのうちに魔王ククルクルルへの恐怖心を人間たちはすっかり忘れ去ってしまっているらしい。
運ばれてきたチーズグラタンをスプーンで口に運び、はふはふと息をつきながらククルクルルは少しばかり自分の国について考えてみた。
まずは魔物の保護が最優先としてやはり今の自分だけでは戦力が心もとない。
キースは魔術師であり今となっては珍しい攻撃魔術の使い手らしいが所詮は人間の魔力では威力も知れている。
ユーカリはサキュバスという種族上、戦闘に向いているとはいいがたい。
やはり強い戦力を有した魔物、あるいはまとまった数の味方がいないと国として立ち行かせるのは難しそうだ。
だが、そのどちらも今は宛があるわけではない。 何しろ、ククルクルルは300年の時を経て復活したのだ、かつての部下など生きている筈もない。
「あのか弱いアズゼンなど、いの一番に死んだだろう……」
もふもふとした毛玉のような姿を懐かしく思いながらククルクルルはしみじみと呟いていた。
そしてもう一口チーズグラタンを食べようと口を開けた瞬間、唐突に外から鐘を叩く音が聞こえ、にわかに周囲が慌ただしくなった。
「魔物の群れだー! 魔物が来てる! 早く逃げろ!」
「襲撃だと、なんだってこんな……!」
悲鳴、絶叫、周囲が一気に騒がしくなる中、ククルクルルはチーズグラタンをよく噛んで食べていたが、不意に近くに立っていた男に腕を引かれた。
「おい、あんたも逃げろ!」
善意で声をかけてくれたのだろうが、ククルクルルは食事を邪魔されたことで不満げに眉根を寄せていた。
魔物の群れが来る、それの何が問題なのか分からなかった。
サキュバスのユーカリや自分がこの村に入った時点で魔物は村の中にいるのだ。
それが群れになると何故恐怖の対象になるというのか。
「良い、余は今チーズグラタンを食べている。 魔物らと語らうのは後にする」
「何馬鹿なこと言ってんだ! 殺されちまうぞ!」
「ふむ……ならば余は魔物である故問題はない」
「魔物だろうが関係あるか! 来てるのは……あのアズゼンだぞ!」
男の悲鳴にも似た叫びを聞いてククルクルルは一気に立ち上がった。
ようやく逃げる気になったのか、と安堵の表情を浮かべた男の顔を深紅の瞳がまじ、と見つめた。
「真にアズゼンであるか」
「ああ、この近くに出るって噂になってたんだ……くそ、俺も逃げておけば」
「そうか、良き報せをよくぞもたらした。 余はお前の献身に感謝する」
そういうなり、ククルクルルは椅子から立ち上がると男の前を離れて真っすぐに店の外へと出ていった。
男は当然ククルクルルが逃げ出したと判断すると自分も裏口から飛び出し、そしてすぐに悲鳴をあげた。
「ぎゃああああ!」
つんざくような絶叫にククルクルルはすぐに店の裏手へと走っていた。
そこにいたのは狼や猪の姿をした魔獣の群れであった。
先ほど、ククルクルルに逃げろと叫んだ男は今まさに豚に似た魔獣によって頭をかみ砕かれる瞬間だったのである。
「やめよ、その男は余に報せをもたらしたものであるぞ。 早々に顎より退けろ」
「なんだこいつ」
「人間のガキじゃねえのか?」
魔獣たちは一切ククルクルルを恐れることはなく寧ろ嘲りの声を上げて笑った。
しかし、その笑いの中をククルクルルは臆することなく進んでいくと、男の頭をかみ砕こうとしていた豚の顎に手をかけて押し開き、男へと目を向けた。
「ここより離れるがいい。 余計な手傷を追わぬようにな」
「ひ、ひぃ……!」
喉から悲鳴を零しながら走り去る男に他の魔獣が追いすがろうとしたので、やむなくククルクルルはその魔物の腹を優しく蹴り飛ばした。
どうにも体躯が小さくなるとそれだけで他の魔物が素直に話を聞いてくれなくなったように思われて、ククルクルルは溜め息をついた。
「なんだ、このガキ……魔物のくせに人間に雇われてんのか!」
「テメエ、俺達がアズゼン様の部下だと知ってるんだろうな!」
ククルクルルは眼前に詰め寄ってきた猿と猪の魔物を見つめながら鷹揚に頷いた。
双方ともにごく脆弱な魔物である。
キースの精を摂取したこともあり今は下級の魔獣程度であれば打ちのめすこともできるだろうが、それ以上にククルクルルは感動していた。
あのか弱かったアズゼンが今や一群の長として認められ、部下たちからこれほど慕われているのか、と。
いささか礼儀を知らぬものらではあるが、何分魔獣というのはそういう一途な気性を持っているのだから仕方なかろうとククルクルルは微笑みを浮かべて目の前にいる魔獣2体の頭を撫でた。
「アズゼンを呼ぶがいい、ククルクルルが戻ったと」
「いいや、呼ぶ必要はねえ。 俺様はここだ」
のそりと、近くにあった家屋をこともなく踏みつぶしながら巨大な獣が姿を現した。
体毛すべてが剣の鋭さを誇り、6つの目がぐるぐると動くその奇怪な獣は額から生えた角を突き上げ、牙を剥きだして笑った。
「探してたぜ、ククルクルルの名前を騙るサキュバスをよぉ」
◆
アズゼンはにやけが止まらなかった。
目の前のククルクルルを名乗る魔物があまりにも弱そうだったからだ。
もしこれがそこそこ力を持つ魔物だったら適当な理由をつけて逃げていたところだが、目の前にいるのは人間程度の大きさしかない魔物だ。
なんだったらアズゼンが一歩踏み出せば足で潰せる程度の存在だ。
サキュバスだと聞いていたが声からして男のようだし、そんなところまで詐称していやがったか、とアズゼンは嘲笑った。
目の前の魔物はフードを被ったまま何も言わず、僅かに肩すら震えている。
自分が歯向かった相手の恐ろしさが今になって分かったのだろう。
これは嬲って命乞いをさせながら頭から食らってやるのがいい、と笑って、アズゼンは口を開いた。
「俺様は魔王ククルクルルの魔核を持つ魔獣、アズゼンだ。 いいか、ククルクルルはテメエみたいなくそ雑魚チビじゃねえのよ。 今からたっぷりとテメエが騙った名前の重さを思い知らせてやらねえとなあ」
「アズゼン」
「ああん? 命乞いならまだ早……」
「余の面貌を見忘れたか」
そういって、フードを下ろした魔物の顔は、忘れようもない全人類、そして魔物にとってすら恐怖の象徴であった魔王ククルクルルの意思疎通器官の姿そのものであった。
ひぇ、と喉奥で悲鳴をかみ殺すなりアズゼンは勢いよくその場に土下座をした。
やややや、やべえ!! なんてこった本物じゃねえか!
なんで意思疎通器官だけでうろついているかは分からねえが、見間違えるわけがねえ!
俺様、ククルクルルにため口きいちまったよ!
殺される、確実に、間違いなく、絶対に殺される。
巨躯を痙攣のように震わせて跪いたアズゼンを前にしながらククルクルルは静かな声で問いかけた。
「ククルクルルの名の重さを思い知らせると言ったな」
「は、はい! 僕はですね、ククルクルル様のお名前を騙って悪さする奴らがですね、その~たくさんいまして、そういった連中にククルクルル様はそんなことしないんだぞ!って教えるのも、まあ、その、臣下の務めと思っておりまして、ええ。 その、はい、最近ではククルクルル様復活の予兆があるっていうから、また便乗犯がククルクルル様のお名前を騙っているのかと思いましてですね」
アズゼンは早口にまくしたてながら、自分の心臓が早鐘を打っているのが分かった。
ククルクルルの声が静かであることが逆に恐ろしい。
最弱の魔獣であった自分が300年間ククルクルルの威光によって好き勝手やってきたことなど目の前の魔王はもう見透かしているのではないかとアズゼンは震えていた。
「予兆があったと。 では、アズゼンよ何故お前は生きている」
問われた質問にアズゼンは息を飲んだ。
300年前の生存戦争を生きた魔物ならば誰でも知っている。
魔法王トバルハバルが魔王の封印に施した魔法の解呪方法は、魔王の巨躯を満たすほどの魔物の血を流すこと。
この解呪方法のために魔物たちは積極的に人間に挑んでは殺されていった。
アズゼンだけが命惜しさに逃げ回っていたから討伐されずに済んだのだ。
その不忠を魔王は責めているのだ。 何故、お前は自分の為に血を流さなかったのか、と。
終わった、そう感じると共にアズゼンは呻き声を零していた。
「何故だ、答えよ」
「そ、それは……」
「余の命令である。 答えよ」
「そ……そ、それ、は……」
もはや息も絶え絶えになっていた。
アズゼンは自分の目の前が何重にもぼやけているのを感じた。
いくら目の前のククルクルルが小さな姿をしていたところで、ククルクルルがただ念じればアズゼンの300年掛けて強化してきた肉体も何もかもが吹き飛ぶのだ。
アズゼンは必死に生きるための糸を手繰り寄せようとしたが、脳裏に浮かぶのは過去のことばかりであった。
ち、畜生……これが走馬灯ってやつか!?
ああ、なんだってククルクルルに魔核を埋め込まれた時のことなんざ思い出すんだ!
畜生、畜生、こっちは生きるか死ぬかの瀬戸際だってのに……!
口の端から泡を吹きながら、アズゼンは震える声を絞り出した。
「ククルクルル様のご命令だったからです……!」
周囲の魔獣にどよめきが走っていた。
いや、彼らはアズゼンが目の前の矮小な魔物に跪いた時からすでに動揺していたが、魔王ククルクルルがアズゼンにした命令のため今まで生きてきた、という言葉には別の意味合いが含まれていた。
アズゼンが300年かけて生き延びてきたその理由がなんなのか、その場にいた魔獣すべてが固唾をのんでいた。
「く、ククルクルル様がぁ、初めて僕に魔核をくださったときに……生きろ、と、命じられたからですぅぅ」
どう考えても殺されるであろう言い訳を口にし、アズゼンはとうとう決壊していた。
6つの目からは涙が溢れだし、鼻水やよだれ、泡まで吹いているありさまの顔を上げ、ククルクルルに命乞いをしようとしていた。
しかし、ククルクルルは無表情のままに手を突き出した。
終わった。 殺される。 俺様の、俺様の命が終わっちまう……!
追い詰められた恐怖のあまりに命乞いの声すら出ない。
悲鳴をあげることすら、視線を動かすこともできない。
アズゼンはただ愕然とククルクルルの手を見つめていた。
そして、その手はアズゼンの頭を撫でていた。
「よくぞ覚えていた、よいこであるな、アズゼン」
花がほころぶとはこういうことをいうのであろう笑顔を浮かべてククルクルルはアズゼンの大きな頭を抱きしめて笑っていた。
アズゼンは何が起こったか一瞬分からなかったが、覚悟していた死が回避された上に主人が怒るどころか喜んでいることを悟るや否や即座に媚び始めた。
「そ、そーなんです! 僕はククルクルル様と再びお会いできることを信じてこれまで生きてきたんです!」
「よくぞ生き残った。 余は感激のあまり身が震えたぞ……余の魔核があるとはいえ、多くの魔物が殺されたと聞いた時にはお前までも失ったことを覚悟していたのだ」
「もう、僕はククルクルル様のために生きてきましたから! これからも僕はククルクルル様の魔獣です!」
「よいよい、アズゼンの忠義は余が誰よりも理解している。 余の力になってくれるな」
「もちろんです! ククルクルル様ぁ!」
全力で媚を売り、さっきまでくそ雑魚といっていた相手にじゃれつく姿を見て魔獣たちは涙を流していた。
しかし、それは感動の涙であった。
「そ、そんな理由があったのかよ……!」
「アズゼン様は300年もの間、魔王様の命令を完遂するために!」
「魔王様も魔王様だ、生きろとご命令なさるだなんて、どれだけ器がでけえんだ……」
目の前で自分よりはるかに小さな主に全力の命乞いをした自分達の長を誇らしく思いながら、魔獣たちは忠義にあふれた熱い眼差しで自分たちの王であるククルクルルを見つめていた。