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アールグレイ

作者: ユーリ・レインデルス

 ……何処だろう、ここは。

 いつも通る道なのに、今日はどこを歩けばいいかも解らない。


 ……何時だろう、今は。

 いつも帰る時刻なのに、今日はいつ会社を出たかも解らない。


 ……誰だろう、僕は。

 いつも見る顔なのに、今日は誰がガラスに映り込んでいるかも解らない。


 解らない。

 本当に解らないんだ。



 僕の名はブライアン・ロジャー・グレイ(Bryan・Rodger・Grey)。イギリス、ロンドンのとあるオフィスで働く会社員だ。最近は仕事が忙しいが、できるだけ定時で退社するようにしている。というのも、妻のクラリス(Clarice)がいつも家で待っていてくれるからだ。

 クラリスと結婚したのは、一昨年のことだ。彼女は同じオフィスで働いていた後輩で、仕事ができて気も効く優秀な人材だったが、結婚を機に会社を辞めている。特に子供ができた訳ではないが、彼女曰く「結婚したら女性は家を守るものでしょ。」という話だった。イギリス人なのにどちらかというと日本人みたいな発想をするな、と思ったものだが、僕としてはとても嬉しいことだった。

 家はロンドン郊外のアパートメントである。郊外といっても、ロンドン市街の中心部から少し離れたところにオフィスがあるので、そのオフィスから歩いて二十分くらいのところだ。近いのもあるが、健康のためいつも歩いて会社へ行っている。



 ここまでの話だと、とても人生の勝ち組見たいに聞こえるかもしれないが、ひとつ大きな問題を抱えている。


 最近妻の機嫌が悪い。


 機嫌が悪い、と一口に言っても理由は様々あるらしい(妻の話や態度から推察するに)。毎日定時で退社している分、休日出勤せざるを得ず、妻とのまとまった時間が取れないでいることが大きな要因である、と僕は考えているのだがそれ以外にも妻はいろいろと言いたいことがあるらしい。

 言いたいことがあるなら言えばいいと思うが、そこは妻も気を遣っているらしく、あまり強くは言わない。僕としては何とも中途半端なので、いっそガツンと言ってもらいたいが、それでケンカにでもなったらと思うとそうも言い出せないでいる。


 こんな不安定な状態で二週間ほど過ごしたのだが……。



 ある朝。

 そろそろ冬が近づいてきて、今日は昼過ぎまでしとしと雨が降る天気予報だった。僕は新聞を片手に朝食を食べていたのだが、妻に


「明日は休日でしょ、どこか旅行にでも行きましょうよ。」


と話しかけられた。僕は


「泊りがけで出かけるのはちょっとなぁ。二日のうち一日は仕事をしないといけないし……。」


すると妻は、


「じゃあ日帰りは?」


 と言われたタイミングで、僕は新聞記事の中から我が社のグループ企業が経営破たんしたというものを見つけた。最近仕事が忙しかったのは、この企業のサポートをいろいろとさせられていたせいだったが、とうとう経営が行き詰ったらしい。これは我が社も尻拭いで忙殺されることになる。


「駄目だ。例のグループ企業が破たんした。これから一週間は帰りも遅くなる。」


それを聞いた妻がとうとう本音を爆発させた。


「どうして私は二の次なの!忙しいのは解るわ。でも、私のことも考えてほしい。私も好きで会社辞めた訳じゃない、あなたのためにこの一年半ずっと尽くしてきたのよ!」


 そう言われて僕は返答に困った。そうは言っても会社の状況がそうさせてくれない。妻も気持ちも解るが、僕にはどうしようもないのだ。

 涙目の妻を残し、僕は逃げるように家を出た。外は暗い空から時雨が降り注いでいた。



 会社から帰ることができたのは、いつもと同じ午後六時。部長が、見るからに暗く落ち込んでいる僕を見て、


「体調が悪いなら早く帰って、来週からの本格的な敗戦処理に備えろ。」


と言ってくれたのだ。

 その言葉に甘えて会社を出た僕は、いつもの道を歩き始めた……。



 外はもう雨が上がっていた。しかし、濃い霧が出ていて、視界が50メートルもなく、空は夕日が沈んだ直後でオレンジとも紺とも判別がつかないような色だった。

 ロンドンは霧で有名だが、これほどのものは一年に何度も出ることはない。それほどの濃霧の中、僕は家に帰ろうと歩き出した。


 歩き出して数分、疲れ切って何も考えていなかったら、霧の中、今どこにいるのか解らなくなってしまった。

 何も考えていなかったため、会社を出てからどれくらい経ったかも解らない。ふと右を見ると喫茶店があり、その窓ガラスに自分の姿が写り込むが、霧が濃すぎてそれが自分なのかも解らない。


 ……何処だろう、ここは。

 ……何時だろう、今は。

 ……誰だろう、僕は。


 もう何も解らなくなって、なぜだか急に寂しくなって、いてもたってもいられずとりあえずその喫茶店に入った。



 喫茶店には髭の似合うハードボイルドな感じのマスター1人しかいなかった。この時間だから当たり前か、と思いとりあえずカウンターに腰を下ろした。

 マスターが注文をしろという顔をしてきたが、喫茶店などしばらく入ったことがなかったのでとりあえず、


「この時期のおすすめは?」


と無難に聞いてみた。


「ウチは紅茶しかおいてなくてね。今はアールグレイとかになるよ。」


マスターはそう返してきた。あまり紅茶に詳しくない僕は、


「アールグレイってどういう紅茶ですか?」


と聞いてみたところ、


「アールグレイとは昔のイギリスの首相、チャールズ・グレイのことだよ。ウチのアールグレイはダージリンにチュニジア産のベルガモットで香りをつけたこだわりのフレーバーティーさ。」

マスターは自信ありといった口調で答えた。


「じゃあそれで。」



 アールグレイが出てくるまで、気になったのでかつての首相、チャールズ・グレイについて調べてみた。どうやら自分の苗字と同じスペルらしい。そうこうするうちに柑橘系のいい香りがした紅茶が出てきた。

 少し飲むと、甘酸っぱい香りが口に広がり、何ともリラックスした気分になった。半分くらい飲み終えたところで、マスターが


「なんか悩みでもあるのかい?」


と聞いてきた。自分は初対面の人にも暗い雰囲気が伝わってしまうほど落ち込んでいたのか、と驚きながら、


「今朝妻とケンカしちゃって。」


と答える。


「最近仕事が忙しくて。妻から見ればちゃんと想いが伝わってなかったんだろうな。一応妻のことは大切にしているんですよ。ただ、どうしても仕事優先になってしまって……。」


自分でも驚くくらいするすると言葉が出てきた。それほどストレスがたまっていたのか、それとも今の天気のせいか。


「……女は、難しいよな。俺もそんなことがあったが、そういうのはちょっとした気遣いで解決するもんだ。」


マスターはそう言ってくれた。


 どうしてか解らないが、涙が出てきた。



 喫茶店から出る前に、この店オリジナルのアールグレイが売っていたので、購入して帰ることにした。妻は紅茶好きなので、きっと気に入ると思う。

 帰り際、マスターに


「あんた、名前は?」


と聞かれたので。


「ブライアン・R・グレイです。」


と名乗った。すると、マスターは、


「苗字がアールグレイか。その紅茶、ちょうどいいじゃないか。」


言われて初めて気づいた。僕の名前はアールグレイか。どうやらこの紅茶にはかなりの縁があるらしい。


「ありがとうございます。会社、ここから近いんで、また来ます。」


そう言って店を出た。


 外はまだ霧が出ていたが、さっきよりは薄くなっていた。

 帰ろうと家の方向に踏み出すと、向こうから見慣れた姿が歩いてきた。妻だ。


「あんまり遅いからどうしたかと思って。心配だから会社まで迎えに来たのよ。それがどうして喫茶店から幸せそうな顔で出てくるのよ!何、浮気!?」


おいおい浮気はないだろう、そう思いながら、


「ふふふ。」


なんというか、安心して嬉しくなってしまった。この人を妻にしてよかったと、改めて思った。

 僕は、何も言わず彼女の手を握り、家に向かって歩き出した。


 妻は驚いた顔をしたが、僕に寄り添って歩いてくれた。傍から見ると若いカップルのようだ。まあ、結婚はしているけれどカップルには変わりない。



 ふと思い出して妻に、


「アールグレイっていう紅茶を買ったんだ。後で一緒に飲もう。」


というと、


「アールグレイってあなたじゃない。」


せっかく話のネタに取っておいたものを、一瞬で見破られた。



なんだかんだ、妻はすべてお見通しか。

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