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湿気ペンギン

作者: 千百

 大学進学が決まり、茉莉は親元をはなれて阿佐ヶ谷のワンルームマンションに部屋を借りることになった。そこはかなり古く、マンションというのもはばかられるほどだった。築年数は、当時の茉莉の年齢の二倍以上はあった。

 引越しが終わり新生活が始まったばかりのある春の夜、茉莉はベッドに寝っ転がり、何をするでもなくだらだら過ごしていると、少しだけ開いていた網戸のすき間に、外側からペンギンの黒い翼が差し込まれた。翼はそろそろと網戸を開くとぱっとひっこんだ。茉莉が息をこらして見つめていると、しばらくして今度はペンギンの顔がのぞいた。二人の目が合った。茉莉は口をあんぐりと開け、CDプレイヤーのイヤホンを外しながらベッドの上に身体を起こした。

「うそ…ほんとにペンギン?なんでこんなところにいるの?」

 まさか阿佐ヶ谷でペンギンにお目にかかれるとは思わなかった。ペンギンなんて南極や北極や、水族館にいるものとばかり思っていた。目の前のペンギンはかしこまって翼を口元に添え、小さく咳払いした。

「どうもこんばんは。突然お邪魔してすいませんが、私は湿気ペンギンという者です。さてそこのあなた、雨だというのに窓を開けて、しかも網戸まで開けていましたね?不用心きわまりないですよ。だからこうして私につけこまれる羽目になるのです。私はしばらく、ここにいることに決めました。私がいると、ひどいですよ。あなたはこれからたっぷりと、自分の浅はかさを後悔すればいい」

 そう言うと湿気ペンギンは、呆気にとられている茉莉の目の前でよいしょと窓の敷居をこえてベッドに飛び降り、さらにベッドから床に降りた。そして、ぺたぺたとしめった足音を立てながら悠々と部屋を横切り、我が物顔でユニットバスに入っていった。

ぱたりと扉の閉まる音がして、茉莉ははっと我に返った。慌ててユニットバスをのぞいてみたが、ペンギンの姿はなかった。


 湿気ペンギンは、つねに茉莉の部屋の中を歩き回っているわけではなかった。普段なんでもないようなときは、たいてい姿を消していた。ただ、湿気ペンギンが現れて以来、洗濯物が気持ちよく乾くことはなくなった。本棚にしまった本は、いつのまにかたっぷりの水気を吸ってしまい、ぐにょぐにょと波打っていた。夜遅く帰宅してみると、床の上に、湿気ペンギンが歩いたらしい足跡が小さな水たまりになっていることもあった。

 さすがに洋服は死守したい、と茉莉はクローゼットの中に除湿剤を入れてみたが、三日と経たずにタンクの中は水でいっぱいになった。試しに振ってみると、たぷたぷと水の音がした。その音は、海の波の音に似てなくもなかった。いずれにせよ、これではあまりに不経済なので、除湿剤はあきらめることにした。そのかわり、クローゼットの扉はいつでも開けたままにした。少しでも風通しを良くしたら多少は乾燥するかと思ったのだが、結果は推して知るべしだった。

湿気ペンギンは、勝ち誇ったように翼をばたつかせた。

「どうです。私がいると不便でしょう」

 不便とかそういう話なのだろうか。茉莉は心の中で首を傾げた。

「うちに来る前は、どこにいたの?よそのお家?」

「そんなこと、あなたには関係ないですようだ」

 湿気ペンギンは、くちばしをとがらせてそっぽを向いた。その様子はなんだか子供のようで、茉莉は思わず笑ってしまった。湿気ペンギンはわざとらしく大きな足音をたて、ぷりぷりとお尻を振りながらユニットバスに消えていった。


 四年ののち、茉莉は無事に大学を卒業し、就職も決まった。湿気ペンギンは、その間も茉莉の部屋に住み続けた。

「ストッキングを履くときくらい、その湿気、ちょっとおさえめにしてほしいんだけど」

 茉莉が抗議すると、湿気ペンギンは両方の翼でくちばしを押さえて笑った。

「ふん、そんなことしてやるもんか。茉莉がきちんと網戸を閉めておかないから悪いんだよう」

 そして、嬉しそうに床をくるくると駆け回った。湿気ペンギンの足もとは、水でびちゃびちゃだった。床の上に水たまりができて、小さなしぶきがあがった。カーテンレールにかけていたリクルートスーツに、水がはねた。


 やがて茉莉には恋人ができた。そして結婚が決まり、部屋を出ることになった。二人で、新しくマンションを借りることにしたのだった。引越しの前日になると母が手伝いに来てくれたが、部屋に入るなりあまりの湿気の酷さに驚いていた。

「東京は、やっぱり違うのねえ。ちょっと動くだけで、もう汗だくよ。気持ち悪いわ」

 茉莉は黙って荷物を段ボールにつめていた。東京の湿気はたしかにひどいが、この部屋に限っては湿気ペンギンのせいもあるのだと説明してみたところで、分かってもらえる自信はなかった。引越し用の段ボールも、たっぷりの湿気を吸ってしっとりとしていた。

 その日の夜中、久しぶりに湿気ペンギンがひょこりと顔をのぞかせた。どうやら、母が眠りこむのを待っていたらしかった。茉莉は久々に湿気ペンギンに会えたので嬉しかったが、湿気ペンギンは裏腹に浮かない顔をしていた。

「ねえ、明日引っ越すの?」

 湿気ペンギンは、不満そうにたずねた。

「そうよ」

「もっと広いところ?」

「そうよ」

 湿気ペンギンは黙り込んでしまった。その力なく肩を落とした姿を見ていると、もしかして湿気ペンギンはこの引越しがさみしいのかもしれないと思えてきた。そう思うとなんだか可哀相になってしまい、茉莉はつい声をかけた。

「ねえ、次の家に、あなたも一緒に来る?」

「えっ。いいの?」

 湿気ペンギンがいなかったら、週に一度、ベッドの下に頭を突っ込んで板の裏側にカビが生えていないか確かめるという面倒な作業もなくなる。湿ったストッキングをべとべとの肌に張りつかせながら出勤する、最悪の朝ともおさらばできる。エアコンの除湿機能と電気料金の闘いにも、ついに終止符が打たれるのに。

 我ながらお人好しだと思ったが、湿気ペンギンが喜びにぱっと顔を輝かせたのを見ると、これで良いのだと思えた。湿気ペンギンは小さな翼をばたつかせてダンスを踊りながら、台所の冷蔵庫の前までスキップし、扉を開けた。そしてからっぽの冷蔵庫の中に入ると、内側からばたんと扉を閉めた。

「…湿気ペンギンさん?どうしたの?」

 返事はなかった。茉莉は冷蔵庫の扉を開けてみたが、冷蔵庫の中は、青白い光の中に小さな水たまりがあるだけだった。いつものように、突然やって来て、またどこかに行ってしまったのだろうか。冷蔵庫の扉を閉めると、部屋はまた暗くなった。母の規則正しい寝息が戻ってきた。窓の外からは、鈴虫の声が聞こえてきた。いつの間にか秋も深くなり、朝の美しい季節に変わっていた。


 結局、湿気ペンギンは新居には来なかった。新しい家の洗濯機には乾燥機もついていたし、浴室はスイッチ一つで三段階の風が吹き、洗濯物を自在に乾かすことができた。きっと、彼にとって住み心地の良い場所ではなかったのだろう。寂しいが、仕方なかった。長い時間を一緒に過ごしてきたはずなのに、嘘のようにあっけないお別れだった。さみしさを感じる暇もなかった。

 あれから数年が経ったが、茉莉は今でもテレビや本でペンギンを見かけると、私の湿気ペンギンは今頃どこでどうしているのか、新しい家を見つけてうまくやっているのか、どうしても心配になってしまうのだった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 湿気ペンギンさんは憎たらしくもかわいいですね! 家にいたらとても迷惑ではありますが(笑) 茉莉さんも一緒に住むことで情が移っているとてもステキでした!
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