#14
片膝をついて、頭を垂れて控えていると、慌ただしい駆け足の音が背後から迫ってきた。何とも分かりやすい人物だな、とウィリアムは床面に向けて笑みをこぼす。
足音が止み、衣擦れの音がした。着座したようだ。そして、息も絶え絶えな様子の言葉が降ってくる。
「はぁはぁ……ウィリアム、良くぞ戻ったな……!余は日々お前の身を案じて、戻るのを今か今かと待ちわびていたぞ!」
「陛下。ただ今帰参しました。ありがたいお言葉、痛み入ります」
イタリア王国、首都、ローマの王宮の玉座の間には帰参と、成果の報告、そしてパキスタン首相からの書状を渡すためにウィリアム一人で赴いた。個人的には仕事を手伝ってくれたカンナバーロも同行させたいところだが、基本的に国王との謁見にはそれなりの身分が必要な上、彼自身も「緊張しますんでかしこまった場所は遠慮しますぜ」と言っていた。今ごろは兵舎で身体を休めている事だろう。
「いつまで地面と談笑しているつもりだ。顔を上げてくれ」
「はい、では失礼して」
久しぶりに見たイタリア国王、ミケーレ・マランツァーノ三世は、赤い衣装と黒いマントという出で立ち。そのブロンドの頭の上には珍しく、王冠はない。澄んだような蒼い瞳は当然そのままだが、今までと違って口髭を蓄えていた。貫禄が出る、と言うほどの年齢ではないが、若々しかった印象は消えつつある。
十二近衛は相変わらず六名ずつが向かい合って控えているが、玉座の周りに侍従はいない。大司教などの重鎮の姿もない。共も連れずに此処まで駆けてきたのか。余程の急ぎようだったに違いない。
そんなことを考えていると、右大臣のアダムがヒステリックな声を上げながらやって来た。
「へ、陛下!私を置いて行かれないでください!そこまで慌てずとも、バレンティノ卿は逃げたり致しませんよ!」
にこやかだった国王の顔が少し曇るものだから、ウィリアムは笑いをこらえるのに必死で、その肩が小刻みに震える。
もちろん、国王とて自らが指名したはずの右大臣本人を嫌っているというわけではない。投げられる小言や諫言が煙たいと感じているだけだ。大司教なども国王に意見することはあるかもしれないが、特にアダムは国王と行動を共にすることも多いせいで、耳に胼胝ができるほどだろう。
「おっと、バレンティノ卿。これは失礼した。よく戻ったな。息災そうで何より」
アダムはついでのようにウィリアムへ軽く会釈した。綺麗に剃り上げたスキンヘッドがきらりと光る。
「あぁ、あんたも相変わらずせわしない男だな。陛下が置いてきたくなる気持ちが分かるよ」
「ふん。誉め言葉としてもらっておこう」
口を緩めてニヒルに笑う。言葉の文面だけ見れば刺々しいやり取りにしか思えないが、アダムの表情は以前ほど憎悪の滲んだものではない。実際、ウィリアムが帰還した事を喜ばしく思っているようだ。少しくらいは喜ばしく思っている、といった方がより正確かもしれないが。
「さてさて。長旅で疲れておるだろうが、首尾を聞かせてもらいたい」
「はい。ではこちらを。一枚はパキスタン首相からの原文。二枚目は俺が翻訳したものです」
懐からパキスタン首相の書状を取り出す。玉座に座る国王の代わりに、アダムがそれを受け取って国王に両手で差し出した。
「拝見しよう」
国王は先ず、原文を一通り黙読した。英語表記なので完全に理解は出来ないはずだが、それでもいきなりウィリアムの翻訳文から読むという無礼はしなかったわけだ。
一息つき、次はウィリアムが準備してパキスタンにいた高僧に原文との差異がないか確認してもらった翻訳文だ。
真剣な眼差しが徐々に緩んでいく。読み終えるや否や、国王は自身の膝をパシン、と大きく打った。
「でかしたぞ、ウィリアム! これでパキスタンは我が国の属国となったわけだな!」
「ほう、成功させて参ったのか。大した成果じゃないか」
国王に続いて、右大臣も素直に称賛の言葉を口にした。
「はい、何とか上手くいきました。草案をまとめて返信をしてやってください。彼らの協力があれば他のアジア国との交渉も良い方向に転ぶはずです」
「あいわかった。出来る限り急ごう。こうしている間にも魔族の手は刻一刻と忍び寄ってきているのだからな」
ここで、背後に複数人の気配を感じてウィリアムは無礼と思いつつも、国王と右大臣から目を背けて振り返ってしまった。
大司教クレメンティと研究室長のベレニーチェが玉座の間の半ばあたりまで来ているところだった。遥か後方にある入り口の扉付近にカンナバーロが片膝をついて控えている。なるほど、城内のどこかで二人に見つかってここまでの案内を頼まれたか。
「陛下、バレンティノ卿の帰着を耳にいたしまして、いち早く労ってやりたいと勝手ながらこちらに参りましたぞい。よう帰ったの、ウィリアム」
大司教がそう言いながらウィリアムの真横に、ベレニーチェと共に跪く。
「ふふ、仲の良いことだな。皆には悪いが、急ぎ報告だけを先に受けておったのだ。相手国からの書状も受け取り、あとは余が徹夜で返書をしたためるだけよ。労いと申すのなら、明日以降にでも開催するつもりだった酒宴を今晩にしてはどうだ、アダム?」
「二、三時間、いただければ準備させましょう。しかし、バレンティノ卿はお疲れではないか?」
「ここで辞退なんて出来ると思うか? 是非、お願いするよ。その代わり明日は何も仕事なんかしないからな」
……
酒宴が国王、大司教などの重鎮たちと共に催される。タルティーニ中将は任務で不在だったため、結局は先ほど玉座の間に集まっていた面々の内、カンナバーロや十二近衛を除いた面子だ。
急がせたせいか思ったほど豪華なものではなく、メインディッシュは川魚のグリルだった。それでもしばらく遠征していたウィリアムにとっては御馳走だ。
「ウィリアム。パキスタンの首相とはどのような人物であった?」
食事や酒を楽しむ中で、国王がウィリアムに問うた。
「慎重と言うか、内に閉じこもっていると言うか、街を全面閉鎖して宗教に傾倒していて苦労させられました。こっそり忍び込む必要があったので、外交官ではなく隠密になった気分でしたよ」
「ほう!宗教とな!」
宗教という言葉に反応し、大司教が関心を示した。
「ふふ、さすがは聖職者ですわ。大司教様」
ベレニーチェが口元を手で抑えて笑っている。
アダムはあまり宗教がらみの話には興味がないようだ。実直な人物なので、精神論に強く影響されるとも思えないのは当然か。
「パキスタンはイスラム教が主流の国家なんだが、首相は仏教徒でな。お偉い坊さんが中国から布教に来てたんだが、すっかり感化されてしまっていたよ」
「頷ける話じゃな。徳の高い僧侶や神父は多くの人々の心を掴む」
「自分もそうだと言ってるみたいでちょっと格好悪いぞ」
「やかましいわい」
イスラム教や仏教についてはこの場の全員が既知の宗教だったようで、何だその宗教はという質問は出なかった。
カンナバーロは全く知らなかったのだが、さすがに一介の下士官とこの場にいる面々とでは教養の土台が違いすぎる。
「しかし、徳が高い僧侶が国の元首を動かした、か……」
為政者として、国王はその点に着目した。
ここイタリア王国でも宗教の力は根強いのだが、イタリア国王はそれを政治と結びつけることは無い。高い地位を与えられている大司教であっても、許されるのは国王への発言までであり、最終決定権を所持するのは国王だ。
人柄だけ見ればイタリア国王はかなり親密に話を聞き入れてくれる人物ではあるが、それでも長らく続いてきた王政国家にとって、いかに宗教が力を増そうとも王家を転覆させることなど想像もつかない。
もちろん、歴史に学べば何かしらの宗教によって斃された王は存在するので、今の国では想像もつかない、が適切ではあるが。
「どうやら彼、パキスタンの首相は『国民が仏教徒となることで一致団結できる』と考えていたようで。それで他との交流を閉ざしてしまっていました。単刀直入に言ってしまえば、俺はそれを説得しただけですよ」
「その方法では首を絞めるだけだな。仏教の教えが余程、魅力的に映ったのか」
「はい、その通りです」
「しかし我が国も、切羽詰まって早急な一致団結が求められる時が来れば、何かにすがる必要があるのだろうか?一時的な侵入こそあれ、まだ欧州列強は侵攻を受けてはいない」
無論、瀬戸際に寄せないためのアジア各国への働きだが、仮にそれが破られたら、という話だろう。
「その旗印こそが王家であり、陛下御自身であるべきでしょう。それに、我が国は専属の軍隊を抱えています。規模も大きく、国防だけに限れば、当面は現体制で問題ないと思いますが」
だがこれも東からの侵攻のみに絞られ、各都市に来ている侵入が一時停止した場合という楽観的なものだ。同時に事が起これば状況は厳しい。
「確かにこれは愚問だったな。帰って早々に切り出すのも気が引けるが、他の国への出立も出来る限り急ぎたい。日取りは任せる。期待しているぞ、ウィリアム」
「はい、俺もそのつもりでいますから安心してください。二、三日は休みをもらいますがね。それで、出来れば古くからの舎弟を連れていきたいんですが、今回も難しいですか?」
マルコはウィリアムとの同行を許可されなかった。ウィリアムと同郷のアメリカ人……異世界人と正しく認識されているかは微妙だが、そのどちらかは安全圏に置いておきたいというイタリア国の意向だ。
「そうだな、残念だがそれは協力してもらいたい」
「泣きついてくるアイツを説得しなきゃならないのが、この仕事の一番の苦痛ですよ」
「ううむ……分かってくれ、としか言えんのが歯がゆいところだな」
半分は冗談のつもりで言ったのだが、気の毒に感じたのか、国王は目を閉じて首を左右に振った。
「まぁまぁ、その話はその辺りで。陛下もウィリアムも、今はこの宴を楽しみましょうぞ」
「私はバレンティノ卿に珍しい食べ物など見かけなかったか聞きたいところですな」
大司教が朗らかに言うと、アダムが珍しくそれに乗っかる。
「珍しい食べ物か……そういえばバナナがあったな。久しぶりに口にしたが、アンタは知らないんじゃないか?」
「バナナ?聞き覚えのない食べ物だが」
「熱帯樹になる果実でな。房のように、何本も纏まってなる。熟すと黄色く、甘いんだ。食感は少々ねっとりとしているから好みが分かれるかもしれんが、主食としても利用できるほど栄養価が高い」
控えていたメイドに紙を借り、簡単な絵図に模写してやった。
「興味深い。果物であれば、主食となり得るのに小麦のような加工は不要というわけか」
「まぁ、不思議な形をしていますわね」
アダムとベレニーチェが言った。
少し遅れて大司教や国王でさえも身を乗り出してウィリアム画伯作のバナナの絵図に視線を落とした。純真でノリがいいのは結構だが、テーブルを囲んでバナナの絵図を見つめる、これが国を動かす首脳陣だと思うと吹き出したい気持ちに襲われる。
「そんなに興味を持たれるとは思わなかったな。これは苗木か種を持ってくるべきだったかな。実際、食料にもなるんだからな」
「しかし熱帯に自生するのだろう?温帯気候のイタリア国内で栽培可能だろうか」
アダムから鋭い質問が飛ぶ。
「そのあたりは俺も詳しくないな。湿地帯に寄せて水を多少多めに与えておけば良いんじゃないか?寒すぎると死ぬかもしれないが……とにかく俺の仕事は持ち帰るまでだろうさ」
「食べ物以外のお話も聞きたいですわね。街の雰囲気などはいかがでしょう」
「首都のイスラマバードは太い丸太の塀で街全体を囲まれた城塞都市だったよ。山間にあってもともと攻めづらい立地なんだが、先に話した首相の意向でさらに堅牢なものになっていた。建物は簡素な木造が多かったな。あとは、カラチという大都市があるんだが、こちらは驚くほどに栄えていた。人口もかなりのものなんじゃないか」
予想通り、イスラマバードの話よりは、カラチの話に各々が関心を示す。
「カラチという街の方がイスラマバードよりも栄えているのか?なぜ遷都しない」
アダムが首を傾げる。欧州列強国では最大都市が首都になるのが慣例となっている。人や物が集まる場所に政治機能を集約させた方が何かと効率がいい。
「遷都しない理由までは分からないが、河川に近い街と山間の首都では栄え方に差が出るのも当然だろうな」
水辺の交通網は人や物の流れに直結する。便利な場所が栄えるのは世の常だ。
「暮らしている民の雰囲気はどうであったかの?首相の政策の甲斐もあって幸福そうであったか?それとも魔族の脅威に怯えておったか?」
大司教は遠回しに仏教の心理的影響を知りたがっているようだ。
「どちらかといえば暮らしに満足していないようだったな。貧困層も多かった。だが、仏教絡みというよりは街を閉鎖してしまったことに人々は不満を漏らしていた。今はもう解消されているはずだ」
「ふむ。自由を奪えば誰しも苦しくはあろう。パキスタンの民に神のご加護があらんことを」
「俺もそう祈っているよ。他にはなにかあるか?」
宴を楽しもうなどと提案していた割には、大司教本人からもウィリアムが質問攻めにあっているわけだが、それはご愛嬌といったところか。
「いいや、わしはないぞい」
「では余から」
「どうぞ、陛下」
大司教に代わって国王が名乗り出た。
「今回の初の飛竜による旅路はどうであった?怪我もなく帰ってきているが、空の上で長い間、飛竜の背に揺られて快適だったわけではあるまい」
「乗り心地は悪くないんですが、一度飛び立つと日が暮れて暗闇に紛れるまでは着陸できません。馬や船旅とは違って、用を足せないのに困ってましたね」
陸路ならいつでも小休止はでき、海路なら船の縁から海に垂れ流せばいいわけだ。小便はカンナバーロがやっていたように瓶でも使えばいいが、大便は騎乗したままでは難しい。
「イギリスに使者として向かったときのような発明が必要か」
イギリスへの道中は、若干遅い速度以外は快適すぎるくらいのものだった。ちょっとした小屋というくらいの巨大な荷台を数頭の馬で引いていたのだから当然だ。とはいえ、あれにも便所までは搭載していなかったが。
「軽く考えつつ、時間があればヘンリーにでも相談してみますよ。ただ、どう足掻いても次の出発には間に合わないでしょうが」
ウィリアムがパッと思いつくところでは、人が乗れる大きさのバスケットを準備し、それを飛竜の背に積むのではなく、縄で吊り下げて運んでもらうというものだ。熱気球の気球部分が飛竜になったような見た目になる。
だが飛竜の疲労度は確実に増す上、声が届かず思い通りに指示ができない危険性がある。また、急な旋回や上昇下降が必要になった場合はバスケットが振り回されてしまうので騎乗よりもスリリングな旅になってしまうだろう。
「うむ。だが次はパキスタンよりも航行距離が長い。大事にならなければよいが」
「たとえ腹を下して漏らしたところで死にはしませんから。何とかなるでしょう」
「ごほん!一応、食事中なのだがね。ヴァレンティノ卿?」
アダムが大きな咳払いをし、嫌味を吐いてきたのでこの話題もここまでだ。国王や大司教は真剣に話を聞いていたが、ベレニーチェは困ったような力ない笑顔だ。
自身も下品な話だとは理解しているのでウィリアムは素直に謝罪する。
「悪かった。俺も一番の困りごとはそれしか思い浮かばなくてな」
「ふん、卿は品性というものを身につけねばならないようだ。すべてのイタリア貴族がそうだと思われてしまうぞ」
「謝ってる人間に追い打ちかけるのが品性だって言うんなら、そんなものを身につけるのはお断りだけどな」
「待て待て。お前たちは隙あらば言い争う関係がまだ直っていないようだな」
国王がそう言って二人を止める。だが、当の本人たちはケロリとしたもので、以前の険悪な仲とは全く異なるものだとは、二人の間でしか分かり合えないものなのだろう。
「話題を変えると致しましょうか」
気を利かせたベレニーチェが言葉を続ける。
「チェザリス少尉……今は中尉ですが、中隊長選抜の試験に合格されたそうですよ。新しい隊を預かると同時に大尉へ昇進なさるみたいです。お若いのに大したものですわ」
お前の方がよっぽど若いのに研究室長じゃないか、という言葉を返す程ウィリアムも野暮ではない。
「おぉ、そうか!それはめでたいな!」
「はい、次の出発の前に是非会ってあげてくださいな」
中隊規模なら少なくとも五十名ほどの部下を抱えることになるだろう。大出世といっても決して過言ではない。
「もちろんだ。彼は兵舎に詰めているのか?」
「さぁ、そのあたりはなんとも。どなたかご存知ありませんか?」
残念ながらこの場に中将はおらず、国王や右大臣も士官とは言え一兵士の近況など知るはずもない。
「まぁいいさ。詰め所で直接聞いてみよう」
「めでたい話と言えばイギリスの新王が婚約したそうだ。昨日、使者から伝えられた」
国王が言った。イギリス新王といえばまだ少年だ。かなり早いが、王族にとって早いうちから妃を娶るのは珍しいことでもなかろう。肝心のイタリア国王、目の前の若き獅子は独身だが。
「それもめでたいですね。お相手はどなたですか?」
「フランス国王の第二王女だ。これは大きいぞ」
イギリスはイタリアに対して協力的な姿勢を見せていたが、フランスはその意向が掴めないところがあった。イギリス王家と婚姻関係となるならば、事実上の同盟関係と言っても良い。イタリアに対しても敵対行動を取るとは考えづらいのでこれは朗報だ。
「それは驚きましたね。正直なところ、フランスがどう動くのかは予想できていませんでしたから」
「余も同じ考えだった。だがこれでドイツの離反に対して間接的に圧力をかけることが出来る」
「ドイツに何か動きはありましたか?」
国王のみならず、皆が黙る。何かあった、ということだろう。
「ヴァレンティノ卿よ。実はタルティーニ中将が欠席なのもそれが理由でな」
右大臣のアダムが自身のスキンヘッドを撫でながら苦々しく言った。
「……と言うと?」
「国境沿い。つまり欧州4カ国の中心に当たる場所で、ドイツが大規模な軍事演習を行っていてな。その兵の数およそ一万。もちろん自国領土から出てはいないが、イギリス、フランス、イタリアのいずれかに攻め込むつもりなのではと思われても仕方のない行為だ。我が国も牽制のために騎士団の大部隊を派遣せざるを得なくてな」
「前線に総司令を詰めさせるほどの一大事ってわけか。しかし、そのせいで自領に魔族の侵入を受けたときの対処は苦しくなる。それはドイツとて同じことだろうがな」
必死に頭を巡らせてドイツの狙いを読もうとするが、難しい問題だ。解答は浮かんでこなかった。
「狙いは未だにわかっておらん。我らを混乱させるための策なのか、中央部に各国の兵力を寄せ集める意味があるのか、それとも本当にどこかへ攻め込む準備なのか」
「今のところは対話のテーブルにつくつもりはない、ということだけは良くわかったよ」
めでたい話の後に結局、暗い話題がぶり返してしまった。再びベレニーチェが話を振る。
「バレンティノ様。実は、エイハブの左腕を作ったのですよ.簡単なものですが、より生活が楽になればと」
「義手か?いいじゃないか」
「はい。時折ムッソリーニ様にお越しいただいて、二人で微調整しているところですわ」
隻腕の少年、エイハブは今までも十分に生活できていた。
戦で傷つくことも多い世の中だ。義手や義足などは街で売られているが、子供用となると需要が少ないため自分たちで作成することになったらしい。
「形を作るだけじゃなく、魔術である程度は意思のとおりに動かせるのか?」
「えぇ、いずれは実際の腕と遜色ない動きを再現したいと。しかしまだそこまでは、といったところですわ」
「素晴らしいな。銃や電気の方はどうだ」
ウィリアムがパキスタンに言っている間、すべての研究はベレニーチェに任せきっていた。今の話を聞くと、ムッソリーニも手伝ってくれているようだが。
「そうでした!銃はマルコ様にもご指導いただいて、実用可能とのお墨付きをいただきました!」
「本当か、それはありがたい!すぐにでも撃ちたいな」
永らく不安で寂しかったスーツの懐に、手慣れた鋼鉄の感触が戻ってくることを思うと感慨深い。マルコに借りるのと自前のチャカを常備しておくのとでは意味が全く違ってくる。
早く弾きたい、などという猟奇的な感覚を持ってしまうあたり、貴族様になろうともマフィアの血は抜けきっていないようだ。
「そうだ、ウィリアム。今回の褒美はきちんと受け取ってくれよ。随行した軍曹はともかく、飛竜とも分配などとは言わないだろうな」
「はは、それも悪くないですが、陛下がそう仰せであれば従いましょう」
別に褒美目当てで動いたわけではないが、今回も重要な任務を一つこなしたのだから、それなりの金額は受け取れるだろう。
それを元手に、少しはいい家を建てるか買うための資金とするつもりだ。民衆から金なし貴族と揶揄されるのは別に構わないのだが、留守居をしているマルコがいよいよ可哀想になってきたところだ。豪邸は必要ないが、普通よりは大きめの家を検討するつもりでいる。
「それはよかった。あとで従者から受け取るがよい」
「はっ、ありがとうございます」
……
……
宴会の後、たんまりと金貨を受け取ったウィリアムは、住み慣れたというには離れることが多い我が家にようやく帰ってきた。マルコがやってくれたのか、外観の石壁は白く塗られ、扉や窓も新しいものに取り換えられている。詰め所、交番として使われていた以前のくたびれた様子は微塵もない。
「帰ったぞ」
「叔父貴、使者から帰着の知らせは受けてました。お勤めご苦労様でした」
マルコ自身の身なりも随分と小綺麗だ。長髪をオールバックにセットし、パリッとしたシャツにスーツを着こなしている。
室内も壁や天井に戸棚や収納を多く増設し、狭いなりに広々としたスペースを確保していた。床には落ち着いたダークブラウンのカーペットが張られ、パーテーションで区切られた二つのベッドとダイニングテーブル、そして椅子は全て新調。さらにベレニーチェ特製の電球がいくつか設置されていて、夜でも問題ないほどの光量が確保されている。
「家の変わりように驚いたな。お前がやったのか?」
「はい!喜んでもらえましたかね?」
「そりゃもちろんだが、金はどうした?」
ウィリアムが問うと、マルコは少しバツが悪そうに縮こまった。
生活に困らないくらいの金は置いていたが、贅沢をする余裕はないはずだ。
「あ、いやちょいと小遣い稼ぎがてら、シノギをやっただけで。叔父貴の生活費にはびた一文、手ぇ付けてません!メシは城に行けば食堂で食えますから」
「シノギ?まさかとは思うが悪さはしてねぇだろうな。それに生活費はちゃんと俺の稼ぎを使え。兄貴分の顔が立たねぇだろうが」
そう言って、さっき賜った金貨入りの袋をじゃらりとテーブルに置いた。
現世で言えば高級車一台分にはなる額だ。
「さすが叔父貴。国から直接の報酬は段違いですね」
「マルコ」
「あー、はい……シノギってのは商店街の用心棒でして……ケンカの仲裁や未払い客からの取り立てをやってました……」
おずおずとマルコがウィリアムの顔色を伺いながら、そう答えてきた。
ウィリアム自身の顔を潰さないためにも、敵国ならばともかく、ローマ市内では悪事に手を染めないよう忠告していた。だが、マルコの行動はかなりグレーなラインだ。
犯罪というわけではないが、用心棒は暴力をも厭わない仕事なのでゴロツキと同じようなものだ。どこかの店に専属で勤めているドアマンならば、まだ見栄えもいいだろう。しかしフリーでそこかしこ動き回り、未払い金の取り立てもやっていたというのならば、ほとんどヤクザ者だ。
「以降はやめろ」
「はい、すいませんでした」
「ハジキが使い物になるようになったと聞いたぞ」
久しぶりに帰ってきて、最初の話題が叱責ではマルコも参ってしまうだろうと話題を変える。
「あ、はい!嬢ちゃんから聞いたんですね。すぐに必要でしたらひとっ走りして、一丁貰ってきましょうか。もし何日か余裕があるなら叔父貴の専用銃を作って差し上げたいところですが」
「いや、汎用品で大丈夫だ。それならいつでも取りに行ける。保管は研究室か?」
ここにウィリアムの分もあるのかと思ったが、それは違ったらしい。宴の後でベレニーチェから受け取っても良かったが、楽しみにしていたはずのものをすっかり忘れていた。
「研究室にもいくつかありますし、軍の武器庫の奥底にもいくつか置いてるみたいですよ。もっと数が揃えば銃兵も編成して、いずれ訓練と実戦で活躍するんでしょうね」
「この短期間で結構な量を作ったんだな」
「たぶん全部合わせると十二、三くらいはあると思います」
「大したものだ。弾も問題ないか?」
返事の代わりに、マルコは戸棚の引き出しの一つを開けた。中からランチボックスほどの小さな木箱を取り出す。
テーブルに置かれているウィリアムの金貨入りの袋の横にそれを置き、ぱかりと蓋を開いた。
「どうぞ、ご覧になってください」
先ほどとは打って変わって自信満々の態度である。ウィリアムが箱の中を覗き込むと、木箱の中にはびっしりと鈍色の銃弾が詰められていた。百発はある。見慣れた赤銅色でないのは、通常の製法ではなく魔術で生成されたからだろうか。しかし、話では問題なく使えるとのことなので、色合いの違いなど気にするまでもないだろう。
「どれどれ」
一つを取り出して親指と人差し指でつまみ、前後左右様々な角度から観察した。形状は通常の鉛の弾丸と全く同じだ。マルコの銃に入っていたオリジナル品を複製したのだから当然こうなる。
「撃ちますか」
これには思わず「あぁ」と答えそうになるがグッと堪えた。
「いや、撃つなら真昼間だ。音が迷惑になるからな」
「訓練場まで移動する手もあると思いますが」
「気にするな。それよりメシは食ったか?せっかく戻ったんだから一杯付き合え」
夜更け、というには若干早い時間なので、まだ空いている酒場はごろごろあるはずだ。マルコも二つ返事で了承する。
ついさっきまで城の幹部連中との酒宴だったが、気の知れた舎弟と飲むのは格別だ。
「俺が出ている間、街への侵入はなかったのか」
二人で歩く街並みは整備が進んでおり、略奪や攻撃を受けた様子はない。
「魔族の侵入ですか?穏やかなもんでした。あ、いや、一回だけ少数の襲撃があったとか聞いたな。兵士が一瞬で退治したらしいんで、ボヤみたいなもんです」
「そうか。何も無いならいいが。戻ってきたら国がありませんでした、じゃ笑えやしねぇからな」
「それよりも叔父貴、また発たれるんですよね?今度こそ、自分も連れて行ってもらえませんか」
「着いたぞ。まずは酒だ」
目的の酒場に到着し、ウィリアムは返事の前に中へ入った。
「いらっしゃいませ。おや、子爵様ではないですか。お帰りでしたか」
顔見知りのマスターがそう言った。ここには何度か通っているが、名乗ったこともないのに貴族だと知れているのは、金なし貴族という噂のせいだろう。
国を出ていたという情報は何処から流れてきたのか知らないが、やはり酒場には噂話が集まる。出どころは衛兵か、またはマルコか。どうでもいいので訊きはしないが。
「あぁ、今日帰ってきた。何か適当に酒と肴を頼む」
「叔父貴、出発の際のお話ですが」
テーブルを挟んで席につくなり、酒が出てくるのを待たずにマルコが問うてくる。
店内は他に客もおらず、マスターがグラスや皿を取り出す音だけがカチャカチャと響いていた。
「陛下にお前を同行させていただけるように直談判したが……断られた」
「まさか、それに従うおつもりで?国王に恩があるのは分かりますが、それとこれとは別の話でしょう!危険な地に赴く叔父貴を待つ身にもなってください!」
「マルコ」
「はい」
「すまない」
目を、真っ直ぐに見て謝罪した。下手なごまかしや嘘は通じない。
どう足掻いても叶わないのならばそうする他ない。
「……っ」
「俺だって悔しいが、だからといって陛下を困らせることは出来ないんだ。再出発前にもう一度だけ頼んでやろう。だが、俺にできるのはそこまでだ」
「ありがとうございます。でもまた、待つなんて御免ですからね……!」
ここまで言うのであれば、次の遠征にマルコをとどめておくのは難しいかもしれない。追いつけるはずも無いのに、馬で走ってでも追いかけてきそうな勢いだ。
「お待ちどおさまです」
ゴブレットに入ったワインと塩漬け肉が出てきた。
「せっかく無事に帰ってきたんだから暗い顔ばかりするな。ほら、乾杯だ」
「あ、はい。頂戴します!」
ぬるいが美味い。やはり酒は何を飲むかと同時に、誰と飲むかも重要だ。
「老酒は飲んだことあるか?パキスタンでたまたま手に入ったんで、飲んでみたんだが」
「中国の酒ですよね?元の世界でも飲んだことはないですね。日本酒は飲んだことがあります。口当たりは白ワインみたいなもんですが、米の風味がしました」
「中国と聞いて日本酒みたいなものだと思ったか?まるで別物だ。どちらも美味い酒なのには変わりないがな」
仕事上がりなのか、ここで他の客らのグループも入店してきた。
商人風の中年の男女に、鎧を着て兜だけ外した若い兵隊が数人。それぞれが別のテーブルについてマスターに声をかけている。
「面白い偶然だ。チェザリスが来たぞ」
「え?あぁ、本当だ。呼びましょうか」
若い兵の一人はチェザリスだった。彼がローマ市内にいるのはほぼ確信していたが。やはり中隊長に任命される前後の大事な時期で、タルティーニ中将の軍団に混じって国境沿いに出撃してはいなかったといったところか。
「おーい」
「マルコ殿?おや!バレンティノ卿ではないですか!お帰りなさいませ!」
リラックスしていた表情は一変、起立してビシッと敬礼をした。一緒にいた数人も相手が貴族だとわかると素早くそれに習う。
「同席、失礼してもよろしいでしょうか」
「あぁ、そうして欲しくて声をかけた」
「では」
ぞろぞろと兵がやってくる。四角いテーブルを囲んで、ウィリアムとマルコを合わせると六人が座った。少々手狭になってしまうが、大皿料理を頼んでいるわけではないので問題ない。
「皆、若いな。どういった関係だ?」
「はい。彼らは新しい部下の一部でして。今日は親睦会のようなものです」
「そうだったか。中隊長になる試験に合格したと聞いたぞ。新たに宛がわれる中隊の連中ってことだな?とにかくよかった。おめでとう」
チェザリスが少しはにかんだように笑って頭を下げた。
「中隊長、こちらは?」
一人の若い兵士が訊く。弓兵のアマティと変わらないくらい若い、十代の青年だ。
中隊長ともなれば、カンナバーロのように自分よりもベテランの部下もいるのだろうが、やはりチェザリスとしては不安も多いはずの若い兵を優先的に可愛がってやるつもりなのだろう。
「バレンティノ卿とおっしゃる。ウィリアム・バレンティノ子爵だ。以前、自分達がロンドンまで使者を警護する任務を賜ったんだが、その時の使者団の長だ」
「なるほど、よくわかりました。とても貴族様だとは思えないほど気さくで驚いています」
「お前らの中隊長様とは、それほどまでに親密な関係にあったという事だな」
ウィリアムがチェザリスを指差すと彼は、「滅相もない」と謙遜した。
「他の貴族ってのは横柄なものなのか?」
「いいえ。お話しする機会がまるでないので、貴族や王族はもっと、雲の上の存在だと思っておりました」
ハキハキとした気持ちの良い返事が返ってくる。他の兵もそれに頷いているので、同じ気持ちらしい。
「悪いが俺自身も他の連中とは付き合いが無くてな。下町に住んでいるせいで貧乏貴族だと揶揄されているくらいだ。お前たちも噂くらいは聞いたことが無いか?」
「いいえ。我々は城内の兵舎で生活しているので、町の事はあまり……」
それもそうだ。訓練漬けでは軍の外の話はほとんど入ってこない。こうして店で羽を伸ばしているのも久しぶりの事に違いない。
「それよりもバレンティノ卿、軍曹はどうでした。使い物になりましたか?万が一、ご迷惑でもかけていれば叩き直してやるつもりです」
「いやいや、カンナバーロはよくやってくれた。お前からも褒めてやってくれ。もうすでに報告に行っていると思っていたが、まだ会ってなかったか」
「あれの事です。大方、報告だけは王城に詰めてらっしゃるロッシーニ中佐にでも済ませて、自分を避けてこそこそと逃げ回ってるんでしょう」
チェザリスの言葉に一同がどっと笑う。確かに、そうしているカンナバーロの様子が手に取るように脳裏に映った。
もはや直属の上官ではないので、チェザリスに対する報告義務はない。チェザリスの予想が正しければ、カンナバーロは彼に悪態をつかれるくらいなら触れない方がマシだと思っているのだろう。腫れもののような酷い扱いだが、これも上に立つ者の性か。
「せっかく会ったんだ。俺が持つから好きなだけ飲め。お前の中隊長試験合格祝いだ」
「そんな、滅相もない!自分は遠慮します。こいつらの分も自分が出しますので。お構いなく」
真面目なチェザリスらしく、即答で辞退する。
「馬鹿言え。今日帰着して、懐はあったかいんだ。後になって奢ってもらっておけばと後悔しても遅いぞ」
「後悔など致しませんとも」
「おい、叔父貴の顔をつぶすような事言うんじゃねぇよ。素直に甘えておけって。めでたい席くらい遠慮すんな」
マルコが隣のチェザリスの肩を小突く。口こそ汚いが、怒っているのではなく、窘めているつもりのようだ。
「そうだぞ。お前が将官にでもなったら借りを返してもらうけどな」
ようやくチェザリスが両手を上げて降参した。
「分かりました。しかし自分が将官になれるとも思えませんので、借りっぱなしになりますよ」
「それならそれでいいさ。だが、お前は優秀な指揮官だ。これからも大出世し続ける。俺が保証してやるとも」
「ありがとうございます」
自分達の隊長を褒められた他の兵らも鼻高々といった様子だ。きっと彼らは今まで以上に尊敬の心を持ってチェザリスに従ってくれるだろう。
「ところでどうだ。中隊長になった気分は。それに階級は大尉にもなるって話だったな」
「まだ小規模な訓練以外は何もやっておりませんし、部下となるすべての隊員をこの目で見たわけではありませんので難しい質問ですね。強いて言えば……まだ実感がないとしか」
「謙虚で真面目な性格は変わってないようだな。それがお前の持ち味かもしれんが、少しは自信を持ってもいいと思うぞ」
確かにそうだ、とマルコや兵らも頷いている。
「バレンティノ卿。私からはもし、差し支えなければアジアの様子を伺いたいのですが」
「あ、それは俺も叔父貴に訊きたいと思ってました。パキスタンですよね?」
「構わないぞ。何が聞きたい?」
「やはり一番は魔族の侵攻具合です。国や街は荒廃してはいませんでしたか?」
訊いたチェザリス本人よりも、部下の兵士らがごくりと固唾を飲んでいるのが分かる。ウィリアムの返答によっては、もしかしたら自分たちの出番になってしまうかもしれないのだから当然だ。
「いや、パキスタンはまだ魔族の侵攻を受けていなかった。少なくとも首都や大都市はな。もっとも、最東端を確認したわけじゃないから国境沿いの事までは分からんが」
「なるほど、それを聞けて少しは安心できました」
「それよりもドイツ帝国だ。中将も出張ってると聞いたが何を企んでいるのやら」
軍関係者ではないマルコは初耳だったようで、目で訴えかけてくる。
「ドイツはイタリアやイギリス、フランスとの同盟を破棄してるんだが、何やら不穏な動きをしてるらしいんだよ。大規模な部隊を動かしてな。それに対して、今言った三か国が警戒してる」
「そんでウチからはあの、いかつい中将様がご出陣ってわけですか。三か国の連合で叩き潰すわけにはいかないんですか?」
「それは陛下が断固反対されているからな。だいたい、人間同士で争っている場合ではないだろう。そこを魔族に付け込まれたらヨーロッパはおしまいだ。奴らは地理条件なんか無視して魔術でワープしてくるんだからな」
魔族がどこまで情報を握っているのか分からないが、アジアの侵攻に注力しているからといって、絶対にこちらが狙われないとも言い切れない。
「バレンティノ卿。お言葉ですが、ドイツ帝国の動きは確か機密情報だったはずです」
「何っ、そうなのか?それはマズかったな。マルコ、それにマスターも聞かなかった事にしといてくれ」
チェザリスの諫言にハッとした。他の客は会話に夢中でこちらに注意を払ってはいなかったが、カウンター奥で肉をグリルしていたマスターは別だ。
やはり聞こえていたようで、彼はニコリと笑って頷いた。
「叔父貴、マスターの口が固いのは俺が保証します」
「なら、お前の口から広まらないことだけを心配しないとな」
「そんな、ひどいです……」
「冗談だ。話が逸れて悪かったな。他にパキスタンで聞きたい話はあるか?」
マルコの背をバシバシと叩きながら訊くと、兵の一人が挙手した。ここにいる中では最も若い新兵に思える。
「いいぞ。質問に物怖じしないのは良い事だ」
「はい!自分はパキスタンそのものではなく、飛竜について質問があります!」
飛竜は以前から城内でも話題になっている。敵として上空に現れる以外では、なかなかお目にかかれない生物なのだから仕方がない。
「自分は飛竜に卿が騎乗されているお姿を見たことがありません。話には聞いていましたが本当でしょうか?」
「無論だ。最近入隊したのなら王城内に飛竜がいるのも見たことが無いんだな。俺がローマにいるという事は飛竜も帰着している事になる。明日にでも見てきたらどうだ?」
「よろしいのですか!この後兵舎に戻りますから、明日どころか今夜にでも見に行きたいと思います!」
新兵は興奮のあまり、テーブルに身を乗り出している。
「フェデリコ、卿が明日と仰せられたのなら明日にしろ。無礼だぞ」
別にウィリアムは今夜だろうが明日だろうが、好きな時に見に行ってもらってかまわない。ただ、飛竜が寝ている時間よりは起きている時間の方が良かろうと判断しただけだ。
そこまで分かっていてチェザリスが新兵に注意しているのかは不明だが、彼のおかげで新兵は飛竜が起きている様子を見ることが出来るだろう。
「はっ!中隊長殿、バレンティノ卿、失礼いたしました!では明日の午後の座学の前に拝見します!」
「よろしい」
「見るのは構わんがアイツの機嫌は損ねるなよ、ボウズ。食われても知らねぇぞ」
マルコが軽い冗談で脅しているが、はたしてこの新兵が冗談だと思ってくれるかどうか。
「あの、えっと……本当ならば気をつけます」
「ははは、人は食わんさ。機嫌を損ねるなというのは、必要以上に近づいたり触ったりしないでほしいという点では頷けるがな」
「はい!それはもちろんです、バレンティノ卿!遠くから見るだけですので、ご安心ください。場所はどちらでしょうか?」
飛竜の見学がしたかったのは彼だけのようで、それ以外の兵は見たことがあるようだ。
そのうちの一人が案内役を買って出ることになった。
「中尉。いや、もう大尉と呼んだ方が良いか?今、アマティはどうしてるんだ?」
「今は中尉で結構です、卿。伍長は確か、中将閣下の遠征に従軍しているはずです」
「件の国境警備か。ガットネーロ隊もバラバラになってしまったんだな。寂しいもんだ」
ガットネーロ隊だけではない。先のイギリス遠征のイタリア使者団の面々はそれぞれの仕事、それぞれの生活に戻っている。
懐かしさがこみあげてきたウィリアムは、アマティこそ無理だが、せめて他の者ら全員には必ず会っておこうと思った。
「それで、予定されていた訪問先はまだあったはずですが、次もあれを連れて行かれるのですか?」
「カンナバーロ軍曹か?どうなんだろうな。個人的にはこのマルコを連れて行ってやりたいんだが、誰が選ばれるかまでは分からん」
マルコの随伴が認められる可能性は低いとしても、護衛にカンナバーロが再選されるかと言われればそうでもない。全く関わりのなかった兵が選抜される事だってあり得る。兵ではなく魔術師や高官かもしれないが、いずれにせよ腕が立つ必要がある。ただ、現状ではカンナバーロが最有力だろう。
「軍曹も一緒に飛竜に乗って飛ばれたんですよね?羨ましいなぁ。きっと素晴らしい経験になったはずです。ご本人にもお話を伺ってみたいですよ」
新兵が言った。カンナバーロ本人は離陸時の恐怖に怯えていたり、無駄に小便を我慢して地獄を味わっていたが、それは彼の名誉を守るためにも黙っておこう。
「しかし当の軍曹は一体どこをほっつき歩いているのやら。自分を避けるならまだしも、こういった話を聞きたがってる若い奴もいるっていうのに」
「アイツにとっても久しぶりの休暇なんだ。今日くらいは放っておいてやれ」
「今日はもう就寝時刻まで会うことはないでしょうから見逃しますが……甘やかすとすぐに調子に乗りますから、アレは」
チェザリスの毅然とした態度には苦笑いを返すしかない。
「話は変わるが、俺がいない間のローマはどうだった?マルコにも聞いた感じだと、ボヤ騒ぎ程度の魔族の侵入があったと」
「えぇ。平和というと語弊があるかもしれませんが、我々の同志がすぐさま駆逐してくれたそうです。自分の手で魔族を倒せなかったのは歯がゆいですが、死人や怪我人は皆無。家屋への被害も大して出なかったので安心してください」
胸をなでおろすと同時に、疑問も浮かぶ。
「それは良かった。だが、いくら魔族でもどうしてそんな中途半端な事をしたんだろうな」
「インプのような小型の種族が二体だけだったと聞いています。確かに不自然ではありますね。まさか、大規模攻勢を仕掛ける前の斥候でしょうか?」
「その可能性もあるが、単純に仲間がどこか別の場所を襲っていて、はぐれただけかもしれない」
「であれば後者かもしれません。同時期に、ほど近いチャンピーノの町が侵入の被害を受けたそうで」
チャンピーノはローマの南東にある小規模都市だ。いや、現世では都市かもしれないが、チェザリスは「町」といったので小さな集落程度なのだろう。
「まさか、そっちは間に合わずに?」
「はい。残念ながら、犠牲者が出ています。最終的には町にいた兵や住民が退けたようですが……」
「ローマまで情報が届いたころにはすべて終わった後だったんだな。しかしそれはどうしようもないのだから気落ちするなよ。ドイツのせいで兵が割かれている今、国中の町や村に十分な戦力を置くことも、常に目を光らせることも難しいからな」
ほど近いチャンピーノはともかく、ローマやミラノから遠い小さな農村など、襲われたという情報もないまま滅んでしまった所もあるに違いない。
だが、それらをすべて守れというのは土台無理な話だ。
「今は自分にできることを積み上げていくのみです。国中を守れるなどと自惚れてはいませんから、ご安心を」
「訓練あるのみだな。中隊はローマに配属なのか?」
「そのはずですが、どうなるかは状況次第でしょう。希望が出せるわけでもありませんから。部下になる兵員すべてと会えていないというのも、国境警備のごたごたのせいでして」
なるほど、それで招集されてしまっている者も多いというわけか。ここにいる新兵は出撃していなかったので、一足先に訓練を実施できているらしい。
「遠くない日に配備されるらしいが、銃は使うのか?」
「な……まさか、バレンティノ卿がそこまでご存じだとは」
「銃や弾薬の製造は俺がベレニーチェに頼んだのだから、知っていて当然だろう」
「あぁ、いえ。実は銃を用いる初の部隊となるのが自分の中隊なのです。まだ触らせてもらっていませんが」
これは嬉しい知らせだ。自分たちが広めた最新鋭の武器を、親しい間柄であるチェザリスが率いる部隊に初配備されるとは。
「いいじゃないか!まさか中将の采配か?」
「たまたまそうなっただけだとは伺っていますが、おそらくはそうだと思います」
「小粋なことをしてくれるな、あのゴリラ将軍」
マルコのストレートすぎる表現に一同が大笑いする。
「ただ、中隊全員に銃が配備されるわけではなく、最初の運用では弓、槍との混成になります。数少ない貴重なものですので」
「槍衾を布いて、中列の銃兵と後列の弓兵で射撃を行うわけか。だが、その槍と弓が霞んでしまうくらいには銃兵が活躍してくれると思うぞ。量産法も考えていかねばな」
「さすがは卿。まさに今考えている防御陣形はその通りです」
槍は最前列に置くのは当然として、直線的に飛ぶ弾丸を放つ銃兵を中列、弧を描いて飛翔する矢を放つ弓兵は最後列が妥当なところだろう。
だが、射程は明らかに最新鋭の銃の方が届くので、弓兵の活躍まで奪ってしまうという事だ。
「連射式の機銃を最前列、単発式のライフル銃を中列、広範囲型の砲撃手を最後列でしょう、叔父貴」
「それが出来れば文句はないんだがな。今あるもので対応するしかないさ」
マルコの言う現代式の装備で固めた戦術など夢のまた夢だ。魔術師と混成で使えればまた話は変わってくるが、今のところ王国騎士団と宮廷の魔術研究室が力を合わせるという方針は聞き及んでいない。
というより、魔術師の数が圧倒的に少ないので、それならば銃器を増やす方がまだ現実的だ。
「バレンティノ卿、お忙しいご身分であるのは重々承知の上ですが、銃器が配備された暁には是非一度、ご指導いただけませんか?」
「もちろんだ。時間が合えばな。俺の都合が悪ければ、ここにいるマルコだっていい」
いくら配備されても、きちんとした取り扱いができるのはウィリアムとマルコしかいない。もし彼が承諾しなければ、一体どうやって訓練を行うつもりだったのか。
「そのくらいの仕事なら自分に任せてください、叔父貴。分解整備もお手の物です。なんせ、毛も生えてねぇガキの頃からチャカには慣れ親しんできてるんですから」
「そうか?だがピストルだけじゃなくてライフルも作っていくぞ」
「もちろんアサルトライフルだってスナイパーライフルだって平気です」
正直なところ、射撃はともかく整備や修理まで教えるとなると自信がない。興味本位でバラバラにしたことくらいはあるが、基本的に調子の悪い銃は買い替えだった。そのあたりは資金力のあるマフィアのボスの息子として生まれたという七光りなので、経験がないのも仕方がない。
「そうか、マルコ殿も銃の扱いには長けているか」
「あたりめぇだ。ちっとは見直したか?」
「最初から甘く見てなどいないさ。それでは卿、指導はマルコ殿に一任するとしましょう」
用心棒のような稼業に手を出すよりは、指導役として活躍してもらう方が何倍もマシだ。ウィリアム本人が訓練へ出向く以上に有益だと言える。
「そうしてくれ。マルコ、高給は期待するなよ。まともな仕事があるだけマシだと思え」
「はい。ちなみに多少の給料は出るのかい、中隊長さんよ」
言ってる側から……とウィリアムは顔を手で覆う。
「当然だ。卿の仰せの通り、高給は約束できないが、出来る限り出してもらえるよう、上官に掛け合ってみよう」
「へへへ、話が分かるじゃねぇか中隊長」
「ううむ。姿形は違いますが、なんだか軍曹と話している気分になってきました……」
これはウィリアムも頷くしかない。お調子者だが、いざという時には頼りになるところもカンナバーロとマルコは似ている。
「まったく、お前は俺の顔を潰す気か。安月給だろうが何だろうが文句言わず指導してやれ。国防に関わる重要なお役目だろう」
「もちろん私腹を肥やそうってんじゃないですよ、叔父貴。必要最低限の生活費以上に稼いだ金は全て叔父貴にお渡しします」
「俺に渡したところで、結果として俺が私腹を肥やすだけだろうが」
「いいえ、お渡しします!」
頭を小突くと、珍しくムキになってマルコが反論してきた。大して酒が回っているわけでもなさそうだが、いつにも増して真剣な眼差しだ。
「叔父貴は子爵様なんですからもっと贅沢していいんですよ!むしろ質素な生活を送りすぎてるんですから!」
「それには自分も賛同しますよ、卿。まず、この店におられる時点でおかしいという自覚はおありですか」
チェザリスの意外な横槍まで入り、なぜ俺が責められているんだとウィリアムは困惑する。だがそれと同時に、国王からも右大臣のアダムからも同じような事を言われていたのを思い出す。
自身でもそろそろ家を購入するつもりではいたが、周りの身内から見たらウィリアムが思うよりも遥かに早急に、生活を改善すべきだと認識されていたらしい。
「お前たち、分かったからちょっと静かにしろ」
兄のトニーであれば豪勢な生活や見栄をかなり気にするのだが、実直なウィリアムは必要なものに必要なだけ投資すべきだという性格だ。
「一応、豪邸とまでは言わないが家を検討しようと思っている。一人ならそのまま暮らすところだが、陛下に賜った部屋にマルコと二人では手狭だと思ってな」
「おぉ!ようやくですか!よく決心してくれましたね、叔父貴!」
「明日はお前もついて来い。他に元イタリア使者団の面々の中でローマに今いる連中の顔を見に行くついでだ。ヘンリーのところで不動産を紹介してもらおう」
真剣な表情が緩み、膝を打って喜ぶマルコ。チェザリスも嬉しそうだが、新兵たちはよくわかっていないので目を見合わせている。
ウィリアムの功績に対して、その暮らしぶりが良くないと言われてもピンとこない。本来であれば殆んど総取りしても良かったイギリス遠征時の報酬を山分けしたのが主な原因だからだ。
「おっと、夜も更けてきましたね。我々はお先に失礼しようかと。明日も早朝から訓練がありますので」
話に夢中だったせいで、チェザリスと部下たちは一杯ずつしか飲めていない。いや、彼がウィリアムに奢らせる額をあえて控えたのかもしれないがそこまでは突っ込むまい。
「そうか。もっと飲んでも良かったんだぞ?」
「いえ、すっかりご馳走になりました。ありがとうございます。お前たちも卿にお礼を申し上げろ」
新兵たちから敬礼が向けられる。
「マスター、こいつらの払いも俺でいい」
「かしこまりました」
「では、卿。またお会いしましょう」
最後に入り口で全員が振り返り、再度敬礼をして去っていく。ウィリアムも答礼で見送った。
「しかし、家ですかぁ。楽しみですね、叔父貴」
「プール付きは無理だからな」
「そう言われるとニューヨークの邸宅が懐かしく思えてきますね」
スタテンアイランドに構えていた屋敷はそれなりに豪邸だった。ガリアーノ本家など、上を見ればキリがないが、傘下の二次団体としては成功していた家系だったと言っても差し支えない。
マルコの返答通り、プールやサウナも当たり前のように備え付けられていたし、広い芝生の庭でゴルフのパットくらいは出来たし、ガレージには十台以上の車が収容可能だった。
「あれこそ今の俺達には無用の長物だ。ここで根を張って一生暮らすつもりでもあるまいよ」
「……帰れるんですかね」
「希望を捨てるな。この世界の奴らも嫌いじゃないが、いつかは分かれる日が来る。物だって同じだ。大層な富を築いたところで意味はないぞ。それとも、お前はこっちの方が気に入ってるのか?」
もし、現世に帰るその瞬間が訪れた時。マルコが帰りたくないと言うのであれば無理に連れて行くわけにはいかない。
「いやいや!どっちか選べってんなら元の生活を選びますよ!夜の街は真っ暗だし、年寄りみたいに早寝早起きしてるせいで生活リズムはいいんですが、何せ娯楽が少なくてこの世界は退屈です。あっちなら魔族みたいな訳が分からん化け物と対峙することもないですしね」
「そうか。俺も同じ気持ちだよ」
ひとまずマルコを置いて帰ることにはならないようで安心した。無論、それよりも帰る方法を見つけることが重要だが。
「親父や他のみんなも忽然と消えた俺達の事、金を持ち逃げしたって怒ってるかもしれませんし。あぁ、雷を落とす親父の顔を考えたらゾッとしませんね。問答無用で弾かれちまうかもしれません」
「その点は安心しろ。俺があれしきの金を持って逃げる道理がない。お前の身の潔白も証明してやるさ」
他の組員らの消息は分からない。元の世界にいるとも、同じようにここへ飛ばされたとも考えられる。だが一つ確かな事は、兄が麻薬取引の際に中国人から受け取った金の安否を気にするという事だ。
「ありがとうございます、叔父貴。そうだ。この国の金貨を持ち帰ったら高く売れたりしねぇかなぁ。長らく不在にした詫びの代わりになるでしょう?」
「悪くないな。その時には陛下からたんまり貰って帰ろう」
またもや謎の光に包まれ、慌ただしく帰されるような事態にならなければいいが。
「おんやぁ?世間は狭いもんですなぁ、バレンティノの旦那」
今しがたチェザリスたちと別れたばかりだというのに、次なる知り合いが入店してきたようだ。
恰幅の良い身体に長く伸ばした髭面。よく知る商人だ。
「おぉ、ヘンリーじゃないか。しばらくぶりだな」
「へぇ、どうもどうも。ちょいとお邪魔しますよ」
話題にも出ていたヘンリーが挨拶もそこそこにウィリアム達のテーブルについた。
「飛竜で颯爽とお帰りになられたって話を小耳に挟んだところだったんですが、まさかこんなところにお出でとは」
「ははは、嘘をつけ。俺がここにいると知ってて来たんだろう?もしかして家の件を聞きつけたか?」
「こりゃ参りました。やっぱり旦那には勝てねぇや。実は、あの若き隊長さんとたった今、道端ですれ違いまして。旦那があっしに不動産のご相談があるから、明日以降にお越しになると言われましてね。わざわざ店までご足労頂くくらいならと、あっしが参上した次第でさぁ」
大した商売根性だと毎回感心させられるが、さすがにこの近距離にいて、その上で知り合いの頼みだとあればヘンリーでなくとも動いて当然かと納得する。
「助かるよ。しかしここで説明を受けるより、実際に今はどんな物件があるのか見に行きたいな」
「へぇ、そのリサーチをと思いまして。ご案内は明日以降、明るい時分に致しますんで、いくつか良さそうな家を見繕っておきますよ。どんなお屋敷をお探しで?宮殿にも負けない大豪邸で決まりですかい」
「待て待て。屋敷なんぞいらん。多少デカいくらいなら問題ないが、普通の家で充分だ。住むのは俺とマルコだけだからな。それに、そんな金はない。なにせ貧乏貴族で有名なバレンティノ卿だぞ」
さりげに高い物件に絞ろうとしてくるが、ヘンリーはニヤニヤと笑っているので冗談だったのだろう。
「ふぅむ。でしたら騎士階級か男爵の方の屋敷相当ってところでしょうなぁ」
「もっと小さくても構わないぞ。庭一面の花を愛でる趣味なんか無いからな」
「それは案外と難しいご注文ですぜ、旦那」
「……ほう?それはなぜだ?」
ウィリアムが希望している家くらいのレベルの物件ならごろごろありそうなものだが。
「あっしが旦那には多少なりとも立派なお屋敷に住んでいただきたいと思うからですよ」
「なるほどな。気持ちは嬉しいが……」
「叔父貴。旅路を共にした仲間みんなが、このおっさんと同じことを思ってるはずですよ。さっきだって、兵隊の兄ちゃんも言ってました」
「マルコ、ヘンリー。今しがた言ったばかりだろう。俺にそこまでの余裕はないってな」
家をポンポン建てれるほどに金が有り余っているわけではないのだ。そんな状況で、無理や背伸びをしてまで良いものが欲しいとは思わない。
「そりゃ、あっしだって旦那の為なら頑張って勉強さしてもらいますんで。明日以降の内見は是非とも期待していてくだせぇ」
希望のリサーチをしに来たと言う割には随分と強引だが、予算内で思っていた以上の家が購入できるなら良いかと流した。
「それはありがたいが、値引きもほどほどにな。利益はきちんと取れ。あまりに法外な特別扱いをされても嬉しくはないぞ」
「それはもちろんです。あっしだって赤字を出すつもりはありませんから安心してくだせぇ。そんじゃ失礼しますね」
「あぁ。案内はお前が?」
「あっしがいればそうしますが、不在時でも他のもんが対応できるようにしておきます」
胸に片手を当て、ぺこりと頭を下げてヘンリーが席を立つ。
まさかあの酒好きのヘンリーが一杯も飲まずに本当に商談の話だけで帰ってしまうとは。早速、めぼしい物件の見積書でも作るつもりなのかもしれない。
「マルコ、まだ何か飲み食いするか?そろそろ俺も帰るが、店に残るならこれで払え」
銀貨を三枚、パチリと卓上に置く。今のところチェザリスたちの分を入れても銀貨一枚で事足りる。さらにその倍は飲み食いできるはずだ。
「いえいえ!それより、明日の朝食に何か弁当を包んでもらいませんか」
「いいな、そうしよう。マスター!何か二人分のメシを包んでくれないか」
別テーブルの皿を下げていたマスターが、腰に巻いたエプロンで手をぬぐいながらやって来る。
「はい、もちろんです。夜食ですか?」
「いや、朝食だ」
「でしたら燻製肉と野菜のピザを、チーズもたっぷり乗せて拵えましょう。朝から栄養満点ですよ。軽く焼きますので、お待ちいただく間にもう一杯いかがですか?」
置かれている過剰な額の銀貨に反応したのか、さらなる追加注文を求めてくる。当然、それは断らず、さらに酒を重ねることとなった。
……
……
「あーっ。バレンティノ様だー」
「おや?エイハブか、おはよう」
朝一番、ウィリアムとマルコの仕事は飛竜の給餌だ。これが済み次第、皆の顔を見に行こうと思っていたのだが、その手間が一人分減った。
エイハブはててて、と小走りに走り寄り、ウィリアムの目の前までやってきた。清潔な真っ白いワイシャツと綿のグレー色の短パンにサスペンダーをつけている。少し前までは悲惨なものだったが、こうして小綺麗にしていると、まるで貴族か富豪の御曹司のようだ。
「飛竜を見に来たんだよ!それから、お帰りなさい!」
「ただいま。いい子にしてたか?」
侍女のアーシアや保護者代わりであるベレニーチェの姿はないので、今や一人で城内を動き回っているようだ。
「叔父貴、ボウズの相手をするんだったら残りの餌は俺がやっちまいましょうか。朝くらいはゆっくりお休みになられると思ったのに、結局仕事してますし」
「あぁ、それじゃ残りは頼む」
「はい、お任せを」
半分以上の給餌は終わってしまったが、それをマルコに任せてウィリアムは近くにあった木箱に腰掛けた。決して深酒をしたわけではないものの、やはり早朝からの仕事は疲れる。
エイハブも自分の背丈ほどの高さがある木箱に一生懸命よじ登り、ウィリアムの横に座った。それを見て、地面に胡坐でもかくべきだったなと反省する。
「おぉ、エイハブ。腕があるじゃないか」
ベレニーチェが言っていた通り、エイハブの左腕には義手がつけられている。
形はほぼ本物の腕のようで、全体にエイハブの肌に似せた塗装がしてあるので、よく見ないと義手だと分からない。簡単なものと言っていたはずだが、なかなか大したものだ。
ただ、可動性はまだまだといったところで、指や手首は動かない。あくまでもカムフラージュと、添えるくらいの使い道しかないようだ。
「これ?いいでしょー。いや、よくはないか。そりゃ本物の方がいいもんね!」
ケラケラと笑うエイハブ。年端も行かない幼児とは思えない自嘲の言葉に驚かされる。悲観的なるわけではなく笑い飛ばせるほどになったか、と。彼はこれからも人一倍早く精神的な成長を遂げていくことだろう。不遇な人生の中でこそ、手に入れられるものだってあるのだと教えられた。
「ベレニーチェとムッソリーニならば、本物にだって負けないものを作ってくれるさ」
「矢とかナイフがシャキーンって出るようにしてほしいなぁ。かっこいいよね」
「本気か?将来有望だな」
言葉も格段に流暢になったうえ、今や英語が通じるウィリアムとですらイタリア語を使ってスラスラと話している。
「そりゃそうだよ!戦い方もいろいろ教わったよ!」
「そうかそうか。今日は勉強や運動の予定は無いのか?」
「あー、お勉強はあるけど、アマティのお兄ちゃんがいないから」
アマティだけに訓練されていたわけではないはずだが、きっと彼が進んで教えてくれていたのだろう。そんな彼が国境沿いの警戒の任に赴いているせいで先生が不在という事だ。
「バレンティノ様は何か教えてくれる?」
「俺が?剣術はからきしだからな。腰の魔剣は飾りみたいなもんだぞ」
「えー?貴族様はみんな剣を使えるって教わったんだけど」
それは間違っていないのだが、ウィリアムは特例中の特例だ。
「代わりに、飛竜でローマをぐるりと一周しようか。剣はお前が言った通り、他の貴族か兵士でも捕まえて頼む方がいい」
「やったぁ!行こう行こう!今日!?明日!?今すぐが良いなぁ」
「どうしようか。そうだ、飛竜に機嫌を訊いてみたらどうだ?」
「うん!分かった!」
木箱からひょいと飛び降りたエイハブが、食事中の飛竜に遠慮なく突撃取材を敢行し始めた。
「ねぇねぇ、今日背中に乗せてくれる?」
飛竜はエイハブを一瞬だけ見たが、嫌とも応とも返さず、バリバリと鶏を喰らっている。ちょっと待ってくれという心の声が聞こえてきそうだ。
「なんだ、ボウズ。コイツにお願いなら餌でも食わせてやれ」
「分かった!」
残る餌はあとわずか。エイハブも給餌には慣れているので、マルコに代わってそれを飛竜の口元へ運んでやった。その場から放り投げるのではなく、一羽一羽、丁寧に与えている。
全ての鶏を食べ終えると、飛竜は上に向けて大きく口を開いてあくびを披露した。そして丸くうずくまってしまう。
昨日帰ってきたばかりなので本当に疲れているのか、それともエイハブをからかっているのか。もちろん彼も飛竜とのやり取りは英語を使うので、飛竜は何を言われているのか分かっている。
「あぁっ!ちょっと、聞いてたろ!乗せてよぉー!飛んでよぉー!」
「グルル……」
「あー、嫌われちまったか?」
マルコが片づけを始めつつ、飛竜にふられたエイハブを茶化している。
「そんなことないよ!餌は僕の手からでも食べてくれたもん」
「眠いみたいなら、また夜にでも頼んだらいいんじゃないのか?」
「嫌だよ、夜だと街が見えないじゃんか。今が良いの!」
ウィリアムはと言うと、特に口出しせずに事の顛末を見守っている。
エイハブの願い通りに今すぐ飛んでも良いが、彼がここで我慢をしてさらに精神的に大人へ一歩近づくのも悪くないだろうという判断だ。
「だったらそれを伝えてどうにか許してもらうしかねぇよな。だがもう餌はねぇ。どうする」
「誠心誠意お願いする!」
「はは!難しい言葉知ってるじゃねぇか!頑張れよ」
マルコが空になった大量の餌箱を押し車で運び出す。ウィリアムも手伝いたいところだが、エイハブを見ておかねばならない。
「叔父貴、コイツを片付けてきますが、しばらくこちらにおられますか?」
「そうだな。もしエイハブと飛ぶとしても、物件を見に行くからそう長くはない。ここに戻って来てくれるか」
「了解です。また後程」
マルコの背を見送り、ウィリアムは未だ熱弁を続けているエイハブの小さな身体に視線を戻した。
「だーかーらー!今なの!いまいまいま!」
「グルル……」
うるさいなぁ、という飛竜の気持ちを表すように、目は閉じたまま尻尾の先がピシッピシッと地面を打っている。
「エイハブ、どうだ?飛竜は飛んでくれそうか?」
「ぜーんぜん!おねむみたい。こうなったら仕方ない、おじいちゃんのクッキーを貰ってくる!」
「クレメンティ大司教のクッキー?なぜだ?」
「前あげた時に食べてくれたでしょ?多分あれが欲しいんだよ!」
エイハブがこちらを見てぴょんぴょんと跳ねる背後で、片目だけ開けた飛竜がウィリアムを潤んだ瞳で見つめながら、首を左右に振って何かを訴えている。
「おそらくだが……違うんじゃないか」
「えー?そんなことないよ!ね、クッキー好きでしょ?」
「グルル……」
くるりとエイハブが振り返る直前、飛竜は目を閉じて静止する。
そしてまた彼がウィリアムの方を向くと、飛竜はその背後から全力で首を左右に振って意思表示をしてくる。クッキーが嫌いなのかまでは分からないが、別にあんなもの食べなくていいというのは伝わったので、ウィリアムは助け舟を出す事にした。
「……クッキーは小麦だからな。やはり飛竜はお菓子より肉を好むものなんだよ」
「そうなの?でもクッキーも好きかもしれないじゃん」
「やたらとこだわるなぁ。どちらにせよ、今は食事を終えたばかりで飛竜も満腹なんだろう。日が暮れるまではまだ時間があるから、またあとでお願いしてみたらどうだ?」
……
そうこうしている内に、片づけを終えたマルコがさっさと戻って来てしまった。
「あれ?叔父貴、飛ばないんですか」
「あぁ、エイハブは譲らないし、飛竜も駄々をこねててな。しばらく休ませてやって、後で頼んでもいいんだが」
「今が良いんだよー。困ったなー。駄々こねるんだもんなー」
「グルァウ!」
違う、と否定しているようだ。
「先に使者団の仲間にあいさつ回りをするか、物件を見に行きましょうよ。ここでジッとしてたって埒があきません」
「そうだな。エイハブ、勉強の予定があるんだろう?」
「やだ!飛竜に乗るんだ!」
エイハブがそう言ったところで、タイミングよく現れた人影が、コツンと軽めの拳骨をエイハブに食らわせた。
「こら、いないと思ったらこんなところにいたのね」
魔女服に身を包んだ美女、エイハブの親代わりのベレニーチェだ。
いや、美女と言うには若いので美少女とでも呼ぶべきか。仕事中にはよく着用している魔女服にとんがり帽子という出で立ちで、拳骨を食らわせた右手を握り締めている。
「いたーい!何も悪いことしてないのにー」
「勝手にウロチョロしちゃダメって言ってるでしょう?一人で出歩くならどこに行くか伝えてからにしなさいな。それと……バレンティノ様、マルコさん、ごきげんよう」
振りあげていた手を下ろし、スカートの両側をちょいとつまんでベレニーチェがお辞儀をした。
「あぁ、おはよう、ベレニーチェ」
「おう、嬢ちゃん。朝からお冠とは精が出るな」
「何か、この子がお二人にご迷惑をおかけしませんでしたか」
「いや、迷惑だというなら飛竜が困っているんじゃないか。今すぐ背に乗せて飛んでくれとはしゃいでいるからな」
飛竜に四人の視線が集まる。飛竜はふん、と炎混じりの鼻息を軽く出し、丸くなった。
「飛竜が嫌がってるなら無理を言っちゃだめよ。さぁ、研究室に戻りましょう。アーシアも来ていますよ」
「えー」
すくすくと、いやそれ以上にぐんぐん成長しているエイハブも、勉強嫌いだけは全く直っていない。
「今日のエイハブの先生はアーシアか。彼女はどんなことを教えてくれるんだ?」
「んーとね、身だしなみとか言葉遣いとか、やっていいこと駄目なこと。変なお勉強」
「なるほどな。所作や道徳を学ぶのも大事だ。この世の中には守るべきルールがあるんだからな」
道徳の教育を受けていない人間は高い確率で低俗な犯罪者になる。マフィアが高尚だとは言わないが、無教育なものはスラムで無計画な強盗や泥棒を繰り返して飯を食っていくしかない。
「飛竜にたくさんお願いしちゃいけません、ってルールもあるの?」
「そうだな。アーシアもそこまでピンポイントに『飛竜に』とは言わないかもしれんが、他者の意思も尊重しなさいとか、迷惑をかけないようにとか、そう言われたことは無いか?」
「ある!んー……今は諦めてお昼くらいにまたお願いしようかなぁ。お姉ちゃん、それならいいでしょー?」
良かった、適当な予測が当たった、とウィリアムはアーシアに感謝した。話の辻褄が合って面目を保たれたのはもちろん、エイハブもその教えに従って引き下がってくれているからだ。
「えぇ、結構よ。お二方、お騒がせ致しましたわ」
「俺も昼飯の後にもう一度来る」
手をつなぎ、エイハブとベレニーチェは研究室へと戻っていった。
……
そのまま、研究室にいるというアーシアの顔も見ておこうかと思ったが、エイハブと勉強中であるならば邪魔は出来まい。まずはヘンリーの店に赴き、物件を見せてもらうことにした。
久しぶりに馬を操ってローマ市内をマルコと駆ける。二頭とも、しっかりとマルコが世話をしていてくれたようで体調は万全だ。
途中、顔見知りの住民らが手を振ってくれた。気さくなお国柄だというのもあるが、貧乏貴族と揶揄されているウィリアムが彼らに近しい存在だと認められている証拠に違いない。もし通ったのが国王ならば、さすがに彼らだって足を止めて膝をつくだろう。
「おやおや、旦那。気がお早い事で」
立派な店構えの前では、店主のヘンリーがパイプ煙草をくゆらせながら椅子に座って日光浴をしていた。
「良かった、今日はお前がいたか。しかしいつもは忙しそうだが、今は休憩中だったか?」
「えぇ、そんなところです。旦那も一服どうです、そっちの舎弟さんも。今日はぽかぽかの良い天気でさぁ」
ヘンリーに誘われるがまま、ウィリアムとマルコは空いている椅子に座った。木製の丸テーブルを囲む四脚の椅子。いつもはこんなものは店先に出ていないはずだが、日光浴のためにわざわざ出したわけではあるまい。
今日、ウィリアムが来ると確信していたのかもしれない。訊いても頷きはしないだろうから、真相はヘンリーのみぞ知る。
「どうぞ、お口に合うかどうか」
ヘンリーが紙巻き煙草を二本、さし出した。受け取り咥えると、すかさずマルコが火を点けてくれる。その後で自分のものにも火を点けた。
「日を浴びて吸う煙草もなかなか乙なものだな」
「そうでしょうそうでしょう」
店先は通りに面しているので、ひっきりなしに行商の馬車や歩いている住民がそばを通る。ここではウィリアムよりヘンリーに声をかけて行くものが多かった。ここを日ごろから通るのであれば、彼と顔見知りであって当然だ。もしかしたら顧客かもしれない。
そんな中、二頭立ての豪華な馬車が通った。どこぞの貴族だろう。下町を走るとは珍しい。
「そういえば、卿は馬車はご入り用ではありませんかい?」
「いや、馬で充分だよ。それに俺には飛竜もいる。馬車よりよっぽど贅沢な移動手段だ」
「確かにそうですなぁ。まさに唯一無二でさぁ」
「そうだ、代わりに飛竜用の鞍や安全ベルトを発注したい。快適な空の旅をさらに快適にしてくれないか。鞍は大きく柔らかく、落下防止用の安全ベルトは着け心地が良いものをな」
現在の飛竜の装備もすべてヘンリーのところに頼んだものだ。それをアップグレードするのであれば、やはり彼に頼むのは当然の流れといえる。
「お任せくだせぇ。実は一つ考えてたんですが、前部に半円形みたいな感じでガラスを張っちゃどうかと思ってましてね。雲を抜けるときなんか濡れちまうでしょう。もしくはネットを張って虫や鳥除けをと」
「驚いたな、本当にお前は天才だ!ガラスだけだと、鳥なんかが当たると割れる。逆にネットだと雲で身体は濡れる。ガラスに補強を入れれるか?頑丈なネットで覆ったガラスとかな」
「なるほど、ではそう致しましょう。これで天才はお互いさまって事になりましたな」
ニヤリと笑うヘンリー。自分が天才だという事は否定しないらしいが、代わりにウィリアムを持ち上げてきた。
それから、主にカンナバーロにとって大変重要な問題である簡易式便所だ。彼がまた乗るのかは未定だが、ウィリアム自身だって、もよおす事が無いとも限らない。
ウィリアムの訴えに、ヘンリーは唸った。
「便所……ですかい。壺や樽でも持ち込む方が早いんじゃないですかね」
「まぁ、そうなるよな。ただ、空中でクソしようってんなら確かに難しいんだ。ひどい臭いで快適な旅は台無しだしな」
「でしたら樽の底に穴をあけて、そこからチューブ状の排管を垂らしちゃどうでしょうかね?クソは下に落ちて、運が悪けりゃ誰かの頭の上って寸法でさぁ。樽も円錐をひっくり返したみたいな形だと尚良いですね。そいつを手すり付きで飛竜の右か左に設置できる大型の鞍を作れば…いかがですかい?取り付けも取り外しも一苦労ですし、何より飛竜が重くて飛べなくならねぇかは心配ですがね」
悪くない案だ。誰かの頭上に糞尿が落下する可能性があるのはよろしくないが、移動のほとんどが田園地帯や荒野、森の上空を通過するため、街の真上に落下する可能性は極めて低いといえる。
「やってみる価値はありそうだな。円錐形の樽のふちには是非、クッション性があるものをつけて欲しい」
いわゆる便座カバーという奴だ。木製の樽のふちに直接尻を置くのは遠慮したい。
「承知しました。飛竜が大きくなったりはしてませんかい?寸法の測り直しが不要ならすぐにでも手配しますぜ。次の出発に間に合わせてみせまさぁ」
「特に大きくなったとは思わないな。ただ、出来る限りは軽く作ってやってくれ。防護ガラスの方も間に合うのか?」
「ガラスはちょいと手間がかかりますんでお約束はできやせん。とにかく、装備の鉄は減らして革や綿で考えてみまさぁ」
たしかに、いびつな形のガラスとなれば簡単には出来まい。便所の方は問題ないようだ。
「飛竜の身体に直接触れる部分に綿はやめておけ。固い鱗でほつれるか切れるぞ。鞍やベルトなんかも飛竜側は革で人間が乗る側にだけ綿を使うとか工夫が必要だな」
「へい、かしこまりました。さすが、卿は飛竜の事を良く分かってらっしゃる」
「そりゃあ長らく乗ってればな……色んなものが見えてくるさ」
「ちょいと失礼しますぜ」
ヘンリーが椅子を離れた。いよいよ物件を案内してもらえるのかと思ったが、その前に手下を呼びつけて今しがた話した飛竜用の装備品を作成する指示を出している。いきなり細部を頼むのではなく、まずは現在の形を流用できる部分からお前たちだけで始めておけ、という事らしい。
ウィリアムとマルコは丁度、吸い終えた煙草を消して、卓上の灰皿に捨てたところだ。
「さて、お待たせしやした。出発いたしますか、卿。あっしが案内します」
「店主に自らご案内いただけて光栄だよ」
「御馬は置いて行きましょう。ウチから馬車を出させてもらいますんで」
ヘンリーのところの若い衆が寄ってきて、ウィリアムとマルコの馬を厩に引いて行った。そして彼らが二頭立ての馬車を持ってくる。
ヘンリーは客車のドアを開いてウィリアムとマルコを乗せ、その後で乗り込んできた。
内部は二人掛けの座席が向かい合って二つ。片側にウィリアムとマルコ。反対側にヘンリー。その手には物件の資料が握られている。
「よーし、行ってくれ」
御者席の若い衆にヘンリーが声をかけ、馬車はガタゴトと動き始めた。
馬車は街の中心地を外れ、貴族が多く暮らす住宅地にやって来た。
「立派な屋敷だらけだな」
「へい、あれは侯爵様のお屋敷で、向かいにあるもっとデカいあれが公爵様の……」
まずは上級貴族の巨大な屋敷が建ち並び、その奥に中級、下級貴族の屋敷があると言う。もちろん、ウィリアムが望んでいた規模のものであれば、その立地は住宅街の最奥部になった。
「あぁ、到着しましたぜ。ご紹介する一件目の物件はこちらになりやす」
柵と門は木製だがしっかりと作りこまれており、屋敷の母屋の外観は土色の煉瓦であった。広さも申し分ない。むしろ二人であれば大きすぎるくらいだ。
「いいじゃないか」
「ありがとうございます。では降りましょう。中をご案内しますんで」
玄関口には屋根付きのスロープが備え付けられており、雨の日でも濡れることなく馬車から乗り降りができる。この辺りは現世ではよく見るものだが、こちらの世界にも存在するらしい。ただ、そう多くはないようで、ヘンリーもこれを一押しポイントとして紹介してくれた。
「どうです。お召し物が濡れないってのは良いでしょう」
「あぁ、驚いたよ。しかし、公爵邸にも無かったものがなぜこの小さな屋敷にあるんだろうな」
「築年数が新しいもので。このお屋敷は建てられて三年ってところですから」
確かに上級貴族の屋敷は巨大ではあるが、歴史の古そうなものばかりだった。
「ほぼ新築じゃないか。どうしてそんな目玉物件が売りに出てるんだ?」
ヘンリーが手元の資料に目を落とす。
「えーと、前の所有者は男爵様なんですが、失脚なさったようですぜ。理由までは知りやせんが」
「せっかくの新築物件も、縁起が悪いからって売れ残ってるわけか」
「叔父貴、そういったしがらみを気にしなきゃいけないんなら、住まいを買い換える意味がなくなってしまんじゃないですかね」
マルコの言う事も一理ある。今も貧乏貴族だと揶揄されているが、売れ残りのような物件では、それが根本的になくなることは無いだろう。その相手が平民を含むか、貴族だけかという違いはあるが。
「そうだな。しかし家自体は悪くない。まずは見ておこう」
「へい、ではご案内します」
ヘンリーが鍵を取り出して白い扉を開いた。
当然のように両開きの立派なものだ。獅子の形をした鉄製のドアノッカーも備え付けられている。
使用人やメイドでも出てきそうなものだが、中には誰もいるはずが無く、真っ暗だ。僅かに見える床は大理石なのか、光沢を放っている。
「ちょいと屋敷内のロウソクをつけて回りますんで、お待ちくだせぇ」
夜目が利くのか、ヘンリーは暗闇も厭わずさっさと奥へ向かった。宣言通り、ところどころからぼんやりと灯りがともっていく。
最後にエントランスの高い天井から吊り下げられたシャンデリアの灯りがつくと、外とさして変わらない明るさになった。
エントランスの左右から緩やかなカーブを描いて二階部分で終結する階段が目を引く。
廊下や個室には窓があるが、エントランスだけは扉以外に光を取り込むものがなく、シャンデリアの灯りだけに頼る事になるようだ。
「広いな。母屋だけならパキスタン首相の屋敷より広いぞ」
「へー。首相なのに、こぢんまりとした暮らしだったんですか?」
「あぁ。庭は広かったが、屋敷は狭かったな」
「しかしこの屋敷もバレンティノ邸と比べるとまだまだですね」
確かにそうだが、現状であれば必要十分だ。広すぎてメンテナンスが大変になるのも考え物だろう。
「マルコ、個人的には広ければ広いほどいいと思ってるのか?」
「いえいえ。ある程度でいいとは思ってます」
「使用人もいないんだから、掃除なんか大変だぞ。俺とお前で一つのシャンデリアの上まで磨くだけでも面倒だからなぁ」
ヘンリーが戻ってきて、エントランスから一階部分の応接間、ダイニング、キッチンを案内してくれた。
それから階段を上がって二階の個室。これは大小さまざまで、合計八部屋もあった。大部屋が家主の部屋で、そこから家族ごとの個室、最も狭いものは使用人のものだったのだろう。リビングと呼べるものはないので、ホテルのような印象を受ける。便所は各階に一つずつあるが、風呂は無かった。
「やはり二人で住むには若干広いのは否めないが、良い屋敷だな」
「ありがとうございます、お買い上げで?」
「馬鹿野郎、話が早すぎだ」
両手をすり合わせて調子のいい事を言ってくるヘンリー。値段も聞いていないのに即決できるほどウィリアムとて裕福ではない。
それに、別の物件も残っているはずだ。答えを出すには早計だろう。
「へぇ、そりゃ残念です。ただ、バレンティノ卿の旦那」
「敬称と愛称を合わせて妙な言い回しをするな……」
「へへへ、ふざけただけでさぁ。あっしは始めから目玉商品を見せない質でして」
それはそうだろう。ヘンリー程のやり手が尻すぼみな商売をするはずがない。
「そりゃ楽しみだ。残りの物件にはもっと期待してもよさそうだな」
「それじゃ参りますかい」
母屋は一通り見て回った。屋敷の裏手に厩や庭もあるらしいが、そこまでの確認は不要だ。
「あぁ、そうしよう。マルコ、見足りないところは無いか?」
「はい。お決めになるのは叔父貴ですから自分の事はお構いなく」
「そうはいかん。お互いが文句なく、満足のいく家を選ぶつもりだからな」
ヘンリーがまた一通り屋敷内を回り、明かりを消してきた。彼自身もこの屋敷の中に入るのは初めてのはずだが手慣れたものだ。
「お待たせしました。そんじゃ次に行きましょう。どうぞ、馬車にお乗りくだせぇ」
先ほどと同じ席順で向かい合って座る。
「次は郊外になります。屋敷は今お見せしたものより大きくて立派ですが、やはり王宮から離れている分、立地がいいとは言えませんね」
「遠いのは構わんが、もっと大きいのか」
「へい。しかし、お値打ちでご提供いたしまさぁ」
これは嬉しい情報だ。広すぎてはどうかというウィリアムですら、今見た物件より安くて広いとなれば多少は興味がわく。
「それは楽しみだな。遠いと言ってもローマ市内だろう?」
「もちろんでさぁ。ただし、ローマの端なのでここからだと……馬車で三十分ってとこでしょうかねぇ」
馬車はあくまでもゆっくりと走っている。馬で疾駆すれば十五分以内で到着できると考えてよいので、そのくらいであれば日常生活にも問題ない。
「しかし、そんな辺鄙な場所に屋敷とは、元は誰かの別荘か?」
「いいえ。元は国外からのお客向けの迎賓館だったそうでさぁ。今は王宮の側に新しい館があるんで使われてねぇみたいで」
「それなら納得だ。しかし王家の所有物を良く買い付けたな」
迎賓館であれば国の持ち物。王家が管理していた建物という事になるが、一般人であるヘンリーに払い下げたということだ。
「運よく競売で落としたんでさぁ。ほんの少し前にですがね」
「それほどのものならば人気も集まるだろう。売れる見込みは他にもあるんじゃないのか?」
わざわざ目玉商品をウィリアムに売る必要はない。買い手が多いのであれば利益重視で最も高値を付けてくれる者に売ってもいいはずだ。
「実は、最初は売るつもりじゃなかったんで」
「……というと?」
「富裕層向けの宿として使うつもりだったんでさぁ」
これ以上ない名案だ。国賓が泊まれるような立派な作りであれば、難なく上客も入るだろう。
「いいじゃないか。何か理由があって運営出来ないのか?」
「ちょいと別にやりたい案件が増えてきちまいまして、後回しになりそうなんでさぁ。それまで放置しておくのも無駄だもんで、早いうちに誰か信頼できる人間にお譲りしようかと」
高級宿ともなれば利益は相当なものになるだろうが、その分ランニングコストもかかる。人手も誰だっていいわけではなく、それなりの経験者や教育が必要だろう。
他の案件で手一杯になってしまうとは、分野に捕らわれずにビジネスとあらば何にでも手を出すヘンリーならではの悩みだ。
「嬉しい話だな。競売時のライバルに転売しない理由は納得できたよ」
「さっきのお屋敷よりも、さらに自信を持っておススメしまさぁ。きっとお気に召します」
「そりゃ迎賓館だもんな。俺達には不要なほど大きいだろうよ」
……
ヘンリーの話の通り、三十分ほど経ったころに馬車の動きが止まった。
客車の窓から見える外には、そびえたつような三階建ての館が見えている。
「ほー。立派じゃないですか、叔父貴」
マルコは満足げだ。最上級の貴族である公爵邸や侯爵邸には敵うはずも無いが、先ほどの男爵邸とでは比較にならないほど大きい。そして、現世のバレンティノ邸にも勝っている。
「想像以上だ。しかしどうしたものかな。明らかにここまでの館は不要だと思うが」
「まぁ、そう言わずにまずはご覧くだせぇ」
ヘンリーが扉から出ていった。
マルコが鼻歌混じりに続き、ウィリアムは溜息混じりに降りる。
巨大な玄関はステンドガラスの窓付きの木製。手すりや鍵穴、ドアノッカーは真鍮製だ。一定間隔で窓が並ぶ外壁は淡いオレンジ色のモルタルが用いられている。中は木製らしく、窓から見える内壁は温かみが感じられた。
「やはりこりゃデカすぎだ。いくら安く売ってくれても手に余るぞ」
「そうですかい?だったら使用人でも雇っちゃどうです」
「おい、そんな簡単に言ってくれるな。そこまでやるなら普通の家でいいんだよ」
入館前から尻込みするウィリアムにヘンリーが暢気な台詞を投げた。
「さあさあ、室内はもっといい感じですぜ」
開錠され、見た目以上に重厚な扉がゴゴゴッと音を立てて動いた。どうやら木製ではあるが、その中に鉄板を隠しているらしい。さすがの防犯設備と言いたいが、それでは窓ガラスが補強されていないのが謎である。
おそらく窓については見た目を重視し、扉については重々しさを演出した、といったような如何にもイタリア人建築家らしい適当な理由だろう。
こちらは先ほどまでいた男爵邸とは違い、既に灯りが点されていた。案内するのは予定されていたので不思議ではないが、ヘンリーの本気度が伝わる。
だが、窓も多く、外光がしっかりと室内まで入ってくる物件であり、昼間であれば灯りはあまりその役目を果たせないようだ。
玄関をくぐると大きな熊の身体の毛皮を丸々一頭分使用した絨毯が敷いてあった。ちょうど、頭の部分が玄関先に立つウィリアム達を睨みつけている。
トラの絨毯や狼の絨毯もよく見るが、熊の絨毯も一般的だ。しかし、イタリア国内で見る事は珍しい。
「わお!グリズリーとは物騒なお出迎えだな!」
「どこだったか、寒い地方の行商から買い取ったらしいですよ。立派な熊でしょう」
マルコの反応にヘンリーの説明が加わる。
欧州四か国、そしてアジア各国以外の島国が生息地なのだろう。それがカナダなのかロシアなのか、はたまたフィンランドやノルウェーなのかは分からない。
だがこの世界は地図こそ大きく違っていても、国がほとんど同じなので大きく外れた予想ではないはずだ。
「そういえば、親父の屋敷にも剥製がたくさんありましたよね」
「よく覚えてるな。そういえば、じいさんの時代に飾られたと聞いたことがある。詳しくは知らんが、狩りが趣味だったんじゃないか」
「そうなんですか。俺はてっきり親父が狩られたのかと思ってましたよ」
バレンティノファミリーを立ち上げたウィリアムの祖父が、シカやら鳥の剥製を応接間に飾っていた。トニーとウィリアムの兄弟は大して興味を持たなかったが、マルコは覚えていたようだ。
「熊に別れを告げて次へ行きますぜ。この、右手の大部屋が食堂でさぁ。どうぞどうぞ」
広々としたエントランスの隣は、これまた広々とした食堂だった。短い間隔で窓があるためとても日当たりが良く、その中央には何十人が同時に座れるんだという異様に長いテーブルが鎮座していた。
「王宮以外でこんなテーブルを拝めるとはな」
「立派なもんでしょう?」
「俺とマルコがこの端と端で食事をしたらお互い叫ばないと話が出来ないな」
非常にシュールな光景が脳裏に浮かんでくる。たった二人ではこの食堂は使わず、自室で食事をとる事になるだろう。
「奥にある厨房設備も本格的でして。卿は自らお入りになる事もないでしょうが」
「料理は得意じゃないからな。さすが来賓向けの屋敷だ」
厨房は食堂の隣ではなく、一度部屋を出て、廊下を挟んだ場所にあった。
少しだけ覗いてみたが、確かに一流の料理店と見まがうほどだ。ピザを焼くための石窯まである。
「厨房だけでなく、なんと風呂までついてるんでさぁ。厨房の石窯に入れた火が間接的に湯舟を温める仕組みでして」
「それはすごいな。まさか熱い風呂に入れるとは」
ウィリアムは現世ではあまりバスタブに浸かることは無かったが、水浴びではなく湯浴みが出来るだけでも十分にありがたい。
浴室自体は厨房の隣に作られた小ぢんまりとしたもので、一人で入るのがやっとといった広さだった。だが、むしろこれくらいでちょうどいいと言える。
「どんどん行きましょう」
お次は前方にステージを持つ、劇場のような場所だった。客席は五十近い。ここでは楽団や役者を呼んで観劇が出来るらしい。
「見事なもんだが、たとえ俺達が住んでいたとしても、このステージに誰かが立つことはなさそうだ。宝の持ち腐れってやつだな」
「テレビやビデオでもあればデカいリビングになったでしょうにね」
当然そんなものはないので、この部屋の用途がまるで見つからない。楽団を呼ぶなどさらに難しい。
「勘弁してくだせぇ。せっかくの大部屋なんですから、もっと何かに使えないかちゃんと考えましょうよ!」
「そうは言ってもなぁ。マルコ、何かないか?」
「ストリッパーでも呼びますか?いや、この世界にはいないのか。娼婦を呼んでその真似事でもさせちゃどうでしょう。酒の肴にはなるんじゃないですかね」
楽団や役者を呼びつけるよりは現実的だが、それは必要かと首を傾げたくなる。
「ストリッパー、ですかい?何です、そりゃ」
「あぁ、気にするな。とにかく、ここを使うことはなさそうだ」
新たな商売のにおいを嗅ぎつけたのか、ヘンリーが目ざとく反応を示す。ただでさえ仕事が手一杯だという話をしていたのに、とんでもない男だ。しかし、マルコの言葉からストリップ劇場でも作られては大変だ。なんと俗な身内がいる子爵だろう、という妙な話になりかねない。
「そういえば朗報がありますぜ」
「うん?」
「王宮内の研究室で働いてるアーシアさんが、是非とも卿のお屋敷の小間使いをさせて欲しいと」
「何?ありがたい話だが、彼女から言ってくるとは思えん。お前がベレニーチェにもアーシアにも無理を言って依頼したんじゃないのか」
アーシアであれば信頼できる。多少の給金を払って召し抱えても問題はない。
だが、彼女とて今では正式に王宮内で働いているのだ。ウィリアムが言ったようにヘンリーが無理に依頼した形であれば受け入れるわけにはいかない。多忙な状況になることで彼女の心労が増えては困る。
「依頼したのは確かですが、彼女が卿のお屋敷に入られる場合は王宮の仕事が週一回程度になるそうですぜ。御心配には及ばないかと」
「それなら安心だが、王宮に詰めているという栄誉を捨ててまで俺の屋敷で働きたいのだろうか」
気が利くアーシアの事だ。本心はそう簡単に言うまい。
実は王宮での仕事の方が良いと思っていても、恩があるウィリアムの為ならその立場を捨てるという事も考えられる。当然、ウィリアムはそんな事を望みはしない。
「それはあっしにも分かりかねますが」
「まぁ、本人に聞いてみるしかないな。こう見えて腹の探り合いは得意でな」
「へへへ、卿の生い立ちならば少しばかり承知してまさぁ」
こちらの世界の人間の中でも、ヘンリーは同業だったこともありウィリアムに対する理解が深いのは言うまでもない。
「そういえば、アーシアとはどこで話したんだ?お前は王宮内に出入りしているようには見えないが。街で偶然会ったのか?」
「あぁ、物品の発注に店まで彼女がいらしてたんでさぁ。包帯やら薬草を頼まれまして」
「なるほどな。そういったつながりも出来ていたわけか。まったく、使者団様様だろうよ」
ヘンリーが鼻頭をこする。イギリス遠征の経験が彼の利益を増大させたのは紛れもない事実だ。今ならローマ市内においても五本指に入るのではないかと言うほどの大商人である。
本人の人柄や風体のせいで、とてもそうは見えないのが玉に瑕だが。
「寝室にご案内しやすぜ」
いくつも備えられている部屋の中でも、最も高貴な部屋に案内された。天涯付きのベッドはどこぞの王の寝室にしか見えない。いや、実際に他国の王族や貴族だって泊めていたはずなのでその通りなのだ。
壁には絵画が飾られ、戸棚には宝石がちりばめられたティアラや宝剣が乗せられている。
「これは……盗まれたりしないものなのか?」
「普通の人間なら盗むんじゃねぇですかね。お偉方はそんな見苦しい真似はしねぇでしょう。それに王宮は、こうして備品もつけたままであっしに売ってくれたんです。見栄えは良いですが、目玉が飛び出るほどの品じゃねぇですよ」
「そうなのか」
どう見ても高級品なのだが、少なくとも上流階級の人間にとっては部屋の飾りの一部。花瓶にささった花のような感覚なのかもしれない。
「他の部屋も似たような感じか?もしそうなら俺はちょっとばかり落ち着かねぇな」
マルコが言った。その思いはウィリアムとて同じなのだが、生まれながらにマフィアのボスの屋敷で暮らしてきたウィリアムよりも、掃き溜めのような街で泥をすすってきたマルコの方がこういった最上級の部屋はこそばゆいものだろう。
「もちろんお偉いさんの従者や護衛向けの小部屋なんかもありますぜ。そちらを使われれば問題ねぇかと」
「おぉ、それは助かる!叔父貴、俺はこの屋敷を推しますよ」
「わざわざデカい屋敷に来てまで小部屋を選ぶな。せめて普通の等級の部屋にしろ」
これだけ部屋数があれば、中級、下級貴族向けの部屋もあるだろう。そういった部屋ならば質のい良いホテル感覚でマルコにも使えるはずだ。
「全部は時間的にも厳しいですが、いくつかご案内しやすぜ」
「あぁ、頼むよ」
ヘンリーに連れられ、他にも三、四部屋ほど見て回った。最上級の部屋のような天涯付きのド派手なベッドや調度品はなく、小綺麗にまとまった部屋と言った印象だ。大きさも狭すぎず広すぎず、申し分ない。もし購入をこの屋敷に決めるのであれば、ウィリアム自身も寝室にはこちらを選ぶだろう。
……
「物件はまだあるのか?」
エントランスの隅に据えられた、来客用のソファに腰掛けて煙をくゆらせる。
「へぇ、あと一つございます。もし今日決めきれなくても、後日、別の者に案内させますんで何度でも見に来てくれて構いやせんぜ」
「そうだな。大きな買い物だ。さっきの屋敷もこの屋敷も、今から行く屋敷も、もう一回くらいは見せてもらおう」
「そろそろ正午ですが、食事にされますかい?おすすめの食堂で良ければ車を寄せますが」
「いや、昼過ぎにはエイハブが飛竜に乗りたがっててな。実はあまり時間が無い」
もっとも、飛竜が首を縦に振るかどうか次第だが。朝と同じように面倒がられたらそこまでだ。
「昼食抜きで飛行も大変でしょう。移動の間に弁当でもいただいちゃどうですかい。店で食うよりは時間もかかりませんぜ」
「それは助かるな」
「では、次の物件に向かうついでに馴染みのパン屋に寄りまさぁ。ハムサンドが美味いんですよ」
さすがに何でも知っているな、と感心しつつ建物の外に出た。
そのまま待たせてあった馬車に乗り込み、ヘンリーがパン屋経由で次へ向かうように御者に伝える。
……
ヘンリーが勧めてくれたハムサンドをウィリアムとマルコが車内で頬張る。ハムの塩加減と胡椒が絶妙で確かに絶品だ。ハムと野菜を挟んでいるパンが思いのほか固かったのが悔やまれる。
「お前は食わなくていいのか?」
「へぇ。卿のご案内の後にお呼ばれがありやして。タダ飯のために腹を空かせとこうかと」
「ほう?お前に馳走するとは、相手は余程の大物だな」
ヘンリーとて名うての商人なのだ。ウィリアムがそう思うのも当然である。
「お客さんなんで、お相手の名前は出せませんが……大物ってのは当たりでさぁ」
どこぞの貴族か、街に教会を持つ司教か、はたまた別の大商人か、王宮勤めの軍人や政治家かもしれない。特に深く突っ込む理由もないので、詮索はここまでだ。
そして、最後の物件は屋敷と呼ぶには小さな民家だった。場所は王宮の裏手で、今回紹介してくれた三か所の中では最も中心部に近い。
二階建ての煉瓦造りで、特に何の変哲もないものである。もちろん悪い物件ではなさそうなのでそれが不満というわけではない。だが、ヘンリーが最期の隠し玉として用意したと思うと少し拍子抜けしてしまった。
「なるほど、最後はここか?」
門はあるが、大層な庭を持つわけでもないので、家の真ん前の道路に馬車を停める。
「へへ、ここでさぁ。意外でしたかい?」
「最低でも下級貴族の屋敷を準備してくると思っていたからな」
「ここだけはあっしの願いじゃなく、完全に卿のご希望通りに準備させてもらいやしたから。個人的にはさっきの迎賓館が一番おススメですがね」
それを最後に持ってくるか。まったく、ヘンリーには敵わないな、とウィリアムは苦笑した。
案内されて家に入る。中もごくごく普通の民家であったが、珍しいのはロウソクではなく電池式のランプ類が既に備わっていたことだった。
これは王宮内でこそほどんどの場所に使われているが、城下には全くと言っていいほど浸透していない代物だ。もちろん、ウィリアムとベレニーチェの研究の産物である。
「かなりいいな。どうやってこの灯りを?」
「言ったでしょう。バレンティノ卿のご希望通りにしたって」
「まさか。一日で照明を入れ替えたのか」
ヘンリーであれば、ランプを手に入れること自体はさして問題にはならないだろう。ただし、この家は昨夜までは今の状態ではなかったはず。
たった一晩。その間にウィリアムが求める家へと生まれ変わったという事だ。若い衆に夜間工事でもさせたのだろう。
「そう大変でもねぇですぜ。取り付けるだけですから」
電池式の照明は複雑な配線を引く必要が無い。その代わりにバッテリーが切れてしまうと、いちいち壁や天井からの取り外し作業が発生するのは面倒だが。
ヘンリーによる三度目の物件案内が始まった。
一階に個室が二つ。ダイニングキッチン、リビング、トイレという間取りだ。シャワールームは存在しない。
二階には一階のものより大きめの個室が二つ。物置部屋かクローゼットにでも使うようなごくごく小さな部屋が一つ。
先の二軒にくらべて、非常に短い時間で説明は終了した。
「ちょうどいいな。電気が使えるのもいい。マルコ、どう思う?」
「見た目は普通なんで、子爵様の家としてはちょっとインパクトに欠けるんじゃないでしょうか?」
「それは俺も理解しているがな。住むのに問題は無いかを聞いてる」
このエリアは王宮のすぐ目と鼻の先ではあるものの、貴族の住宅地ではない。周りは民家と商店くらいなものだ。
王宮の側に位の高い者が住まい、中心部から離れるにつれて身分が低くなっていく、という一般論はこのローマでは当てはまらないという事だ。
貴族は広い土地を好む傾向が強く、多少の利便性を犠牲にしても開けた土地に屋敷を立てることが多いのである。
「そりゃ、電気があるのはありがたいですが……引っ越す意味が薄れてしまわないかが心配です。叔父貴はその辺りはどうお考えなんです?」
マルコの言い分も間違ってはいない。否、間違っていないどころか正論だ。ウィリアムの意見は利便性だけを特化させたものである。体裁は二の次だ。
「俺が引っ越しをする最大の理由は今の家が手狭だからだ。貴族らしい生活を求めてるわけじゃない。可能なら必要最低限の屋敷を検討してもいいが、どちらかと言えば暮らしやすさのほうが重要だ」
「まぁ、最終的には叔父貴が決めることですから。ここが不満というわけではないので、一つの意見として心に留めておいていただければ」
広さや見た目の代わりに、最先端の家という触れ込みでも充分見栄は張れると思うのだが、とウィリアムは考える。
「ヘンリー、屋敷住まいではない貴族はいないのか?」
「おられますよ。最下級の騎士様などでさぁ」
騎士は士爵という最も低い爵位を与えられている。十二近衛など栄誉ある騎士はもっといい暮らしぶりなのかもしれないが、末席の者は平民とほとんど変わらないと思われる。
「それと同じだからいいじゃないか、てのは無しですよ。叔父貴。子爵様と騎士号持ちじゃ身分は天地の差です」
「わかったわかった。前向きに検討するとだけ言っとく」
言い訳を先につぶされてしまい、ウィリアムは両手を上げて降参した。
「よかったでさぁ。そんじゃ、迎賓館にご入居の予定で話を進めさせてもらいますかい」
「おいよせ、ヘンリー!」
ウィリアム以外の笑い声が響く。
……
王宮内。少々疲弊した様子のウィリアムを見つけたエイハブが駆け寄ってきた。だが、興奮状態の子供にそんな大人を気遣う余裕などあるはずもない。
「バレンティノ様!飛竜は飛んでくれるかなぁ?」
奥からアーシアが歩いてきて、ウィリアムに頭を深く下げた。
ちなみにマルコは王宮に用事も無いので家に戻っている。
「バレンティノ様、わざわざお越しいただいて」
「あぁ。聞いているだろうが、エイハブと飛竜に乗る約束をしていてな」
「はい、ありがとうございます。エイハブ、あまり騒がないようにしなさいな」
ぐいぐいとウィリアムのスラックスを引っ張るエイハブの右手に、アーシアは自分の右手を重ねた。
「騒いでないもーん」
「まぁまぁ、この子ったら。申し訳ございません、バレンティノ様」
「はは、子守も大変だな」
足元にまとわりついてくるエイハブを担ぎ上げて肩に乗せた。アーシアと話しながら移動していては、意図せず蹴り上げてしまうかもしれない。
「今日はお勉強もうわの空だったんですよ」
「よっぽど飛竜に乗りたかったんだろうさ。そういえば、俺の新居に働き手として来るかもしれないという話をヘンリーから聞いたんだが」
「あらお耳が早い。私で良ければいつでも参ります」
アーシアがにこやかに笑う。果たしてこれは本心か、とウィリアムはその顔を凝視した。
「ありがたいことだ。しかし侍女を必要とするほどの立派な屋敷に移るとは限らんぞ」
「……と、仰いますと?」
「候補はいくつかあるんだが、一般的な家もあってな。もし俺がそこを選べばメイドは不要だろう。管理する、というほど大層でもないからな」
「左様ですか。出来ればバレンティノ様のお役に立てると嬉しいのですが」
アーシアの顔は変わらずにこやかなままだ。
「しかし、王宮での仕事も多いだろう?エイハブの世話はベレニーチェだけに任せる事になってしまうのではないか?」
「雑務はもともと私を必要とするほど人手不足ではありませんので、ご心配には及びません。エイハブは、ちょうどいいので私の手伝いもさせようかと思っています」
「エイハブに手伝いを?はは、将来は戦士ではなく執事を目指し始めるかもしれんな」
働き者のアーシアが仕事を教えたとあれば、立派な執事になることだろう。もっとも、今のところ本人の意思は違うのだが。
「えー、なにー、お手伝いしなきゃいけないのー?」
と、この調子である。運動や武芸以外の訓練にはとんと興味が無いのだから、雑務は座学と変わらず好きではないらしい。
「アーシアの手伝いも大事な事だぞ。とはいえ、まだ決定したわけじゃないんだがな」
「ふーん。あっ!飛竜が起きてるよ、バレンティノ様!」
飛竜小屋が見えてきて、エイハブが興奮し始めた。ウィリアムはぐいぐいと髪の毛を引っ張られているが、肩車状態にしたのは自分なので少しの辛抱だ。
「こんにちわ!乗せて―!」
小屋の側を闊歩している飛竜の目と鼻の先まで来たところで、ウィリアムはエイハブを下ろす。
エイハブはウィリアムへ寄ってきたのとまったく同じ足取りで駆けよっていった。そこには飛竜に対する恐怖心は微塵もない。しかも、ごく自然に英語に切り替えて挨拶をしているのだから大したものだ。
逆に飛竜の方が「また来たのか」とでも言うようにギョッとした様子が分かり、ウィリアムは声を上げて笑ってしまった。
「はははは!アーシア、見てるか。乗せて飛んでくれというエイハブの勢いに、飛竜がタジタジだぞ」
「えぇ、本当に心優しい飛竜ですこと。エイハブがわがままばかり言って、いつもごめんなさいねと英語でお伝えくださいますか?」
アーシアは心底申し訳なさそうにウィリアムと飛竜に頭を下げている。
「構わないさ。子供は少々わがままなくらいで丁度いい。エイハブはむしろ大人びすぎていて心配な事もあるからな」
「まぁ。あまり甘やかさぬよう、お願いいたしますね」
下げていた頭を上げ、アーシアはくすりと笑った。
「エイハブ、どうだ?飛竜はまだ、ご機嫌斜めか?」
飛竜はのしのしと小屋の周りを歩き回っていて、ぶらぶらと揺れる尾をエイハブがちょこまかと小走りで追いかけているという状況だ。飛竜と子供。飛竜を化け物扱いしない人間が見れば、なんともほのぼのとした風景である。
「わかんなーい。ずっとぐるぐるしてるー!」
「さては乗せるのが面倒だから、追いかけっこで満足させてあしらおうとしているな」
「え、嘘、そうなの!?ひどいよ!」
エイハブが小走りを疾走に変え、飛竜の尾を掴もうとする。だが、飛竜はそれをひょいと上に持ち上げて捕まらないようにし、歩幅も大きく取って逃げている。追いかけっこでエイハブを満足させてしまおうという魂胆はあながち間違っていないようだ。
「うわぁ、逃げるなよぉ!」
「グアゥ!」
「あ、笑ったな!」
さらに加速するエイハブと飛竜の足取り。どしんどしんと飛竜の足音が響くものだから、何事かと建物内から覗いている兵士や従者もいるくらいだ。
「おーい、二人ともそれくらいにしておけ。あんまり騒がしいから、みんながびっくりしてるぞ」
「そうですよ、飛竜が乗せたくないのであればまた別の日にしなさいな、エイハブ」
「そんなぁ」
ウィリアムとアーシアの声にエイハブは不満げだ。
「本人にも聞いてみるか」
エイハブがアーシアと並んでいたウィリアムのもとへ来ると、それと入れ替わる形でウィリアムが飛竜の方へ寄っていった。
追いかけっこも終わったので、飛竜は歩くのを止め、小屋の側に膝をついて座る。
「調子はどうだ?子供をからかうくらいには機嫌が良いようだな」
「グルル……」
「で、どうするつもりだ?無理にとは言わんが、お前が問題なければ乗せてやってくれると嬉しいんだがな」
ふん、と飛竜は炎混じりの鼻息を吹く。そして小屋の隅に置いてある鞍にちらりと視線を送った。
どうやら単純にからかっていただけのようで、飛ぶのは別に構わないらしい。もちろん、あれでエイハブが諦めれば昼寝でもしていたのかもしれないが。
「そうか。では準備しよう」
「グァウ!」
飛竜は前脚(と呼ぶには乏しい小さく退化したような手だが)も折り曲げて伏せの状態になった。鞍をつけてくれという事だ。
それを見たエイハブは目を輝かせてウィリアムに突進してくる。アーシアが止めようとするが時すでに遅しだ。
「すごい!バレンティノ様、飛竜と何をお話したの!まさか乗せてくれるなんて!」
「ははは、最初からコイツは乗せる気だったってさ。ちょいと準備運動のために歩いてたみたいだ。お前はそれを邪魔してしまったんだな」
「えぇー、そうだったんだ!ごめんね!」
コロッと騙されてしまったエイハブは、鞍を取り付けにかかるウィリアムを手伝おうとする。だが飛竜用の鞍は重いので、エイハブが怪我をしてしまわないか心配だ。
「おぉ、手伝ってくれてありがとうよ。でもまだ人手が足りないから、その辺にいる兵士の人を二人ばかり呼んできてくれないか?」
「うん、わかった!」
エイハブが走っていったかと思いきや、次はアーシアが手を貸そうと寄ってきたのでそれも押しとどめる。
「バレンティノ様」
「気持ちだけ受け取っておくよ。力仕事に必要なのは男手だ。よっ……と」
鞍を引きずり、飛竜の前にどんと置いた。これを飛竜の背の高さまで持ち上げるには数人の手助けが要る。小柄なアーシアと二人で一緒に、とはいくまい。
「そうですか。エイハブのわがままのために、すいませんねぇ」
「俺だって飛竜に乗るのは嫌いじゃないんだ。別に謝られるような事じゃないとも。そうだ、何か必要なものはあるか?飛竜が降りられそうな場所だったら買ってきてやるが」
「いえいえ、左様なものはございません。お気遣いありがとうございます」
本当は何かあったとしても、アーシアの性格であればウィリアムに遠慮をして自らの足で調達に赴くだろう。当然の回答だな、と思っているところへエイハブが戻って来た。
後ろにはなぜか若い兵士ではなく、右大臣のアダムと国王を引き連れて。
「へ、陛下!」
「国王様!?」
ウィリアムとアーシアは慌てて膝をついた。右大臣はともかく、国王を呼んでくるとは、エイハブは自分が何をしているのか分かっているのか、と驚きながら。
「ウィリアム、奇遇だな」
「は、はぁ……」
「何やら兵士を探していると、この子供が走っていたのでな。面白そうだと思ってついてきたのだ」
なるほど、そういうことかと胸をなでおろす。エイハブが呼んだのではなく、連れて行ってくれと国王から声をかけたのだ。破天荒で冗談好きな国王の悪い癖が出ている。
「失礼ながら、陛下。エイハブがどういった要件で兵士を探していたのかまではお聞きになられていないのでは?」
「いや、聞いているとも。なぁ?」
「うん!言ったよ!そしたら手伝ってくれるって!」
何を考えているんだ……とウィリアムは頭を抱え、アーシアは口をポカンと開けてしまった。二人とも顔を上げてしまっている事にすら気づいていない。
「えぇと、陛下、力仕事ですよ?アダムにでも手伝わせるので、そこで見ていてください」
「ははは!なんの、お主を城壁から引き上げた時に比べれば何てことはない!さぁ、始めるぞ!」
アダムが非難的な視線を向けてきたが、彼が何か言う前に国王がどんと胸を叩きながらそう宣言した。ウィリアムも観念するしかあるまい。
「そういえばそんなこともありましたね……分かりました。ではお力を貸してください」
「……陛下、私も手伝うのでしょうか?」
文官であるアダムは逃げ腰だ。どう見ても肉体派ではない上、泥で衣服や手が汚れるのを躊躇しているように見える。
「当然だ!案ずるな、お前に腕力が無いのは知っておる。余とウィリアムが両側から抱えるから、飛竜の上からお前が引き上げてはどうだろうか」
「そ、そんな!飛竜に乗るなど!私とバレンティノ卿が下から持ち上げますから、陛下が上から引き上げてはいかがですかな!?」
飛竜に慣れていない、というより心のどこかで魔族は人間にとって驚異的なものだという恐怖心が抜け切れていないらしい。引きつったそのアダムの顔にウィリアムは苦笑した。
とはいえ、以前のような犬猿の仲でもないので嫌な事をやらせることも無かろう。
「陛下、飛竜の上から落ちては御身にとって一大事ですし、ここは俺が上から鞍の位置を合わせましょう。慣れてるのでそれが一番ではないですか?」
「む、いや、それは……何事も経験というものは必要であろう?」
「「乗りたいだけでしょう、陛下」」
ウィリアムとアダムが全く同じ言葉を吐いた。そして、嫌がっていたはずのアダムにそれを言われるのは心外だと彼を睨みつける。
「では余の代わりにお前が乗ればよいではないか、アダムよ」
「そ、それとこれとは話が違いますぞ!」
「陛下、へそを曲げてる暇があるなら俺がやります。ほら、子供も待ってますから」
エイハブか国王陛下か、どっちが本当の子供か分からないな……とまでは言えるはずも無く、ウィリアムはさっさと飛竜によじ登った。
大人たちの無意味な口論に飽きたのか、飛竜は大きなあくびをしている。
エイハブがまた手伝おうとするかと思ったが、三人いるので必要ないと判断したようで、たまたま地面にいた毛虫を観察している。
……
……
「よし、これで大丈夫です。ありがとうございました、陛下、右大臣殿」
飛竜用の鞍を固定し終えると、ウィリアムが鐙に足をかけて地面に降りた。
鞍についていた細かな土が、国王の淡い水色のローブとアダムの黒い文官服の胸部や袖を汚している。
「何のこれしき。装備一つでここまで重いものなのだな。飛竜や兵士諸君はよく装備を纏ったままで行動できるものだ。軽量化を考えてもよさそうだな」
国王が袖で額の汗を拭うと、そこにも赤黒く土の跡がついた。
「えぇ、既に飛竜用の鞍はヘンリーのところに改良を依頼しています。軽量化というよりは装備の補填ですが、重くなるのをを見越して全体的に軽いものを作ろうとするでしょうね」
「そうかそうか。やぁ、坊や。待たせたな。いよいよ飛べるぞ」
毛虫の進行を葉っぱで塞き止めようとしていたエイハブが顔を上げる。
「え、もう行けるの?あ、ほんとだ!ありがとうございます、王様」
「私からも御礼申し上げます、陛下……」
エイハブとアーシアの感謝を受け、国王は満足そうに頷いた。
「エイハブ、来い」
葉っぱを手にしたままのエイハブがウィリアムの側に来る。その小さな身体を抱き上げて、先に蔵の上に座らせた。そして自らも足をかけて颯爽と飛び乗る。
「うらやましい限りだぞ、ウィリアム」
「お気持ちは理解できますが、まずは横にいる右大臣や大司教を説得するのがあなたの仕事でしょう、陛下」
「やれやれ」
国王と右大臣が飛竜から少し離れた。離陸の強風と砂塵を避けるためだ。アーシアは始めから遠巻きに立っているので問題ないだろう。
「行けるか?」
「グアゥ」
やる気のない返事なのは、エイハブの願いに根負けしたせいで飛ぶだけだぞ、という僅かな不満の表れだろうか。
エイハブを前に乗せ、麻縄でウィリアムの身体としっかりと固定する。騎乗者向けのシートベルトというか、命綱はヘンリーが準備する新装備が整うまでは無い。
つまり現時点ではウィリアム自身は飛竜と固定されているわけではないので、握る手綱と踏みしめる鐙だけで身体をホールドしなくてはならない。
今のところは離着陸を含めた移動手段としてしか飛竜を使っていないが、万が一にも緊急着陸や急発進などが発生し、アクロバティックな動きが必要となったら確実に固定用のベルトが無いと空に放り出される。
カンナバーロなどは泡を吹いてしまうかもしれないが、飛竜自体が撃墜されない限りはそういった手荒な飛行を行っても死ぬ心配はない。
どしんどしん、と二歩だけ地を蹴った飛竜が翼を大きく広げながら跳躍する。そこで翼を一度羽ばたかせると、重力に逆らってその巨体はぐうんと上昇する。ほとんど滑走を必要としない垂直離陸だ。
飛竜小屋は裏庭とも言うべきか、王宮内でも空き地のような場所に位置している。その塒以外は屋根が無いので簡単に飛行を開始できた。
「わぁ!」
「よかったな、エイハブ」
その小さな頭を撫でながら地上を見下ろすと、手を軽く上げて見送ってくれているアーシアと、マントを翻して王宮内に戻っていく国王、それに続く右大臣の後ろ姿が見えた。
飛竜はさらに数回羽ばたいて、十分な高度まで飛翔した。
「どこに行くのー?」
「そうだな。街をぐるりと飛んでみよう。向こうへ行けるか?」
飛竜がウィリアムの人差し指の示す方向を横目で確認し、滑空し始める。
まずは個人的な遊覧飛行となるが、さっきまで見て回っていた物件の上空を回っていく。やはり地上から見たそれとでは地理関係が全く違って見えるので非常に有効だ。
たとえば最初に訪れた男爵邸は、林を挟んだ裏手に墓地があった。個人的には気にしないが、不気味に感じる人間もいるだろう。
迎賓館だった巨大な物件のそばにはほとんど何もなく、小さな教会や小川が流れている程度だった。
閑静なのは良いだろうが、何をするにもいちいち手間がかかりそうなので、ヘンリーが言っていた通り使用人の雇用は必須だ。
むしろ、アーシアが一人で来てくれたところで……さらにエイハブも手伝ってくれたとしても、手に余るくらい多くの仕事が発生しそうである。
最後に訪れた一軒家は、上空から見てもどの家だったか分からなかった。あの辺りだろうという目星はつけられるものの、それ自体が大きな家ではなかったのと、周りに似たような民家が集中しているのがその理由だ。
「何を見てるのー?」
「あぁ、引っ越そうと思っているんだがな。その家を上から見てるんだ」
飛竜は何も言わずにウィリアムの指示に従っていたが、エイハブにはウィリアムが何を見たくてウロチョロしているのか分からないのだから、こう訊かれて当たり前だ。
「え!どのお家?」
「三つあるんだが、そうだな……あの、大きな屋敷が見えるか?」
既に離れてしまっているが、後方の迎賓館は未だに視認できるほどに大きい。
「ううん、よく見てみたいなぁ」
この後はエイハブに行きたい場所が無いか訊いて、そこへ向かおうと思っていたウィリアムだったが、本人がそういうのであれば別に構わない。もう一度、迎賓館の上空を飛ぶまでだ。
「そうか?では、どれを俺の家にするのが良いか、教えてもらおうかな」
「うん、いいよー!」
「飛竜、あの建物の上へ頼む」
「グァウ!」
スーッと飛竜が翼で風を切りながら右方向へ百八十度旋回し、一度だけ羽ばたいた後に直進方向への滑空を開始する。
ちょうど、街角で遊んでいた子供たちが飛竜を指差したり大きく手を振ったりしていた。街の住民たちにもこの飛竜がすっかり認知されている。
あまりにも近づかれるとアダムのように恐怖心を持つ者も多いだろうが、空を飛んでいるくらいであればそれもない。
丁度真下辺りにあった民家はウィリアムですら視認できなかったので、迎賓館と男爵邸だけ見てもらうことにする。
もちろん、エイハブの意見は参考にこそするが、それで最終決定とするわけではない。あくまでも引っ越すのはウィリアムとマルコなのだ。
迎賓館上空はやはり長閑なもので、人っ子一人見当たらない。リタイアした老夫婦が好みそうなロケーションだが、この世界の平和と自分たちの故郷への帰還を目標とするウィリアムにとって暮らしやすいとは言えなそうだ。
「着いたぞ。この大きな屋敷だ」
「屋根しか見えなーい。でもお庭が大きくていいね!飛竜も一緒に住むの?」
「飛竜?そうか、それは……想定していなかったな」
飛竜には常に王宮内で待機してもらうものだと思っていたが、なるほど、自宅にそのスペースがあれば一緒に暮らすことも出来るのか。
ただし必然的に、飛竜も住むとなればウィリアムが最も希望している民家は選択肢から消えてしまうが。
「お前はどうだ?今まで通り王宮にいるのと、俺と同じ家に住むのではどちらがいい?」
「グァウ!」
英語で飛竜にそう尋ね、失敗したなと思い返す。肯定か否定で返せる質問でないと、どちらで返してくれているのかよく分からない。
「王宮の住まいは満足しているか?」
「グルル……」
「今、下に見えている屋敷になるかは分からんが、俺やマルコと同じ家に住みたいか?」
「グルル……」
「同じ返答か。ふぅむ」
飛竜とて、いきなりそんな話をされてもどちらが良いとの判断は出来かねるらしい。それは同時に、王宮の暮らしに大きな不満はないと思っているとも取れるので、一先ずは現状維持になったとしても安心だ。
「下りて見れないのー?」
「あぁ、別に構わないぞ」
内見は終わったので母屋自体は鍵がかかっていると思われる。敷地内も柵で囲ってあるのだが、庭先であれば上空から入れる。
あまり褒められた行為ではないが、誰かに見つかったとしても飛竜がいる時点で犯人はウィリアムであることは明白だ。ヘンリーの耳に、迎賓館の敷地へ飛竜を使って勝手に侵入したものがいると届いたとしても気にしないだろう。
どしんと飛竜が着地し、ウィリアムとエイハブも降り立った。
「ひろーい。バレンティノ様、ここに住むんだねー」
「だからまだ決めたわけじゃないと言ってるだろう……」
「でも、飛竜も気に入ったみたいだよ?」
庭はそのほとんどが芝生だが、真っ白な石材で作られた小ぶりな噴水が一つと、大木が一本ある。
その大木の下へ移動した飛竜が、早速うずくまって目を閉じていた。エイハブの言う通り、気に入ったのかもしれないなとウィリアムは笑った。




