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#13

「聞いてるぜ。数日前からうろちょろしてる妙な外国人の二人組がいるってな。同業だろう、何を扱ってる?」


 雨音が打ち付ける窓ガラスがその薄暗い部屋の緊張感を際立たせる。

 低すぎて聞き取れないような声を吐いたのは、ウィリアムとテーブルをはさんで正対する木椅子に座る壮年の男だ。刈り込んだ髪と伸ばしっぱなしの髭、見るからに巌のような豪傑だ。組まれている太い両腕には派手な茨の刺青を施している。

 テーブルの上の小さな蝋燭の炎がゆらりと揺れて、茨がまるで大蛇のように躍動しているような目の錯覚を起こした。

 男の後ろにはその手下らしき若い衆が五、六人。そしてウィリアムの後ろにはカンナバーロが立ち、互いに険しい顔でにらみ合っていた。


……


……


 数日前の夜更け。いよいよイスラマバード内に潜入したウィリアムは、たまたま見つけた麻薬の売人のあとをつけた。薄汚い娘だったことだけ覚えている。


 他意があったわけではない。たまたまその娘の仕事が終わったようで、路地裏の住民たちのねぐらはどの辺りなのか気になっただけだ。

 ウィリアムとカンナバーロはふらふらと家路に向かう娘を尾行し、廃屋が立ち並ぶ貧民街にたどり着いた。売りが行われているエリアからそう離れていない。

 壁や天井に穴が開き、打ち捨てられた石造りの二階建てマンション。その一室が娘の住処らしかった。


「なるほどな、アジトにはちょうどいい。身を隠せるなら、俺達も場所を探してみるか?」


 ウィリアムがそう言った直後だった。

 女の悲鳴と男の怒号。それが今しがた娘が姿を消した一室から響いてきたのだ。

 そして、飛び出してきた黒づくめの男の手には、血に濡れたナイフとジャラジャラと音を立てるズタ袋。中身は金銭だろう。


 とっさに身を隠したウィリアム達には気づかず、その男は脱兎の如くその場を去っていった。

 どうするかと思案したが、二人は男を追いかけるのではなく、娘の安否を確かめることにした。やってきたばかりの街でならず者とひと悶着起こしても何も良いことは無いと思っての判断だ。


 ギィィ……


 留め金がさび付いて固くなってしまっている木扉を開けると、真っ暗闇の中に転がっている娘の死体があった。先ほどまで尾行していた女に間違いない。

 ライターを灯して詳しい状況を確認する。

 部屋は生活用品であふれていたが、戸棚や衣装入れはすべてひっくり返されて荒らされている。どうやらこの娘を狙って静かに潜んでいたのではなく、押し入り強盗中に意図せず彼女と遭遇してしまったようだ。


 そして、ウィリアムは残酷だとは思いつつもこの部屋を拠点として使うことに決める。

 無論、女の死体は廃棄して部屋を清掃するところからだ。


 この娘が死んだということは、ここは空き部屋となる。散乱する衣服からも同居人がいるようには見えない。彼女に近所付き合いがあれば、いつの間にか見知らぬ二人の外国人が住み着いていることに気づく者も現れるだろうが、イスラマバードの中に隠れ家を持てるという事実がそれに勝った結果だ。


 ここから、数日の間にウィリアム達は着々とその足を伸ばしていった。

 先ずは末端の売人たちから麻薬や盗品を買う客を装って情報を入手していく。実際、必要ではないが何度か購入もした。

 何気ない天気の話に始まり、店の売り上げは上々か、景気はどうだと親しげに話を広げる。最終目標は首相の居場所だが、ここで耳にするのは難しいだろう。


 せめて夜の住民からだけでも、ウィリアム達がここにいる事へ違和感を持たない状態にしてしまおうという魂胆だ。そして実際、多少の付き合いを持つことができた。

 これで夜は出歩いていても、兵隊にだけ気を付けていればよいという事になる。


 次に、必要のない盗品や麻薬を客相手に安価で捌き始めた。在庫はそう多くないのですぐに尽きてしまうだろうが、これもまた夜の顔を広げるためだ。

 客は売人と違い、それなりの身分を持つものもいるので、政府関係者とのコネクションを期待していた。


 そして、様々な商品を相場の八割ほどで売ったせいで、あっと言う間にうわさが広がってしまう。後になって迂闊だったとは思ったのだが、ウィリアムはあえてこれを利用し、本格的に利益度外視の商売を始める。


 コンタクトは突然だった。

 客に紛れて近づいてきた見知らぬ男が一言、「ボスがお待ちだ、ついてこい」とウィリアムに耳打ちをしてそそくさと去っていく。

 政府筋の人間ではないのは明らかだ。だが、二人はその後を追った。


……


 そして話は冒頭に戻る。

 薄暗い部屋の中でウィリアムと向かい合っている刺青の男は、イスラマバードの裏路地で幅を利かせている者の一人だろう。


「なんでも扱うが、それがどうした」


「まぁ、そう警戒するな。呼び立てたのはなんてこたねぇ、簡単な話さ。やたらと安く売ってるみたいだからな」


 今のところ、ウィリアムの商売に喧嘩を吹っ掛けようというつもりではないらしい。


「ふん、その安く仕入れるルートを教えてくれって事か」


「話が早くて助かるぜ」


 暗がりの中、火に照らされて男がにやりと笑ったのが微かに見えた。


「しかし困ったな。俺は、お前たちが納得するような答えを持ち合わせてない」


「なんだぁ?今さら隠し立てしようってのか、痛い目に合わせたくはねぇんだがな」


「勘違いするな。答えないとは言ってないが、答えを知ってもお前はガッカリするだけだって意味だ」


 わけが分からず、後ろに立つ若い衆がざわつき出す。


「デタラメ言うな!俺達にも噛ませてくれりゃ、今後の商売も安全になるんだぞ!」


「そうだぞ、安く売るには安く仕入れる方法があるのが当然の事だろうが!勝手にレートを下げて一人勝ちしやがって!」


 これ以上、出し惜しみしても仕方ないだろうと、ウィリアムは肩をすくめて話し始めた。

 仕入れなどとたいそうな事はやっておらず、相場通りの値段で売り子から買っていること。それを割り引いて客に売っていること。


「ちょ、ちょっと待て。なんだそりゃ?ただの慈善事業じゃねぇか!」


「だからそう言ってるだろう。もともと俺は儲けるつもりなんてないのさ。俺は人脈作りがしたかっただけなんだからな」


「人脈?誰か、探してるやつでもいるのか?人探しなら報酬次第で手ぇ貸すぞ」


 タダでは転ばないつもりか、刺青の男がそんな提案をしてきた。


「そこまでの商売魂があれば裏稼業でなく真っ当な店でもやれそうじゃないか」


「馬鹿言え。俺だってそうしてぇが色々と事情ってもんがあんだよ。で、どうする?」


「渡りに船だ、買ってやる。俺がほしいのはこの街の関係者さ。衛兵でも、侍者でもいい。知り合いはいないか?」


 男はしばらく黙考し、やがてなにかを思い出したかのように目を開いた。


「思い出した。一人だけ客にいたな。確か、首相官邸の庭師かなんかだった気がする。ともかく、そいつを紹介してやればいいんだな?」


「一人だけか?出来ればもっと中枢に食い込めそうなやつだと助かる」


「一人だけだ。そもそも客の素性なんて滅多に話題に上がらねぇんだからよ。たまたまそいつがハサミやらノコギリやら、作業用具みたいなのを腰に下げてる日があったんで訊く機会があっただけだ」


 ウィリアムが頷くと、興味を持った男の方からも質問が飛ぶ。


「まさか、お偉方に取り次いでもらって面白い商売でも始めようってか?そうか、外国人なら要人の暗殺って線もあるな。もちろんそんなこた俺達には関係ねぇが、どうだよ?」


「どっちも不正解だ。あまり詮索してくれるな、それこそお前が言った通り、俺にも事情ってものがあるからな」


 自らの言葉をそのまま返されて、男も苦笑を浮かべるしかなかった。

 官邸の庭師というと御用達の出入り商人のような立ち位置だろう。首相とも顔見知り程度の付き合いはあるかもしれないので良しとする。

 繋がらなければそこからまた人脈を広げていけばいいだけだ。


 ここを訪れて数日が経過してしまっている。首相の父親だというカラチ市長の手の者も到着しているだろう。

 ますます接触しづらい状況だが、同盟締結の為の正念場だ。


「さて、払いは実際そいつに会わせてもらってからにしたい。金貨三枚でどうだ?出来れば急いでもらえると助かる」


「いや、五枚だ。急ぐのも難しいな。こっちから連絡を取る術がない。奴が売り場に姿を現すのを待つ他ねぇよ」


「五枚ほしいならその分きちんと働くんだな。明日までに連れてきたらお前の言い値で買ってやる」


 ウィリアムにとって、この程度の交渉は朝飯前だ。

 実はもともと金貨で五、六枚程度を支払うつもりだったのだが、あえて低めの金額を提示して不満を持たせる。そこで予想通り釣りあげてきた対価として対応の早さを求めたわけだ。

 実際には相手がその分の損を被っているわけだが、得をしたように感じさせてしまうあたり、組でのナンバー2として厄介な交渉ごとの矢面に立たされてきただけのことはある見事な交渉術だ。


「……仕方ねぇ、どうにか探し出して連れてきてやるよ!」


「一日でも遅れたら金貨三枚だからな。死ぬ気で走り回ってくれよ」


「けっ!てめぇ、絶対に良い死に方はしねぇだろうな!」


「言われなくても、とっくの昔に自覚してるさ」


……


 翌日の夜。

 いつも通りに少量の盗品を捌き終えたところに、昨日の交渉相手だった男たちが現れた。

 後ろに痩せぎすの壮年の男を連れている。彼が件の庭師だろう。つまり、急ぎで会わせるという約束は果たされたわけだ。


「どの口が難しいって言ったんだかな」


 イタリア語で揶揄すると、ウィリアムの隣のカンナバーロだけが軽く笑った。


「どうだ、これで文句ねぇだろうがよ」


 薄汚れた麻のシャツを着た、刺青の男が鼻高々といった様子で躍り出た。


「あぁ、助かった。受け取れ」


 スーツの内ポケットから取り出した金貨を『六枚』、ウィリアムが差し出す。

 これもウィリアムの策だ。連中と友好的な関係を維持することを目的としている。


 男は何食わぬ顔で感心したように頷いた。だが、その前に一瞬だけ喜色を浮かべたのをウィリアムは見逃さない。

 どの程度、この連中が味方として利用できるかは分からないが、これで少なくともウィリアムの邪魔をするようなことは無いはずだ。


「さて、それじゃ俺達は退散するとしよう。後の事はお前らだけで話してくれ」


「あぁ」


 軽く手を挙げて、ごろつき連中が去っていく。

 建物の陰に姿が消えるや否や「よし、てめぇら飲みに行くぞ!」と聞こえてきたのもなぜか憎めない。


「それで、わしはどうして紹介を受けたのかね?」


 その場に取り残された庭師の男がウィリアムに尋ねた。


「ここじゃマズいから場所を変えよう。別にあんたから金を巻き上げようなんて腹じゃないから安心しな」


 安心させるため、一応はそう言ってみたものの、庭師の男は大しておびえた様子もなくウィリアムについてきた。呼ばれた理由はよくわからず不安だろうが、今しがた分かれた連中との間に信頼関係はあるようだ。

 そうでなければ知らない人間への紹介など受けないだろうし、仕事として引き受けた以上は刺青の男も出来る限り良いように話してくれているはずだ。


「ここだ、入ってくれ。少し汚いが、俺達がねぐらとして使ってる部屋だ」


 ウィリアム、庭師の男の順で入室し、最後にカンナバーロが崩れかけの木扉を閉めた。


「腰が悪くてな。この椅子に座っていいか」


「あぁ、好きに使ってくれ。早速だが、一つ頼みがあって来てもらった。話を聞くに、あんたは首相官邸に出入りがあるらしいな?」


 部屋に唯一ある椅子を庭師に譲り、ウィリアムは起立したままでそう切り出した。

 カンナバーロが扉から窓際に移って、度の強い酒と紐を利用したアルコールランプを灯してくれた。


「それが仕事だ。首相の邸宅には毎月一回、三日間くらいの作業があるな」


 さめざめと小雨が降り始めた音が聞こえる。


「わけまでは話せないが、首相と会いたくてな。もちろん、間接的にそれを繋いでくれる人物の紹介でも構わない。俺達は外国人だが、首相に危害を加えようってんじゃないからそこは信じてくれ。なにせ、街にこんな戒厳令が敷かれてるとは思わなくてな。街にすら入れてもらえずに往生していたところだ」


「理解した。顔すら知らん首相と直接ってのは無理だが、仕事を回してくる使用人なら紹介してやれるかもしれん。次の仕事にわしの部下としてついて来るというので、どうだ」


 悪くない提案だが、時がかかりすぎる。それを尋ねようとウィリアムが口を開こうとすると、先に庭師の男が言葉をはさんだ。


「ちょうど、二日後に首相官邸に御呼ばれしてる。事情は知らんが早い方が良いんだろう?」


「それは重畳だな。連れて行ってもらえるか?報酬は……」


「いらんいらん。別に小遣い稼ぎなんざに興味は無くてな。わしは庭さえいじっていられればそれで充分なんだよ」


 どうやら意外なところで人格者と出会ってしまったようだ。職人気質なだけかもしれないが、これはありがたい。


「本気か?危険を伴うはずだが、そんな安請け合いをして」


「本気も本気だ。使用人と話をするくらいどうってことはない。ただし、こっちの作業も多少は手伝ってくれよ。なに、落ち葉の掃除と道具の受け渡しくらいしか頼まんから安心しろ」


「そのくらいお安い御用だ。そこにいるのは俺付の兵士でな。ベテランで体力もあるからこき使ってやってくれ」


 暗に自分は手伝わないがな、と言っているようなものだ。

 しかしそれでも庭師の男は笑顔で頷いた。


「手が足りなくてな。力があるなら助かる。では二日後の朝に」


「了解した。どこに向かえばいい?」


「そんなもんは現場に集合に決まってるだろう。官邸の位置が分からないのか?」


「庁舎なら分かるが、邸宅は知らないな」


 さすがに、首相が寝泊りしている場所の情報は無い。王族のように城に住み、城で働いているのとは違うはずだ。


「すぐ近くではあるんだがな。何なら今から案内してやるぞ」


「それは助かる」


 カンナバーロと二人でコソコソと動き回っていた時とは違い、地元の住民がいるだけで見える景色はだいぶ明るい。

 それもそのはず。裏通りは利用せずに、堂々と夕暮れ時のメインストリートを歩いているからだ。

 目指す首相官邸は街の一等地に建っているので、いくら迂回ばかりを繰り返しても絶対に大通りを避けては辿り着けない。


 時折、男は道端を歩く住民や店先に立つ商人らと挨拶を交わしている。

 続くウィリアム達に対しては「誰だろう」という目こそ向けるが、何か問われる事は一度も無かった。


「顔が売れてるじゃないか」


「長年暮らしてればな。庭師自体がそう多くない職だから悪さも出来やしない」


「そんな男が裏稼業の奴らと知り合いなのは納得出来ないが」


「あぁ、買ってるのは刃物さ。質は良くないが、安く譲って貰ったのを手入れして使ってる。あとは酒だな。あまり堂々と買いたくなくてな」


 確かにそれならば納得のいく話だ。

 別にこの男が薬物中毒だろうがウィリアムには関係のない話だが、酒や安価な仕事道具を求めているだけであればまだ「まとも」な方だと言えるだろう。


「道順は大丈夫か?見えてきたぞ」


「あぁ」


 裏通りでは廃屋や荒屋しか無かったが、しっかりとした煉瓦と土造りの建築物が並んでいる。

 庭師の男が指差したのは、首相官邸と言うにはいささか小ぢんまりとした邸宅だった。

 鉄柵で四方を囲まれており、その中に壁や屋根まで水色の煉瓦だけを使った派手な本館がある。派手ではあるものの、建物の広さはない。なぜなら敷地内のほとんどが、植木や花壇などで覆われているからだ。


「ほう。こりゃあ確かに立派な庭だ。一国の元首にしては家自体は予想してたより小さいが」


「首相は風流な人らしいからな。前の首相は別の場所にどでかい屋敷を持ってたよ」


「風流ねぇ」


 鉄柵越しに夕陽に照らされた華やかな庭を見渡す。よく見ると花が外側に多く、本館に近づくにつれて植木が少しずつ増えていく配置になっているようだ。

 見張りなどは立っていないので、見学くらいで誰かに注意を受ける事はないだろう。


「では戻ろうか。憲兵の目が気になるなら送るか?」


「そうだな、礼を言う」


「二日後、現場に向かう途中で何かあったらわしの弟子だと振り切ってくれて構わないからな」


 親切にも程がある人物だな、などと考えながら帰路につく。

 会話をしているのはウィリアムと庭師の男だけだが、カンナバーロも少しだけ距離を置いて後ろからついてきている。


「昔の首相も知ってるって言ったよな?それは今の首相の父親だったりするか?」


 つまり現カラチの市長だ。


「いや、違う。どこぞの王政とは違って世襲制じゃないぞ。首相は国民選挙というもので決まる」


「選挙があるのか。しっかりと民主主義してるんだな」


 欧州四強はすべて王政である。こちらの世界にきて初めての民主国家が途上国のアジアなのは意外だった。


「もし首相と話せたら言伝を一つ頼まれてくれよ。戒厳令を解いてくれってな。出入りが規制されてると街の活気が減るんだ」


「了解した。突然こんなことをやりだした理由も気になるところだな」


「わしは別にその理由まで興味はないさ。暮らしやすくなればな」


 角を曲がり、ウィリアムとカンナバーロの住処に到着する。

 庭師の男が手を挙げ、すぐに踵を返した。


「どうだ?」


 カンナバーロに問いかける。


「特に怪しい動きはありませんでしたね。周りにも妙な気配は感じませんでした」


 カンナバーロには男への警戒を依頼していた。

 それに加えて周りからウィリアムを監視している者がいないかどうかもだ。どちらかと言えばこちらの方が発見される可能性は高いものの、杞憂だったらしい。


「では奴を信頼しよう。二日後の朝に首相官邸で作業の手伝いをする。お前には作業と周囲への警戒を、俺は関係者への接触を試してみる」


「任せといてください。しかし槍は持っていけませんよね?」


「高枝ばさみとでも言っておけば良いんじゃないか?」


「いや無理でしょそれ……」


……


……


「いやいや、だから高枝ばさみだって何度も言ってんだろ!いや、イタリア語が通じねぇのか、畜生!めんどくせぇな!」


 約束の朝。

 首相官邸の真ん前で、衛兵らしき男にカンナバーロが呼び止められて怒鳴っている。


「おい、そろそろ連れの兵隊さんを助けてやったらどうだ」


 ぷかぷかと煙管を吸いながら庭師の男が気だるそうにウィリアムに言った。

 ウィリアムも少し面白がって見ていたのだが、官邸の敷地に入って仕事に取り掛かっても良い頃だろう。


「あぁ、憲兵さんよ。ちょっといいか。そろそろ放してやってくれ」


「お前、この男の知り合いか?大槍なんか担いで何をしようとしてる!」


「見てわからないか?庭師の見習いでな。コイツは高い場所の葉や枝を切るのにいつも槍を使うんだよ」


 結局その適当な言い訳を使っているのだから飛んだお笑い種だが、顔だけはしっかりとポーカーフェイスで見繕ってある。

 衛兵もそれが冗談の類だとは思うはずも無く、「槍で枝を?」と困惑した様子だ。


「まぁ、あんたらの職務上怪しむのも分かるが、こっちだって仕事なんだ。真面目に庭を手入れしようとしてんのに、いちゃもんつけられちゃたまったものじゃない。だいたい、首相にケガさせようっていう不届き物がこんなに堂々と武器なんか持ち込むか?それでも無理なら槍を預かってもらう分には構わんが、それで作業効率が落ちたらあんたが首相に申し開きしてくれるんだろうな?それから、大事な商売道具なんだから責任をもって丁重に扱ってくれよ」


「ううむ……」


 次から次へと機関銃のように嘘八百を並べて衛兵を言いくるめていく。


「一日中そこに突っ立って見張ってくれてもいいぞ。巡回するよりは楽かもしれないし、さぞ同僚や上官からは羨ましがられるだろうな。なんなら勤務内容変更の報告のために、詰め所までついて行ってやろうか?」


「わかったわかった!口の減らない異人だな、まったく!」


「分かってくれたようで何よりだ。今後俺達を町中で見かけてもお咎めなしで頼むぞ?」


 肩を軽くたたくと、気安く触るなとでも言うように衛兵はそれを振り払った。

 身の危険を覚えるほどではないが、関わらない方がよさそうだと判断したらしい。


「とにかく、妙な事は起こすなよ!犯罪者を見逃したとあっちゃ問題だからな!」


「だから悪さなんて企んでないと言ってるだろう。言いがかりはよしてくれ」


「ふん!」


 ずかずかと歩き去る背中を見送り、ウィリアムはカンナバーロに力なく笑いかけた。


「卿、とりあえずは助かったんですかね?なんだか怒ってるようにも見えましたが」


「うまく丸め込まれたようで気に食わなかったんだろう。それより仕事だ。言葉こそ通じないかもしれないが、今日はあの庭師の男を親方としてしっかり働いてくれよ」


 三人そろって、官邸を囲む鉄柵の中央にある扉の前へと進む。

 毎度仕事を依頼してくる使用人らしき若い男が待っていた。真っ白なゆったりとした衣装に真っ白なターバン、髭は無く幼さが残る印象の青年である。


「お待ちしておりました。そちらのお二方は?先ほど何やら揉めているように見受けられましたが」


 当然ながら衛兵とのひと悶着も彼の目と耳には届いていたわけで、真っ先にそのことを訊かれた。


「この二人は力仕事のために新しく雇った子分なんだが、槍を持っているのを注意されましてな」


 庭師の男は正直に返す。


「この槍は高枝を突いたり、梯子の上にいる親方に荷物を受け渡すためのものなんだ。その説明をしていた」


 ウィリアムがすかさず嘘を挟み込む。


「……そうですか。ではよろしくお願いします」


 使用人は少しだけ目を細めたが、意外にも簡単にそれを許した。


 早速その広大な敷地内に足を踏み入れると、まず目の前に広がるのは白や黄色、桃色と色とりどりの花壇だ。

 季節ごとに植え替え、その時期に花を咲かせている種類のものに入れ替えるほどの徹底っぷりらしい。ただしこちらはまた別の専属庭師がいるらしく、ウィリアム達は植木を剪定する。


 庭の広さに釣り合わない小さな本館にたどり着いたところで、使用人は一礼して入室していった。こちらをずっと見張っているはずもないので仕事に戻ったのだろう。


「さて、手伝いがいれば三日の作業を二日半には縮めたいところだな」


「なんだ、やけに優しいじゃないか。三倍の人数だから一日とでも言うのかと思ったぞ」


「そりゃそうだ。雑用以外は全部わしがやるんだからな。そもそも給金なんざ払わないんだ。タダ働きに過度な期待はせんさ」


 笑いながら、梯子を手早く植木の横に立てかけていく。カンナバーロもその程度であれば演習で経験しているようで、言われる前にそれを手伝っていた。

 ウィリアムは先ほどの使用人が再び屋敷から出てくるまで手持無沙汰になってしまう。ただぼんやりと立っていても退屈なので、必要そうな道具を梯子の側へ持っていって広げた。


 それから二時間後の休憩まではなんの変化もなく、ただ黙々と剪定作業の手伝いに従事した。


「よーし、休憩にするか」


 五本目の木の選定を終えた庭師の男が梯子から降りてくる。

 英語が分からないはずのカンナバーロが、全く疲れていないはずなのに休憩であることを察知して大きく背伸びをしている。


「こっちの槍持った兵隊さんはやっぱり軍人だよな?何も言わなくても筋がいいのが分かるよ」


 皆で地べたに座り込み、そのまま昼食となった。

 庭師の男は弁当代わりにチャパティを持参しており、ウィリアムとカンナバーロは行きがけに露店で購入したパンにかじりつく。


「おっと、おいでなさったぞ。ここからが本番だろう?」


 庭師の男が目配せをしながらそう言った。

 こちらの休憩時間を見計らって、使用人が本館から出てきているところだった。その手には差し入れとして淹れてくれた茶が入っているのだろう、金属製のティーポットが揺れている。


「ご苦労様です」


「あぁ、あんたもな。お茶か?わざわざご苦労な事で」


「はい。こちらはイギリス産の紅茶でございます。どうぞ、みなさんで召し上がってくださいませ」


 ウィリアムの無礼な態度も気にした様子はない。

 叱られるのを覚悟で、注意を向けてもらうつもりだったのだが。


「イギリスか、懐かしいな」


「おや、やはりあなた方は……」


 よし、と内心でほくそ笑むウィリアム。

 ティーポットの茶はカンナバーロが受け取り、各々のカップに注いでくれている。


「あぁ、ヨーロッパからこっちに流れてきた者だ」


「なるほど。しかしどういう経緯で庭師の見習いに?」


「まぁ、端的にいえば仕事を探しているところを拾ってもらっただけなんだがな。使用人さんはどうなんだ?まだ若いようだが、首相官邸にお勤めとは大したもんじゃないか」


 会話が少しずつ成立し始めたのを確認すると、そそくさと茶を飲み干した庭師の男とカンナバーロが作業に戻る。

 打ち合わせ通り、この場はウィリアムに任せるのが当然の流れだ。それを後押ししてくれる二人に感謝の念を送りながらウィリアムは使用人に視線を戻す。


「おや、お二人は戻られるようですよ?私とお話をしている暇などないのでは」


「気にするな。俺は休憩はきっかり一時間取る主義なんだが、あの二人が働き者なだけだ。それより聞かせてくれないか?首相官邸勤務なんて大仕事にどうやってありついたのか」


「そうですか?確かにこの国は欧州国のような王政ではありませんからね。家柄がよくて近習に抜擢、なんてお話にはなりません。首相の供回りは庁舎に勤める職員から成績の良かったものが選抜されます」


 良くも悪くも実力主義というわけだ。若年で家督を継いで、荒波の中をのし上がってきたバレンティノ・ファミリーと近いものがある。


「ほう、見上げたものだな。なにせここは首都なんだ。余程仕事ができる者じゃなければ選ばれないだろう」


「はは、お褒めに預かり痛み入ります。では私からもご質問をもう一つ、よろしいでしょうか」


「もちろんだ」


「どういった御用でこちらまでいらしたのでしょうか」


 さすがに何かを汲み取ったかとウィリアムは微笑を返す。

 真剣な眼差しで使用人は頷いた。


「庭師の手伝いで……という話では通用しないみたいだな?」


 無論、わざと感付かせたわけではあるが、バレてしまったのならば仕方がないといった様子を装う。


「良からぬ輩と勘違いはしないでくれよ。首相に渡したい手紙がある。ただ、それだけだ」


「……やはり、そうでしたか」


「やはり、ということは……そうか、カラチの市長か」


 当然と言えば当然である。首相の父親であるカラチ市長はウィリアムに対して敵対心を抱いていた。彼の放った伝令はとうの昔に到着しているはずだ。


「詳しくは申し上げられませんが、首相より、外国人が自分のもとを訪ねてくるかもしれないとは伺っております。あなた方の事で間違いないでしょう」


「そこまでわかっていてなぜ俺達を招き入れたんだ?それに、警戒しているはずの首相は俺達に対してどういった待遇で迎えるつもりなんだ」


「詳しくは申し上げられません。あなたがこうして現れたことは勿論、ご報告いたします。しかしその先は、正直なところ私にも分かりかねます」


 問答無用で処断されるほどの絶望的状況ではなさそうだが、首相が前向きにウィリアムとの対談に臨むはずもないだろう。


「あまり知らない人間を悪く言うつもりはないが、首相ってのは何を考えてるのやら。不可解な戒厳令も気になる。住民は迷惑がっていたぞ」


「それは……とにかく、私からあなたに申し上げられることは特にございません」


「それは残念だな。さてどうしたものか」


 ここでこの使用人がそそくさと退散するのであれば違った手もあっただろう。だが、彼はウィリアムの目的や考えを聞いてもなお、この場を去ろうとはしなかった。その理由は明白である。


「首相は、いま官邸にいるか」


「さて、私には何も申し上げられません。ただ、このお時間はあまりお見掛けすることはございません」


「それは残念だな。さてどうしたものか」


 さっきと全く同じセリフで返す。いない、ということで間違いなかろう。

 この使用人は、出来ればウィリアムを首相と会わせたいと思っている。きっと、不可解な戒厳令を快く思っていないのだ。

 だが立場上はそれを正直に話すわけにはいかないので、こうしてウィリアムと、ある意味で伝言ゲームにも似た回りくどいやり取りで会話をしてくれている。


「たとえばの話だが。俺が首相にラブレターを渡したいとする」


「首相は男性ですが」


「たとえばの話だ。だったらこの際、俺が女だと思ってくれても構わない。おっと、実際にそうだって言ってるわけじゃないぞ。勘違いするなよ。俺は男だ、ってそんな話は今はどうだっていいんだよ。大事なのは手紙だ。そう、この愛のこもった手紙をどうしても首相に渡したいとする」


 話に乗ってきた使用人を退屈させないように、ガラにもなくつまらない冗談をはさみながら確信に近づいていく。


「ふむ、続けてください」


「そしてこの手紙を渡すのは、俺自身じゃなければダメだ。誰かに取り次いでもらって、首相に手紙だけを渡すわけにはいかない。ラブレターが偽物だと思われたくないからな」


「要領を得ませんが……それを私のような世話役がお渡しするのではダメだということは伝わりました」


……


……


 その日の夜。仕事帰りに庭師の男から「給金変わりだ」と一杯おごってもらったウィリアムとカンナバーロは千鳥足でねぐらへと戻っていた。


「おや?ありゃ、昼間の」


 カンナバーロが路地の先に立つ身なりの良い男に気付いて指を差した。

 たしかに間違いない。首相官邸に勤めている若い使用人の男だ。まだ治安の悪い路地裏には差し掛かっておらず、大通りなので彼が歩いていても不思議なことは無いのだが、時間が時間だ。

 声をかけるべきか迷っていると、あちらもウィリアム達に気が付いたようで手を挙げつつ近寄って来た。


「あぁ、もしやとは思いましたが、奇遇ですね」


「そうだな。こんなところで何をしてるんだ?この時間なら首相は在館のはずだろう」


「えぇ、少しばかり買い出しを頼まれましてね。空いてる店はないものかと探していたところです」


 夜に買い出しとは珍しいこともあるものだと思ったが、チャンスかもしれない。


「何を探してるんだ?手に入るものなら俺達も探してやるぞ」


 もともと、裏路地で物品の買取も行っていたのだ。いかがわしいものを首相に仕える使用人が欲しているとは思えなくとも、聞いてみるくらいは良いだろう。


「あぁ、線香です。在庫を切らしてしまっていて」


「線香?首相が欲しがっているのか?」


「それは、詳しくは申し上げにくいのでご勘弁を」


 これはまた意外なものが出てきたな、とウィリアムは首を傾げる。


「まぁいい。線香というと、あの、仏教徒などが焚いているお香のことか?」


「えぇ、そうです。その線香です。欧州のご出身なのに、ご存じだとは驚きましたね」


 パキスタンはイスラム教徒を多く抱える国家だが、仏教徒もいないことはない。つまり、首相は仏教の信者ということだろうか。


「とにかく、線香だな。どのくらい必要なんだ?」


「そうですね、数日後に商人が届けてくれる約束がありますので、そこまで持てば良いかと」


「一箱あれば十分か。何本入かは知らんが」


「はい、お願いできますか?後ほど、またここで落ち合いましょう」


 一礼し、去っていく使用人。

 黙って横に立っていたカンナバーロにイタリア語で状況を説明する。


「軍曹、探し物を手伝うぞ」


「はい、了解です。何を探しますか?」


「線香だ。わかるか?」


 カンナバーロがポカンとした表情で固まる。残念ながら彼を単独で使うのは難しそうだ。


「線香……?なんですかそりゃ」


「仏教徒が仏前で焚く香だが、知らないなら仕方ないな。ついてこい」


「はぁ」


 雑貨店や日用品店が取り扱っていそうだが、日が落ちると大抵の店が閉まる。高価な灯をつけてまで商売するメリットが薄いからだ。現世のコンビニエンスストアのように常に開いているはずもなく、店でなくとも、ローマやロンドンの王城のように夜間も惜しげなく煌々と室内を照らしている家などほどんどない。

 となると、ウィリアムが頼るのはやはり路地裏の商売人たちである。顔なじみの客や売り子に声をかけ、線香を持っていないかと尋ねた。


 やがて、一人の年増の女が「少しなら家に取り置きがある」と答えてくれた。珍しく、彼女の亭主が仏教徒だという。

 ただ、予想より取り置きは少なく十本程度しか譲ってもらえなかった。それも銀貨一枚という法外な値段を吹っ掛けられてだ。


「これが線香ですか。なんだか妙な匂いがしますね。自分は苦手です」


「あぁ、俺も苦手だよ。煙草は平気なのにな」


 カンナバーロの感想に、苦笑と共に返答する。


「これを届けるんですね。しかし、妙なものを欲しがるお偉いさんですね」


「首相が欲しているのか明言はしなかったが、恐らくそうだろうな。どうして線香が必要だったのか聞ければいいが」


 そんな話をしながら先ほどの路地まで戻る。

 暗闇だが、街を囲む城壁に備えられたかがり火がぼんやりと照らしてくれていた。


「あぁ、戻ってらっしゃいましたか」


 使用人の男は約束通り戻ってきた。しかし、その手には何も握られてはいない。


「手に入ったのはこれだけだが、渡しておく」


「なんと!どうやって見つけたのですか。もしかして、店ではなく一般の民家から?」


「その通り。だから支払いは不要だぞ。その代わり、どうしてこれが必要だったのか、聞かせてもらえないか?」


 使用人の表情は暗くてよくわからないが、悩んでいる様子だ。

 とはいえ、もともとウィリアムと首相を会わせることに協力的だった人物である。やがて、意を決したように力強く頷いた。


「分かりました。本当であれば首相ご本人とお話をしてもらいたいところだったのですが」


「うん?」


「この線香は、首相がお使いになるもので間違いありません。というのも、最近になって中国からいらっしゃった高僧と共に、仏教の教えを熱心に学んでいらっしゃるからです」


 首相は改宗をした、という事のようだ。しかしそれ自体は問題ではない。


「ほう、その高僧ってのはさぞかし立派な坊さんなんだな」


「えぇ。有名なお寺で修業を積まれたそうです。だた、何と言いますか……首相は仏教に傾倒しすぎている節がございまして」


「よく聞く話だな。新興宗教ってのは誰の目にも輝かしい教えに見えるんだろうよ」


 新興というのはいささか誤りだが、イスラム教の教えしか知らないものにとって、仏教は新しく映るはずだ。特に、徳の高い僧侶の教えは輝かしく見えて仕方がないだろう。同じことを説いても、その相手が誰かによって信心深さはガラリと変わる。


「鐘の音をお聞きになりましたか?」


「あぁ、そういえば鳴ってたな。あれはまさか寺の?」


 まだイスラマバード内に入る前、城内から一度、低い鐘の音が聞こえてきたのを思い出す。


「はい、その高僧とともに首相が建立された仏寺です」


「もしかして、この戒厳令も質素倹約の教えを守って始めたんじゃないだろうな?」


「仰る通りです。はっきりと理由こそ仰らないものの、改宗の時期とぴったり合うので間違いないでしょう」


 ようやく、この街の状況の手がかりを掴んだ。


「つまり、俺に首相を説き伏せてもらうつもりでいたのか?以前の状態に街を戻すように」


「いいえ、まさかそこまでは申し上げられません。ただ、街を閉ざしていては、あなたのような貴重な旅人に出会う機会も失われてしまうと、首相がお気づきにならないかと期待していたまでです」


「そりゃ納得できる話だ。わかった、どうにかできるとは思えんが話してみよう」


 ウィリアムの目的はあくまでもイタリアへの同盟。中身は限りなく従属に近いのは言うまでもないが、その締結である。街が戒厳令のままでは国を越えた約束事など夢のまた夢だ。

 その高僧がなにかを企んで首相を意のままに動かしているのであれば、話はさらにややこしくなる。もう少し状況を詳しく知りたいところだ。


「それで、肝心の面会のタイミングだが」


「はい、お昼に話し損ねてしまいましたが手配いたします。しかし、首相はお忙しいお方。今日明日すぐにとはいかないでしょう。今しばらくお待ちいただきたいのですが」


 会うだけではあるが、これはほぼ確約と見ていい。まさか数年先などとはなるまい。もしそうなったとしたら先に残りのネパールやバングラデシュから攻めるだけだが。


「それは構わんが、なるだけ早くな。それに、庭師の弟子として屋敷に出入りできるのは数日だ。それを越えた場合、連絡を受ける手段が欲しい」


「どちらに伺えばよろしいですか?」


「一応、ねぐらはあるんだが、いつまでもそこにいる保証はないんだ。お前は官邸に住み込みか?そうでないのならば住所を教えてくれ。毎晩、目立たないようにそこに向かう」


 ウィリアムの提案に、渋い顔が返ってくる。さすがに信頼しているとまでは言えない間柄の人間に住所を教えるほどのお人よしではないらしい。

 しかし、その意味は違っていた。


「毎晩というのは厳しいかもしれません。二日に一度は宿直なので、自宅を空けていることも多いのですよ。私はまだ独り身ですし……実家はカラチでして」


 なんと、住所を教えたくないのではなく、毎日は連絡を取り合えないという話だったのだ。一人暮らしで家族もいないので、本人が毎晩在宅しているわけではないのを残念に思っているようだ。


「おい、そのくらいなら何の問題もない。二、三日に一回だって大丈夫だ。それと、お前以外に話の出来そうな関係者はいないか?首相に会う前に人柄を知っていた方がいいだろう」


「お人柄であれば、お答えできる範囲で私がお話しできますが、それでは不十分ですか?」


「おいおい、急に吹っ切れたな。まぁ、助かるよ」


苦笑で応じると、「確かに、なぜだか協力しなければならないような使命感が迫ってきています」と使用人の男も力なく笑った。


「さて、今日のところはこれを持って首相のご機嫌取りをしてやってくれ。時間はいつ取れる?明日の晩か?」


「恐れ入ります。そうですね、明日のこの時間であれば問題ありません。昼の剪定作業にはもう顔を出されないのですか?」


「悩みどころだが、あの庭師にも借りがあるからな。官邸の作業終了までは約束通り付き合うとしよう」


もはや用済みだと割り切るのも気の毒だ。ウィリアムも極道者ではあっても外道ではない。


「承知いたしました。では明日の昼は手ぶらでお越しください。特別に昼食も準備いたしますので。この線香の礼だと伝えればお咎めは無いはずですから」


「そうか、ではお言葉に甘えて」


「ではまた。失礼いたします。住所もその時に」


……


……


 翌朝。ついに首相への足掛かりが確定したことを受け、久しぶりに夜に早めの休息を取れた二人は、いつもよりも早い起床を迎えた。

 日が昇る朝焼けが丸太を組み上げた城壁の向こうから顔を出している。


「おはようございます、バレンティノ卿」


「あぁ。おはよう、軍曹。そういえば、そろそろ飛竜の様子を見に行ってやらんとな」


「了解です。まだ早いですから自分がひとっ走り行きましょうか?」


 確かに今ならまだ街から抜け出すことは可能かもしれないが、それでは暗くなるまで帰ってこれなくなってしまう。それに、どうせなら手ぶらじゃなく餌を持っていきたいところだ。


「いや、今夜にしよう。鶏も仕入れたいしな」


「あぁ、了解です。では買い物に行きますか?夜には市場の露店が閉まってるでしょう」


「そうするか。俺達の朝飯も無いからな」


 露店の作りはカラチに似てテント張りのものが多い、しかしながら店の数や客の賑わいは比べるまでもなくイスラマバードの負けだ。

 人口が何倍も違えば、いくら首都といえども活気にあふれているようには感じられなかった。


 ばったりと顔を合わせたのはバナナで一儲け企んでいた若者。バナナはあるかと訊くと、タダで何房かくれたのでそれが朝食になってしまった。カンナバーロは意外にもバナナが気に入ったようでなによりだ。


 皮をむき、それをむさぼりながら歩いていると、今度は庭師の男に遭遇した。彼も食材の調達らしい。立て続けに顔見知りと偶然再会し、なんとも狭い世間だと感じさせられる。

 彼とは仕事の開始時間までいったん別れ、飛竜に食わせる鶏を調達する。


 予想通り、店先の商人は大量の買い込みに訝しそうな視線を向けてくる。帰り道の途中では半裸に槍を持った衛兵が眉をひそめていたが、なんとか止められることなく部屋に戻ってきた。


「ひでぇ匂いだ。しかし、夜まで部屋に置いとくしかないんですよね」


 死んでから時間が経って痛んでいたのか、持ち帰った十二羽の鶏のうち、二羽がすさまじい臭気を放っている。夜までにその数はさらに増えるかもしれない。だがこのまま外に置いていては腹をすかせた誰かが見つけて盗んでいくだろう。


「あぁ、仕方ない」


「はぁ……カラチに比べて随分と質の悪い商売をしてるんですね。これも少なからず戒厳令の影響でしょうか」


「次からは生きてるやつを買うか?しかしそれだとうるさくてかなわんな。塩をすりこんであるものだと日持ちは良いが、飛竜は食わないだろうな」


 当然、干し肉や焼いてある肉もほとんど食べてはくれないだろう。腐肉も拒否されてしまうかもしれないが。


 日も昇り、昨日と同じく首相官邸へ向かう。

 外作業なので、二日連続で好天に恵まれたことは非常にありがたい。


「おう、来たか」


 茶色の作業着に身を包んだ庭師の男が言った。

 先に入って下準備もせず、律儀にも門の前でウィリアム達を待ってくれていたらしい。


「今日もよろしく頼む」


「あぁ、しっかりタダ働きしてくれ」


「わかった。今夜は奢られてやらないからな。昨日はタダ働きの約束を破ってしまって気に病んでいたところだ」


 軽口をたたくと、ニヤリとした表情だけが返ってきた。


……


 前日の続きから、まだ手を加えていない植木の葉を刈り取っていく。

 その雑用はカンナバーロがほとんど一人でこなしてしまうため、やはりウィリアムは暇になってしまった。


 始めのうちはカンナバーロが漏らした切り枝や落ち葉をかき集めていたが、それも大して意味がない。

 さぼっているのがバレバレになってしまうが、少し官邸の庭を歩き回ってみることにした。


 正面玄関前、つまり鉄柵の正門をくぐってから飛び込んでくる庭は広大だが、本館の裏手は芝生と小さな池があるだけの小ぢんまりとしたものだった。


「仏教徒になったと聞いたが、屋敷の外はそう思わせるようなものはないな」


 寺をこしらえたという割には、ここには仏像の一つも置かれていない。

 どういった理由なのか気になるところだ。


 池をのぞき込むと、濁った水の中に鯉が数匹、泳いでいるのが見えた。

 どうしても中国や朝鮮原産のイメージが強い魚だが、その実、ヨーロッパやアジア全域に生息しており、世界中のほとんどの国で見ることが出来る。


「ん……?」


 ウィリアムは官邸に背を向けて裏庭の池をのぞき込んでいる形だったが、ふいに煙が近くを漂っているのに気付いた。

 僅かに開いた一階の出窓からだ。透過性の悪いすりガラスがはまっている。台所から上る炊煙かとも思ったが、これは違う。明らかに線香を焚いている匂いだ。

 耳を澄ますと、微かながら読経の声も聞こえた。つまり、首相か高僧が官邸の中にいるという事だ。

 壁から屋根まで、一面に敷き詰められている水色の煉瓦にぴたりと身を寄せ、開いている出窓から中を覗きこんだ。


 ぼんやりと、蝋燭の火だけが板の間を照らしている。出窓からも光を取り込んでいたのだろうが、ウィリアムの頭がそれを遮ったせいで灯りは蝋燭だけになってしまったようだ。読経が止まって初めて、ウィリアムは自らの失敗に気付いた。


「誰だっ」


 引きつったような、甲高い問いかけが投げられる。


「おっと失礼、怪しいものじゃないので安心してくれ」


 声は若い。これは高僧ではなく首相の可能性が高いと見たウィリアムは、一か八か会話を試みる。

 だがそれは、出窓を閉められるという結果を生んだだけだった。


「チッ……」


「あ、こちらにおられましたか。表に姿が見えないので探しましたよ」


 使用人の男だ。パンをひと切れ持っているが、休憩の時間にはまだ早いので裏庭の鯉に与える餌だろう。


「あぁ、お前か。いま、この部屋から線香の煙が出ててな。覗いてみたら閉められてしまった。中にいる奴を驚かせてしまったようだ」


「えっ、窓が開いていたのですか?私の手抜かりです」


 この場での情報交換はあまりにも危険だ。首相がいるのか、とは訊けない。


 当然それを理解できる使用人も誰々がいたのでしょうなどと迂闊な事は言わずに自らが窓を閉め忘れていたのだろうと適当な言い訳で応対した。

 首相が出窓に張り付いて盗み聞きしていないとも限らない。それ以上は会話もせず、使用人は鯉の餌やりに移った。


 ウィリアムは目礼だけして表に戻る。

 庭師の男はほとんどの剪定を終えており、残りは数本というところまで来ていた。今日中には終わってしまいそうな早さである。


「裏を見てきた。だが植木は無くて、小さな池が一つあっただけだったよ」


 梯子の上に声をかける。


「あぁ、木の剪定はもうそろそろ終いだ。お前さんとこの槍持ちのおかげで少し余裕が出たんで、今日明日、周りの草刈りもやろうかと思ってる」


「それなら俺にも出番がありそうだ」


「ははは。じゃあ、サボってた分を取り返してもらうとするか」


 その一時間後、休憩時には使用人が昼食として焼き立てのチャパティにひき肉と葉野菜を挟んだものを振舞ってくれた。もちろんこれは昨夜の線香の礼だ。

 前もってそれを聞いていたウィリアムとカンナバーロはともかく、庭師の男は弁当を持参していた。

 しかし、せっかくの出来立ての料理を断るのは気の毒だと、弁当も食べるがそっちも食べると言い張り、いつもの二倍の量の昼食を取ることになった。

 止せばいいのにとウィリアムは言ったのだが、案の定、彼は満腹になった身体を横たえてしばらく動けなくなり、そのまま昼寝をする始末だった。


 そして、運悪く天候が崩れ始める。まさかこうなるとは思っておらず、雨具の準備はしていない。剪定をほんの僅かだけ残して、この日の作業は中断することになった。

 帰り際、本館の軒先で使用人からそっとメモを渡される。彼の住所だろう。


……


 その日の晩。

 雨を防ぐために外套で身を包んで、ウィリアムとカンナバーロは渡された住所へと向かった。その後、朝を迎える前に飛竜のもとへも行かねばならないので大忙しだ。

 天気が悪いせいで城壁や街中のかがり火が少なく、街は暗闇も同然だ。ガラス製のコップにライターを入れた手製のランプを頼りにその中を進む。

 整地がほとんどなされていない道は街の外と中で大差がない。寺を建てる前に道路を整備してほしいものだ。


「この家か?」


 服の中で守ってはいたが、メモは雨に濡れてインクがにじんでしまっている。辛うじて読めるそれと照らし合わせた場所には、小さいながらも小綺麗にされた木の家があった。見た目は北欧のバンガローやロッジに近い。


 数回のノックを経て、扉が開いた。

 見知った使用人の顔が出てくる。リラックスしていたのか、上半身は裸で下着だけを穿いている。


「おや、思ってたより早かったですね。水浴びをしようかと思っていたところでした」


 少しはにかんだような、恥じらいにも似た表情を浮かべられたところで、ウィリアムには全く興味のないことである。


「好きにしてくれ。ただし、この雨だ。その間は部屋の中で待たせてもらうぞ」


「もちろんですとも、わざわざご苦労様でした。では適当にくつろいで頂けますか」


「あぁ」


 この世界では、かなりの割合で風呂は井戸や川を利用する人間が多い中、バスルームを備えているところはさすが高給取りと言うべきか。

 室内には寝具や机の他に、キッチンや戸棚、本棚に衣装かけまである。豪勢なものではないにしろ、衣食住は充分に満たされたものだと言えるだろう。


「自宅で水浴びとは、使用人の分際で貴族みたいな野郎ですね」


ウィリアムは椅子に掛けて煙草をくゆらせているが、カンナバーロは勝手に本を開いたり、食器をいじったりしている。


「軍曹、少しは落ち着け。しかし、確かにイタリアの使用人は城や屋敷に住み込みで働いてるからな。王族、貴族、平民と身分の差もはっきりしてる。民主主義国家だと、使用人だって立派な政府関係者扱いだからこうなるわけだ」


「はぁ、なんで自分は王政国家に生まれちまったんでしょうか」


「不敬なことを言うな。それにお前は軍人だろう。佐官ぐらいにはならないと、良い暮らしが出来んのはここでも一緒だ。諦めろ」


 ウィリアムの容赦ない言葉に分かりやすく肩を落としてカンナバーロが落ち込んでいる。


 それからおよそ五分後。

 すっきりとした顔つきで使用人の男が現れた。さすがにドライヤーなどはないのでしきりに綿製の手ぬぐいでごしごしと頭を乾かしている。


「あぁ、お待たせしました」


「お前も何と言うか……自由なやつだな。来客を待たせて水浴びとは」


 許しはしたものの、無礼というよりは不用心が過ぎる。


「いやはや、申し訳ありません。帰りがけに雨でずぶ濡れになってしまいましてね。そのままで部屋にいるのも落ち着きませんで」


「気持ちは分からんでもないがな。俺達だってその雨の中をやってきたんだぞ」


「えぇっ!雨具をお持ちじゃないですか!全然違いますよ!」


「わかったわかった」


 めんどくさそうに両手をあげ、ウィリアムは椅子に深くかけなおす。

 カンナバーロは室内の探索をやめて、ようやく主人の後ろに直立姿勢で控えた。


「さて、本題だな。首相との会合は設けられそうか」


「はい、早速ですがうまくいきました。あの後……今日の昼の出来事ですが」


 ウィリアムが首相らしき人物のいる部屋を覗き込んだ話だろう。


「あれは誰だったのだ、と首相からお声がけがありまして。庭師の手伝いをされている外国の方で、線香を譲ってくださったというお話をしたところ、貴方に興味を持たれたようです」


「ほう、なぜだ?」


「欧州人であるはずの貴方が、仏教への理解があることが気になったようです。まだ、日程などは仰られませんでしたが、一度、話してみたいとの事です」


 やはりあれは首相だったようだ。失敗が思わぬ形で幸運を持ってきた。


「それはいい知らせだな。首相の近日中の予定はどうなっている?」


「多忙なのに変わりは無いようですが、読経されている時間帯に屋敷にお招きできるかもしれません。それでいかがでしょうか」


「もちろん問題ない。出来る限り日程を早めにしてくれ。明後日、また話を聞きに来る。もちろん、日中に剪定作業をしている間であれば明日でもかまわんがな」


「かしこまりました」


 ウィリアムが立ち上がり、カンナバーロの方を振り返った。


「話はまとまったぞ。次は二日後だな」


「了解です。たったこれだけの会話で終わるなら風呂なんて待つ必要なかったですね」


「そう言ってやるな。帰るぞ」


 使用人の男は帰ろうとしたウィリアムらにお茶でもどうですかと勧めてくれたが、それは断った。


……


 そして翌朝。

 天気は回復しておらず、軒先からは路地に打ち付ける強い雨が降っているのが見える。

 だが、それで外仕事は中止とはならない。もともと雨量の多い地域であり、晴天が続いている方が珍しいのだ。そのため雨具は持っていて当たり前で、余程の大嵐でもない限りは人の往来も普通通りだった。


「こんな中、庭の整備なんてやる意味があるんでしょうか。かえって汚くなりそうですがね」


「その意見には反論できんが、これも土地柄って奴だ。雨の日には雨の日なりの仕事のやり方があるだろうしな。雨天時の行軍訓練もあっただろ?」


「うわ、嫌な思い出が蘇りそうなんでそのくらいに」


 ウィリアムはやれやれと肩をすくめる。


「なんだ、自分で言い出しておいて。俺との旅でさぼり癖も軽口も少しは改善されてきたと思ったんだがな。帰国したらお前に対してもう少し厳しくするように中将に申し入れておくか」


「そ、それは勘弁してください!」


 情けない声を出すカンナバーロを置いてウィリアムは、身支度を始める。


「いいからお前も早く着替えろ、メシを買って最後の出勤だ」


「いや、はぐらかさないで下さいよ!絶対に言わないでくださいね、バレンティノ卿!」


「だからそれはお前次第だろう、早くしろ、俺の監査はもう始まってるんだからな」


 外套を羽織って準備を完了させたウィリアムの背中を追って、慌ててズボンを片足だけ穿いたカンナバーロが派手に転ぶのが見えた。


……


……


「入れ」


 呼び出しがかかり、ウィリアムは屋敷の一室へと入った。

 暗がりの中に、仏像や仏壇などの仏具が鎮座している。


「お初にお目にかかる。いや、一瞬は会ってるから初めましてってのはおかしいか」


 板の間に敷かれた座布団のうち、一つに首相が、そしてもう一つにウィリアムが座って対面していた。


……


 出勤後すぐ。雨の中でも懸命に作業をしていたところへ使用人が現れ、作業後の夕刻から首相との対面が実現したのである。


 閉め切られた部屋の灯りは蝋燭だけで暗く、線香が焚かれている小さな火種も視認できるほどだ。

 首相の顔はほとんど見えない。黒い袈裟のような僧服を着ていることだけは辛うじて分かる。

 視線を少し上部へ移す。頭までは丸めていないようで、オールバックにした黒髪と、高い鷲鼻のシルエットが不気味に浮き上がっていた。


「礼を言おうと思ってな。その、線香のだ」


 声色は昨日聞いたものと一致する。

 カラチ市長が放ったであろう早馬が到着していないはずはないが、ウィリアムの事を父親が警戒するように忠告した人物だと気づいていない可能性がある。

 ここは、多少は仏教の見識を持つ外国人を装っていた方が良さそうだとウィリアムは睨んだ。


「いや、礼には及ばないさ。下町の人間は助け合って生きてる。たまたま、線香を譲ってくれそうな心当たりがあっただけでね。たまに経を聞かせてもらったりするんだよ。もちろん僧侶とは違って、素人の児戯だが」


「それは素晴らしい。しかし驚いただろう。まさか国の長がここまで宗教熱心だとは」


 言いながらさらに数本、蝋燭から線香に火を移して香立にさしている。独特なその香りがより一層、部屋の中で強くなった。

 喫煙者であるウィリアムは問題なく耐えられるが、今この部屋の中は目を瞬きたくなるくらい煙で真っ白になっていることだろう。


「確かにな。しかし本気で隠しているわけではないのだろう?寺を作って鐘まで響かせていたそうじゃないか」


「あぁ。私は仏教の教えに深く関心がある。この国でも広めていきたいのだ」


「立派な事だ。しかし、街を閉ざしていては広がるものも広がらないのではないか?特に仏教のような外来の宗教であれば、もっと人の往来を増やすべきだと思うが。迷惑でなければ協力してもいい」


「逆だ。まずはこの街を変え、それから行動に移しても遅くはあるまい。僧侶なら高名な方が既に一人いるのだからな」


 話は平行線、しかし簡単には引き下がれない理由がウィリアムにもある。イタリアの同盟国、従属国を増やし、魔族に打ち勝たなけらばならないという理由が。


「国民を一致団結させるためによかれと思ってそういった政策を執り行うのだろうが、国が他国との国交を完全に断絶した場合、その結果はどうなると思う?」


「皆一つの心にまとまり、国力が強化されるだろう」


「いや、違う。情報や技術が遮断されたその国はみるみるうちに他国との文明レベルに差が開き、もっとも貧しい国となる。確かに仏教の教えにあるような修業と考えれば悪くない。だが、新たな知識は絶たれて、人も力も増えない。あとはただ、周辺の強国に蹂躙されてしまうだけだぞ」


「ふむ?政にも明るいのか。貴様、何者だ」


 精一杯、威厳を示そうと強い言葉を選んだのだろうが、声は心なしか震えている。

 昨日の出会いでも感じたが、どちらかと言えば警戒心の強い人間なのだろう。それだけにチャンスは逃せない。ここで最後の勝負に出る。


「遠い欧州、イタリア王国で王族と関わりのある者、とだけ伝えておこうか。怪しむのは勝手だが、ここに俺を呼んだのはお前だ。運命の巡りあわせというものはあるらしい」


「……暗殺者、ではないだろうな。まだ死にたくなどないぞ」


「安心してくれ、こう見えて爵位持ちだ。そんな無粋な真似をするつもりは無い。それに見聞も広くてな。仏教の話くらい、いくらでも付き合ってやるとも」


 それと、と言葉尻に付け加えて書状を取り出す。


「我が君から、お前に向けた書状をお預かりしている。読んでもらえると嬉しいのだが?」


 びくりと身体を震わせた首相は、蝋燭を数本増やして部屋の光量を上げた。


「貴様、父上が言っていた曲者だったのか。それで線香を渡すような恩を私に売って」


 若いその顔が露わになる。三十代前半といったところか。オールバックにした黒髪と豊かな口ひげ。驚くほど似合っていない袈裟姿が些か滑稽だ。


「話を聞いていたか?俺はそんな物騒な者じゃないし、ここに俺を呼んだのはお前だ。殺すつもりも騙すつもりもない。この書状を届けに来た、それだけだ」


「しかし、それにしては話が出来すぎている。使者という事か?それなら正式に手続きを……」


 そこまで言って、首相は己が口をハッとつぐんだ。


「気づいたか?そういうことだ。俺はこれを届けるためだけにお前の戒厳令のおかげでずいぶん苦労させられた。別に宗教についてどうこう言うつもりはないが、お前の身勝手はこういった国と国との付き合いもないがしろにする結果となる。欧州は遠いかもしれんが、隣国だったらどうだ?無礼なやつだと結託して剣を取られては敵わんだろう。お前は国と民を危険にさらそうとしているんだぞ。よく考えろ」


「まずはイタリア国王からの書状を拝見しよう。本物かどうかも確認せねばな」


 言いながら首相が封蠟を開けて書状に目を通す。

 ゆらゆらと揺れる炎の光では読みづらそうなものだが、ウィリアムはしばらく黙ってその様子を見つめていた。

 やがて、大きな嘆息と一緒に首相が頷く。


「間違いないようだな。だが正直、イタリア語では完全に理解できん。要約を頼んでもいいか」


「俺の言葉を信頼するか。まぁいいだろう」


 書状を受け取って黙読し、単刀直入に告げる。


「イタリア王国は、貴国と友好的な関係を結びたいと思っている。特に、東からアジア各国を侵略している魔族の軍勢に対抗すべく力を合わせたい。貴国が我が国の支配下に納まるのであれば助力も惜しみなく行うことを約束する。まぁ、だいたいはこんなところか。東から魔族が迫っている話は?」


「聞き及んでいるとも」


「読経で魔族が死ぬか?もし本気でそう思っているならば俺からはもう何も言うことは無いが」


 痛烈な批判に首相は目を白黒させる。

 ウィリアムは、魔族の恐怖から逃れるために彼が宗教に打ち込んでいた部分もあると見た。


「……首都の要塞化は魔族の侵攻に起因している。もともとここは要塞都市ではあったが、さらに防御を固めたのだ」


「カラチにも寄ったが、何か対策が成されているようには見えなかった。首都最優先なのは分かる。だが、閉じこもって経を読んでいても何かが変わるとは思えないな。百歩譲って民の心が変わるとしても、魔族から国を守る力、装備や戦術は手に入らない」


「分かっているさ……私だって、精一杯悩んでいるのだ!」


 首相がぐしゃぐしゃと黒髪を掻きむしる。整っていたオールバックはすっかり散らかってしまった。


「我が国からの話は悪いものではないと思う。もちろん、他の国々にも声をかけて回り、大連合として魔族に立ち向かう手はずを整えるつもりだ」


「なるほどな、父上が慌てるわけだ。要は、我が国を先兵として使うつもりだという事か」


「驚いたな。まるで話を理解していないようだ。支配下にはいるという事は属国化するということ。支援をしておいて、むざむざと死なせてはこちらにとっても不利益にしかならんだろう」


 ただし、支援の内容は現時点では決まっていない。イタリア本国からではなく、アジア各国で連携を取れるようなお膳立てをするというのもあり得る。


「とにかく、簡単に返事をするわけにはいかんな。他の国にも赴くと言っていたな。それから考えをまとめても遅くはないはずだ」


「止めはしないが、出遅れるぞ。臆病風に吹かれて最後に馳せ参じてみろ。それこそお前の言う通り先兵に使われるだろうな。先んじて賛同してくれた国々の顔が立たなくなる。一応言っておくが、俺が最初に訪れたのはここだ。今なら一番乗りの座を掴むことが出来る。列強の残る大国も、イタリアの後押しはしてくれるだろうしな」


 あくまでも余裕な態度を見せてはいるが、ウィリアムとしては何としても目の前の男に首を縦に振らせたいところだ。

 いつになく饒舌になっているのは焦りからだろう。本人は気づいているが、初めて言葉を交わす首相には悟られまい。


「無理だ、そんな話が信じられるか」


「民意で選ばれた首相だ。さぞかし聡明な人物だと期待していたが、親父の言葉がないと何も決められないか」


「父上は関係なかろう。これは私の意志だ!仏教によって、この国を救って見せる。そう誓ったのだ」


 ウィリアムは深く息を吐いた。


「分かった。では、他の国々の顔色を窺って判断する、ということで良いか?」


「言い方が癪に障るがそうなるな。後日、連絡を寄越してくれるか。イタリアの使者だと言えば通すように城門兵には申し付けておく」


 口惜しいが引き際だ。あまりにも食い下がれば足元を見られる。他の二国、ネパールとバングラデシュから攻めるしかなさそうである。


「後悔先に立たずだ。最優先で話を持ってきた善意を蔑ろにするとは、痛い目を見る事になると覚えておくといい」


「私を脅す気か。列強も必死だと見えるな」


「事実だ。世界は大きく変わるぞ。閉じこもって説法もいいが、間口は広くしておいてくれよ」


 あぐらをかいていた足を伸ばして立ち上げる。床に座ることに慣れていないせいで少し痺れてしまったようだ。

 軽く屈伸をして、入り口の扉に手をかけた。


「おや」


 廊下で窓を拭いている使用人の男と遭遇した。偶然にも思えないことは無いが、おそらくウィリアムを待っていたのだろう。


「首相に伝えたかった事は話せた。感謝する」


「そうですか」


「今の話で、首相が戒厳令も少しは緩和してくれるといいんだがな。あまり力にはなれなかったかもしれん」


 一度そのまま通り過ぎようとしたが、ウィリアムは回れ右をする。

 深々と頭を下げていた使用人は、顔を上げて首を傾げる。


「どうされましたか?」


「このまま他の街へ移動しようかと思っていたが、もう一つ用事があった。頼まれてくれるか」


「はい、私にできる事であれば、なんなりとお申し付けください」


「高僧ってのに会いたい。出来るか」


 ウィリアムもすっかり失念していた。直接、首相が説けないのならば、その高僧を懐柔してしまおうという腹づもりだ。

 心酔している高僧からの助言であれば、首相も考え直すかもしれない。


……


……


 翌朝。

 カンナバーロを伴って訪れた寺院は、なるほど出来上がったばかりの真新しい中国式の建築であった。瓦屋根を持つ本堂を物珍しそうに見上げている。

 使用人が言うには僧侶の朝は早いらしく、夜明けを待たずにここを訪れた。確かに鼠色の僧衣を着た老人が、香を焚きながら読経している。

 ただ、首相官邸のような板の間に直接座る形ではなく、地面は石を敷き詰めたものだ。そこに長机を置き、仏具類はそこに乗せられている。


 ウィリアムとカンナバーロは声をかけるでもなく、その高僧の小さな背を見つめたまま本堂の入り口で待っていた。

 カトリック教徒だって神に祈りを捧げるのだ。緊急事態でもない限りは読経を中断させるような不躾な真似は出来ない。


「おぉ……これはこれは」


 中国語だろう。しばらく経って振り向いた高僧はまず一言、そう発した。

 痩せこけた身体。顔にまで刻まれている深い皺。目は開いているのかわからないほど細く、クレメンティ大司教にも劣らないほどに、口髭も顎髭も鬱蒼と茂っており、真っ白だ。どこの世界でも、宗教関係者の大御所とはこうやって威厳を保っているのだろうかと考えさせられる。

 かつては高身長の偉丈夫だったのであろうが、それはすっかり曲がってしまい、右手に持つ鉄製の錫杖で床を突いていた。


「あーっと、すまない。朝早くに押しかけてしまって。驚かせてしまったかな、ご老公」


「なんのなんの。観光でのご参拝ですかな、欧州のお方」


 さすがにウィリアムも中国語は理解できないので英語で話しかけると、意外にも流暢なイギリス英語が返ってきた。


「よかった。話は出来るみたいだな」


 首相に仏教の教えを説いているのだ。当然と言えば当然だが、仮に二人が他の言語で話していたのだとしたらお手上げだったので、一先ず安堵する。


「これでも世界各国を渡り歩いておりましてな。因みにどちらの国からいらっしゃいましたか」


「なるほど、仏教を説いて回ってるってことか?我々はイタリアから来た者だ」


「そうです、仏の教えを広めるのがこの老骨の生き甲斐でしてな。発音は、これでいかがかな。伝わっていればよいのですが」


 ウィリアムの後ろに控えているカンナバーロが飛び上がった。この僧侶がイタリア語で返答したからだ。


「すごいな、爺さん!中国語に英語、イタリア語まで話せるのか!一体どれだけの言葉が話せるんだ!」


「おい、静かにしろ。遊びに来てるんじゃないんだぞ」


「あぁ!すいません、バレンティノ卿」


 高僧の片目がピクリとわずかに開いてウィリアムの顔を見た。カンナバーロがウィリアムを敬称付けで呼んだ。外国の上位者が突然、宗教施設に訪れるなど、きな臭いと思われても仕方ないだろう。

 そして実際、ウィリアムは寺や仏教に興味があってここに来たわけではない。首相を高僧の協力を得て、属国化に向けて動かそうという腹積もりである。


「ふむ、貴族様でございましたか。色んな言葉が分かるくらいで知識をひけらかしたようで、飛んだご無礼を致しました」


 カンナバーロの失態を取り戻すべく、ウィリアムは別の手段を選択する。


「いや、そうかしこまらないでくれ。昨日、首相にも挨拶をしてきたところだ」


 それはあえて手の内を明かして、警戒を説いてもらおうという策だ。


「左様でしたか。しかし、今はイスラマバード内には戒厳令が敷かれているはず。どうやって街に入られたのですかな?」


 再度、カンナバーロが口を滑らすのを狙っての事なのか、高僧はイタリア語で話を続ける。

 ウィリアムはカンナバーロに対し、無言の鋭い目つきで「しゃべるな」と釘を刺した。


「あぁ。本当に苦労した。俺だってお役目でここに来たのに、どうしてこんなことになっているのか。今後の外交にも大きく響くと、首相にも一言、物申したんだよ」


「なるほど。それでこの老骨のところへご足労いただいたわけですな。ご用件はなんとなくですが察しがつきました」


「それは話が早くて助かる。協力してもらえないだろうか」


「協力とは?」


 まだ明らかに警戒されている。これをどう懐柔するかはウィリアムの交渉術の腕の見せ所だ。


「我が国だけの問題ではなくてな。今は世界中が、特にアジアの国々が魔族の侵攻を受けて滅亡の危機に瀕していると聞いた」


 いつものポーカーフェイスを見繕い、ひとつひとつ言葉を選んでいく。

 高僧は軽く頷いただけで何か返す様子はない。


「そこで我が君、ミケーレ・マランツァーノ王は世界各国との協力体制を結ぼうとされている。だが、実際に現地に訪れてみれば、街は閉鎖的な様子じゃないか。これではゆっくりと身体を蝕む癌のようにいずれ来る死を待つばかりだ」


「お話は分かりますが、それはこの老骨ではなく首相との折衝をすべき案件でしょう。寺の坊主は政には明るくありませんので。違いますかな?」


「単刀直入に言う。どうか気を悪くしないでくれ。今の首相の、仏教への熱心な取り組みは国を滅ぼしかねない。何せ仏教徒を増やせば民心は一団結して、魔族や外国にも対抗し得ると信じているからな。そんな状態にしたのはアンタのご立派な講釈のせいではないのか?」


 高僧の両目が開き、鋭くウィリアムを射抜いた。


「つまり、この老骨の宗教活動によってパキスタンは滅ぶと?些か話が大きすぎませんかな」


「別に仏教が悪いと言ってるわけじゃない。どこの国だろうと、布教するのも好きにしたらいい。だが、壁を作って内側ばかりを向いているこの街は危険だ。アンタは危機が迫った時、風来坊の如くまた移動すればいいと考えているのかもしれないが、今やアジア全域が危ない。それが過ぎれば次は欧州もだ」


 表情や声音など、気を回しながら相手の心を掴めるように誘導する。

 だが、今回は小手先だけの嘘八百ではない。誠心誠意、この世界に危機が迫っていることを訴えていく。それはウィリアムの本心であり、この国が他国との関係を築く必要があるのは紛れもない事実だ。


「風来坊とはまた酷い言われようですな。しかし、それも仕方のないことですか。さて、それではお話は終わりのようですので、線香を上げると致しますな」


 しかし、高僧は一方的に会話を打ち切って振り返ってしまった。


「待ってくれ。協力して貰えないという事か?」


「既に申し上げましたが、寺の坊主は政に対して無知です。確かに首相には説法をしております。ですが、この街の事に口出しをしたことなどありませんし、この真新しい寺もこちらから頼んで建立したわけではありません。この老骨には何の力もございませんぞ」


 背中越しにそう返ってくる。


「それはそうかもしれない。だが、出来るかもしれないことをやらないことは世のため人のためになならいのではないか?首相がたとえ聞き入れてくれないとしても、頼んでみる価値はあると思う」


「ですから、この老骨にはそんな力は無いと……」


 高僧が仏壇に両手を合わせる。


「それに、信心深い首相の事だ。信頼しているアンタの言葉であれば、今は信仰を強めるよりも、街を開くことが民を守る結果につながると理解してくれるだろう」


「お引き取りくだされ」


「では最後に一つ。俺達はこれからアジア各国を回って同じことを説いて回る。その結果如何では我らに従うと既に約してくれた。だがそれでは遅いと、この国が不利益を被ると確信しているからこそしつこく食い下がっているのだ。この気持ちに嘘偽りはない。それだけは覚えておいてほしい」


……


……


「和尚様、これは一体どんな風の吹き回しだろうか」


 黒衣に身を包んだ首相は、今回も仏間で読経に励んでいるところだった。公務を疎かにするほど愚昧ではないようだが、プライベートの時間はほとんど仏教がらみの用事に使っているようだ。

 薄暗い部屋に、ウィリアムとカンナバーロ、そして高僧が車座になって集っている。


「自分でもそう思っておりますとも。いやはや、どうしてこうなってしまったのやら」


 結局、高僧はウィリアムの最後の言葉に渋面ながらも応えてくれたわけだ。

 やはり、徳の高い人物を相手にする場合は色々と画策するよりも、真っすぐ気持ちを伝えた方が効果的だ。見繕った嘘など、赤子の手をひねるかのように易々と看破されてしまうのをウィリアムもその人生経験で学んでいる。


「どうしてこうなっているのやら、ではなく!なぜ貴方がこの外国人と一緒にいるのだ!まさか、私を諫めに来たのではあるまいな!」


 大きく肩を上下させて唾を飛ばす首相を見やり、高僧はつるりと自らの禿げ頭を撫でた。


「落ち着きなされ。怒りは三毒の一つ。すなわち最も強い煩悩の一つです。水に流れる木の葉のように、目を閉じて心を静めなされ。怒り、短気は全ての判断を狂わせます。どんな名君も考える力を失えば道を踏み外しますぞ」


「しかし……!」


「極楽浄土に参るため、どうか精進を欠かさぬよう」


 ピタリと首相の肩が止まる。

 ウィリアムは詳しくわからないが、極楽とは天国のような俗世とかけ離れた世界の事だろう。つまり、首相は死後の安寧を強く願っているということか。

 そのために欲を断ち、街ごと外界から切り離し、それに住民を巻き込んでいる。


「俺と話した時も、お前は声を荒げていたな」


 ウィリアムはポツリと零しただけだったが、首相は烈火のごとく反応した。


「……っ!貴様、調子に乗るなよ!」


「どこが調子に乗ってるように見える?事実を言ったまでだ。そしてその判断も正確ではなかった。この偉い坊主の話によればそういうことになる」


 二人の間に枯れ木のような細い腕が割り込んできた。


「お待ちを。いくら言い合ったところで火に油ですぞ。ここはまず、目を閉じて心を静めなされ。そして互いによくよく考えながら話し合いに臨むべきです。なにせ、国のこれからに関わることなのですからな。この老骨の仕事はそこまで。そのあとはお二人にお任せします」


 この場には来ているが、あくまでも中立だと言いたいらしい。


 肩を上下させながらも、首相が高僧の指示に従って座禅を組んで目を閉じる。

 ウィリアムは別に興奮してなどいないのでその様子をただ見ていた。


 高僧がパシンと両手を合わせて打った。しばしの静寂が破られる。


「どうですかな。気分が落ちついて参ったでしょう」


「あぁ、ありがとうございます。やはり和尚様の考えには敵いません」


「これ、違いますぞ。この老骨の教えではございません。御仏の教えでございます」


 二人は向かい合って笑っていたが、やがて首相の視線が逸れてウィリアムの顔に向いたとき、あからさまに嫌そうな表情に変わった。


「瞑想が足りないみたいだな」


「いいや、不要だ。今の私は十分冷静だからな」


 結局変わらない二人のやり取りに、再度、高僧が諫言を申し入れようとするが、それは首相が右手で制した。


「和尚様、私は大丈夫だ。彼の話を聞こう。しかし結果は変わらんぞ」


「左様でございますか。では何も言いますまい。イタリア王国の使者殿、よろしいですな」


「あぁ。まず一つ、首相に問いたい」


 人差し指を立てるウィリアム。首相は軽く鼻を鳴らした。梃子でも考えは動かないという意思表示だろう。


「死して幸せになりたいというのは分かるが、進んで死にたいと思っているのか?」


「何だと?どういう意味だ」


「極楽浄土という言葉が出たが、それは天の上の楽園のようなものだろう?お前は必死で生き抜くことから目を背け、多数の国民の命を巻き込んでまでその……極楽浄土という所に行きたいのか?」


 首相が顔を赤くする。これは怒りではなく恥の感情だ。やはり、高僧が言っていたように極楽浄土行きを目的としているのであれば、半ば現実から目を背けてやけになっているというウィリアムの予想が的中したという事だ。


「極楽浄土を目指すのは私の勝手だろう。それに国民を巻き込んでいるというのは貴様の思い込みだ。街の閉鎖、戒厳令は皆を守るために執り行った。嘘ではない」


 努めて冷静な声を出そうとしているのが、ウィリアムには手に取るように分かる。

 だが、あえてそこは突かない。


「そうなのか。これは俺は悪かった。だが、本当に皆の安寧を願うのであれば、俺の話、つまりは我がイタリアと協定を結び、その庇護下に入ることはおかしなことではないと分かるだろう」


「だからそれは、他の国々が実際に連合となり始めたらにすると回答したはずだ」


「いまでもそう思うのか?こうしてお前が慕っている坊主も連れてきた。どうやってここに同道願ったか教えてやろうか」


 首相が横に首を振る。そして、自らを落ち着かせるために深く息をついた。


「和尚様はこの場におられるだけだと仰られたではないか。彼が貴様の意見に同調したとは一言も発していない。味方につけたと思ったら大間違いだぞ」


 高僧が小さく頷いた。


「どちらの仲間だなんて話はしていないさ。だがこうして一緒にいる。俺の意見が少しでも理解できたからだろう」


 そしてこれにも高僧は頷く。


「俺は本音で話してる。この国、いや世界を救うために結束が必要だとな。そしてお前もそれは分かっている。だが優先順位は現実の人生よりも死後や来世に期待しているような、すでに諦めているような気さえする。教えてくれ。生を投げ出すことが仏の教えなのか?」


 この回答に、一拍を要した。


「……いや。死は終わりではないとは言われるが、進んで生を投げ出すのは違うな。だが、断じて私は民の死や不幸を願ってなどいない」


「極楽浄土を見据えて死を恐れない心構えは俺も立派だと思う。だが、仏教が民心を一つにしてくれるなんてのは幻想だ」


「それを現実とするのが為政者の役目だ。同じ志を持てば、きっと強固なものになる」


 首相が拳をきつく握りしめた。


「そうか?誰しもが死後よりは今を幸せでありたいと思っているだろう。街の出入りが厳しくなって門前払いを受けている他所の街の人間がいる。思っていたような取引が行えなくて引き返した商人もいるだろう。そして今、手を差し伸べようとしている国がある」


「それは外の連中の話だろう。私はこの街から変えていくと言っていたはずだ」


「分からないか?この街の外でも内でも、同じ志ならすでに皆、持ってるんだ。生きて、幸せに暮らしたいとな。魔族の脅威を退けて平和な世にする。それが理由で一つになるのと、仏教で一つになるのと、何が違う?そして前者はすでに完成している、世界共通の志だというのに」


 高僧は「ほぉ」と小さく漏らし、首相が大きく息を吐いた。

 勝負あったな、とウィリアムは確信する。


「世界共通の志……か」


「あぁ。お前が思っている以上に、世界中の人々の気持ちは一つだということだ。それに気づかなかったのは自らの手で街ごと引きこもっていたせいだろうよ」


「父上が貴様を危険視していた理由はなんだ?」


 ふいにカラチ市長の話題を振られてウィリアムが首を傾げる。


「何だ、今更?強いて言えば、単に俺の事が気に入らなかっただけだろう。書状を見せろと煩かったが突っぱねてやったからな。我が君は首相に見せよと仰せだった。その命に背くわけにはいかん」


 首相は肩をわなわなと震わせ、やがて弾かれたかのように大笑いし始めた。

 ウィリアムとカンナバーロは何事だと顔を険しくし、高僧は細い目を少し開いた。共通しているのは驚きの感情だ。


「なんだ、いきなりどうした」


「いや、すまんすまん。仰々しい文面で、貴様には注意するようにと促してきていたからな。そうか、ただ気に食わなかっただけか。まったく、あの人らしいよ」


「はぁ?」


 やはり理解できず、ウィリアムは短くそれだけ返した。


「だってそうだろう。父上はイタリア国王の要件すら聞かされていなかったわけだ。良いも悪いも判断のしようがなかったはずじゃないか。それを私は、父上はこの申し入れを理解したうえで注意を促したと思い込んでいた。とんだ愚か者だ」


「封蝋が開いてなかった時点で気づいていなかったのか」


「直接、貴様の口から聞かされていたと思うのも無理はなかろう」


「使者如きにこんな大事なことを漏らす権限なんて無いさ。まぁいい、とにかく話を進めようじゃないか」


 首相の笑顔はゆっくりと消え、真剣な面持ちでウィリアムに向かい合う。


「あぁ、そうだな。まずは我が国と貴国の立場について伺いたい。属国とはいえ、傀儡や植民地になるわけにはいかないからな」


「その点は安心してほしい。あくまでも我が君はアジア各国への支援、及び保護を考えておられるだけだ。魔族の侵攻を食い止めるためにな」


「保護国として丁重に扱ってもらえるのであれば、ありがたい話ではある。だが、信頼できるかどうかはまた別の問題だな。それは分かってもらえるか?」


 大筋では交渉は成立と見てよいだろう。ただし、首相の言うように属国にも形は色々ある。

 今回の提案は保護国。本国イタリアへの税収という名の上納金は皆無ではないにしろ、植民地になってしまうよりは遥かに軽い。


「我が君ほどの御方が約束を違えるとは思えんが……しかし、実際にお会いしたこともないのだから仕方ないかもな」


「まずはどうしたらいい?軍隊を急編成して東アジアの魔族領に向かって突貫しろ、なんてのは御免だぞ」


 冗談に聞こえたウィリアムは軽く笑ったが、あくまでも首相は大真面目だ。


「陛下への返事を出してくれ。英語であれば俺が訳をつける。訳文に検閲が必要ならこの坊主にやってもらうといい。イタリア語は話せるだけじゃなくて書けもするんだよな?」


「おぉ、この老骨にそのような大任が務まりますかな。読み書き自体は問題ありませんが」


「和尚様、是非ともよろしく頼みます」


「いやはや、これは断れませんな」


 高僧が禿げ頭を掻く。


……


 さらさらと、墨を吸った筆が木の皮の上を走る。

 紙ではなく、樹木の表皮の、裏側の色が薄い部分を書き物として利用しているらしい。


「さて、これでいいか。受け取った立派な書状に比べれば貧相なものだが」


「構わない。読ませてもらえるか」


「もちろんだ、これも使ってくれ」


 ウィリアムが首相から返信を受けとる。

 さらに一枚、文字が書き込まれていない木の皮も貰って、訳文を書いていった。

 要約すると、同盟という名の従属を大筋では承諾するという事。ただし、支援の内容や要求する見返りについては話を詰めたいので草案を送ってほしいという事が記してあった。

 特に改変する理由もないので、それをイタリア語にしたものを高僧に見てもらう。


「ふむ、間違いありませんな。ではここに首相の判を押してくだされ」


 原文、訳文の最後にパキスタンの三日月と星をかたどった国旗と同じ判が押される。さらにその横にサインが付け加えられた。

 国旗はやはりこの国でも現世と同じものを使っているのか、などと考えていると、書状がウィリアムの手元に戻ってくる。


「では、確かに預かっていく。返事は俺か、また別の者かは分からんが、待っていてくれ」


「その間に何かできることはないか?」


「良い心がけだな。国力の増強に努めてほしい。徴兵や食糧の増産など、手段までは問わない。布教はほどほどにな」


 首相と、そして高僧とのどちらにも向けてそう言うと、快活な笑いが返ってきた。


……


……


 飛竜は木陰に丸まって眠っていた。

 数日前の夜、給餌をしたときは長く待たされたせいか若干機嫌が悪かったのだが、今は落ち着いている。

 当然、今回もウィリアムとカンナバーロの両手には飛竜への土産が満載だ。


「本当に賢いですね。よくやってくれてますよ、コイツは」


 肩の鶏を地に下ろしながらカンナバーロが言う。

 ウィリアムも同感だ。今回ばかりはへそを曲げてどこかに飛んで行ってしまわないかと心配だったが、今もこうして彼らの帰りを出迎えてくれた。


「お待ちかねのエサは後にしよう。ここまで近寄っても目を覚まさないとは、疲れているみたいだ」


 実際には飛竜は人の気配に一度覚醒したのだが、ウィリアム達であると気づき、二度寝としゃれこんでいるだけである。

 無論、熟睡ではないので身体に触れればすぐにでも目を開けるだろう。


 空を見上げると、熱帯雨林の葉の隙間から小雨が落ちてきている。

 滞在中、普段よりも雨は少なかったらしいのだが、それでもイタリアに比べれば圧倒的な降雨量と湿気だった。


「あ、もしかして今夜は野営ですか」


「そうだな。日が落ちてすぐ飛んでも良かったんだが、出発は明日の早朝にするか」


「了解です。ちなみに、次の行先はどちらで?」


 これはウィリアムも未だ決めかねていた。他に残っている英語圏のアジア各国へ飛ぶべきか、一度パキスタン首相の書状を持ち帰るべきかである。

 確実となったパキスタンの属国化を急ぐのも、さらなる味方を増やすのも、優劣を比べれないほどの重大な使命だ。


「少し朝まで考えようと思う」


 パキスタン首相の書状を抱えたままネパールやバングラデシュを目指した場合、成功すれば当然ながら一気に味方を増やすことが出来る。ただしそれまではパキスタンも動くに動けない。

 では一度帰国する場合、一足先に味方となったパキスタンからも他国へ檄が飛ぶ事になるだろう。一旦は時間をロスしてしまうが、こちらはその後の活動で挽回できるだろう手堅い策だ。


 最も理想的なのは、ウィリアムはこのまま他国へと向かい、カンナバーロに書状を預けて帰国させるという手段だ。最悪、書状は飛竜に預けて二人は進んでもいい。

 しかし、代わりに危険は増える。飛竜がいなければ国境では入出国時に必ずひと悶着起き、カンナバーロがいなければウィリアムは自分で身を守らなくてはならなくなってしまう。

 死んでしまっては元も子もない。


「ま、自分は卿の命令に従うだけなんで。あまり根詰めて眠れないようにならないでくださいね」


「あぁ、分かっている」


「んじゃ、自分は火でも起こして湯を沸かしますね。おまけで貰った鶏ガラでスープでもこしらえます。濡れたんでちと寒くて」


 そう言ってカンナバーロは落ち葉や枯れ枝を拾い集め始めた。

 おまけに貰った鶏ガラというのはもちろん、イスラマバードを出る直前、飛竜のために大量の鶏を買い付けた時の話だ。出汁を取ってしまった骨はさすがに飛竜も食べないはずなので、細かく砕いてじっくり煮込むらしい。

 他にはバナナやチャパティ、キャベツやトマト、卵を仕入れてきた。久しぶりに贅沢な食事にありつける。ちなみにこれらは首相が好意で金を払ってくれた。


「バレンティノ卿、出来ましたぜ」


 いずれの道を辿るか思案していると、いつの間にかできた料理が並べられていた。ウィリアム自身はほんの一瞬のつもりだったが、ずいぶんと考え込んでしまっていたらしい。


「うまそうな匂いだな。やはり出汁があるだけで、ただの塩味とは雲泥の差だ」


 並んでいるのは鶏ガラのスープに野菜を入れて煮込んだもの。そしてその鍋のふたの上で温めたチャパティにバナナを挟んだ料理だ。買い込んだ食料を新鮮なままふんだんに使っている。

 移動中の食料はいつも通り、干し肉やパンを調達しているので問題は無い。


「グルル……!」


 さすがにこれには我慢ならなかったのか、飛竜が体を起こして低く唸った。

 鶏は飛竜のそばに積み上げられているが、黙って勝手に貪るほど不作法ではないらしい。


「ん?お前も食うか?ちょっと待ってくれ」


 ウィリアムは自分の目の前にあった料理を置き、英語でそう言いながら先に飛竜にエサを与える。

 放り投げた鶏をバリバリと咀嚼してあっという間に十羽以上のそれを平らげた。


「グァウ」


「よかった、満足してくれたみたいだな。待たせてしまって退屈だったろう。また明日からは長らく飛べるからな。文字通り羽を伸ばせるってやつだ」


「グゥォウ!」


 飛竜は大きなあくびを一つして、また身体を丸めて横になった。


「コイツ、何て言ってたんですか?」


 カンナバーロが訊いてくる。


「あー、そうだな。久々に飛べるなら、腹も一杯だし早めに休むとさ」


「ははは、頼もしい奴だ。バレンティノ卿もしっかり食っといてくださいね。酒も少しありますよ」


 カンナバーロが取り出した白い磁器の瓶には、老酒という珍しい酒が入っている。ウィリアムも飲んだことが無い、中国の酒らしい。高僧が隠し持っていたのを分けてくれたのだが、あれほどの人格者であり、聖職者である彼が酒を何のために持っていたのか、なかなか隅に置けない老人だ。


「そうだった。では、いただくとするか」


 無論、世界中の物が流通した便利な現世では特に希少なものでもないのだが、中華料理屋にあまり縁がなかったせいでウィリアムにとって今回が初めての味見となる。

 カンナバーロが、とくりとくりと酒を鉄製の椀に移した。火の灯りにかざして見ると、その酒は美しい黄金色に輝いた。もとは琥珀色をしているに違いない。


「どうぞ」


 口をつけると、わずかな酸味が鼻をかすめ、その後から苦みと芳醇な旨味が下の上に広がっていく。

 経験したことのない味だが、嫌いではない。不満があるとすれば、少々アルコールが弱いことだろうか。それでもビールやワインに比べれば強いのだが。


「うん、悪くない。軍曹も飲め。だが、なかなか手に入らない逸品だろう。陛下に献上するから残しておけよ」


 献上品に自分たちが手をつけた酒を贈るとは不遜も甚だしいが、譲ってもらった時から既に高僧が飲んだのか瓶の中身は七割程度だったのだ。そこはバレないのを良いことに心の中でイタリア国王に謝っておくとしよう。


「いいんですかい。そんじゃ遠慮なく」


「遠慮はしろと言っているだろう」


「へへへ、どれどれ」


 カンナバーロも手酌で椀に酒を注いだ。飛竜も匂いが気になるのか、目は開けないものの、鼻をひくつかせている。


「おっ、ほんのり甘くて酸っぱい!これは柑橘系の果物で作った酒でしょうね。たまらんなぁ」


「そうか?まったく俺とは違う感想だが、美味いなら良かったじゃないか」


「そりゃ美味いですよ。酒なんですから」


 とんだ暴論だとウィリアムが肩をすくめている内に、カンナバーロは二杯目を並々と椀に注いだ。

 たまらず右手を出して制止する。


「おい、それくらいにしておけよ。まったく、俺が一杯だけでやめたのに、お前って奴は……」


「こりゃ失敬。酒の事となるとつい。こいつぁ大事に飲ませてもらいますんでご勘弁を」


 カンナバーロはその宣言通り、一杯目のように一息であおりはせずにチビリチビリと舐めるように楽しんでいる。


 ウィリアムは食前酒に続いて、鶏ガラの野菜スープをすすった。

 細かく砕かれた骨からよく出汁が出ていて、薄味ながらもしっかりとしたコクと脂を感じ取れる。逆に野菜は煮込みすぎてとろとろに溶け出してしまっており、原形をとどめていないせいでシャキシャキとした歯ごたえは皆無だ。病人にはいいかもしれないが、食感が少し物足りない。


 それを補おうと、次は温かなチャパティのバナナサンドをがっつく。こちらはチャパティの弾力とバナナのねっとりとした食感が相まって満足できる食べ応えだ。バナナの甘い味でデザートのような気分にさせられてしまうが、栄養価は申し分ないので食事としてのバランスは取れている。


「料理の方もなかなかだ。腕を上げたな、軍曹」


「そうですか?喜んでいただけて光栄ですね」


 一心に老酒入りの椀を大切そうに舐めている事から、空返事なのは明らかだ。

呆れつつも、腹は膨れたので煙草に火をつける。


「自分のチャパティは食べないで下さいね。楽しみにしてるんですから」


「食べてねぇだろ」


 煙をくゆらせながら目を閉じる。

 暖かな焚火の側で、小雨の音を聞いている間に、ウィリアムはそのまま眠りに落ちていった。


……


……


 身を起こした時には既に夜明け前。そろそろ出発しなければ飛竜の姿が目立つ時間帯となってしまう。結局、行先を考える前に寝てしまったが、もはや悩んでいる時間は無い。

 かけられていた毛布はカンナバーロの気遣いだろう。当の本人は高鼾だが。


「軍曹」


「ん……?あぁ、おはようございます」


 さすがは軍人と言うべきか、軽く揺するだけでカンナバーロはパチリと目を開けた。


「おぉ!?もう日が昇りそうじゃねぇですか!どちらへ向かいますか!」


「決めた。一旦、帰国するぞ。荷を飛竜に乗せろ。朝飯はゆで卵だ。そっちは俺が作る」


 カンナバーロは目を丸くして何か言いかけたが、黙って敬礼をすると仕事に取り掛かった。

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