プロローグ
花も狂い咲き誇る四月。
真新しい靴と皺のないスーツに身を包み、俺は桜並木を歩いていた。
四方からはサークル勧誘の活気に満ちた声。それと、何やら良く分からない団体のばら撒くビラ。
そのどこを見ても、人の顔には笑顔が張り付いており幸せムード全開である。
そう、ここは大学キャンパスでの入学式。
長く、険しい、受験と言う名の戦争を潜り抜け俺は晴れて大学へと進学したのだ。
いや~、ホントに辛かった。
今はその一言に尽きる。
思い返すと散々な日々だった。
来る日も来る日も勉強、勉強、勉強……
大学生を見ては嫌味を吐き、仲睦まじいカップルを見ては憎悪をまき散らす。
我ながら、見苦しい一年だったと思う。
しかし、今はようやくその呪縛から解放されたのだ。
いまいち実感は湧かないが、取りあえずは喜んでおこう。
受かったあああああああ!
内心で歓喜の雄たけびを上げつつ、それでも目は右往左往していた。
目新しく、そしてずっと眺めて見たかった光景なのだからそれも仕方あるまい。
そんなふうにしばらく合格の余韻に浸っていると横から囁くような声が鳴り響いた。
「……ちゃ……ん」
しかし、その声は俺の耳には入らない。周りの喧騒が俺の耳へ入る声を遮るのだ。
俺が一向に声に気がつかず、ただ周囲をキョロキョロ見回していると、再び聞こえてくる声。
「……ろ…ちゃん。」
今度は微かに耳に触れたことで俺は足を止める。
どこか聞き慣れた声と誰かを呼んでいるような声音。
聞き流してもいいはずなのに、なぜか気になってしまう。
なんだろう、恋の始まりだろうか。
とも思う傍らで、何故か妙な気分にもなる。
なんだかとても重要な事を忘れているようそんな気持ちだ。
俺はその声の主を探るため、目でその姿を探す。首を左右に振っての捜索。
しかしどうにもこうにも見当たらない。
まるで最初からそこにはいないような……
「……ろちゃん。」
それでも声はどんどんハッキリ大きくなっていく。
その音域の高さからして恐らく女だろう。
とそこまで分かりながらも肝心の姿の方は一向に見えてこない。
聞こえているのに見えてはこない。
不気味なその感覚に徐々に不安にも似た感情が湧きだす。
それと同時に周りの光景が少しずつ渦を巻くように揺らぎ、蜃気楼のように霞んでいった。
嫌な予感と胸を締め付けるような強い不安感と共についに、俺は意識を取り戻した。
「じろちゃん!!」
そんな大音声と肩を揺さぶる小さな手によって目を開けると、そこは薄暗い闇だった。
今までの光景とはかなり違っている。
「良かった~、ちゃんと生きてた。」
ホッとするようなゆったりしたその声と共に明かりが灯され目の前が眩しく照らされる。
最初はまぶしすぎて良く見えてこなかったが、それでも慣れるとハッキリとその光景が明らかになった。
うず高く書物が積み重ねられている机と、簡易ベット、それと視線の端には壁中に貼られた英語の単語プリント。
紛うことなく俺の汚部屋だ。
そこまで把握してもなお事態が収集できずにいると目の前の少女が口を開く。
「もお~~~、心配したんだよ。おばさんがじろちゃんの様子がおかしいっていうからって、すぐに駆けつけたら部屋の端っこで倒れていたから……」
眠くなりそうな間延びした声で少女はそういうも、俺の意識はいまいちハッキリしない。
「……誰?」
「もう~なんで忘れるの~。詩織だよ、明見 詩織。じろちゃんの幼なじみだよ。」
「……じろちゃん?」
「もお~今度は自分の名前も忘れたの~。じろちゃんはじろちゃんでしょ。
落合 次郎君、じろちゃんは高校生の時に受験に失敗して、それで一郎したけど……」
そこまで言いかけた少女の言葉に俺も記憶も徐々に蘇ってきた。
今までの苦悩と度重なる挫折、そして迎えた受験本番、最後の絶望。
そのどれも強烈な記憶の片りんだが、今は記憶よりも感情の方が勝っていた。
「そっか……俺、また落ちたのか……」
気分は一気に奈落の底に叩き落とされる。
そう、俺は大学受験に失敗した。
一郎して、一年間死ぬ気で勉強し、万全とまでは行かなくとも全力で挑んだ受験……それに失敗したのだ。
それなのに……それでもなお……何故かその実感がわいてこない。
それは恐らく胸の中を占めるのが悲しみでも、苦しみでも、ましてや怒りでもなく、ただ「無」だけが胸中を支配しているからだろう。
これはある意味での現実逃避なのかもしれない。
あまりにつらい今を直視しないための……
そんな有耶無耶な気持ちに再び呑まれそうになっていると、胸に一つの感触。
詩織と名乗る少女が抱き付いてきた。
「ちょっ……」
急な事に俺が驚きを露わにすると、少女はまるで優しく語りかけるように言う。
「じろちゃんは頑張ったよ~」
「えっ?」
少女はゆっくりと言い聞かせるように続ける。
「雨の日も、風の日も、雪の日も、じろちゃんはず~っと頑張っていたよ。
結果は、駄目だったかもしれないけど……それでも私はじろちゃんが一所懸命に勉強していたのをちゃんと知ってるよ。」
温かく、それでいて心が休まるような幼なじみの声に俺の目元から無意識に一筋の涙がこぼれる。
「あれ……」
自分でも思い寄らないその涙。
それと同時に、今まで何もなかった心の中にドッと悲痛にも似た感情が流れ込む。
どうしてダメなんだよ……
またなのかよ……
なんで落ちたんだよ……
俺の何がダメなんだよ……
合格させてくれよ……
それをきっかけに次から次へと湧き出る負の感情。
それは先行きの見えないような不安だったり、これまでの全てが報われなかった脱力感、そして今まで自分の事を応援してきた人への申し訳なさ。
押し寄せる感情の波に呑まれるそんな俺の頭を幼なじみはずっと撫でてくれた。
何も言わず、ただずっとそうしていた。
どれくらいそうしていたは分からない。
気がつくと、幾分か落ち着きを取り戻していたらしい。
もしかしたら、俺は最初からこうして慰められたかったのかも知れない。
自分のこれまでを分かってもらいたかったのかもしれない。
とはいえ、いつまでもこうして訳にはいけない。
今は自分の進退をハッキリさせることが先決だ。
そう思い立ち俺はゆっくりとした所作で立ち上がる。
「行くの……?」
「ああ。」
「……そっか。」
その顔は嬉しいようなそれでいてどこか寂しいような不思議な表情だった。
今思えば、こいつには今まで結構な負担を感じさせたと思う。
だから俺はそんな彼女にこう一言言い添えた。
「まあ、その……なんだ、心配するな。お前はいつも通り先でもう少し待っていてくれ、詩織。」
詩織は一瞬だけポカンとしてその後すぐに笑顔になった。
「うん、ちゃんと待ってるよ。ちょっと先でね~」
その声を背に俺は部屋を出た。
浪人が決まったからには絶対に避けては通れない道がある。
これは非常に重要なある意味で儀式のようなものだ。
まさか再びすることになるとは思ってもいなかったが……
「お願いします!!!」
と言い放って両親に土下座をした。
学費を出してもらう以上はこれは絶対に必要な儀式であり、ある意味でもけじめでもある。
今の自分の全てを受け入れるための。
だから、俺はこれまでにないほどの決意を込めて頭を下げるのだ。
今度こそは、今年こそは受かってみせると。
自分にそう言い聞かせるように深々とこうべを垂れた。
こうしてその日、俺の二年目の予備校暮らしが確定したのだった。