隣の政略結婚
もうひと月もすれば、ノーザンラントに夏が来る。
最もまばゆく輝かしい季節の始まり、つまるところ夏至に、わたくしの双子の妹は嫁ぐ。嫁ぎ先は王太子家――ひとつ年上の従兄、チャールズ王子のところだ。お祖父様が伯父様に譲位すれば、王太子になる男である。
花嫁――わたくしの妹、ローズマリー王女(我が国では国王から数えて三親等の娘まで王女と称するのだ)は今、花嫁衣裳の最終調整と、式典の準備に掛かりきりだ。そのせいで、三度の食事の時くらいしか、顔を見る時間もない。けれど、万全の準備はあの子を幸せにするはずだから、わたくしも両親も、微笑んであの子を見守るにとどめている。
星のような白い花を栗色の髪に飾り、やはり白い婚礼衣装に身を包むあの子はきっと、まばゆい季節に負けない、美しい花嫁になるだろう。妹はいわゆる美女ではないが、いかにも聡明そうで上品な顔立ちをしているのだ。長く、地味な娘として振る舞ってきたが、婚約が整って以来、急激に綺麗になって、婚約者を慌てさせている。自分は華やかな所のない目立たない人間だ、と認識してきたあの子は、美貌の婚約者(そう、あの王子は目のくらむような面相の持ち主なのである。王太子殿下も王太子妃殿下もとてつもない美人なのだが、そのいいところばかりをもらって集めたような、憎たらしいほどの美形だ)に思った以上に愛されていることを知って、少しばかり自信を得たのだろう。
あの子と王子の結婚は、二年前のわたくしたちの誕生日に、議会によって定められたものだ。国内随一の貴族の家柄の出であるわたくしたちのお祖母様、第二王妃様の血筋を王太子の血筋に混ぜるため、というのが結婚の理由で、よっぽどの外交問題でも起こらない限りは、わたくしか妹のどちらかが彼に嫁ぐと幼い頃から決められていた。それ故に世間には、従兄妹同士の政略結婚と理解されている。
しかしその実態は、少々異なる。議会や王族の中で長いこと、わたくしの方が王子妃になるだろうと言われてきたのを、王子自身が覆し、妹を婚約者としたのである。それはもちろん――ローズマリーへの愛ゆえに、だ。つまりこれは、彼にとっては恋愛結婚だったのである。
とはいえ、わたくしが王子妃にと目されてきたのは、妹よりわたくしの方が社交上手で、面が整っているというただそれだけの理由だったので、王子の「わたしは君の妹を妃にしたい、協力を頼む」という懇願(そう、あの男はわたくしに懇願したのだ! 年下の、第二王子家の姫に、未来の王太子が!)に、しかたがないわねと頷いた。
ローズマリーは姫としては一風変わった娘だが、向学心と好奇心に溢れた軽やかな魂を持つ娘である。貴族社会の闇を覗くような夜会の後に彼女と会話をすると、淀んで腐っていた水が清冽な流れに洗われるような、薄荷のシロップの効いた夏の砂糖菓子を食べたような、すっきりと心地よい気持ちになるのだ。王太子家唯一の子供であるチャールズ王子ともなれば、わたくし以上に深い闇との付き合いもあるだろう。彼がローズマリーの清涼さを求め、隣に置くことを望むことにはなんの不思議もない。
それに比べてわたくしはといえば、顔貌ばかりは多少美しいかも知れないが、決して人様に好かれるような人となりではない。着飾って目を惹かせ、些細な言葉から裏を読み、相手の弱みを突いて駆け引きをする、そんなことばかり得意な女だ。――ローズマリーとよく似た、人に安心感を与えるおとなしい顔立ちを利用して、諜報めいた活動を繰り広げている父の『駆け引き上手』な血を、これでもかと引いた娘、それがわたくし、第二王子家のマーガレットなのだ。わたくしとローズマリー、顔立ちが逆ならばこれほどしっくりきたこともなかろうに、とわたくしは今までに何度も思ってきた。
――メグ(わたくしのことだ)の方が美人なんだし、わたくしは注目されるのは慣れてないわ。このくらいがちょうどいいのよ。
多くを望まず、いつもそんな風に笑って(あの子は本気でそんなことを言うのだ。そのたびにチャールズが必死で、顔が歪まないように耐えていたのは面白かった!)、一歩引いたところからわたくしとチャールズ王子を見守っていたローズマリー。わたくしが王子に嫁ぎ、自分は国内の有力貴族、もしくは外国の王家と政略結婚するのだと信じていたローズマリー。こんなにも身近にいた、貴女を必死で手に入れようとしている男の愛にも気付かず、もちろん彼のあらゆるアプローチに込められた意図にときめくこともなく、にこにこと屈託のない幼馴染でい続けた、鈍くてかわいいわたくしのロージー!
……愛し愛されて嫁ぐのは難しくとも、あの子は愛されて嫁ぐことができる。誰に嫁いでも構わないのなら、愛してくれる気心の知れた幼馴染が一番に決まっている。
誰よりも幸せになってほしい可愛い妹。汚れてほしくない清廉な魂を持つ、注がれる愛情にまだ気づいていないあの子のために、わたくしは王子に協力した。
――不幸な犠牲者をひとり、巻き込んで。
*
「……もう来月なのねぇ」
「早いものですね」
午後の日差しの穏やかな庭で、薄荷茶をすすりながら呟くわたくしに相槌を打ったのは、わたくしの斜め後ろに立つ、チャールズ王子の乳兄弟にして今では護衛を務める騎士の、ギルバートである。それなりの身分の持ち主で、黒い髪に焦げ茶の瞳のハンサムな青年だ。わたくしとローズマリーの幼馴染でもある。今日は本来の主ではなくわたくしの護衛として、背後に控えていた。
「それにしても、婚前だっていうのにくっつきすぎじゃない? まだ夫じゃあないのよ? ロージーに悪い噂がたったら縊り殺してくれるわ」
「護衛の前で言う台詞ではありませんしもう夫のようなものかと思われますが」
わたくしとギルバートの視界の隅では、周囲の物々しい護衛たちを気にもとめないチャールズ王子と妹が、美しい木製の長椅子でくっついて、何かしらの分厚い目録を眺めている。革張りの表紙に金の文字が踊るそれは王室御用達と呼ばれている宝飾店のもののようなので、多分、婚礼の贈り物(新郎新婦が参列者に配るものだ。昔は王家から授与されるものとしておおごとだったらしいのだけれど、今ではピンやリングと言ったちょっとした宝飾品がほとんどである)の選定じゃあないだろうか。
ああでもないこうでもないと、未来の王太子に忌憚なく発言するローズマリーは、彼に対して全くの気後れを見せないというだけでも、その花嫁になる価値がある、とわたくしは思う。いずれはこの国の頂点に立つ男だ。しかも、自分よりずっと美貌の。そんな男の隣に立つなんてわたくしならごめんである。どう考えたって、苦労ばかりするはずだ。
でも、あの男は、あの子を愛している。愛されて嫁ぐのだという、貴族の娘にとっては夢であり憧れであり——奇跡のような、その事実。それだけで、あの王子に嫁ぐ意味がある。苦労を買ってでも、嫁ぐ理由が。
婚礼まで半年を切ってから、王子は己の愛を見せつ……いや、証明するかのように、妹への態度を甘くしている。そりゃあもう、干し果実の砂糖漬けに蜂蜜を掛けたかのように甘い。
横に立つ時座る時、腰に回されている王子の骨ばった手、思い出したようにあの子の綺麗な栗色の髪をなでる手のひら、これは現実なのだと自分に言い聞かせるように頬をなでる指、想いが極まったとでも言いたげなこめかみへのくちづけ、ひと時も離したくないと言葉の代わりに額に唇を寄せ、手の甲を吸って、爪にも唇を当てて。あの男ときたら、それらをほとんど無意識にやらかすのだ。いまだってほら、長椅子の上で腰に腕を回して。時々、ローズマリーの垂らした髪を撫でている。
まったく、恋愛小説でもあるまいに!
そんな王子にはじめの頃こそあわあわとしていた我が妹も、いまではすっかり当たり前になっているどころか、「はいはい」と彼をいなしてすらいる。あの王子の過剰な愛情表現にそんな態度をとれるのは、おそらく世界でこの妹だけだ。彼がわたくしにそうすることは、天地がひっくり返ってもありえないし、実際されれば怖気立って振り払うだろう。そして、他の娘では夢見る様に蕩けてしまうに違いない。
ローズマリーはきっと幸せになる。――今でも幸せかもしれないけれど。
しかし。
わたくしはちらり、わたくしの背後に立つ、己の主を眺める騎士へと視線を投げた。穏やかな褐色の瞳で、主とその婚約者をひたとみつめているギルバート。——わたくしが婚約者の座に登らぬために利用した男。
二年前。
穏便に婚約者の座から遠のくためにわたくしは、『心を交わした男性がいる』と父や伯父である王太子、祖父である陛下に訴えて、ローズマリーをチャールズ王子の婚約者へと推した。その相手として口にしたのがギルバートだった。無論、彼には事前に話を通してあったし、ギルバートの地位・身分であるならば、第二王子の姫が降嫁してもおかしくはないので、問題になったりもしなかった。
愛した婚約者と引き裂かれて王家に嫁ぎ、心と体を壊した末に亡くなった母を持つ王太子殿下はわたくしに同情し、議会でローズマリーに票を投じたと聞く。どちらが王子妃になっても構わないのなら、王子の父である王太子の票が入った方に傾くのは当たり前といえば当たり前である。結果、ほとんど反対もなく、チャールズ王子の婚約者はローズマリーとなったという。そして、ギルバートは暫定的に、わたくしの婚約者となった。
あの時。チャールズ王子の婚約者にローズマリーをあてがうために協力してほしい。そう言った時。ギルバートは、少しの逡巡の後に、分かりました、と頷いた。そのカラメル色の瞳には、何の色も浮かんでいないように見えた。
でも、ほんとうは。
「……悪かったわね」
「何がです?」
「……あなたには、悪いことをしたと、思ってるのよ」
そう。わたくしは知っていた。気付いていたし、見てしまったのだ。あの日、わたくしが計画を告げ、協力を仰いだその時。この男が一瞬俯いて、胸の奥底に己の想いを沈めて殺したのを。
「……マーガレット姫?」
「……わたくし、知っていたのよ」
わたくしの背後で、はっとギルバートが息を呑む音がした。
わたくしは知っていた。
王太子ほどではなくてもそれなりの年月、彼が——わたくしの妹へと、心を傾けていたことを。あの子を見つめる瞳に熱がこもっていたことを。世間からは稀に見る堅物と言われ、わたくしたち幼なじみの前以外では、表情筋の動作も少ない彼が、あの子の一挙一動に、いとも容易く心をゆらしていた事を。
知っていて、彼を共犯に選んだのだ。
あの子を好いてしまうのは、無理からぬことと思う。だって彼は、あの子の清廉さを、王子の隣で王子と同じだけ見てきたのだ。王子があの子の美点をひとつづつ見つけ出すことに、ずっと付き合ってきたのだ。この貴族社会、社交界において稀有な性状の娘を、ずっと見つめてきたのだ。時に、夜会のパートナーさえ勤めながら!
わたくしがギルバートであったなら、とっくに求婚していただろう。おそらくは王子がわたくしに協力を求めるよりずっと前に。
けれどギルバートはそうしなかった。あの日、わたくしの申し出に一瞬だけ躊躇い……しかし、即座といえるほどの速さで、頷いた。どうぞ私の名をお使い下さいと、あの時彼は微笑んだのだ。
「貴方に名を借りることがどれだけ酷いことか、わたくし、知っていたの……」
名を借りることが、彼の慕情を潰すことだと知っていた。彼が、主の恋を前にしたら、身を引く性格だと知っていた。きっと、微笑んで、自分の恋を殺すのだろうと知っていたのに――
「お気になさいますな」
「ギルバート」
「もう二年も前のことです」
「でも」
「私はあの日、主の幸福を選んだのです。あの方を幸せにできるのは姫だけだろうと」
我が主ながらその執着はなかなか凄まじいものがありますと、彼は低く笑う。
「私とて命は惜しいのです」
「……ギルバート」
「冗談ではないのですよ?」
己の慕情を若気の至りと茶化すように、微笑んで見せる気配が背中に届く。わたくしは振り向けずに唇を噛んだ。
彼は優しい男だ。武骨な騎士でありながら、紳士らしい気配りと思いやりに満ちている。子供の頃でさえ、なかなかのわんぱく少年だった主にも、年下の双子のお転婆姫にも、根気良く付き合い、なだめたり励ましたりと兄のように振る舞っていた。
気が強く、意地っ張りで、素直になれずに泣くことの多かったわたくしにさえ、泣き止むまで付き合ってくれるような、優しい――。
「……わたくしは、」
――どうして、好きにならずにいられるだろう。
「……あなたにも、幸せになって欲しかった」
でも、ローズマリーはひとりしかいない。顔が整っている、王女らしいしたたかな性格をしている、そんなことがなんの役に立つだろう。
双子なのに、ちらとも似ていないわたくしは、あの子の代わりにもなれない。せめて、顔の似た双子であれば、代用にくらいはなっただろうか。
「私は不幸ではありません」
「……そう」
「王子殿下の親衛隊に属させていただいて、王子殿下の護衛という栄誉を頂いて、王女殿下やクリストファー殿とも親しくさせていただいている。騎士としては最大の誉、しがない次男坊には大き過ぎる名誉です。そのうえ今や、姫君の婚約者などという大それた立場にさえある」
不幸などと言えば罰が当たりましょう。
からりと笑う声がする。嗚呼、彼がこんなに良い男でなければ、わたくしのこの胸だとてこれ程までに軋みはしないのに!
わたくしは己の浅ましさに目を伏せる。
――妹の幸福を願うと言いながら、己の恋敵を遠ざける手段でなかったと、わたくしは宣言できない。
あの子はチャールズ王子でなく、ギルバートに嫁いでも幸せだったろう。未来の王妃という負担がないだけ、もっと幸せだったかもしれない。
そうと知りながら、妹を遠ざけるためにチャールズ王子に差し出したのだ。愛されて幸せになれるはずだと己の罪悪感を誤魔化して、そういった駆け引きに気付かぬ性格のローズマリーに憎まれたりしないことさえ、承知して。
そして、共犯者にはもう一人の幼なじみ(彼はわたくしとローズマリーの乳兄弟で、クリストファーという名の騎士である。ちょっと優男で、美男だがわたくしの好みではない。しかし、共犯者にはうってつけの性格の持ち主ではある)ではなく、ギルバートを選んだ。彼の恋心を潰すために。
嫌な女だ。
うつむくわたくしの頭の上に、ポン、と大きな手が乗せられる。幼い頃、意地を張って泣くこともできずに不貞腐れていたわたくしの頭をかき回したのと、同じ仕草で。けれど、剣を持つがゆえの厚い革手袋越しでは、馴染みのあるその温度がひどく遠い。
それがまるで、今のわたくしとギルバートの距離を示しているようで、胸の奥がぎゅうと軋んだ。
——お願いだから、あんまり優しくしないで。
わたくしは思わず、ギルバートの手を払った。
「……やめて頂戴。髪をゆい直すのにどれだけ時間を食うと思うの。解けたからと下ろしたままでいられる歳ではないのよ」
「貴女の髪は柔らかいですね」
「ちょっと聞いてるの? それにね、貴方の髪が硬いのよ。……将来覚悟なさいよ?」
「祖父は双方豊かですから大丈夫です」
「……そういえばそうね」
ギルバートは名門の次男坊だ。母方父方を問わず、その両親も祖父母も、社交界では知られた人間である。当然、王家の人間であるわたくしの既知である。ふさふさと豊かな頭髪の持ち主である二人の老人——と呼ぶのは憚られるような、凛々しく逞しい、燻し銀の騎士であるけれども——を思い浮かべ、わたくはため息をこぼした。
いつもなら可笑しいばかりの他愛もないやりとりに、微笑むことができない。
ローズマリーは無事、嫁ぐ。そうしたら、嫌な女にも優しいこの男を、解放しなければならない。彼ならば、ひょっとしたらローズマリーよりも気立ての優しい、わたくしよりもずっと美しい娘を、いくらでも手に入れられるだろう。
彼に傷を付けずに破談にする方法はあるだろうか。普通に考えれば、王家との婚約を臣下たる彼から破談にすることはできないし、わたくしだって、よっぽどの理由がなければ破談など許されない。
――やはりわたくしがよそに男を作るしかないか。いやそれでも、彼より地位の高い男でなければ、愛人にすればよいだろうなどと言われるだろうか。彼より地位の高い独身男性なんて、王族男子が売り切れている今では、そうそういるものでもないというのに。
とは言え、それ以外では、わたくしがどうにかなるしかない。しかし彼の性格ならば、わたくしが穢されようが不具になろうが、破談になどしないだろう。わたくしが死ねば流石に、どこかの娘を迎えるだろうが、いくらなんでも死にたくはない。いや、怪我だって純潔を汚されるのだってお断りだ。
しかし、恋愛騒動ならまだしも、それ以外の醜聞で放逐されるわけにもいかない。わたくしはこれでも第二王子家の姫であるし、わたくしが犯罪にでも手を染めようものなら、妹と従兄を不幸にしかねないのだ。
思った以上に八方ふさがりだ。かくなる上は出奔して、どこかよその王子と恋仲になるしか……
「ところで、私たちの式は来年の夏至でよろしいか?」
「はい?」
ぼんやりと、悪戯が過ぎてローズマリーに頬をつねられている王子の緩んだ美貌を眺めながら(つねられているというのになんて眩い笑顔だろう!)沈思していた耳に届いた言葉に、わたくしは思わずぎょっとなって振り返った。
世間に鉄面皮と呼ばれる無表情は今やその影も形もなく、褐色の瞳は細められ、口の両端はもたげられている。それは悪戯をひらめいた少年のようにさえ見えた。
「貴女は最後の独身王族なのですから、それなりの式典を挙げなければ周囲の男が黙っておりますまい」
「……待ちなさい、話が見えないわ」
「3年も婚約すれば十分でしょう」
「だから、なんの話?!」
「婚礼の話ですよ」
「こんれい……」
「今年の夏至は殿下とローズマリー姫のものですから来年以降となりますが、王族の婚礼なのですから夏至がよいかと愚考致しました」
「おうぞく……」
「王族は夏至に婚礼を挙げると古い精霊の加護によって幸福になれると言い伝えられているそうですね。実際エドワード殿下も王太子殿下も、陛下も……第二王妃様の時には夏至に華燭の典を挙げられたではないですか。そして、チャールズ殿下とローズマリー姫も夏至に予定しておられる。ですから姫も、夏至がよろしいでしょう?」
ガチャンと音を立ててソーサーに降ろされたカップを、後ろから伸びてきた大きな手が、ひょいとテーブルの向こう側に避ける。
婚礼て! 王族て! まさか!
「……待って待って待って待ちなさい! こ、婚礼って、わたくしの?!」
かぱっと自分の口が開いたのを感じたけれど、わたくしは口を閉じることができなかった。
こんな間抜け面をさらすのはいつぶりか。第二王子家の外交担当としてはあるまじきである。身内以外がいたら恥だ。真後ろにはギルバートがいる。恥だ。
「他にどなたか独身の王族がおられますか?」
「いないけど! でも、ギル、貴方、このまま結婚するつもりなの!?」
「二年来の婚約者をお捨てになるおつもりで?」
「人聞きの悪いことを言わないで! 貴方、わかってるでしょう!? 偽装だって!」
「二年も偽装すれば本物になりましょう」
この偽鉄面皮がいけしゃあしゃあと、とうっかり口走りそうになってわたくしは慌てて口をつぐんだ。
普段は多くを語らず表情も変えないこの青年は、わたくしたちや殿下の前ではそれなりに饒舌であるし表情豊かである。しかしこの、ちょっと人の悪そうな笑みははじめて見た。驚いた。この男はこんな顔もするのかと、わたくしは呆然とギルバートを見上げた。
にこり、と上がった両の口角は、悪戯を思いついた少年の顔ではなかった。これは悪巧みが成功した時の少年の顔だ。
「……だって、貴方、そんな」
二年前、彼は確かに、ローズマリーに惹かれていて。
わたくしとの婚約は偽装であると、最初に明確に提示していたし。
彼はそれを一つ返事で受け入れたし、この二年だって人の目のないところでは婚約者らしいやり取りをしたことなどなかった。もちろん、必要なときにはきちんとそれらしく行動してはくれたけれど、それだって紳士らしすぎるほど紳士で、不埒の『ふ』の字もない、完璧な振る舞いだった。私的な時のわたくしとギルバートはどう見たって、結婚を考えている男女の態度ではなかったのに。
「貴方、だって、ロージーが……」
「申しましたでしょう」
オロオロとするわたくしが余程面白かったのか。ギルバートは珍しくも、フッと声をあげて笑った。そして、護衛騎士としてはあるまじきことに、わたくしの隣にひざまずき、そして。
――護衛対象の、手を、とった。
「二年も前のことだ、と」
2年もの間、気が強いくせに存外健気な姫君の隣にいて、絆されずにいることは非常に難しいことなのですよと、青年は微笑んだわけなのです。