六〇 黒髪姫は旅に出る
白亜城は、その白い姿とは裏腹に、その影では常に策略と陰謀が駆け巡り、同盟と内応、暗闘が横行し、嫉妬と羨望、追従、打算が満ち満ちている。
貴族たちは華やかな衣装を着込み、煌びやかな贅沢を楽しみ、優雅な日々を過ごしながら、頭の片隅では常に、人を嫉み、軽蔑し、呪い、怒り、罵っている。彼らの心の中など見ようものならば、誰もが一瞬で人間不信になることは間違いがない。王侯貴族とはそういう世界に生きる身分なのだ。誰もが、豊かで心地よく悦ばしい日々を生き、誰をも顎で使い、足蹴にし、踏みつけ、自分だけが頂点に立って他者を睥睨し、恐れ敬れることを夢見ているのだ。そこまでは夢物語としても、彼らが夢見る究極とはそういうことだ。その夢に一歩でも近づく為ならば、つまり、できるだけ権力に近づき、力を自由に振るい、資産を貯め込み、愉快で贅沢な生活を送る為ならば、他人の財産や地位、名誉、果てには命などどうということはない。己と血の繋がった子や兄弟姉妹の身柄や命ですら条件次第で喜んで差し出すのだから。
そんな彼らが他人の恩賞に興味を抱かないわけがない。ましてや、それまでは人質同然の身分で幽閉されていた属国の姫にして、臨時の帝国騎士で役職的には中級士官といったところの十台半ばの少女にいきなり男爵の地位と豊かな荘園がポンと与えられれば誰もが話題にしたがることは疑いないのだ。
「陛下は何故、あの魔女を優遇したのだろうな?」
「防衛軍の将軍たちは軒並み冷や飯を食わされたというのに」
「レイクフューラー辺境伯が手を回したという噂だ」
「あのユーサーという兄王子は陛下の愛人であるらしい。だからだろう」
「魔女が悪魔の力を借りて陛下に怪しげな術をかけたのではないか?」
白亜城内では貴族の紳士淑女が面合わる度にこのような噂話や法螺話が錯綜した。人の口から口へ、耳から耳へと、話は時に尾ひれ背びれ胸びれなんかを付けつつ、時に否定され打ち消され消滅しながら、キスと皇帝の面会が終わった数日の後でも、終わることなく、人々の舌を動かす働きの一端を担っていた。
黒髪姫に関する噂が一度会話の舞台に上がれば、あっという間に主役の座を射止め、千秋楽まで降りることなく、会話の主役として会話の舞台で踊り続けることになる。
ただ、会話の主役として舞い続ける黒髪姫の噂話も、本人が現れたとなれば、さすがに舞台より降りざるを得ない。
「すっかり有名人ですね。姫さんが通れば視線が全部こっちに来る」
「あんまりいい感じの視線じゃあありませんけどね」
傍らを歩くワークノート卿とロッソ卿の言葉を聞きながら白亜城を席巻する噂話の主人公である黒髪姫ダークラウン男爵キスは困ったような顔で「はぁ」などといつものように肯定だか否定だか何だか分からない曖昧な返事をした。あんまりいい感じの言葉というか反応ではない。少なくとも、相手にはいい印象を与えないと思われる。
ワークノート卿は少し苦笑いしながら忠告した。
「姫さんさー。前から思うんだけど、その、はぁっていう気の抜けた返事は何とかならないの?」
「はぁ……」
「…………いいわ」
ワークノート卿は呆れた風に笑い、ついでにロッソ卿も苦笑し、キスは申し訳なさそうな顔をして、小声で「すいません」と謝った。
「殿下。そうそう簡単に謝るのは宜しくありませんよ」
「はぁ、すいません」
会話能力に関して、黒髪姫の学習能力は殆ど皆無であるらしかった。
「はぁー……」
キスに宛がわれている白亜城の一室に戻るなり、彼女は深い溜息を吐いた。
一室とはいえ、純粋に一つの部屋というわけではない。ホテルのスィートルームみたいな空間をイメージして頂きたい。そこは一般庶民の住宅よりも広く、いくつかの部屋に区切られ、それぞれがキスの私室、ワークノート卿、オブコット娘卿の部屋、ロッソ卿、オブコット父卿、クリステン卿らカロン人騎士(男性)の部屋、荷物置き用の部屋、それから共同の食堂兼会議室として使用されていた。
若い上にどこかフランクな印象を与えるものの、それでもれっきとした貴族であるレイクフューラー辺境伯キレニアは当然白亜城内に自身の私室を、それもキスに宛がわれた部屋よりも更に広い部屋を持っているから、用事があるときにしかこの部屋には訪れない。
兄王子ユーサーは神聖帝国においてはただの留学生であるから、白亜城に部屋を持たない。しかし、彼はどこに寝泊りしているのか分からないが、キスの部屋に泊まることはなく、彼もまた用事のある時にしかキスの部屋に来ない。
その二人が今日はキスの部屋の食堂兼会議室として使用している部屋のソファに並んで腰掛けていた。傍らにはそれぞれ部下を立たせている。キレニアは側近の騎士デリエム卿。ユーサーは例の謎メイド。二人ともびくともぴくとも動かない。
「おかえりなさーい。何だかお疲れのようですね」
キレニアは持っていたティーカップをテーブルに置きながらにこやかに言った。
「はぁ、まぁ、そーですねぇ」
キスはそんなふうに肯定の返事をしながら、テーブルの側でおろおろしてから、おそるおそる近くの椅子に座った。部屋の主人の態度ではないが、勧められなくとも、自発的に着席できるだけまだマシだ。今部屋にいる人々にそれなりに慣れているからだろう。
「まぁ、疲れるのも頷けるというものだ。一昨日は帝国宰相ティピッツ枢機卿と帝領総監ヴァルネコット方伯に会って、昨日は、また皇帝陛下に拝謁し、その後、陸軍大臣カム伯、帝室大臣サンシュレティア伯、枢密院議長ミトリンゲン方伯ら皇帝党幹部連中と昼食。その後、教会のお偉方と会って、内務大臣ネイガーエンド公ユリー大将とその娘ノース・ユリー子爵准将と共に夕食。今日は今日で、大法官兼高等法院長白亜公、法務長官ウィットブルト伯、治安総監キンベルン卿と長々と話をしてから、高等法院の上級判事方と昼食。さっきまで大蔵総監コーダーベルク辺境伯、海軍大臣兼海軍司令長官ゲルヴィン提督、商務院総裁兼貿易長官ニコリア男爵ら海洋派幹部と会ってたきたと。こりゃもう帝国政府の要人全員と会ってるんじゃないか?」
ユーサーはつらつらとここ数日のキスの予定を空で言い、その場にいた殆どの者を驚かせた。
「あなた、よくもまぁ、それだけ長い台詞を噛まずに」
「殿下、一応、お偉いさん方の名前とか役職覚えてらっしゃったんですね」
「てか、妹の予定を全部覚えてたんですか? シスコン?」
「それだけ覚えられるのに、どーして、俺の言ったことは一っつも覚えてないんだ!?」
失礼だったり無礼だったりする言葉がいくつも浴びせられるが、ユーサーは気にしないことにした。まぁ、自業自得だし。
ともかく、ユーサーが言うとおり、キスはここ数日、白亜城内のあちこちを行ったり来たりしながらお偉いさん方に会っていたのだ。何か世話になった覚えはないが、一応、お世話になりました。と礼を言い、それから、これから長らく失礼いたします。と言っておくのだ。面倒くさいがそうする必要が彼女にはある。
勅任断罪官という役職がそれほど偉いわけではない。一介の男爵が帝都から田舎に戻るにしてもこれだけ偉い人方のオンパレードに会うことはない。ただ、キスは属国とはいえ姫殿下であり、先の戦の英雄であり、皇帝より直々に取り立てられているのだ。誰もが「どれ一つ顔を見ておきたい」と思うのは必然であろう。
キスはそんなことどうでもいいとは思っていたが、側近の騎士たちは口煩くそうせよと言うし、キレニアとユーサーは勝手にお膳立てをするものだから、キスは唯々諾々とそのとおりに動くしかなかった。彼女には主体性などというものは殆どないのだ。
「ともかく、それだけお偉いさん方と顔を突き合わせていれば精神的にかなり疲労するだろう。それに、中小貴族からは嫉妬とか怨嗟もあるだろうし」
「まぁ、そりゃしょうがないでしょうよ。先の騒動では殆ど皆が割を食いましたからね」
ユーサーの言葉にキレニアが頷く。
「皇帝党は策略の目的を半分どころか一割も達成できず、手駒を失っただけだし、皇帝に反目する貴族たちは避難するのに金はかかるわ屋敷が戦の影響で損傷してたり空き巣に入られたりするわ報奨金を一部負担する羽目にはなるわでだいぶ支出させられたし防衛軍を率いた将軍たちは皇帝党の八つ当たりで左遷されるしで、得した奴は殆どいないわけですからね」
「その中で数少ない得した奴ってのがお前と我が妹ということだな。そりゃ恨まれる」
ユーサーが呟くとキレニアはキスを見てにんまりと微笑んだ。微笑まれたキスはどう反応すればいいのか迷い、結局、いつもどおりの返事をした。
「はぁ」
「それで? 君はもう出発するのかね?」
ユーサーはいくらか雑談をしつつ何杯かお茶をおかわりしてから、のんびりと尋ね、隣の部屋を見た。
「あ、え、ええ。明日の早い時間に」
キスは頷きながら、釣られてそちらの部屋を見やる。
隣の部屋では騎士と従者たちが部屋にあるものを仕分け、まとめ、縛り、運び出していた。必要のないものは商人に払い下げ、必要だが持ち歩けないもの、実用的ではないもの等は馬車に積み込み、必要最小限の極少ないものを一人でも持ち歩ける程度の大きさと重さにすべく四苦八苦していた。
キスは明日の朝、帝都の城門が開くと同時に、その必要最小限の荷物を馬に積み、門を潜って旅立つのだ。勅任断罪官の職務として帝国中を巡り歩き、治安維持任務に励み、罪人を捕らえ、軽微なものはその場にて処分することを名目に帝国領内を旅しようという目論見だ。
「一人で行くんですか? それともロッソ卿やワークノート卿がご一緒するんですか?」
「いえ、あの、エドさんとアンさんには私の領地の管理をお願いしてます」
「じゃあ、一人?」
「あ、いえ、一人じゃあないです」
そう言ったキスの頭の上に小柄な少女が飛びつき圧し掛かる。潰されたキスは「うえっ」て声を出す。女の子の、ましてや姫様の出す音じゃあない。
「モンが付いていくんだー!」
小柄なフェリス人傭兵のモンが無邪気な笑みを振り撒きながら叫ぶ。
「無礼者! 殿下に失礼なことをいたすな!」
「おいおい、嬢ちゃんが苦しそうじゃねーか」
その後ろから金切り声を上げたのはカロン人騎士クレディア・オブコット卿(娘)。のっそりと注意したのは小柄ながらずんぐりむっくりした体格でたっぷり髭を蓄えたラクリア人傭兵のカルボットだ。
「私たち三名ともう一人が殿下のお供をいたします」
オブコット娘卿はキスからモンを引き剥がしながら義務感と忠誠心に目をぎらぎらと輝かせながらはきはきとした声で宣言した。
「もう一人?」
「彼女?です」
オブコット娘卿が指し示した彼女?とは、布で全身を覆った正体不明のムールド人傭兵だった。
「おや、あなたも行くんですか?」
キレニアが尋ねると、ムールド人傭兵は無言で頷いた。
そのやりとりを見て、キスは首を傾げた。そもそも、この正体不明さんはキレニアが押し付けてきた人だったから、彼女?が付いてくると意思表示(無言で)したとき、キレニアからの指示で付いてくるのだとばかりキスは思っていたのだが、どうやらこれが演技ではなければ違うようだ。
「まぁ、好きにすればいいですよ」
キレニアは微笑みながら楽しげに言い、ティーカップを傾けた。
「キス殿下の御身は私たちが命を賭けても、いいえ、我が命を打ち捨ててでもお守りいたしますので、ご安心下さいませ」
「いや、それほど、心配はしていないけどね」
気合十分なオブコット娘卿にユーサーはぼんやりと言った。
「まぁ、とにかく、あちこち行って見聞を広めればいいと思うよ。うん」
「それで、そのついでに、黒髪の断罪姫だーって言って悪を滅ぼしたらよいですよ」
ユーサーとキレニアは大変テキトーな見送りの言葉をくれたのだった。
次、最終回です。
でも、続編はある予定で、二案ございます。
案A……銀猫王国継承戦争編
案B……黒髪の断罪姫編
どっちを連載するかは思案中です。
ご意見等頂ければ幸いです。感想でもメッセでもブログのコメントにでもご自由にー。