五七 凱旋と称賛
人間は助けてくれるならば悪魔さえも歓迎する。
とは、いくらか前の神聖帝国宰相シュラー枢機卿の言葉である。つまり、人間、ピンチになったときには悪魔の手も借りるというわけだ。教会に言わせれば、そーいうときこそ日頃の信心が試されるらしいが、大抵の場合、信心が足りないという結論に達するのだが、まぁ、それは置いといて、キスはその言葉を頭の片隅でぼんにゃりと考えていた。
「姫さん姫さん」
横にいたワークノート卿がにまにまと笑いながら話しかけてきた。
「そんなしかめ面しないの。スマイルスマーイル」
全くもって緊張感のない彼女の様子に、先ほどからがちがちに緊張してしゃっちょこばってしまっているキスは大いに感心した。よくもまぁ、これほど、いつも通りにしていられるものだ。
対して、キスはここ数日の間、ずぅっと緊張しきりだった。
ホスキー将軍率いる反乱軍を打ち破り、戦場から帰還したキスたちを待ち受けていたのは帝都市民の熱烈な歓迎と帝国貴族の賞賛と一部の者たちの嫉妬だった。
帝都市民と帝国貴族は彼らによって自らの命と財産が守られたことをよく知っていた。
防衛軍の勇気に満ちた奮戦の模様は帝都に残っていた帝都防衛軍の責任者レイクフューラー辺境伯キレニアによって大々的に宣伝されていたのだ。
彼女は防衛軍勝利の第一報を受けるなり、帝都のほぼ中央にあるゲオルグ一世広場に立って叫んだ。
「歓喜せよ! 帝都市民諸君! 諸君は救われたのです! 勇敢なる兵士たちの奮戦によって野蛮なる反乱軍の豚共は駆逐されたのです! さぁ! 諸君、パーティの支度をしようではありませんか! 我らが英雄の働きに相応しい歓迎をしようじゃあありませんか!」
彼女の叫びに、それまで破壊と暴虐、殺戮と無法に怯えていた市民が歓喜するのも自然というものだ。
キレニアの言葉どおり、早速彼らはパーティの用意をした。帝都を脱出した人々も直ちに帝都へと舞い戻り、帝都は日常の喧騒を取り戻し、戻し余って、帝都に帰還する人々と、商売を再会する市場や店舗の棚を賑わせるための商品、前線の兵士より一足先に戻った伝令の使者や馬車にぎゅうぎゅうに乗り込んだ数百どころか千を超える負傷兵、捕虜が帝都に一斉に流入し、帝都の喧騒は混乱の域にも達していた。
キスたちはそこへ戻ってきたのだ。彼らは賞賛に満たされ、歓迎に包まれた。
帝都の中央通を南から北へと向かう間、防衛軍の兵士の頭上には道沿いの建物から投げかけられた花が雨のように降り注ぎ、道沿いに隙間なく並んだ人々は歓声を上げ、兵士たちの勇気を賞賛し、褒め称え、しきりに酒や食べ物を勧め、握手を求め、尻軽な女は兵士を誘った。お陰で士官と下士官たちは兵士たちの隊列を維持し、彼らの欲望をせめて夜まで抑えさせることに四苦八苦した。
ある士官はあまりにも諸々の誘惑に引かれて乱れ止まりがちになる兵士たちに手を焼き、こう叫んだ。
「ただ並んで歩いてくれればいいんだ! それ以外は、手を振ろうが、笑おうが、喋ろうが自由にしていいから! 夜になれば何を食おうが何を飲もうが誰を抱こうが自由にしていいから! せめて、今だけは並んで歩いてくれ! 何で、そんなことを今更言わないといけないんだ!? 俺は教師じゃないぞ!」
白亜城に行き着いた兵士たちを待ち受けていたのは煌びやかな衣装に身を包んだ貴族だった。
「英雄たちの帰還だ!」
「紳士淑女の諸君! 英雄を拍手で迎えようではないか!」
幾人かの貴族が音頭を取って、兵士たちを歓迎した。己と比べればはるか上の身分に位置を占める人々から、賞賛の拍手によって迎えられ、兵士たちは一様に驚き、恐縮し、感激した。貴婦人や令嬢に微笑みかけられ、ガキのように顔を赤くする兵士が続出した。
白亜城の広大な敷地に兵士たちは整列し(今度ばかりは貴族に囲まれているせいか緊張していた兵士たちは大人しく整列し、士官は怒鳴らずに済んだ)、彼らの前には指揮官たちが居並んだ。
「勇敢なる兵士諸君!」
まず、口を開いたのはレイクフューラー辺境伯キレニアで、彼女は柔和な笑みを浮かべながら、兵士たちの勇気と忠誠に溢れた働きを褒め称え、そして、兵士たちにとっては大変重大なことであるが、彼らに与えられるべき褒美は自分が必ず国庫を抉じ開けさせるゆえ、期待してよいことを公言した。彼女の言葉に兵士たちは歓声を上げ、歓喜に包まれた。
「キレニアめ。余計なことを言いおって」
神聖帝国の国庫を預かる大蔵総監コーダーベルク辺境伯は苦々しい顔で呟いた。彼とて兵士たちの働きを不当に低く評価しているわけではない。彼らのことを見下しているわけでもない。ただ、帝国政府の金の遣り繰りを司っている立場としては苦い顔をせざるを得ないのだ。
「まぁ、いたし方のないことでしょう。此度ばかりは。陛下も、貴族諸卿も報奨金の大盤振る舞いをして然るべきと仰るでしょうな」
大蔵総監の隣にいた商務院総裁兼貿易長官ニコリア男爵が苦笑しながら言い、側に居並ぶ貴族が数人頷いた。
「そんなに言うなら、自分が出せば宜しいと思うのだがな……」
大蔵総監はそう呟いてから何事が気が付いて、はっとした。
「む! そうだ! 本当に陛下と諸卿から供出してもらえばよいのだ! さすれば国庫の負担は少なくて済むというもの! 文句はあるまい? 諸君。何せ、我らの命と財産と帝都を守った兵士たちだぞ? 彼らに与える報奨金の一部を負担することは、彼らへの賞賛の意思を示すことに他なるまい?」
彼はそう言って、周囲を見回し、貴族たちを半ば強制的に頷かせた。どんな理由であれ、誰だって、己の財布から金は出したくないものだ。
報奨金のために金を出す羽目に半ば決してしまった彼らは一様に「余計なことを言いおって」という顔でニコリア男爵を睨んだ。彼の言から大蔵総監がはた迷惑なことを考え出したのだから、彼が原因という論法だ。
「私のせいかね? いや、それは責任転嫁というものだよ」
男爵の反論は虚しく響く。
キレニアが金の保証をした後、続いて演台に立ったのは反乱軍壊滅の立役者たるサーズバン伯ソニアの小さな体だった。おそらくこの場にいる中で最も小さな体で愛くるしい容姿の彼女は演台から兵士たちを見回し、いくらか怒鳴った。
「テメーらぁっ! よくやったっ! 以上っ!」
怒鳴ってから、にやっと笑ってから(その笑いさえも愛くるしく見える)、さっさと演台から降りた。
その後は、何人か貴族がもったいぶった高尚な言葉で防衛軍の働きを誉めそやした。
キスも何か演説か勝利宣言でもするように勧められたが、丁重に断った。元より人前に出るのが苦手だったし、喋るべき内容も思い浮かばなかった。戦闘前には演説をぶちかませるのに、平素は無理であるらしい。
キスはじめ防衛軍の凱旋はこのようになされ、その後、兵士たちは夜の街へと繰り出し、ほとんどタダの酒と飯を腹に収め、防衛軍の勇敢な兵隊さんに惚れた町娘やら娼婦やらと夜を共にした。
対して、キスとその配下の騎士たちはそのように欲望に忠実な行動に打って出るわけにはいかない上に、キスにとってはあまり興味もない。彼女は大食らいではないし、酒も飲まないし、女を抱く趣味もなければ、男に抱かれたいとも思っていなかった。
興味云々よりも何よりも立場というものがある。王侯貴族といった身分の人々は大飯食らうにも、大酒飲むにも、女抱くにも、それなりの場所で、それなりの手配をして、それなりのもので満足しなければならない。
そして、キスはそれなりの場所と手配とものを用意する気はなかったし、あったとしてもそんな暇はなかった。
あるときは白亜城の広間で、あるときは大貴族の邸宅で、あるときは教会の一室で、彼女はあちこちに呼ばれては顔を出さねばいけなかった。その所々で、彼女は賞賛と拍手を受け、その勇敢さと可憐さを褒め称えられる羽目になった。
このとき、活躍したのが、キスの兄貴ユーサーであった。
戦中、全く役立たずで、キレニアと一緒に白亜城の一室で椅子に座って読書を楽しんでいた彼は、戦後になると一転して活発な活動を始めた。
「私は荒事は苦手なのだよ。だから、そっちは君に任せる」
兄は妹にそんなことを平然とのたまった。荒事を妹にさせる兄貴とはどんなものか。
「戦も大事だが、その前も後も大事だ。戦の前段階の準備に失敗して戦に敗れた勇将は数多いる。また、戦の後の処理に失敗して身を滅ぼした猛将も数多いる」
ユーサーはそんなことをもっともらしく言いなすった。
「よって、社会性溢れる私が、コミュニケーション能力にいくらか不安を抱える君を助けてあげようというわけだ」
兄貴の恩着せがましい申し出にキスはうんともすんとも言わずいつものように「はぁ」と曖昧な声を出したが、元より強引な兄貴のこと(何せ妹を無理矢理騎士にして前線に送り出しちまうような兄貴だ)、半ば強制的に彼女を社交の場へと連れ出した。
社交性溢れると自称するだけあって、ユーサーは貴族社会にまま顔が広いようであった。銀猫王国第四王子という相応の家格があるし、留学生という自由な身分は貴族社会を歩き回るのに大変都合が宜しく、その上、彼は口も上手かったから、あちこちに知り合いがいるようであった。その「知り合い」というのが尽く女性、それも若く、美しい、女性ばかりだったというのはどういうわけかとキスは訝ってみたりしたが、詮索してもしょうもないことしか知り得ないだろうことは予想できたので、彼女はそのことを無視した。
そんなわけで、キスとその付き添いであった配下のカロン人騎士たちはここ数日、緊張の中にあり続けたのだった。大貴族や上級聖職者たちの社交の場など、キスにとっては戦場よりも緊張する場所だった。
一国の姫でありながら、戦場にあって、しかも最前線で、幾度も先陣を務めて勇敢に戦った上、ホスキー将軍の自死を確認し、その幕僚の多くを捕縛したともなればキスの話題は自然と人々の口を飛び交う。その上、黒髪に黒ずくめの甲冑を着込んでいたという特異的なキャラ付けまでされているのだ。彼女のことが話題にならないわけがない。
今までも、彼女は時折、人々の話の種に挙がることはあった。それは黒という忌むべき悪しき色に包まれた魔女としてであった。
しかし、今ではそれは全く逆の意味合いを持っていた。貴族たちは彼女の黒髪の美しさを誉めそやし、聖職者たちはその悪魔の色の話を避け、彼女の勇気と神への忠誠を称えた。ある夕食会においてユーサーが彼女に着せた白いドレスと黒髪のコントラストの美しさに多くの貴婦人が影響を受け、後に黒髪の鬘まで作られる次第となり、更には、主に貴族を相手とした高級娼館に黒髪の娘が新たに加わったりした。
黒髪という魔女の髪は一転して称賛の的となり、一種の流行まで生み出すに至った。