四九 逃げたふり戦法
サーズバン伯軍は500ほどの兵と全ての砲を敵を足止めさせるための捨石として残し、その他の全軍は敵に背を向け、騎兵を先頭にして速やかに撤退を始めた。
これに対し、両翼の部隊は柵と塹壕を設えた陣地から前にも後ろにも一歩も動かず、向かってくる敵と大砲による砲撃も交えた激しい銃撃戦を演じていた。
その激戦を繰り広げる両翼を無視して中央部隊はすたこらさっさと退却を続ける。
そして、そのすたこらさっさと逃げている部隊の最先頭がキスたちだった。
「で、殿下。これでいいのですか?」
キスの隣を併走するオブコット卿(親父)がおそるおそると尋ねた。別に、キスが恐いわけではないが、逃げる途中の指揮官に「このまま逃げていいんかい?」なんてずけずけと聞ける部下というのはあまりいないものだ。戦場における指揮官というのは部下の生殺与奪の権利も一部手にしているようなものなのだから。
「まぁ、これも作戦のうちですから」
「作戦ですか?」
オブコット卿の反対側でロッソ卿が呟く。
「この一時撤退も何らかの作戦のうちなのですか?」
「そうなのですか? 殿下?」
両者は両側からキスに尋ねる。自然と手綱もそちらに引っ張られ、2人の騎乗する馬がキスの乗馬を挟み込む。
「あ、うわ、ちょ、ちょっと、すいませんが、離れてくれませんか? 走り辛いです」
「おぉ、すいません」
「す、すいません」
2人は慌てて馬を離した。
「君たちは何をやってるんだよ……」
後ろでワークノート卿が呆れて呟いた。
「とにかく、これもサーズバン伯の作戦のうちなんです。えーっと、確か、そう。逃げたふり戦法です」
「………逃げたふり……」
「………戦法……」
冷めた目をする騎士たち。格好よくもなければ大して上手くもないネーミングだ。
「………私が名付けたわけでも考えたわけでもないですよ?」
キスは弁解するように言った。
「ぶうぇっくっしょっいこんちくしょーっ!」
キスたちから少し離れた場所でサーズバン伯は非常におっさん臭いくしゃみをした。
「誰か噂してやがんのなー」
彼女は呟きつつ、くしゃみと一緒に出た鼻水を手甲で拭った。鼻の頭が痛いくらいに冷たい。
「さーて、そろそろかなー」
鼻の頭を赤くさせながら呟くのとほぼ同時に後方から激しい砲声と銃声が聞こえてきた。ほとんど捨て駒同然に敵の歯止め役を命じた500の兵が敵の大部隊と交戦を始めたのだろう。
サーズバン伯は少し振り向き、空に伸び行く黒煙を見つめ、ちょっとだけナーバスな気分になった。
敵の足止め役に命じたのは彼女が率いる軍団でも精鋭の重装歩兵連隊であり、指揮官は帝国軍でも屈指の戦歴を持つ最古参の騎士だ。そうそう、簡単にやられるとは思わない。少なくとも自軍と同数。或いはそれ以上の敵を削り、その数倍、十数倍の敵を30分程度は引き付けてくれるはずだ。
ただ、その代償として、連隊の殆ど、最悪の場合、全滅も覚悟する必要があるだろう。
しかし、それは敵を打ち破る作戦の重要な犠牲であり、その生贄なくして彼女の考案した「逃げたふり戦法」は成立しないのだ。
だから、彼女は捨て置いた彼らのことを考えるのを止めた。きれいさっぱりと忘れることにした。そんなことを一々考えて落ち込んだり悲しんだり嘆いたりしていては軍人など、ましてや将軍など勤まるはずがない。
それに、せっかくのメインイベントを暗い気分で迎えるのは勿体無いというものだ。
にぃっと口の端を上げ、獰猛な笑みを浮かべ、そして、怒鳴る。
「騎兵隊! 黒い姫ちゃんに続け! 歩兵は反転! 急げ急げ急げ急げ急げ急げっ! 前の奴がノロマだったらそのドケツ蹴っ飛ばせ! 将校と下士官は復唱! テメーらの仕事は兵どもに発破かけるこったぁっ! 今、それをやらねー奴は今すぐ兵どもと仲良く雁首揃えてろ!」
突然、発狂したかのように大音量でぎゃーぎゃーと怒鳴り出す総大将に将兵は一瞬唖然としたが、すぐに言われた通りに動き出した。
「歩兵全軍! ぜんぐーん! 止まれ! 止まれー! 直ちに反転ーっ!」
将校と下士官が喉から血を出さんばかりに怒鳴りだし、ラッパがけたたましく鳴り響き、太鼓が大忙しで乱打される。
駆け足前進していた兵隊たちは突然の命令に、唖然とし、驚き、狼狽しつつも、命令されるがままに行軍縦隊から横列陣形になりながら反転、つまり、前後を逆にした。
「ぜんぐーん! 全軍、着剣っ! 装填しつつ、ぜんしーんっ! 前進っ!」
歩兵隊およそ3000はついさっきまで縦隊で逃げていたにも関わらず、たった数分で整然と行軍する戦闘隊形へと変形を済ませた。これこそがサーズバン伯軍団の強みだった。彼女は自分の一言で全軍がすぐにどんな隊列にも変化できるように、何日も、何週間も、何ヶ月も、何年も、将兵たちを猛烈に訓練していたのだ。この軍隊ならば北の某国もかくやというほどの一糸乱れぬマスゲームでさえ数日の訓練で見事に演じることができよう。
「パーマー准将! ニス准将! 歩兵の指揮を任せる! 敵とがっつりやりやってくれやっ!」
「閣下はどちらへ?」
歩兵の指揮を任された2人の老将は渋い顔をしながら尋ねた。
「俺は敵のケツを蹴っ飛ばしてくるっ!」
サーズバン伯は弾ける笑顔でそう怒鳴ると、敵よりも先に馬のケツに鞭をやった。馬は悲鳴を上げながら突進し、周りの騎士たちが慌てて彼女を追って行った。
「やれやれやれやれ面倒くさい仕事を任された」
「ほんにのお。骨が折れるこっちゃで」
土煙を上げながら去っていった騎兵隊を見送りながらパーマー准将とニス准将。2人の老将は渋い顔をした。両名とも、既に齢は70を超えている。帝国軍の将軍職には定年がない為、彼らは自分から辞任しない限り、将軍職を務め続けるのだ。とはいえ、陸軍本部もさすがに前線勤務は無理と思ったのか、2人とも長いこと中央で、参謀・事務勤務を行ってきた。
今回の戦争は久方ぶりの前線というわけだ。
「しかし、懐かしいなぁ」
「まったくだ。こここそがわしらの骨の埋め場所じゃて」
2人は皺だらけの顔をくしゃくしゃにして、にやっと少しだけ笑った。
そして、怒鳴る。
「貴様らぁっ! この老いぼれが死にに行く覚悟で戦うんじゃ! 貴様らが弱腰じゃったら笑いモンじゃぞっ!」
「じじいの後ろを進んでおったとなれば貴様ら一生の恥じゃっ! ちったぁ若いなら若いなりの度胸を見せろっ!」
よぼよぼの爺さんに叱咤された兵士たちは一糸乱れぬ動きで銃を、槍を、剣を構え、適の群れへと突き進む。
「いざ、行くぞっ! わしに続けぇっ!」
「じじいのケツを見たくなけりゃ、突っ込めー!」
2人の老将が馬に鞭をやり、駆け出した。
遅れたのは、一瞬。
「おおおぉぉぉーっ!」
兵士たちは喚声を上げながら、敵の群れへ向けて突進した。残された500の捨石を囲んで嬲り殺すのに夢中な無防備な人の塊へ向けて。