三七 ノース・ユリー子爵とアーヌプリン公
「ねぇ、レー姉様?」
その呼び声にノース・ユリー子爵は自らが守備する灰色橋砦に備蓄された弾薬や食糧の数量を記した紙から顔を上げた。ノース・ユリー子爵准将は鋭い切れ長の猛禽のような赤い瞳に白い長髪をポニーテールにした背の高い細身の女将軍だ。
彼女が顔を向けた先にいたのはきらきら輝く金髪にやっぱりきらきらな黄金色の大きな瞳の人形のような可愛らしい少女だ。
「何か用ですか? アーヌプリン公爵閣下」
少女はくすくすと鈴の音のような声で笑った。
「公爵閣下なんてやめて下さいよ。いつもみたいにアンナでいいじゃないですか。レニカ姉様」
アーヌプリン公アンナの言葉にノース・ユリー子爵准将レニカは顔をしかめた。
貴族連中というのは、大変、血の繋がりが絡み合った人種であり、大貴族ときたら曽祖父母の代まで遡れば殆ど全員が親戚であった。
アーヌプリン公爵を継承するリヌア家とノース・ユリー子爵の一族であるネイガーエンド公爵を継承するユリー家は双方共に帝国きっての名門大貴族であった。
当然、屈指の大貴族である2人の一族にも血の繋がりはあった。曰く、アーヌプリン公爵の祖父の妹がユリー本家当主であるネイガーエンド公爵の妻であり、ユリー分家のノース・ユリー子爵の母はその本家の娘だった。その上、ネイガーエンド公爵の跡取りはアンナの叔母を嫁にもらっていた。
2人の関係を簡略に述べれば、つまり、2人は再従姉妹であり、アンナの叔母はレニカの本家の跡取り(彼女にとっては伯父に当たる)の嫁さん(この夫婦は従兄妹同士でもある)ということになる。
繋がりは貴族社会の中でも深い方で、2人は顔を合わせることも多く、大抵の子供はよく顔を合わせていれば自然と仲がよくなるもので、彼女たちもそうだった。年上のレニカを姉様と呼び、年下のアンナを妹分と扱う程度に。
だが、時を経て、2人が成長した今では少しばかり勝手が違う。レニカはユリー分家のノース・ユリー子爵を名乗ったが、アンナは早世した父のアーヌプリン公爵位を継承した。同じ貴族でも家格は幾分も違い、本来ならば子爵が公爵を名前で、しかも、呼び捨てになどできるわけがない。
「しかし、今は戦時であり…」
レニカが渋い顔でもごもごと呟くのも当然のことだ。
「戦時だからって、何だっていうんですか? 今は2人っきりなのだから、いいじゃないですか」
アンナはにこにこと笑いながら言い、レニカは一層顔をしかめた。
「ほら、姉様。また、そんなに眉を寄せると、皺になってしまいますよ?」
「やめろ」
アンナが眉間を白魚のような指で撫でると、レニカは嫌そうに彼女の手を払った。それで、アンナは余計に嬉しそうに微笑んだ。レニカはウンザリした様子で溜息を吐いた。彼女が言ったとおり2人きりなのだ。彼女の思うとおりにするしかないとレニカは開き直ることにした。
「そんなだからいつまで経っても結婚できないんです」
「うるさい。余計なお世話だ。そもそも、何故、君がここにいるんだ?」
「姉様と同じ理由ですよ?」
彼女の問い掛けにアンナはさも当然といったふうに答えた。レニカが今灰色橋砦にいる理由は言うまでもない。ホスキー将軍の反乱軍を迎え撃つ為だ。
「嘘を吐け」
「ふふ」
即座に言い返すと、楽しげに笑った。
「こんな絶好の狩りの機会。むざむざと見逃すわけがないでしょう?」
アンナは腰に提げた拳銃を愛おしそうに細い指先で撫でながら答え、レニカは心底嫌そうな、軽蔑するような、嫌悪するような顔で彼女を睨んだ。
「遊びじゃないんだぞ」
「私にとっては遊びです」
「人を撃ち殺すことがか?」
「ええ」
「地獄に落ちろ」
にこにこと笑うアンナを見て、レニカは吐き捨てるように言った。
「姉様もやっていることは一緒じゃあないですか」
「私は仕事でやっているんだ。遊びじゃない」
「じゃあ、何故、姉様はその仕事をしているのですか?」
アンナの反論にレニカは閉口した。
彼女のような名家に生まれた者は危険や困難な職務からは離れ、華々しい政治の舞台か意味もなく宮廷にのさばり日がな遊び呆けているのが普通なのだ。にも関わらず、何故だか、彼女は軍人を、特に前線指揮官を志望し、今回のホスキー将軍の反乱に関しても名ばかりの貴族将軍たちが帝都を逃れる中、帝都に残り、反乱軍の迎撃部隊に参加した。
「それは姉様が戦争を、暴力を、殺戮を、血を渇望しているからではないのですか?」
アンナはにこにこと微笑みながら尋ねた。彼女が戦に付き従っている理由がそうであることは言うまでもないことだ。彼女は、戦争を、暴力を、殺戮を、血を、渇望しているらしかった。どうしてなのかは分からないが、とにかくそうであるようだ。
聞いた話によれば、アーヌプリン公領では月に1度収監されていた死刑囚が解放され、それを公爵がさも狩りのように追い詰め、撃ち殺しているという。その数は年100人を超えているとも云われていた。領民からは大いに恐れられていたが、死刑囚の処刑を狩り方式でやる以外、彼女の治世は堅実で安定していた為、余計な騒ぎを起こして面倒臭いことになる可能性を犯すよりも大人しくしていることを選んだようで、宮廷で小さな噂になる程度だった。
そんな狂人と一緒にされたくないとレニカは一層不機嫌そうな顔をした。
「そんなわけないだろう。君と一緒にするな。私は皇帝陛下と帝国を守るべく」
「あー。御託はいいです」
軍人は戦の大義を唱えるのが好きだ。それを途中で遮られてレニカは不満そうに顔をしかめた。さっきから、顔をしかめてばっかりだ。とはいえ、彼女は無表情でいるか或いは顔をしかめているしか表情がないので、いつものことともいえる。
「君は、私といるときと普段の話し方というか態度が全然違うな……」
「人見知りなんです」
レニカの言葉に、アンナは少し顔を赤らめて呟くように言った。
アーヌプリン公は帝国議会副議長という飾り役職の中でも結構大きな役職をこの前まで務めていたのだが、満足に議事を進行できないほどの口下手っぷりというか喋りの下手さ加減を披露していたことからも分かるとおり、彼女はひどく自己表現が苦手な人間なのだ。
宮廷や議会ではいつも顔を赤くして、もごもごと喋る感じでしか話をできなかったのだ。
「ていうか、それをいうなら姉様もでしょ」
アンナの反論にレニカは閉口した。
ノース・ユリー子爵は口下手というわけではない。しかし、実は地味に人見知りだった。宮廷や会議では、その人見知りな性格のせいでいつも無口になってしまい、喋ったとしてもぶっきらぼうな感じになってしまいがちだった。
まぁ、つまり、アーヌプリン公もノース・ユリー子爵も似た者同士なのだ。
突然、扉がノックされて、2人はびくりと震えた。
しかし、すぐに表情を消してノース・ユリー子爵が言った。
「入れ」
扉が開けられ、若い騎士がしゃちぼこばって入ってきた。
その時には、子爵はいつものむっつりした無表情で、アーヌプリン公はいつもどおりおどおどと弱気そうな態度だった。彼女の豹変ぶりには驚かされると子爵は密かに思った。
「閣下。報告いたします。斥候が敵軍を発見した模様です。敵勢はおよそ5万」
「えぇっ!?」
騎士の報告に子爵は目を見開き、アーヌプリン公は悲鳴のような声を上げた。
「全軍か」
子爵は苦々しい顔で呟いた。
彼女をはじめとする迎撃軍は、敵は数が多いゆえ分散して、川を渡る3つの橋をそれぞれ攻撃する可能性が高いと思っていたのだ。そうすれば、どこか1つの橋を渡れば、他の2つの橋を守る守備側を包囲できるからだ。包囲された部隊というのは非常に無力で、包囲側よりも多数であっても嬲り殺しにされることが多々ある。それではカンネの戦いが有名であり、各国の軍教育機関でも教えられている。第一次世界大戦において有名なシュリーフェンプランもその包囲殲滅を目指したものだ。当然、敵もそれを目指すと迎撃軍は考えた。その為、3つの橋の側にある3つの城砦に兵を分散させた。
ところが、敵はここ一点、灰色橋砦に絞って進撃してきたという。
「南アルバナ砦と白滝城に送った兵を呼び戻せ!」
ノース・ユリー子爵が珍しく怒鳴り、騎士は慌てて走っていった。
「ホスキー将軍は歴戦の名将ですからねぇ。きっと苦戦しますよ」
「そんなことは分かっている。嬉しそうに言うな。馬鹿」
アンナがにこにこ笑いながら言い、レニカは腹立たしそうに言い放った。
「まぁ、私は人を狩れたらいいんですけどね」
アンナの御機嫌そうな言葉にレニカは不機嫌そうに顔をしかめた。