二八 白亜城の黒
白亜城は帝国政界の総本部にして帝国の中枢たる神聖帝国宮廷のある白い巨城である。その外壁も内部も概ね白い大理石で統一され、その中に悪の色とされている黒い部分などは全くと言っていいほどない。
が、しかし、白亜城においても一区画だけ例外的に、黒が多用されている地区がある。
その区画は、内壁の全てが炭で真っ黒に塗られ、灯りも必要最小限より僅かに下回るほどの数しかない。窓は全くなく、ジメジメと湿気に満ち溢れ、また、一年を通じて常に肌寒く、そこにいるだけで不快な気分に襲われる。
そこは、白亜城の最深部より少し上。地下貯水庫の1つ上の階層に設えられた区画で、上にいる優雅な貴族や将軍、聖職者、大商人たちはまず全く足を踏み入れない。
南北に2つだけ、ここまで下れる階段があり、その階段と階段の間を長い長い廊下が繋いでいる。階段の側にだけ、暖炉を構え、十分に灯りを備えた部屋があり、その部屋から先は頑丈な鉄格子で区切られている。
鉄格子の向こうは、暗く、寒く、不快で、不潔で、いるだけで気分の悪くなる空間が延々と続いている。廊下の左右には大小いくらかの部屋が存在し、様々な用途に使われている。
ある部屋には、襤褸を身にまとった人が蹲り、ある部屋には、みすぼらしい格好の男女が数十人も押し込められ、ある部屋には、餓えた野犬がうろつき回り、ある部屋には、身動きもしない人間だったものが横たわり、ある部屋には、あらゆる種類の拷問器具が保管されている。
教会関係者が見れば半狂乱で「悪魔の巣窟」との烙印を叩き押すこと間違いなしな雰囲気だ。
この地下牢は、主に政治犯や凶悪犯、皇帝・帝国に仇する者が収容され、尋問される所で、牢と囚人の管理は全て帝国保安局が行っている。
つまり、その総責任者は保安局長官である。
さて、保安局長官。何処かで述べたような気がする。記憶力豊かな読者各位は覚えているのではなかろうか。
黒い廊下を、配下の保安局兵士を従えて、てけてけ歩く若い女がいる。
セミロングの茶髪に、青白い肌、人が良さそうだが表情の読めない細目、薄い唇、小柄で細い体。上品で高級そうな絹のシャツに、履き易そうな綿パン。その上に派手派手な真紅のマントを羽織り、左目に赤い交差する二本のサーベルが描かれた白眼帯。
「そうです。あたしが保安局長官です」
レイクフューラー辺境伯キレニア・グレーズバッハは胸を張って主張する。
「さて、ユーさん、どうです? あたしの城は?」
「最悪だ」
キレニアの後ろを歩くユーサーは相変わらずの眠そうな顔で短く答えた。彼の後ろには白い髪、白い肌のメイドが1人付き従っている。
「あら、随分な言いようですねー」
彼女は何だか楽しげににやにやと笑う。
やがて、ユーサーとキレニア、白髪のメイド、護衛の保安局兵士ら一行はある部屋の前に立った。
ドアが開ける前から、中の音が聞こえてくる。甲高い破裂音と低い呻き声が何度も何度も繰り返し聞こえる。
ユーサーは無表情ながらも、微かに不愉快そうに眉根を寄せた。メイドは表情も変えず。ただ俯いていた。キレニアは相も変わらないにやけ面でドアを開ける。
「やぁ、ご苦労さん」
彼女はへらへら笑いながら中に入り、片手を上げ、中にいる者に労いの言葉をかける。
ユーサーは気分悪そうに顔をしかめる。
1人の男が縄で吊るされ、鞭打たれていた。
男は全裸で、体中に赤い蚯蚓腫れができ、それが裂け、だらだらと血が流れている。床には男の流した血でどす赤く染まっている。
振るわれているのは、「猫の九尾」と呼ばれる鞭だ。
柄に9つ、もしくはそれ以上の数の革紐を取り付けた鞭で、一度の振りで多くの蚯蚓腫れができる。房が多い分1本の威力が低く致命傷を与えにくい為、拷問具としては便利なものだ。鞭の中には1回打っただけで死人が出るような凶悪なものもあるが、それよりは弱い打撃を何度も何度も与えられる方が尋問の為には使い勝手が良い。
尋問を担当していた男たちはキレニアに気付くと、動きを止め、黙って一礼する。
「今、何回?」
キレニアは今日の天気は? みたいな調子で尋ねる。
2人いる書記のうちの1人が書類を見ながら答える。
「387です」
「じゃあ、切りのいい400までやってていいよ」
残り13回の鞭打ちが再開された。鞭打つ度に血と細かい肉片が周囲に飛び散る。吊るされた男は既に疲労困憊なのかもう意識がないのか呻き声しか上げない。
「彼は?」
「捕虜です。斥候として、こちらの砲兵隊を偵察していたときに捕らえたようです。妹さんが捕まえたんですよ」
ユーサーの問いにキレニアが答える。
それを聞くと、彼は微かに口角を上げた。機嫌が良さそうだ。
「で? 何の為に拷問なんかしているのだ? 百姓なんぞが敵の戦略やら機密やらを知っているとは思わんが」
「ええ、私もそう思いますよ」
ユーサーの言葉に彼女はあっさりと同意する。
「まぁ、尋問する特別な目的はないですよ。ただ、まぁ、何か、下らん噂でもホラ話でも何でもいいから聞けたら良いなと思いましてね。とりあえずは、全部吐かせろって言っておいたんですけど。どーかなー?」
キレニアが手を差し出すと、すかさず書記の1人が書類を渡す。
「おや、これは面白いですよ」
書類を読みながら、彼女はにんまりと笑った。
「何でも、彼の村の教会の神父さんと村長の後妻さんは不倫関係にあるらしいですよ。その上、その村長は隣町の修道院の修道女と不倫していて、その修道女はその町の町長とも不倫関係にあって、しかも、その修道院の院長は見目麗しい少女或いは少年を貴族やら大商人やらに高値で売ってるらしいですよ? いやー、スキャンダラス」
「そんな下らん話はどーでもいいと思うが」
けらけらと1人で心底楽しそうに笑うキレニアにユーサーが眠そうな顔で言う。
「そーですか? 面白いと思いますけど? 面白くありません?」
「全然」
彼がむっつりと即答すると、キレニアは不満そうな顔で首を傾げた。
「閣下。400回終わりましたが」
「あぁ、ご苦労さん。あと適当に尋問した後、片付けといて下さい」
彼女は書類から目を離さず、尋問官にテキトーに言い置いた。
「それで?」
「ん?」
ユーサーの言葉にキレニアは小首を傾げる。
「何で、こんな不愉快な所に私を連れてきたのだ?」
「あぁ、ここには他所の人は誰も来ませんし、うちの局の兵の中でも信頼のおける者しかいませんからね。秘密のお話をするにはうってつけってわけですね」
彼女の言葉に彼は黙って頷き、視線で先を促す。
「そーですね。さっさと本題を言いましょう。私が言いたいのは、つまり、臭いということです」
部屋が、というわけではない。彼女に言うには、この反乱騒動は何かきな臭いということらしい。
「例えば?」
「怪しい点はたくさんあります。まず、言えば、タイミングが良過ぎます。皇帝陛下が帝都防衛の為の兵力の大半と陛下に近い貴族や将軍を残らず連れて行った時に、ちょうど反乱がってのが上手く出来すぎていると思いませんか?」
「そうだな。そもそも、陛下の西部征討自体がおかしい」
反乱が起きた時、神聖帝国の最高権力者たる神聖皇帝は帝国西部のフェリス平原の西に住む異教徒を討伐に向かっていた。征討軍には帝都を守るべき近衛軍団、帝都近郊に駐在する3個軍団の総勢10万近くもの兵を率い、皇后、皇太子、皇子、皇女らの皇族と皇帝に近しいとされる貴族や将軍の多くが加わっていた。
それはもう帝都を丸裸にするほどに兵を連れ、宮廷を過疎にするほどに皇族・貴族を連れて行った。勿論、何人もの貴族や将軍が帝都の防衛が薄くなると反対をしたのだが、皇帝は頑として聞かなかった。まぁ、反対派も、帝都防衛の為に第8軍団が残されたこともあったし、帝都近辺は完全に帝国の支配領域であり、何処からも敵が来るとは思われなかった為、強硬には出なかった。
今回は、その帝都防備を任された第8軍団が反乱を起こしたので、帝都は一大事となったわけだ。
今、考えれば、色々と臭さが鼻につく。
「しかも、彼が言うには……」
キレニアは視線で捕虜を示す。
「反乱軍の指揮官たちは、自分たちは帝国の為に、皇帝の為に戦っている。みたいなことを言っていたらしいですよ?」
「反乱しているくせに?」
「反乱しているくせに」
ふむふむと頷き合う2人。
「考えていけば、行き着く先はほぼ定まりますねー」
キレニアはそう言って、にんまりと笑った。
彼女の隣に立つユーサーは黙っていたが、その眠そうな無表情面はどこか楽しげだ。
「しかし、君は趣味が悪い」
地下から地上へと戻る階段を上りながらユーサーが呟く。
「は? 何でです?」
キレニアが首を傾げると、彼は微かに嫌そうな表情を浮かべて付き従うメイドと目を合わせる。メイドはちょっと呆れた顔で首をすくめて見せた。
「分からんなら、余計に悪い」
「何なんですかー。そんなこと言わないで下さいよ。あたしらは目的を共にする相棒でしょう? 相棒を悪く言うなんてー。あ、ちょっと、無視しないで下さいよ!」
不満そうに唇を尖らせるキレニアを無視して2人はさっさと階段を上る。
「あ。分かりましたよ。あの尋問のことを悪い趣味って言っているんでしょう? 嫌だなぁ。あれは仕事だから、仕方なくやってるんですよー」
キレニアはへらへら笑いながら言った。
「それに、あれは、かなり軽い部類の尋問ですよ。猫の九尾だって大して痛くないですよ? もっと痛い棘棘でかったーい鞭もありますし、もっとやるとすれば性器ぶった切って口の中とかケツの穴にぶち込むくらいはするんですよ?」
「そんなことしたら死んでしまうだろ」
「いや、ちゃんと止血すれば死にませんよ。これって、プライドの高い奴には有効なんですよ。そんな屈辱を味わうくらいなら死にたいって言い出しますから。そしたら殺して欲しければとっとと吐けってな感じにー……」
じとっとしたユーサーとメイドの視線を受けて、嬉々として喋っていた彼女の言葉はどんどん小さくなっていく。
「えっとね。仕事で、仕方なくやってるんです。本当ですよ?」
キレニアの言葉はすっぱり無視された。ユーサーとメイドはとっとと階段を上っていく。
「あ、無視ですか。そーですか……。ちぇ」
いじけた。
地上に戻り、ユーサーが気分良さそうに深呼吸していると、公安局の兵士が慌てた様子で走ってきた。
「閣下! 大変です!」
「こら! 廊下を走らない! 大声出さない!」
キレニアは小学校の先生みたいなことを言ってみた。
「ンな場合ではないのです!」
「一体、何だというのだ」
意味ないことを言いだす主人に代わって、地上で待機していた彼女の側近であるデリエム卿が尋ねる。
「反乱です!」
「それは知ってる。何を今更……」
「第8軍団の反乱ではありません!」
その言葉にそこにいた全員が嫌な予感に襲われる。
「帝都に残っていた守備隊の一部がこちらに向かってきてます!」
そーいえば、耳を澄ませば喚声やら銃声やらが微かに聞こえてくる。
「あーあー。参ったなぁ」
キレニアの言葉に皆が頷く。