二一 ロッソ卿の相談
塔の屋上に到達すると、爽やかな夜風が顔に吹き付けてきて、森と草原の臭いが、
「さわやかーってくさっ!」
思わず叫んでしまう。
爽やかな自然に満ちた夜風の中に、酸っぱい気持ち悪い臭いが混ざっているのだ。何の臭いかは見当がつく。ゲロだ。気持ち悪いときに胃腸から込み上げてきて吐き出される吐瀉物の臭いだ。キスも何度か吐いたことがある。いや、大抵の人間は何度か吐いているはずだって、何だ。この文章は。
とにかく、ゲロの臭いがして、キスは気分が悪くなった。そりゃそうだ。ゲロの臭いで気分良くなる奴がいたらそいつは極めて特殊な性質の人間であると言わざるを得ない。
いやーな気分でキスは屋上を見回す。
あ、誰か蹲ってる。
世の中には具合が悪い人を見て、普通に無視する人と、心配して声をかける人の2者がいる。私は前者で、キスは後者だった。
「あ、あのー」
キスは人見知りで積極的でもない娘で、知らない人に声をかけるという行為も大変苦手なのだが、彼女は真面目で努力家でもあったので、頑張って話しかけることに成功した。
「大丈夫ですか?」
その声に、蹲っていた人物は顔を上げた。
「あれ、ロッソ卿」
「あ、殿下。ども」
ロッソ卿は青い顔で挨拶した。
「何でこんなとこで吐いてたんですか?」
屋上じゃなくて玄関先でなら吐いても良いってわけではないが、とりあえず、キスはそう尋ねた。
ロッソ卿は何だか言い辛そうな顔をしていたが、暫くして口を開く。
「気分が悪くなったので、風に当たっていたのですが、まあ、その、治らなくて……」
「まだ気分は悪いですか?」
キスは心配で尋ねる。基本、彼女は人が良いのだ。今まで、ずっと1人で過ごしてきたから人間関係の面倒臭いところとか人の心の暗い部分、汚い部分をあまり見知っていないからかもしれない。それに、週末はいつも教会で説教を聞いていたので、教会の教えが彼女の言動の基本方針にもなっているのだ。教会曰く「人の身のことを、我が身の如く慈しめ」。これを彼女は忠実に守ろうとしているのであった。
教会によって人生の大半を孤独を供に過ごしてきた彼女が、教会の教えに従順で、教会のいう模範的な善良なる者になっているとは、どのような皮肉であろうか。
とにかく、彼女は善良で、人を疑ったり怪しんだり嫌ったりすることが少ないのだ。ただ、人とコミュニケーションをとるのに気後れしているに過ぎない。
「え、ええ、もう、大丈夫です。吐き気はありません」
ロッソ卿は恐縮した様子で答える。銀猫王国の騎士は王族の為には全てをかけて仕えよと幼少から教え込まれ、主が望むならば、自らの命さえも喜んで捨てるとまで言われる程に忠実な者たちなのだ。その王族のキスに心配されているとなれば、恐縮するに決まっているのだ。
しかしながら、キスはそのことを分かっていないし、気付いてもいない。ロッソ卿の隣に腰掛けて話しかける。
「そもそも、どーして、そんな気分が悪くなったんですか? 食べ過ぎ?」
彼女の考えでは、吐くという行為を招く原因は食べ過ぎ以外にはないらしい。
「いえ、そういったことではなくて……」
ロッソ卿は更に言い辛そうに口篭る。何か言いたそうな。しかし、言えなさそうな感じだ。
「何か相談があるならば、仰って下さい。私なんかでよければ相談に乗ります」
キスはちょっと目をキラキラさせながら言った。人の役に立つってことに憧れめいたものがあるようだ。当然ながら、彼女は今まで人の役に立てたことがない。環境が環境だから致し方のないことなのだが、道徳心や正義感溢れる彼女にはそのことはあまり気分の良いことではなかったようだ。
今回、外に出れたからには、誰か、人の役に立ちたいと彼女は思っていた。その機会がこんなにも早く訪れるとは。彼女にとっては千載一遇のチャンスだ。
「え、えーっと、それでは……」
ロッソ卿は渋い顔で周囲を見回す。周りに誰もいないことを確認してから、更に声を落として彼は言った。
「じ、実は、私は人を殺めるという行為が嫌なのです」
彼は沈鬱な表情で話す。
「勿論、私は騎士でありますから、人を殺めるのが仕事です。殿下や上官の命令とあれば、敵を殺さなければなりません。それが私に課せられた仕事ですから、しょうがないのです。あぁ、しょうがないと言うのも、あれですが……。とにかく、戦い、敵を殺すことは私の義務です」
そうは言うものの、ロッソ卿は浮かない顔で続ける。
「しかし、私が殺めた敵である彼らにも事情といいますか、そーいうものもあるでしょうし……。それに、彼らにだって家族や知人がいて、悲しむ人や、はたまた、路頭に迷う者もいたりするのだと考えますと、何だか、気分が重く、悪くなっていくのです」
ロッソ卿は全財産をかけて大失敗して無一文どころか全財産の数倍の借金を抱えることになった博打打みたいな様子でって、悪い喩えだが、まぁ、それくらい落ち込んだ様子で言うのだ。
キスは考え込む。相談に乗ったはいいが、思いの他、何だか深刻で難しそうな問題で、正直、持て余した。
「む、む、むーん……」
彼女は考え込む。考え込むが、しかし、どれだけ考えても結論は出ないような気がした。
そりゃそうだ。今まで、幾多の人々が悩み考え論争してきて、そして、今も結論が出ない問題なのだから。
それに、キスは他の人よりも圧倒的に人生経験が欠けているのだ。彼女の思考回路は全て教会の説教と教会図書館の本、あとは、たまにやってくるユーサーやキレニアから聞いたことだけで構成されているのだ。それに、人を殺したことも、少なくとも、今は、まだ、ない。
「う、う、うーん……」
キスは頑張って何か考えを捻り出そうとする。
教会は言っていた。
「他者を傷つけるべからず」
しかし、こうも言っていた。
「神の敵を誅すべし」
これって、全然真逆のことじゃないだろうか? 人を傷付けてはいけないのか? 理由があれば敵を打っても良いのか?
「あ。いや、殿下。そんなに、悩まなくても良いです。お気を煩わせて申し訳ございません」
ロッソ卿は気を使って言った。
「で、でも……」
キスは残念そうな表情を浮かべる。
人から初めて相談を受けたのに、それに満足に応えられないということは、彼女にとってとても悔しいことであった。
「うぅぅぅぅー」
「いや、私なら大丈夫ですから! 吐いたらスッキリしましたから! まだ戦えますから!」
悔しげに唸るキス。それを見て余計に気を使うロッソ卿。
「せっかく、ロッソ卿が相談してくれたのに、何の力にもなれないなんて……」
「いやいや! そんなお気になさらないで下さい! 悩みを話せただけでも少しは軽くなりましたから!」
実際、ロッソ卿は、現在は例の悩みのことで悩んでいなかった。代わりに悩み続けるキスのことで困っている。
「む、む、む、むー……」
「そ、そんなに、悩まないで下さい! 私如きの為に気を使わないで下さい!」
「でも、私が悩むのを止めても、ロッソ卿はまた戦いの度に悩んで悩んで、吐くんですよね?」
そう言われてロッソ卿は黙り込む。
彼は大いに後悔していた。安易に相談なんかをした自分を呪った。
自分の悩みを相手に打ち明けるということは、自分の悩みを相手にも背負わせることだ。確かに、相談した方の負担は軽くなる。1つの荷を2人で担げば1人当たりの重量が減るのと同じだ。ただ、それは今まで荷を担いでいなかった者に荷を担がせることになる。力の強い者に担ぐのを手伝ってもらうのならまだしも、キスは力が強いとは思えなかった。この場合で言う力とは当然筋力・体力の類ではない。精神的なものだ。人生経験とか精神力とかそう言った感じの。それは、人との接触によって培われるもので、キスに欠如していることは明らかだ。
初めて担ぐにはあまりにも重い荷を担がせてしまったとロッソ卿は悔やんだ。何で、そんなこと口に出してしまったのかと自らを嫌悪した。
しかし、一旦、担いでしまった荷はそれが解決されるまで下ろすことはできない。
ただ、少し軽くすることはできる。
「では、こうしましょう」
ロッソ卿は少し考え込みながら言った。
「自分で言うのもなんですが、この悩みは、とても難しいことです。教会でも神の敵に対する戦いは正義か不義かと長年に渡って論争がなされていますが、未だもって結論が出ていません。それくらい難しいことなんです」
キスはふんふんと頷く。
まるで自分は教師か聖職者みたいだな。と思いながらロッソ卿は続ける。
「だから、今すぐに答えが出る問題じゃないんです。だから、ゆっくり考えていくことにしましょう」
「ゆっくり?」
「ええ、ゆっくり、たまーに、なんとなーく、考えてみるんです。それで、たまに、一緒に話し合いましょう。そーすれば、いつか、良い解決法が見つかるかもしれません」
ロッソ卿は子供に教えるように、ゆっくりと言って聞かせた。
キスは暫し考えて頷く。
「うん、それが良いかも……。急がば回れっていうし……」
「そうですそうです」
納得した彼女に、ロッソ卿は盛んに頷いてみせた。
「やぁ、エド」
「あぁ、アン」
キスが屋上を去った後、まだそこに残っていた彼の元にワークノート卿がぶらりと現れた。
彼女は意地の悪そうな笑みを浮かべながら言った。
「何だか、君は先生みたいだったねぇ」
「盗み聞きは感心しないな」
「いやぁ、癖でね」
ロッソ卿の言葉に彼女は笑いながら軽ーく応じる。反省する様子など微塵もない。
彼の隣に立ってワークノート卿は少し真面目な感じで尋ねる。
「それでさ。君が言ったように、ゆっくり考えたら、戦って人を殺すことに関するジレンマへの解決法なんてのが見つかると思う?」
彼女の問いに彼は素っ気無く答えた。
「そんなもん見つかるわけないだろ」
「だよねー」
彼の答えに彼女は笑った。
「唯一ある解決法は騎士を辞めて戦場から遠のくことくらいだ」
「それはダメなの? て、ダメなんだろうねー」
ワークノート卿が呟き、彼も頷く。
ロッソ卿の一族は今まで10代に渡って騎士や将軍として歴代の王に仕えてきた由緒ある家系であり、その武人の家の当主の1人息子にして、次期当主たるエドワード・ロッソの未来には騎士・軍人という選択肢以外にはありえなかったのだ。
何事も個人の都合よりも、その集団(つまり、国家や民族や一族)の都合の方が優先される時代である。戦うのが嫌だから騎士にはなりたくないで済むことはない。
彼の存在価値は騎士として功績を挙げ、ロッソ家を継ぐこと以外には何一つないと言いきったとしても、誰も違和感を抱かないだろう。
「つまり、この中途半端に優しい俺の精神がダメなんだ。これを何とかするしかない。人を殺しても何とも思わないようにするしか」
人を殺して心を痛めるよりも、人を殺しても何とも思わない方が、軍人向きであることは言うまでもない。
「そうなれるの?」
ワークノート卿はにやりと笑いながら尋ねる。
ロッソ卿は答える代わりに憂鬱そうに溜息を吐いた。
久々に長めです。あんまり見直していないので文章などおかしい点があるかもしれませんが、ご容赦下さい。
次話からようやく本格的な戦闘に入る予定です。




