破られた静寂
灰花の笑顔、不真面目な爽夜の顔が浮かんだ。すぐに振り払う。
大切なものを手放す事を恐れ躊躇している。
小さな心は弱く、温かな心にずっと触れていたいと願ってしまう。今ではこんな気持ちを抱けるようになった自分が誇らしい。
どんどん魔力の元が近くなる。陣は足を止めたくなった。避けた所でのうのうと暮らせる安全な場所はない。
道の角を右に曲がって今度は左へ曲がる。車の往来は雪の所為か少なく、歩く人は二人しか見かけなかった。
息遣いと靴の裏で軋む音が静けさに際立つ。
体表を覆う皮膚がぴりぴりする。一人一人の魔力が強い。懐かしい感覚に拳を握り締めた。神経が高ぶっている。
白銀の景色の中に黒い人影が認識できた。陣が近づいても反応をみせず立ち尽くす。
いつの間にか走る途中にフードは取れてしまい、雪がくっつき髪は乱れる。
空間に巨大な扉が開かれ、現世界の人間には不可視だ。
間隔を空けて止まった。
闇を表した真っ黒なローブには袖がなく、留め具は銀色で三日月に矢が刺さったような形。
皆フードを目深に被っている為、表情は窺えずローブの下に着る服は好みだろう。
「貴方様からわざわざお越し頂けるなんて、恐縮の至りです」
真ん中に立つ一番背が高い、男が恭しく陣にお辞儀をした。
「誘いに乗ってやっただけだ」
言葉をラシャリア語で話す。現世界の言語は魔術界では通じない。
此方が捜しに向かわなければ、どちらにせよ時間の問題で見つかっていた。
魔力の気配は外へ出さず、内に巧妙に隠している。幼い頃から教えられた事で常にできた。
魔力を隠せば相手を惑わせ、たとえ察知できなくても特定の人物を発見する魔術はある。
「あれ、名前を尋ねないのですか?」
「どうせ、お前は名乗る。俺は名乗らないからな。既に名前くらい知っているだろ」
目的対象の名前が不明なのはおかしい。知っていて当たり前な状況だ。
「剣の魔術師の皆様方は、ルウファス様と同様に聡明なのですか」
男の言葉に微かに顔をしかめた。
あの三人にはしっかり見えている。生まれつき少年が持つ瞳の色が。
剣の魔術師である純血の証。瞳は玉虫色だ。光線の具合で本当に玉虫の羽みたいな緑や紫に変わる。
「初めまして、私はクラウ・ビターと申します」
慇懃な態度で接する、クラウの考えが読めず警戒心が強まる。
「ルア・ソナタ」
「リブル・ハルートですわ」
左側に立つ少年は陣より年上だ。小鳥が囀るような愛らしい口調で右側に立つ少女は言った。
「時空の扉を無理に開けた奴はお前達か」
「あんな複雑に入り組み、しかも強固な封印を私共が、破れるはずがありません」
「それなら、誰だ……」
「ルウファス様がよく知るお方です」
無意識におなかを触れて記憶が蘇る。
大切な人を庇い、身にナイフを受けた。内部に刺さった刃の感触。襲ってきた激痛。
ナイフを握る男の顔は怒りと憎しみ、悲しみに歪んでいた。
体中を呪いが駆け巡った。
「共に行きましょう。レベイユ様はこの日を、貴方様を待っていました」
気を抜くと目前には距離を縮めたクラウがいて――。
後退り背後をとられた。ルアと当たった。
「おっと逃げるなんて馬鹿な真似はやめとけよ」
「貴方は何も心配なさらなくても、いいんですのよ」
リブルが陣の手を取り、指先で甲を撫でる。不快な気持ちを我慢して少年は無言でいる。
「全てをレベイユ様に委ねるの。逃げるか、もしくは魔術で抵抗をしてみなさい。ちんけな世界は無事では済まされませんわ」
「さっさと主の元へ連れて行けよ」
最初から居場所なんかない仮初めの世界。そんな現世界でも自分の所為で、壊される事態は避けたい。
大好きだから、大切だから――。
(ジェーン)
脳裏に直接男の声が響いた。
陣を見かける度に大きな手で、髪がくしゃくしゃになるまで撫でてくれた人。ナシャア・サイニングだ。
雪の積もる地に光線が菱形を形作り、四つの五芒星は浮かび上がる。
様々な形の文字も浮かぶ。神秘的な力を持つ呪字だ。最終的に円で囲まれる。
刹那、一斉に後方へクラウとルア、リブルが吹っ飛ばされた。
ナシャアの姿は見当たらず、次元が異なる遠隔地から陣の様子を窺い、空気の魔術を使った。
進行形で次元転送が行われようとしている。
魔紋様が眩い光を発する。
難易度は非常に高く、危険を伴う可能性がある魔術。
二つの世界を行き来する場合、時空の扉が開いた時に限り使用できる。
逸早く起き上がったクラウのフードが取れていた。
髪は灰色で俯いている為、顔が確認できない。
呪文を唱える。
「ヘゲン・ジヘンテ・ソウコウン・ブイオ」
幾つかの呪字が消え、新しく浮き出るのを陣は目にした。
ナシャアが唱えてつくった、次元転送に関わる何かを変えたと分かった。
魔術は発動してしまう。残された選択は成り行きに身を任す事のみ。
光が少年を覆い、闇へ変わった。全く視界は役立たず浮遊感がある。突然、激しい流れが生じて、どんどん闇の中を流された。
時空の扉が開かれた瞬間、一時的に止まっていた歯車が動き出した。平和な静寂は破られ、運命の歯車が回る回る。
生まれた時から狂った運命が更に狂う。闇は不安を煽る。ただ早く光が見たかった。
少年が光に飲まれ消えてしまった。
空間を睨みクラウは口元を満足げに吊り上げる。
あらかじめ邪魔が入る事は予測済みだった。意外に抵抗しない彼をあっさりレベイユの元へ、連れられると安心して気を緩めた。
そこを邪魔者に突かれた。腹立たしい。
しかし、呪字に手を加えて転送先を変更した。
「私はレベイユ様の元へ戻る。お前達はジェーン・ルウファスを捜せ。西辺りに転送した」
「お前なんかの命令を聞くなんて嫌だね」
フードを取ったルアは思い切り顔をしかめた。水色の髪、濃い青い瞳は強情そうな光がある。
「今の私は自由に指示ができる立場だ」
目尻が垂れ下がり、優しげな雰囲気は偽りで、くすんだ茶色の双眸は無機物を思わせる。
「年長者の命令には従った方が宜しくてよ。それが嫌でしたら、私一人でルウファス様を見つけ、手柄を立てます。ルアが役立たずだったと、お伝えしなければなりませんが。レベイユ様にたくさん誉めて頂きますの」
焦茶色の髪は巻き毛、黄色い瞳を縁取る睫は丸まり長い。
おしとやかに笑い、自分の特にしたいと遠回しに示していた。
「俺は役立たずじゃない。お前より早く手柄を立ててやる」
「どちらが一番にルウファス様を捜し当てられるか、楽しみですわね」
意気込むルアにリブルは余裕の笑みを浮かべる。
「頼んだぞ」
三人はそれぞれ呪文を詠唱し、現世界から魔術界ヘ時空を越えた。容易く瞬間移動をしたのだ。